このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

湯築城跡
築城年南北朝時代の初め頃(14世紀前半)、天文4年(1535)頃
築城者伝・河野通盛(こうのみちもり)、河野通直(みちなお)
河野氏と
  湯築城
 河野氏は、風早郡河野郷(北条市)を本拠として勢力を伸ばした一族で、源平合戦(1180〜1185)で河野通信が源氏方で功績を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人となり、伊予国の統率権を得ました。承久の乱(1221年)で没落するものの、元寇(1281年)で通有が活躍し、確固たる地位を築きました。南北朝期、通盛の頃には本拠を河野郡から道後の湯築城へと移しました。その後有力守護細川氏の介入や一族間の内紛がありましたが、足利将軍と結びつき、近隣の大内氏、大友氏、毛利氏などと同盟を保ちつつ伊予支配を維持しました。庶子家との争いも克服し、通直は湯築城の外堀を築き(1535年頃)、娘婿の海賊衆村上(来島)通康との関係を強化しました。最後の当主通直(牛福丸)は、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより小早川隆景に開城し(1585年)、河野氏の伊予支配に終止符が打たれました。
地形種類          
          
平野部の内堀土塁と樹木の生い茂る丘陵部平山城(比高30m)
縄 張       
湯築城跡全景(湯築城資料館にて撮影)城の縄張は今もほぼ完全な形で残り、丘陵部と平野部からなり、比高30mの丘陵部を2重の堀と土塁で囲む形態。築城当時は丘陵部を利用した山城であったが、16世紀前半に外堀と外堀土塁を築き現在の形態になったと推定されている。江戸時代に描かれた絵図から、東口が大手(表)、西口が搦手(裏)と考えられる。
湯築城概要              
 
中世の伊予国守護河野氏の居城。南北朝期(14世紀前半)から戦国期(16世紀末)まで、250年以上にわたって伊予国の政治・軍事・文化の中心であった。現在の道後公園全体が湯築城跡で、広さは南北約350m、東西約300m。中央に丘陵があり、周囲に2重の堀(外堀・内堀)と土塁(外堀土塁・内堀土塁)を巡らせた平山城。加藤嘉明が松山城築城のさい、石垣などすべてを持ち去り、廃城となった。
遺 構        
現存する内堀(内堀左側が丘陵部、内堀右側が平野部)。土塁、堀が残る
復元・整備        
湯築城資料館(発掘調査の概要や河野氏の歴史、城内の武士達の生活についてパネルや出土遺物、映像を使って展示している)。城跡は道後公園となり、公園の南部の復元区域には発掘調査の成果をもとに、湯築城資料館や武家屋敷1・2、土塁展示室が設けられ、土塀、排水溝、池などが復元。
写真中央の建物は復元された武家屋敷、その右奥は湯築城資料館、右端の土塁は遺構として残る内堀土塁。

{交通アクセス}
JR松山駅下車、路面電車・バス道後公園(湯築城跡)停留所下車

湯築城資料館にて撮影

ゴミ捨て穴

(上)写真の円形石積遺構の説明文
 
この遺構は、まず円形や楕円形の穴を掘り、河原でとれる拳から人の頭位の大きさの石を集めてきて、この穴の壁に積み上げて造ります。
 「井戸」や「便所」として使われたのではないかと想像しましたが、この穴の底は水の涌く層に達していないので井戸として使えません。便所であれば寄生虫などの卵が必ず発見されるのですが、土を分析しても見つけることができませんでした。今のところ何の目的で造られたものかわかりません。皆さんは何に使われたと想像しますか。

円形石積遺構

▲外堀土塁と復元の排水溝、道路、土塀、武家屋敷。

▲復元された排水溝、道路。

(左)写真の道路・排水溝の説明文
 
外堀土塁の内側には道路と排水溝が巡っています。道路の幅はおよそ3mです。道路に接して流れている排水溝は、大小さまざまな大きさの川原石を積み上げて作られています。
 城内には排水溝が折れ曲がり道路幅の狭くなっている所が数箇所ありますが、この場所は道路も排水溝も直線的に伸びており、これらの基本構造を最もよく表しています。

道路・排水溝

▲外堀土塁(城内側)

▲外堀

▲内堀土塁

▲内堀と内堀土塁(内堀の左部分)。右の樹木は丘陵の麓。

(上)写真の土塀説明文 土塀は川原石を使って0.7m幅(最大は1.0m幅)の二列の石列を作り、間に小さな石をつめて2〜3段の高さの基礎を立ち上げます。その上に粘土のブロックを積み重ねて、表面に壁土を塗り仕上げます。調査では基礎石部分だけが検出されました。各屋敷は14〜15m間隔で土塀によって区画されており、道路側で土塀の切れている所を入り口としていました。

(上)写真の説明文 土塀の立体復元は、周辺民家の土塀や石手寺に残る「往古図」にみられる各種の土塀を参考に、本体や屋根の構造とか高さなどが検討されました。土塀本体は基礎石の上に厚さが約20㎝の粘土ブロックを6段積上げて作りますが、屋根を安定して支えられるように上のほうがやや幅広くなっています。壁土は5回に分けて塗り重ねられ、厚さは約6㎝程度あります。屋根は板で葺き、土(上土<あげつち>という)で押さえます。
 高さについては、土塀の役割が主に敷地の区画と侵入防止にあるとの見方から、人の目線より高く、乗り越えにくい高さという条件から、基礎幅が0.7mの土塀で1.8m、1.0mで2.3m程度としています。

▲堀を掘った時の土を掻き揚げて土手(土塁)が築かれている

▼復元区域の一部

内堀土塁・内堀と外堀土塁・外堀
<周囲に二重の堀と土塁を巡らせた城>
復元土塀と武家屋敷

▲復元された武家屋敷

▲平野部に建つ復元の武家屋敷と、その左側は礎石建物跡平面表示部分。後方は内堀土塁と丘陵部。

湯築城跡遺構・復元区域
武家屋敷
▲湯築城地図〜湯築城跡の発掘調査は、昭和63(1988)年に開始され、これまでに公園の南部(上記地図では上側部分)を中心に調査を実施。
 公園の南部では、外堀の内側に排水溝をともなった道路が巡り、その内部は、西側では建物の周囲を土塀などで小さく囲んだ「家臣団居住区」、東側では広い区域内に「庭園区」をともなう「上級武士居住区」が発見されるなど、城内が機能や格式によって使い分けていた様子が明らかになった。また、遺構とともに多種多様な遺物が豊富に出土し、当時の湯築城内の生活を復元する上で貴重な資料が得られている。

湯築城に隣接する子規記念博物館

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