このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




ホッパー
    


ホッパーとは石炭、鉱石や砂利を一時的に蓄え、搬送手段に対して必要量を搬出する装置です。
一般的にホッパーは四角い箱状の構造で、下側が漏斗の様にすぼまり、そこに取り付いた蓋を開け閉めして、必要量を落下させる単純な構造となっています。
三池炭鉱三川坑では石炭を品質ごとに種類分けして蓄え、運び出す際にその種類毎の落下量をコントロールし、石炭の使用目的別にブレンドしていたとも聞きます。
また、貨物列車に搭載する場合は、ホッパー下に貨物列車の線路を通す等、大掛かりな構築がなされるのが一般的です。
さてホッパーですが、私が把握している範囲でも何故か炭鉱閉山後はすばやく取り壊されてしまう様です。
これは、大掛かりな為に場所を占拠しますので、更地にする場合は壊す対象となりやすい。あるいは残しておいて内部に誰か誤って落ちたら危ないなどの事情でしょうか。

志免炭鉱全景
志免炭坑にありましたホッパーは、現在は全て撤去され残っていません。
当然、ホッパーのシステムは多く持っていたようですが、私が最初に訪問した90年には、こちらしか残っていませんでした。
まずは航空写真から。

ホッパーの外壁
前述の航空写真で右側から見たものです。別途掲載致しました縦坑櫓の写真から、ホッパーをクローズアップしました。
壁の部分は、手前の壁も大人の背丈よりも高かったと記憶しています。この写真の右手にボタ山があります。
またこの向こう側に、かつて引込み線の石炭搭載が行われるホッパーがありました。
写真は手前の木の幹が邪魔となっており、真にすみません。 

接近して撮影
ではホッパーを上から内側を覗き込んでみます。
内側ですが、木々が覆い被さって、形状など判らない状態です。先にも述べました通り、下のほうは漏斗の様にすぼまっています。写真では底の部分に枯れ葉が溜まっているのが見えます。
石炭をここへ一旦溜めて、出荷にあたって下から落とします。またこのホッパーはベルトコンベアで航空写真観察コーナーの5番目に紹介いたしました貨車積み込み用のホッパーへ接続していた様です。

麻生炭坑跡地
では比較の為、他の炭坑のホッパーを紹介いたします。
福岡は麻生炭坑跡地に残りますホッパーです。
斜面の上に複数が残っていました。また、どうやら壁は木で構成されていた模様です。新幹線からもちらりとだけ見えたのですが、現在では建物が増え、一部が取り壊されるなどして、見えない様です。 

ホッパーの下側の落下口です。当HP管理人の目線で撮影してあります。管理人背丈は175センチですので、ホッパー下部が監大人の背丈ほども無いことがお判りいただけるかと思います。
ここから石炭を落として下で石炭を受け取るのでしょう。
その受け取った石炭を運ぶのはトラックやトロッコだったり、あるいはベルトコンベアで行われます。
このホッパーは斜面であることと、背が低いため、直接トラックで受け取るのは難しそうです。ではトロッコやベルトコンベアと考えられますが、足元にはそうしたものの痕跡はみあたりませんでした。撤去されたのかもしれません。 

三池炭鉱三川坑の巨大ホッパー(いただきもの)
大きな存在感を誇る三川坑のホッパーです。
ホッパーの向こう側にある斜め部分はベルトコンベアで、こちらから石炭を運び上げ、ホッパーへ石炭を溜め、さらに下に配置される線路の貨車へ落とす仕組みの様です。
このホッパーは背が高いという特徴があります。大量に効率よく石炭を扱う上で大型化したものと考えます。
大型ホッパーといえば、貨物列車の石炭運搬車両へ石炭を乗せるホッパーでは、線路をまたいで長い構造のものは多くあります。
が、こちらは線路をまたいで配置しているとはいえ、さほど多い石炭運搬貨車を一度に対応するには、あまり構造が長くは見えません。しかし、背は高く、運用の上での必要があったための構造と思われます。
ホッパーが大きく背が高いということは、そこに蓄えてある石炭のうち、下のほうには相当な荷重がかかることになります。言うまでも無く、石炭は可燃性物質です。勿論、容易には燃えませんが、特に可燃性ガスを含有しています。下のほうでぎゅっと押さえつけられている石炭が発火などしなかったか、いまさらながら心配になります。
恐らく、ホッパーの構造上、そうしたことはノウハウとして活かされているものと考えます。そうした構造等が見学できていたらとは思うのですが、残念ながら、現在は解体され、更地となっています。このホッパー内部をレポートした資料を探したいと思っています。
さて写真ですが、撮影者は三池湾に隣接する貯炭場を背に三川坑へ向いて撮影(西から東へ向いて)、また貯炭場へ繋がると思われるベルトコンベアの上から撮影している様に見えます。このベルトコンベアも、ホッパーへ屋根が続いていることから向かって右側のホッパーと接続しているものと思われます。
またホッパーの手前に、何本もの引込み線が確認されます。
撮影時期詳細は不明ですが、昭和30年代後半とのことです。 

魚貫炭鉱ホッパー
魚貫炭鉱跡地は、建物類が撤去されて更地となっていますが、斜坑とホッパーがひとつづつ残されています。
写真の左奥は、70年ごろの航空写真で見るとわずかに建物が確認され、また貯炭、選炭が行われたのではないかと思われます。が、現在は木々が覆い茂っており、全く様子がわかりません。

魚貫炭鉱では、隣接する港から船で石炭を運び出していました(写真撮影場所の後ろ数十メートルのところに積み出し桟橋跡があります)。
航空写真ではこの船をつける部分にベルトコンベアと思われるものが写っています。
また、魚貫炭坑では坑外ではトロッコだけでなく、トラックで運送を補っていたという話もあります。
坑内では空気を消費するトラックが使われることは無いと考えますが、坑外ではトラックが用いられることも考えられます。
小型炭鉱では、トラックが多用されていたようです。 福岡県宮田町にありました、日本では珍しい露天掘りの貝島炭鉱も、海外の露天掘り(例えば撫順炭鉱)の様にトロッコ軌道を張り巡らすのではなく、トラックを主体にした搬送だったようです。これは、さほど大規模ではなかったことによるものと考えます。

こちら魚貫炭鉱も、さほど規模は大きくないことから、トロッコに加え、トラックで運搬を補ったと考えます。 

では、ホッパー下部を同じく当HP管理人の目線で撮影してみました。どうみてもホッパー下部にトラックが入り込めるほどの余裕があるとは思えません。周囲を整地する際にホッパーの足元が埋まってしまったのか、あるいはベルトコンベアを配置していたのか判断がつきませんでした。 

以上、ホッパーを紹介してまいりました。
九州およびその近郊ではなかなか炭坑のホッパーは残っておらず、紹介としましては乏しいものとなってしまいました。
今後とも機会をもって見学をし、更なる報告としたいと思います。



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