このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

 

随想〜〜木島線の廃止を経験して

 

 

■第一印象

 私が木島線を知った最初は、「赤ガエル」長野電鉄移籍を報じる記事に接した時だったと思う。当時の私は、長野電鉄の本線は長野−須坂−信州中野−湯田中であって、屋代−須坂間と信州中野−木島間は実質的には枝線だと受け止めた。今日から顧みてもこの認識は間違いなさそうだ。そして、私の鉄道趣味は「私鉄」の「ローカル線」に向いてはいなかった。

 だから私は、「木島線と呼ばれる支線がある」との知識こそ蓄えたものの、木島線そのものには興味を持たなかった。

 長い時を経て、私は大学を出、鉄道にかかわる職を奉じた。「需給調整規制の撤廃」が公に論じられ始めたのは、平成10(1998)年頃のことだったろうか。一連の議論のなかで、「退出の自由」を認めるのは問題だ、との意見が呈された。即ち、鉄道やバスのローカル線が続々と営業廃止され、地域の公共交通が皆無になりかねない、というのである。

 この懸念には一理あるが、ローカルな零細輸送を私企業に担わせることに無理があるのもまた確かである。「需給調整規制の撤廃」は、現実化した。

 撤廃後間をおかずいくつかのローカル鉄道が廃止を表明するだろう、といわれたものだが、この予測もまた的中した。名古屋鉄道谷汲線・揖斐線(黒野−揖斐間)・八百津線・竹鼻線(江吉良−大須間)は既に廃止、近畿日本鉄道北勢線も廃止がほぼ確定的である。特定地方交通線転換線たる下北交通や、のと鉄道穴水−輪島間(JR西日本保有区間)も廃止となった。

 木島線こと長野電鉄河東線信州中野−木島間も、この列に加わる路線のひとつである。木島線の廃止が報じられた時、しかし、私はなんら興味を持たなかった。名古屋鉄道支線群の行く末の方が、よほど気になっていた。

 私においては、長野市付近を訪れたことがない、という事実が大きく作用した。木島線に興味を持つべき土壌がまったく醸成されていなかったのである。

 

■信州在勤

 ところが、状況は一変した。平成13(2001)年度初頭、信州勤務となったからである。なじみのなかった土地が、一夜にして居住地となった。仕事の環境も激変したが、趣味の対象もまた大きく変わった。職場に通うには長野電鉄が便利だったこともあり、必然的に興味が励起された。

 木島線の廃止は既に確定していた。そんな時機に信州勤務になるとは、なんらかの縁であろうと理解し、半ば義務感を持って木島線沿線に出かけるようになった。

 車両は「マッコウクジラ」、面白味に欠ける対象ながら、それもひとつの風景と考え、多忙の合間を縫って沿線に出かけた。

 

 

■風景に魅せられて

 機会はさほど多くなかったとはいえ、撮った写真は百枚以上のオーダーになる。それが全て「マッコウクジラ」とあれば、飽きがくる。だからこそアングルには工夫した。初夏・秋・初冬の写真は自分ながら気に入っている。真夏は天候に恵まれず、残念ながら佳い写真が撮れなかった。

 では、なにをもって「佳い写真」と呼ぶのか。私の基準は、「風景」または「人物」を活写出来るか否か、に置いている。極端な話、車両などどうでもよい。「風景」が如何に映えているか、「人物」のぬくもりが感じられるか。写真の佳さはそこにかかる、と私は思う。ただし、カメラを扱う腕前がついてこないのが悩みだが。

 以上の基準は、実は最初から持っていたものではない。この一年木島線沿線に通い、私は沿線の風景にすっかり魅せられてしまった。春の新緑、夏の陽光、秋の紅葉、冬の雪野。桜、桃、林檎、梨、菜の花、桐、藤、向日葵などの花。なんと美しいことか。風景を主とした写真は、自然と増えていった。

 この風景に触れたことは、私自身にとって慶びだった。たとえ木島線がなくなっても、さらに転勤となって他に転じても、私はこの地を愛し続けるであろう。それほど深く記憶に残る、素晴らしい景色だった。

 

■一時の熱狂よりも

 鉄道が廃止になる直前には、各地から人が集まってくる。木島線の場合、幸か不幸か、この人数があまり目立たなかった。私の知る長野電鉄職員などは「田舎の鉄道だから最終日にイベントを組んでも人が集まらないかも」と危惧していたほどで、確かに2月までの状況を見る限り、世の人の興味は薄いように見受けられた。

 ところが、最終日前日と最終日だけは様相が異なった。沿線には人波が押し寄せ、三脚が林のように立ち並んだ。場所取りをめぐり、小競り合いも何件かあったようだ。

 フレームの中に他人が入ることを好ましく思わないとの心情は、理解できなくもないが、誰もが持ちえる心情でないことも確かである。私の場合、視界が塞がれない限りは、人影が入ることを許容する。なぜならば、それもまた「風景」だからである。

 私が思うに、最終日のみに集まる方々は「機会を消費」しているにすぎないのはないか。少なくとも、愛着や惜別などの情が、その態度に見えてこないのである。

 最終日、2000系臨時列車の姿が去ると、時を経ずして人出が少なくなった。まだ15時前だというのに、最後の姿を目にとどめなくてよいのか。なんという薄情か。私はむしょうに悲しくなった。ほんの一瞬の熱狂など、むなしいだけだ。

 田上駅では、沿線に住む方々が名残を惜しみ、横断幕を掲げて記念写真を撮っていた。その表情はむしろ明るく楽しそうで、カラッとした趣があった。おそらく各駅で同じような光景があったのだろう。木島線は愛ある方々に見送られようとしていると知り、私の心はようやく慰められた。

 

■廃止後の静寂

 近年では「廃線趣味」がジャンルとして確立している。廃止になった今日でも、木島線沿線にはそれなりに人出が続いている。しかしそれは、廃止前に比すべくもない。静かで穏やかな時が、ただただ過ぎ去っていく。レールは深く錆びつつあり、廃止後の時の経過を示している。

 ある夕方、列車のこなくなった線路を歩いてみた。多くの枕木は割れ朽ち、薄い道床には噴泥が随所にある。レール頂部は真っ平らだ。保線の苦労の跡が、しのばれた。

 下り転換バスが通り過ぎていった。19時頃木島に着く便で、車中には女子高生5人ほどが見えるだけだった。

 線路上を歩くと、違う風景も見えてくる。写真におさめておけばよかったと思える箇所もあった。今はもはや遅い。木島線なき現在進行形のなかで、その風景を心に刻みつつ、愛でていくべきなのであろう。

 太陽は既に山に隠れ、暗がりが野を覆いつつある。足許あやうく歩を進めながら、私はこの地への愛着を改めて自覚した。この風景のなかに自分の足跡を残すことが出来る幸福。私は人としての慶びを感じずにはいられなかった。

 

 

元に戻る

 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください