このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




志免炭鉱航空写真
    


前傾志免炭鉱全景

詳細
先の航空写真に追記してみます。
まず線路を黄色く書き足してみました。
Cの字にカーブしておりますのが引込み線です。
左下、右斜め下方向へ黄色く直線を追記しており、これが勝田線です。現在は廃線です。
Cの字のカーブと接近するところに志免駅があります。
ちなみに、志免炭鉱周辺でご紹介しました線路の鉄橋は、このCの字で書き足している線路と画面上側に蛇行して見える川とが交じるところです。

また、同じく志免炭鉱周辺でご紹介しましたものに青矢印を付けてみます。
左からホッパーです。
その右下に志免炭鉱縦高櫓、さらに右下隣が動力室。
その右上、左上斜めに矢印を引いております先にY字型をしたく浮き取り入れトンネルがあります。
また以下にクローズアップ紹介しますエリアをオレンジで囲っております。

右側には高速道路があります。
ちなみに高速道路からボタ山が見えます。
下りですと、福岡インターから須恵インター手前で右手に見えます。ただ防音壁があるため、ちらりとしか見えません。また別途志免炭鉱周辺コーナーでも紹介しておりますとおり、ボタ山は今日では緑で覆われており、ボタ山であることに気づく人も少ないみたいです。

白黒で1955年撮影のものです。
ボタ山が、現在よりも左側に山を築いています。
ボタ山や坑外職場の右下には、規則正しい建物が広く広がっているのが判ります。これは炭坑住宅と判断します。今日も一部は残っています。
さて、縦坑櫓は形になっているはずですが、不鮮明で識別できません。
高速道路はありませんね。

引込み線周辺
縦(南北)にはしる引込み線が見えます。白黒写真と並べてみました。
左74年のカラーから。
オレンジ色に見える細長いものは、貨車でしょうか。
真ん中の下のほうに四角くハモニカの様な影に見えますものは二ホッパーです。これは、志免炭鉱周辺コーナーにも紹介しました。周辺コーナーのものは90年に撮影しましたもので、緑で覆われて全体像が見えませんでした。航空写真では、相当な大きさに見えます。
右側白黒では線路がややわかりにくいのですが、線路に縦に長い四角の白い建物があります。

これは貨車に石炭を積むためのホッパーです。この下に線路が通り、貨車はこのホッパー下へ配置され、石炭を落として積み込みを行います。そして引込み線を通って運び出されます。
このホッパーにつきまして、画像が大変不鮮明で恐縮ですが、頂きましたものを紹介致します

貨車積み込み用ホッパー
北側から撮影したもの。
ホッパーの下へ、左から機関車が貨車を押してきています。
左に霞んでいますが志免の縦坑櫓が見えます。

志免炭鉱縦坑付近
真ん中に巨大な影を落とす竪坑櫓が見えます。
周辺に、細かな建物、特に縦坑櫓の上にいくつも見えますが、坑外職場の跡かどうかは判別がつきません。また現存する斜坑跡も、どれか確認できませんでした。
また、右斜め上あたりに第8坑の斜坑と鉄筋櫓が合ったものと思われますが、すっかり埋め立てられたのか、痕跡もありません。
周辺に張り巡らされていたトロッコ軌道は全て撤去されています。

また右下にある建物の上、3本の背の高い煙突がある事が、その長い影からわかります。
これは位置から見て志免炭鉱周辺コーナーのトップに挙げました動力室と判断します。
それにしても、閉山後、坑道を埋め立て、建物を撤去する工事がすすめられていましたが、74年で、また煙突も残っていたとはしりませんでした。
記録によれば、動力室は自家発電でまかなえるほどの動力関係を導入していた、さすが国営だけあって、高度なものが導入されていたとのことです。

空気取り入れトンネル周辺
志免炭鉱周辺コーナーの6番目に紹介いたしましたプロペラを内蔵して空気を地下へ送り込む送風トンネル付近です。T字路の右側に、Y字型(右に倒れた)のトンネルが見えます。
Y字型の筒状の建物が、如何に大きなものであるか、御理解いただけるかと思います。
またY字型とはもうしましたが、きれいな左右対称ではなく、写真上側がやや長いといった特徴がわかります。

また周辺コーナーでは同時に4本の柱で構成された建造物も紹介いたしましたが、この航空写真にもかろうじて影が見えます。
T字路の上にかすかですが影が見え、4本柱がある事が判ります。
ちなみに周辺コーナーの写真は右端の赤い車のところに扉がありますが、これがこの写真のT字路です。

ボタ山
ボタ山へ土砂を運ぶ手段は、ベルトコンベア式などいろいろありますが、志免炭鉱ではトロッコレールが採用されていました。
斜めのトロッコレールを敷き、頂上まで引っ張り上げたトロッコを展開、ボタ山が出来上がるとさらにトロッコレールを延ばし、どんどんボタ山を形成していた様です。
扇状に筋が見えますが、トロッコ軌道の跡と思われます。74年時点で、既に軌道は撤去されているみたいです。
また、トロッコ軌道は一箇所から放射状に数本が伸び、それぞれ段々に土砂を積み、大きく山となっていったふうに見えます。
この放射状に伸びている付け根の付近ですが、何か残っていないかと期待して現地を探してみましたが、何も見つけられませんでした。

ボタ山新旧比較
55年撮影のものと74年撮影のボタ山を立てに重ねてみました。
74年には、ボタ山が右へ広がっていること、そしてボタ山が広がったエリアは55年撮影時には建物群が確認されます。恐らくこのあたりの坑道や坑外職場を閉鎖し、跡地をボタ山としたのだと思われます。この埋まってしまった坑道は、第何坑であったか、などは確認出来ていません。
また55年度のボタ山にも、74年度とおなじく、筋が数本放射状に延びて見えます。
恐らく74年時に東に広がったものと同じく、一箇所から放射状に伸びたトロッコ軌道でボタを積み上げていったものと考えます。
さらに55年度にボタ山があったエリアは74年では凸凹に見え、山はありません。
55年時のボタ山は、後に土木工事などに活用されたものと考えます。九州縦貫道の敷き料として運び出されたとも聞いております。
ちなみに2004年現在、現存する志免炭鉱ボタ山の東側斜面で土砂を運び出しており、更地ができています。

志免炭鉱のボタ山の頂上部分
ずいぶんと急な角度であること、また枕木は丸太ですが、沢山敷かれている様に見えます。
ここまでトロッコ軌道を敷き、ボタを運び上げ、やぐらのところでトロッコをひっくり返してボタを捨てます。
ボタ山で山が出来たら、さらに軌道を延ばし、さらに高いボタ山を形成します。
その他、ベルトコンベアでボタ山へボタを積み上げる炭鉱もありました。



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