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八坑扇風機坑
    


炭鉱では、運用において、多くの危険が伴い、それらの対策管理が必要となります。
特に、地下深い所に坑道と言うトンネルを設け、地下にある石炭を削り取って進めていく作業により、坑道は常に落盤、火災、浸水等、様々な危険が伴ないます。
その中でも、最も問題となるといっていいと思われますもののが新鮮な空気の確保です。
特に明治・大正までは坑内の照明はカンテラ(※)が主流でしたので、灯りを得るには空気を消費してしまいます。坑道という外気と遮断されたトンネルの中で酸欠に至れば、大変危険です。
このため、かつて坑夫は坑内が酸欠や石炭から発するガスなどが充満しつつある場合の検知の為、鳥のカナリヤをかごに入れて、坑内へ入ったそうです。カナリヤは人間よりも空気の変化に耐えられないことから坑内の空気の異常がわかり、また逃げる時間の猶予があるわけです。生きた警報機です。
しかし、機械式の警報と違い、危険がくると倒れる(おとなしくなる)ため、いつのまにかカナリヤが倒れていて気づくのが遅れたということも、十分起こりえます。よって炭鉱の近代化と共に、空気に関する警報機が次々開発され、導入されました。そうした警報機類は、各地の炭鉱資料館にも展示されています。

※カンテラ(蘭語/ kandelaar)とは、携帯用の油ランプで、灯油を焚くものが一般的です。炭鉱ではカーバイト+水で発生するアセチレンガスを燃やすものが、煙が出にくいことからも好評だったそうです。

通風器(レプリカ・スケッチ) 作成中
江戸時代〜明治初期に炭坑で使用されていた通風器です。
このレプリカは、宇部常盤公園石炭資料館に展示してあります。館内は撮影が許可されておらず、今回はスケッチの掲載としました。
この通風器は江戸時代など井戸程度の規模の縦坑にて用いられたもので、風を集めて地下へ空気を送るものです。
竹製で、また和紙を張って漏斗を形成しています。これは風上に漏斗を向けておく必要があり、また強風や降雨などで和紙が破れると使えなくなる代物でもあります。
宇部常盤公園の石炭資料館はこのラッパ型の通風器以外にも、人力縦坑櫓のジオラマ展示など炭坑の黎明期の機構を知ることが出来ますので、是非、ご訪問ください。
江戸時代の送風機といえば、佐渡の金山では、地下へ鞴(ふいご)で空気を送っていたそうです。
坑内は蒸し暑さに加えて、明かりに用いる行灯で煤が充満していたのだそうです。その為、佐渡金山の従事者は気管支系の異常を引き起こしやすかったそうです。

通気模式図
近代の一般的な炭鉱における空気の流れを、イラストを引用して示します。

縦坑を、それぞれ吸気排気で分担している様が模式図で理解されます。
絵では縦坑で描かれていますが、斜坑も同じく、吸気排気を分担していました。
また縦坑、斜坑共に、内側をセメントで仕上げる際には内側をなだらかにしていました。これはよりスムースな空気の流れを確保する為です。

八坑扇風機坑
さて、志免の通気専用の斜坑を示します。
先に縦坑、斜坑を通気で用いていると書きましたが、規模が大きな炭坑はこれに加えて通気専用の施設を設けています。
志免で特異的なのは、これが斜坑のデザインとなっており、さらに地上で二股に分かれてY字となっています。
背景の建物と比較して、その大きさをご確認ください。
また名称ですが、当HP管理人の推定名称です。
先の「斜坑」コーナーで紹介しました第八坑の斜坑の傍であること、また閉山時の跡地処理を示す資料にこの名称があり、こちらでも使用しました。
ちなみにその閉山時の跡地処理として、あらゆる坑道が埋め立てられたことが示されております。こちらの扇風機坑も地面から約30メートルのところに壁を作り、地面からその壁までを土砂で埋めていたと記されていました。

別の角度から。先の左側からの撮影です。
縦坑櫓が背景に見えます。

撮影はアングルが悪く全体像がわかりにくくてまことに申し訳ありません。
下記に模式図を示しました。
向きなどは航空写真を参考にしています。
右側が開口部で、Y字に分かれたトンネルです。また、何故か南側のほうが短くなっています。
また、現在は道路となっており、取り壊されてしまいました。HP掲載する機会があるとわかっておれば、あるいは取り壊されるとわかっていれば、もっと撮るべきであったと悔やまれます。
ちなみに、排気口すぐそばに施設の建物が立っているのがなんとも不思議です。風を送る上で邪魔になりそうに思うのですが。

もうひとつ、この志免の通気孔において特異なことは、送風システムがプロペラを用いていることでしょう。
このプロペラは、解体の際に回収され、保管されています。
こちらにその写真がありますので参考まで(残念ながら、一般公開はされておらず、特別に申し込む必要があります)。
こちらの一番下に写真が掲載されています。
http://www.shime.jp/shimehome.nsf/doc3/kougyousho
まるでプロペラ飛行機の羽を思わせるデザインです。
また、ここには排気と記述があります。よってこの通気の斜坑は地下深くから空気を一気に吸い上げる設計だったのだろうな、と想像しています。

私が把握している範囲では、炭坑に限らず建屋の通気システムも、そのファンはカタツムリの様な外観のロータリー式ファンとなっています。
先の通気装置イラストをクローズアップ。これはたまたまその様に描いてあるだけかもしれませんが、大牟田石炭記念館の炭坑模型の排気システムも同じくロータリーで作ってあります。
ロータリーは、円盤上に羽を並べるため、大量送風にはよりよいのでしょう。
ですので、プロペラ扇風機を持つ志免は、特異なデザインではないかと考えています。

通風施設(いただきもの)
では、参考の為、その他の炭坑における通気システムをご紹介します。
こちらのものは炭坑名は不明で、また白黒で不鮮明ですが、上向きのラッパというのがわかります。その四角いラッパ型に隣接する瓦屋根の小屋と比較しておおよその大きさを想像してみてください。また丸く構成されたものもラッパと隣接しており、ここにはロータリーファンが入っているものと想像します。
ちなみに撮影は長崎県とのことです。また撮影は1950年ごろとのことです。

有明坑跡地
三池炭坑有明坑跡地に残る通風機です。
これもまた、大きさがわかりにくいかもしれませんが、隣接している建物が二階建てであることから、大きさをご想像ください。ちなみに、円筒部分は大人が手を上げても楽々入ることのできる大きさです。

初島(有明海)
有明海にある初島です。写真の角度からではわかりませんが、円形の島です。
これは昭和29年に三池炭坑の海底坑道へ通気を行う設備を置くために作られた人工島です。
かつてはこの島の中央に有明坑にある通気システムと同じデザインのものが設けられていました。
現在はきれいに撤去され、何も残っていない様です。写真でも左側に小さな小屋と島の真ん中にポールが立っている以外は、木と草が生えているだけに見えます。

三池炭坑ではこうした人工島はもうひとつあり、昭和55年に初島からさらに沖合い3キロメートルに人工島の三池島を造り、通気システムを設営していました。これらの島では揚炭は行われておらず、通風のみの施設でした。
通風の為に人工島を二つ海に作った、このことをみても、空気を坑道におくることが如何に重要か、ご理解いただけるかと思います。 
ちなみに、手前にたくさんの細い棒がたっていますが、これらは海苔養殖のもので、炭鉱とは関係ありません。

では初島を真上から。上側が北です。
国土地理院が公開しております航空写真から引用、74年の撮影ですので、まだ現役で活躍中のものです。
島の真ん中から二本右上へパイプ上のものがのびています。先に有明坑で紹介した通風装置が二基あるものと想像します。
そして真ん中に地下への通風管があるものと思われます。
昭和30年後半は、真ん中にラッパ状の建物がひとつ建っていたのだそうですが、それとは形が違って見えます。
おそらく30年代以降に近代化したものでしょう。 

初島建設中
この初島の建築中の写真を入手しましたので掲載します。
遠浅の有明海とはいえ、大掛かりな作業を経て作られた島であることがわかります。

小型の船に石を載せ、船を傾けて落としています。
実は、これは映画のワンシーンにもなっています。映画のタイトルは失念しましたが、夫婦が、小さな子を連れてこの舟の作業に従事する場面でした。
その映画では船のクレーンにバスケットで吊るした石をぶら下げ、そのクレーンを横に回転させると石の重さで船がどっと傾いて、石を一気に落とすというものでした。妻と子は、船を傾けるときには操舵室に退避していました。

以上、いくつかの炭坑の通気システムを見てまいりました。

さて、改めて志免炭坑ですが、私が確認しました資料に「坑口閉鎖一覧表」というものがあります。これには、昭和40年から41年にかけて、志免にありました坑道の入り口を閉鎖したことを記したものです(ちなみに、坑道閉鎖に先立ち、なんらかの有効活用は無いか模索していた様で、坑道を可燃性物質の貯蔵に使うという構想もあったそうですが、実現していません)。
この埋め立てをしましたリストから、多くの坑口が大掛かりな工事で塞がれたことがわかります。
その中で通気にかかわると思われる名称がついているものを挙げてみます。

・旧六坑
酒殿排気卸坑口(立坑)
扇風機坑口1号、2号

・第五坑
排気卸坑口
扇風機坑口1号、2号
仲原排気斜坑

斜坑、縦坑が排気などに当てられているほか、扇風機坑口と記載があります。
つまり先に紹介しました八坑扇風機坑のほかにも扇風機を持つ坑口がある、さらにリストから、旧六坑、第五坑とあわせて四つ、八坑とあわせると五つもあったことになります。
扇風機を用いる通風坑は他炭坑ではまだ確認していませんが、少なくとも志免では定着した技術であったともいえます。

以上、写真を持ちまして志免の扇風機坑をご紹介致しました
写真を改めて見ましても、トロッコ軌道を設ける事ができそうなほどの大きさに見えます。
さらに参考ですが、資料によりますと酒殿排気卸坑口という立坑の通風坑(今回紹介いたしました物とは別で、設置場所は特定できませんでした)は、直径が5メートルと図示されています。縦坑で比較しますと、志免の巨大縦坑櫓の地下410メートルと繋げる縦坑が直径は10〜11メートルだったそうです。その縦坑の半分にもなる縦穴が通気に用いられていたわけです。空気の為に、大変に大掛かりな坑道を設けたと言えます。
三池では人工島まで作って通風坑を設け、こちら大型炭坑として発達した志免炭坑でも大掛かりな通気システムが設けられてきました。
炭坑の通気は、それほど重視されていたわけです。

ちなみに、先の資料では「八坑扇風機坑は仮閉鎖とする。」とあります。なぜ仮閉鎖かはふれられていませんが、ひとつくらいは保存しておこうという構想だったのではないでしょうか。現在は取り壊しの上、道路となっており、現存していません。本当に、なんとか残しておくということは出来なかったのかと、残念に思います。



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