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大石橋(旧上田交通丸子線大屋橋梁)倒壊

 

 

 

 

■平成13(2001)年 9月12日付読売新聞(長野版)記事より

 台風による雨は東信地方で激しく、長野地方気象台によると、 8日夜の降り始めから11日午後 5時までの降水量は軽井沢 379mm、佐久 212mm、上田 172mmに達した。・・・・・・

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 この影響で千曲川は増水。上田市、丸子町の大石橋は11日朝、橋脚の土台部分が増水の影響で数メートル流され、折れ曲がるようにして落ちた。・・・・・・橋は土台部分の侵食が見つかったため先月 9日から全面通行止めなっており、被害はなかったが、橋が流されると護岸が削られて決壊する恐れもあるため、川を管理する国土交通省千曲川工事事務所では、コンクリート製ブロックを護岸近くに運んで万一の場合に備えた。

 市によると、この橋は、現在の上田交通が1918年に鉄道用の橋として建設。通行止めになるまでは車両交互通行の道路として利用されていた。

 

■平成13(2001)年 9月13日付読売新聞(長野版)記事より

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 同市(引用者注:上田市)では、現在の橋は取り壊し、新しく付け替えることにしている。

 

■コメント

 筆者の職場の先輩には、道路橋としての大石橋を利用した方が少なくない。大石橋流出の報に接した先輩方の感想は、みな共通していた。

「あの対面通行で不便な橋が流れたのか。架け替えれば便利になっていいんじゃないか」

 おそらくこれが一般的な感想であろう。そして筆者も、この意見は妥当とみなさざるをえない。利用者にとって不便な橋は、それだけでも更新すべき根拠を有するからである。しかし、この橋の由来を知る者としては、惜しいと考えこんでしまう。

 とはいえ、大石橋の命運は既に定まっていたといえる。橋脚の洗掘が進み、平時である先月から通行止めがなされていた現実は、この橋が備えていた危険を如実に示している。下の解説にも記したとおり、上田側2基の橋脚は「爪先立ち」に近く、ちょっと強い力で押されればすぐにも倒れるほど危うい状態だった。そして実際に、橋脚は増水で倒れた。

 大石橋の架け替えは、おそらく不可避であったろう。しかし現実の課題は山積している。現在の河川構造令は大正の昔と比べはるかに厳しく、橋脚の数は抑制される。現代に相応する充分な幅員を確保する必要もある。架け替えに要する費用は、極めて大きくならざるをえない。いま大石橋を保有する上田市は、その負担に耐えられるのか。

 上田市内の千曲川に架かる道路橋は7箇所、うち4箇所までは国道・県道で、上田市が自ら架けた橋は2箇所にとどまる。この現状を鑑みれば、大石橋の撤去・架け替えはいかにも非現実的に見える。

 災害復旧費により、現大石橋の撤去まではできるだろう。そこから先の架け替えとなると、展望は厳しい。架け替えを進めるにしても、およそ10年はかかるだろう。大石橋ほどの橋の架け替えは、それだけ大きな事業なのだ。

 大石橋にはもう一つ不利な条件がある。上田側の道路が狭隘なのである。上流側直近の国道橋(大屋橋)が充分な幅員を備えた現在、そもそも架け替えが必要かつ妥当なのかという疑問が呈されてもおかしくない。撤去だけで架け替えはしないという選択は、充分にありえるところだ。

 大石橋は、間違いなくその姿を消す。丸子線の歴史は、かくして遠くへと去っていく。

 

 

■大石橋

 このアングルからではなにごともないように見える。ちなみに、手前側2連は丸子線の営業時代の水害により流失し、アーチドトラスに架け替えられたという。千曲川は、このように暴れ川なのである。

 

 

■交通制限

 速度、車高、車重、対面通行。ずいぶん制限の多い橋だ。さらに通行止めまで加わった。

 

 

■倒壊部遠景

 この2基の橋脚は、実はまったくのオリジナルではない。洗掘を防止するべく、補強が施されている。だが、左の1基はそれでも耐えられなかった。右の1基にしても、いわば爪先立ちの状態である。この状況を踏まえ、大石橋は先月から既に通行止めだった。青い空が、妙にむなしい遠景である。

 

 

■惨たり

 このように見通すと、こわれたさまが惨々である。

 

 

■倒壊部近景

 それにしても、優美な橋梁だった。弦材の波形補強など、実に素晴らしい。また、格点はボルト結合による完全なヒンジとなっており、トラスとしてはごく珍しい構造である。ボルチモアトラス(ピントラス)の類例と考えればよいだろうか。

 

 

■倒壊橋脚近景

 矢板は腐食が進んでいない状態で、補強が近年施されたものとわかる。

 

 

■橋台

 大屋側橋台も、こわれた。

 

 

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執筆備忘録

訪問・本稿の執筆:平成13(2001)年秋

 

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