| 志免炭坑跡地にぽつんと残る斜坑です。志免炭坑では、縦坑櫓、ボタ山、そしてこの斜坑が唯一形として残っています。
さて、この斜坑ですが、これを第八坑とする資料があります。一方で、第六坑とする方もおられ、どちらが正しいか現状では判断が付いておりません。
私の方でも、いくつか調査を行いましたが調査も充分でないことからも、現状では判断できます材料を得ておりません。
一応の判断としまして、これは第八坑ではないかと思われます。これといって根拠のない現状での考察であり、およその推定と御理解ください。
ちなみに第六坑は早い段階で閉鎖、また六坑の炭層は閉鎖にあたり五坑から搬出する様に切り替えられた経緯もあり、地下では統廃合が行われていた様です。これに併せて地上の坑外でも統廃合があったものと考えられます。その過程で、第六坑の斜坑を残した可能性も考えられます。通気や緊急時の避難などに使えますので、わざわざ斜坑を潰すとも考えにくく思われます。
もしそうであれば、八坑であっても六坑であっても両方正解という事が言えます。
ちなみに、現存の斜坑は黒い色のレンガで作られております。また、この黒いレンガはこれは戦前に多く用いられた特徴があります。勿論、これだけで戦前に開坑した第六と判断は出来ませんが、古い斜坑であることは間違いないと思われます。
なお、志免炭坑での第○坑という呼び名ですが、これは坑道それぞれににつけられた番号ではなく、事業所単位の呼び名となっております。第八坑といえば、八つ目の地下への入り口ではなく事業所をさします。つまり、石炭を地下で掘り、地上へ揚炭し、搬出する一連のシステムの第八番目として呼ばれています。
よって、第八坑だけ見ましても、地上に開いている坑道は一つだけでなく複数あります。炭坑閉鎖時の第八坑における坑道の埋め立て資料を確認しましても、人員坑道、吸気坑、排気坑と複数の坑道があった事がわかります。
では、ここで現状で収集できました資料、併せて他炭坑に残る斜坑も紹介して参ります。掲載しております写真の内、白黒写真につきましては、いただきものです(カラーは管理人撮影)。 |
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| 第八坑は、志免炭坑の内、特に規模が大きく、縦坑櫓に次ぐ巨大なシステムを誇っていました。
石炭を地下から運び出しも、トロッコによる揚炭に加え、ベルトコンベアを並列配置しておりました。
またトロッコの揚炭も、専用の鉄筋の牽引櫓を建築するなど大掛かりなシステムとなっていました。
志免市役所社会課に展示してあります模型にも第八斜坑はトロッコ軌道とベルトコンベアの並列配置が再現してあります。
さてこの鉄筋の櫓ですが、高さなどは把握出来ておりません。当時、遠距離から付近を撮影したものにもこの鉄筋の櫓は写っておりますので、背は高いものの様です。また、その写真では縦坑櫓の真中くらいには及ぶ程の高さに見えました。
では当時、撮影されたものを紹介いたします。
まず、大きなトロッコの巻き揚げを行います鉄筋の櫓があります。地下350〜500メートルの坑道からトロッコを引き上げる強力な巻き上げ機を持ちます。
右側に見えます、支柱の上に家の様な屋根や窓の付いたものですが、クレーンの一種と思われます。古い時代の国鉄のクレーンにも線路をまたぐクレーンがあり、この形と良く似ています。
手前にはトロッコの行列が見えます。トロッコは金属製で、三池炭坑跡地や山口宇部炭坑展示品で見かけましたものとまったく同じデザインに見えますことから、全国的に使われたものでしょう。また、このタイプのトロッコは、一台あたり約3/4トンの石炭を積む事が出来ます。
そしてその背景に規則正しい支柱の配列が見えますが、ベルトコンベアと思われます。
撮影者は志免縦坑櫓を背にして撮影しているものと思われます。 |
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| 第八坑の模型です。先の写真はこの右上辺りから撮影したものと思われます。またこの模型の右上の端っこに縦坑が配置してあります。
さて、模型にも櫓で引っ張り上げられるトロッコ、そしてベルトコンベアがホッパーへ接続しているのがわかります。
また支柱の上に家の様な屋根や窓の付いたものは、坑道の入り口の上に配置されているのがわかります。 |
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| さて、八坑の参考としまして、ベルトコンベア及びトロッコ軌道を並列で持つ坑道の内部を撮影したものを紹介いたします。
これは志免炭坑ではなく、また炭坑名も不明です。うっすらと写っている人影からおよその大きさをご判断下さい(暗い中での撮影で、動いている人がブレたものと思われます)。
先の第八坑内部も、これに匹敵する大きさをもっていたものと考えます。 |
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| 第八坑と平行し、参考の為、第六坑をご覧頂きます。
トロッコは、枠が木で出来たもので、50年代までこちらが主流の様です。長崎の炭坑などでもこちらを使用しているのが写真に撮影されています。
金属のトロッコよりも容積は小さく見えます。
さて、写真の印象ですが、唯一現存している斜坑と斜面の角度が似ている様にも見えます。
しかし、さらに見た目の比較ですが、現存しております斜坑は、これよりは小さいのではないかと考えます。
よって六坑であったとしても、現存しているのは、ここに紹介いたしましたものとは別とも考えられます。もっとも見た目の比較であること、現存の斜坑は入り口が半分土砂で埋めてあり、目測がしづらい事もあり、あくまで見た目、ということです。
ちなみに第六坑の可能性を検討するにあたっては、現地ヒアリングでも情報がまちまちでした。これはやむを得ないのかもしれません。やはり勤務されますところ以外の事業所まで把握はしないであろう、と思います。
志免炭坑が国営であるがゆえに、最新鋭の贅沢な設備を備えていた等は、大抵共通してご存知ですが、例えば第五坑に勤務される方が第八坑の事をご存知無くても、これは仕方が無い事ではないかと思います。 |
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| では、以下は他炭坑で現存します斜坑と比較して見ます。 |
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| 福岡県大牟田の三川坑には第一斜坑、第二斜坑という、ともに国内でも最大級の規模の斜坑がありました。
これは地下350メートルから、さらに深いところでは520メートルに及ぶ軌道と接続していました。
また第一斜坑は、トロッコ軌道とベルトコンベアを並列配置しておりました。
現在、第一、第二、共に完全閉鎖されております。また第一斜坑は埋め立てがなされて更地になっており、地上からその痕跡をみいだすことはできません。また、第一斜坑横にありました山ノ神(祠)もなくなっています。
第二斜坑も閉鎖されておりますが、写真でご覧頂けますとおりセメントで開口部を閉じただけで、形としては残されております(無論、中に入ることは出来ません)。この第二斜坑は人車専用で、写真を撮影しました場所の真後ろにはその人車の待機所と、工夫へ作業指示をする建物があります。 |
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| 福岡県大牟田にあります宮浦坑は、当初縦坑櫓を持っていました。しかし、坑道が有明海へ遠く伸びるにつれて人員用に切り替えられ、また斜坑の運行が中心となったそうです。
現在、施設のうち、斜坑とその周辺が公園として整備されています。
この斜坑は人員や材料運搬が主な用途の坑口です。
坑道は二つ並んでおり、空気の循環も行われていました(入気を行うものと排気を行うもの)。
ちなみに宮浦坑の縦坑櫓ですが、当初は活躍したものの、後には使われなくなった資料があります。一方で、1974年の航空写真を見てみますと、鉄筋の縦坑櫓と思われるものが写っております。よって取り壊されずに残されていたのかもしれません。 |
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| 牛深市の西にある魚貫(おにき)炭坑跡地に残る斜坑です。人員専用の斜坑です。
これ以外に坑道は現存していません。
魚貫炭坑は、石炭の出荷をすべて船で行っており、また海の側に立地しています。
航空写真を見ましても、ベルトコンベアを配置するなど大掛かりな機能が構築されていた様です。さらに地上にもいくつかトロッコ軌道があったそうですが、現在は全くの更地です。
ちなみに写真、斜坑の右手、2メートル足らずの所に岸壁があります。 |
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| 中を見てみます。
私が見学した斜坑の中では、唯一、閉鎖されていないものです。ただ、ご覧のとおり水没しており、中へ入る事は不可能です。
大きさとしては大人が二人並んで入る事が出来るくらいの幅です。
さて、この斜坑は人員専用で、通常の階段程度の角度に見えます。また揚炭に用いる坑道よりは角度が急な印象があります。
内側は明るい色で塗られているのが印象的です。また壁は綺麗に仕上げられています。斜坑は、通気の機能も持ちますことから、風が綺麗に流れる様に壁は凹凸無くなだらかにするのが一般的なのだそうです。 |
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| 海底炭鉱の沖の山炭鉱人員用斜坑です。昭和30年代初頭の撮影とのことです。
中は見えませんが、背後の盛り土から見て、急な角度にも見えます。また全体が台形をしており、小型炭鉱の坑道でよく使われる形です。
向こうに木材が多量に詰まれており、これは坑道を構成するためのものと考えます。
背後に見える近代的なベルトコンベアを持つホッパーシステムに対し、斜坑の木枠が対照的です。 |
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| 宇部市の西隣、山陽小野田市(旧小野田市)にあります炭鉱の跡地です。
本山炭鉱は、戦前の昭和13年頃には鉱員の数が約2000人にもなる大規模炭鉱でした。瀬戸内海に広がる海底炭鉱で、坑道は沖合約3km、最深部約200m、総延長約19kmの規模でした。
現在、その名残は残っていませんが、坑道入口が保存されています。
この坑道は、最初に大正6年(1917年)に設置、昭和16年(1941年)に斜坑が完成、閉山となる昭和38年(1963年)3月まで使用されたものです。坑道入り口は完全閉鎖され、坑道内部がどうなっているかは、まったくわかりません。
幅は、目測でも自家用車が二台並んで入れるほどの大きさに見えます。
場所はこちら。
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E131.10.43.1N33.56.6.1&ZM=10
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| 特徴ある坑口を別の角度から。
坑口が朝顔の花びらの様に広がった形状となっています。資料によりましては、この特徴ある坑口を「忍返」と呼んでいます。
この形状になった理由について明確に書いた資料は未だ見つけていませんが、私の推測としまして通風と関係があると考えています。
別途、八坑扇風機坑のページでも述べますが、炭鉱の坑道内の通気は、斜坑もその役割を担っていました。その為、すこしでもよどみなく風を流す為、斜坑の内側の壁をセメントでなだらかに仕上げるなどの努力がなされていました。
こちらの坑口も、よりスムースに風が流れる様に工夫された形状では、と考えます。 |
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| 横から見てみます。斜坑は鉄筋コンクリートづくりですが、側面は石組が組まれています。
斜坑内部の角度は推測するしかありませんが、三川坑に似た緩やかな角度に見えます。
現在は児童公園の端っこに位置しています。またかつて坑外職場、そして社宅が周囲にぎっしりとありましたが、現在はその名残も全く無く住宅街となり、立派な家々が立ち並んでいます。背景にあります家と比較し、斜坑の大きさをご想像ください。 |
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| 上から見下ろしてみました。
手前の木が邪魔で判りにくいのですが、斜坑の屋根の部分は土砂で形成してあるのがお判りいただけるかと思います。
前述の宇部沖の山炭鉱の人員用の小さな斜坑も、土砂を盛り上げて屋根を形成していました。 |
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| 国土地理院の74年度撮影の航空写真でみてみました。
閉山後、約十数年経過しての航空写真です。かつては、坑外施設、炭鉱住宅などがぎっしり立ち並んでいたそうですが、周辺は建物の撤去が進み、更地が広がっています。若干、建物の名残が確認されます。
赤矢印が斜坑です。また斜坑の側には炭鉱事務所があったそうで、左にある白い四角の部分がその跡では、と想像します。
海岸(波打ち際)まで約300メートルあります。斜坑が緩やかな分、その入り口は海岸から離れたところに作ったのでしょう。
また、現存する斜坑の他にもうひとつ斜坑があったらしいのですが、付近を移した航空写真を見ても、見つけ出せませんでした。現存する坑道の数百メートル南あたりにありますこと、そして畑に段差のみ残っているという資料を見つけましたが、現地では草が茂っていて捜索しきれませんでした。 |
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| 三菱飯塚炭坑第二坑巻き上げ機台座
福岡県飯塚市にあります蒸気機関を用いてトロッコを引き揚げるシステムです。
付近の航空写真を入手しましたが、ここ以外に当時を偲ばせるものは一切残って入ません。
併せて当時の想像図を示します。人員用斜坑よりも緩やかな角度で引き揚げていた様です。 |
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| 以上、私が見学し、また画像を頂戴できました斜坑を紹介いたしました。
これらの比較から、志免炭坑に唯一残る斜坑につきまして、トロッコを用いる揚炭システムを持つ斜坑よりは角度が急な印象を持っています。
では、今後とも斜坑の六坑、八坑を調べ、判明しましたら、ご紹介いたします。 |
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