このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

国指定史跡 造山古墳の陪塚(1〜6号墳)


造山古墳の周辺には、大小6基の古墳がある。陪塚(ばいづか)と呼ばれ、主墳(造山古墳)の被葬者の一族か、有力な従者の墓と考えられている。なお、造山古墳の荒神様の所が前方部となる。

1号墳(榊山古墳)
直径約40mの円墳ないし造り出しを持つ円墳で、神獣鏡(しんじゅうきょう)・銅鈴(どうれい)・馬形帯鈎(うまがたたいこう・バンドの留め金)が出土したと伝えている。また伽耶系陶質土器も出土している。
※造り出し〜祭祀の場


2号墳
1辺約40mの方墳。周濠が存在し、外堤上に埴輪列を伴う。

3号墳
直径約30mの円墳。

4号墳
直径約35mの円墳、あるいは前方後円墳。墳丘端から円筒埴輪・形像埴輪(家・短甲(たんこう)等)が出土している。


5号墳[千足(せんぞく)古墳]
全長75m、3段築成の前方後円墳。吉備地方で最古型式の横穴式石室が築かれ、石室内には直弧文の刻まれた石障がある。鏡・碧玉製勾玉(へきぎょくせいまがたま)・鉄鏃(てつぞく)・埴輪などが出土している。


6号墳
直径30mの円墳。
■周辺図


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「吉備の大王」像の立つ造山古墳駐車場から望む造山(つくりやま)古墳
古墳時代中期に作られた。全長360mの超巨大古墳で、全国で4番目の大きさを誇る前方後円墳(左側が前方部、右側が後円部)。この規模からも古代吉備王国がいかに強大な権力を持っていたかが伺える。

造山古墳について

 当古墳は墳長約350メートル、後円部径約200メートル、高さ約24メートル、前方部幅約215メートルを測る前方後円墳で、岡山県下で第1位、全国でも第4位、自由に立ち入りできる古墳としては全国一の規模を誇ります。大正10年(1921)、周辺の中小古墳(第一〜六古墳)とともに国指定史跡となりました。
 古墳は、低い丘陵を切断し土盛りや削平などを施して形を整えています。墳丘は三段築成で、くびれ部両側に台形の造り出しを設けています。また、墳丘表面には葺石(ふきいし)がふかれ、各段には円筒埴輪がめぐらされていました。このほか、盾(たて)・靭(ゆき)・蓋(きぬがさ)・家などの形像埴輪も見つかっています。埋葬施設などの詳細は未調査のため不明ですが、墳丘規模・外表施設等の有り様からみて、被葬者は当地域の首長であったと同時に、吉備全域をも統轄していた大首長の地位にあったと考えられています。また、造山古墳に次ぐ作山古墳(総社市)、両宮山古墳(赤磐市)などの巨大古墳の存在は、吉備が畿内の勢力と肩を並べるほどに強大であったことをうかがわせます。なお前方部(測量図左側)に置かれている刳りぬき式の舟形石棺は阿蘇溶結凝灰岩(あそようけつぎょうかいがん)製で蓋には直弧紋(ちょっこもん)が刻まれているなど九州地域の石棺の特徴を持っています。近くの新庄車塚古墳から運ばれたものとも、当古墳の前方部から出土したとも伝えられています。
               平成15年3月31日    岡山市教育委員会 (測量図、文は現地説明板より)

造山古墳全貌(左が前方部、右が後円部)
大阪府にある大山(伝仁徳陵)古墳、誉田(こんだ)御廟山(伝応神陵)古墳、上石津ミサンザイ(伝履中陵)古墳に次いで、全国4番目の古墳。

吉備路自転車道から望む造山古墳後円部


造山古墳前方部と上り口

墳丘内〜前方部から望む後円部

後円部
 後円部の頂上には、戦国時代、高松城水攻めの時に毛利方が築城、土塁も残る。


後円部から前方部にいたる眺め

前方部

前方部の荒神様傍らにある舟形石棺

造山古墳とその陪塚
 (陪塚=第1・2・3・4・5・6古墳)

国指定史跡
【指定年月日】大正10年3月3日

  【所在地】
   岡山市北区新庄下

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