このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




志免炭坑周辺
    
かつて志免町に炭鉱があった頃、炭鉱の周辺は田んぼが広がるのどかなところでした。
ですので夜間は真っ暗な闇が広がる中、夜間も創業する志免炭坑の明かりは大変際立ってい
たそうです。
さて今日、周辺の志免町はベッドタウンとして発展し、大型のショッピング施設も出来ました。
田んぼだったところも民家が建ち並び、当時の雰囲気は感じとれません。
地図で確認しましても炭鉱住宅のあった周辺は、操業当時からの道路の配置や区画が
そのままに見えるところも多くあります。しかし、ベッドタウンとしての発展で当時の住宅はほと
んど残っておらず、住宅が建ち並んでいます。
ごく一部に当時の炭鉱住宅と思われるものがある以外は、当時の名残を見出すことは難しくな
ってしまいました。
ここでは周辺としまして、気がついた範囲での紹介に留めてまいります。また、一部に炭鉱住
宅と思われますものもありますが、まだ住宅として使用されておりますことから掲載しておりま
せん。宜しく御理解ください。



稼動当時の志免炭鉱
(いただきもの)
右端に志免炭坑の縦坑櫓が、そして周囲に多くの建物がぎっしりと建っているのがわかります。そして多くのトロッコ軌道も見えます。
また3本の煙突が立っているのは、動力室と思われます。
遠くには炭坑住宅らしきものが見え、さらに遠くは田んぼの様です。
撮影者はボタ山に登って撮影している様です。
全国の炭鉱をみてみますと、ボタ山は揚炭を行う坑道や縦坑から必ずしも近い位置に配置されません。
志免炭鉱の様に縦坑櫓からボタ山が隣接している例は、むしろ稀の様です。また、共に現存している例も稀でしょう。

周辺(ジオラマ)
志免町役場の文化課に展示してある当時のジオラマを先の写真に近い方向から。
ジオラマは坑外職場などを省略し、炭坑住宅を密接させた形となっておりますが、当時の雰囲気をありありと感じます。
縦坑櫓も、正確に再現されています。また縦坑櫓の足元のトロッコ軌道、そして第八坑道の坑口が再現されています

方向を変えて。西側から。
ジオラマの右端に、引込み線の端っこが再現されています。

地下です。
建物が設置してありますが、地下坑道内にも事務棟が設けられるのは珍しくなく、こちらのジオラマでも再現されています。

地面から415メートル下の坑道が再現されています。地下にもトロッコ路が張り巡らされていることがわかります。
こうしたジオラマは大牟田など各地の資料館でも再現されています。

縦坑櫓の足元、坑口とトロッコ軌道です。

南側から。
手前の建物は修理職場、その向こうの煙突のある建物は動力職場です。

東側から。手前に炭鉱住宅が再現されています。

斜坑
志免炭鉱で現在残っているのはボタ山及びこの斜坑入り口と縦坑櫓のみです。
画面真ん中、左端に志免の施設、シーメイトが見えます。

残存建物。
敷地東側にあった坑外の職場。撮影時点で屋根は落ち、中には何もありませんでした。 
ホッパーのすぐ横に、90年代初頭までありました。

商店街
志免炭鉱操業時からある大正通りです。
第五坑周辺の炭鉱住宅と共に発展してきた商店街です。写真はHP掲載を考え人が写らないタイミングで撮影しておりますが、周辺はアパートも立ち並んでいて人の往来も多く、活気とともに昭和の商店街の雰囲気を今日に伝えています。

では、その他の炭鉱での、炭鉱の名残を探してみます。

三炭町(山口県宇部市)
宇部市の市街地、新川駅近くにある商店街です。「さんたんまち」と読みます。
場所はこちら。 http://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&grp=all&nl=33/57/19.241&el=131/14/28.423&scl=10000&bid=Mlink  ごらんの際は、適度に縮尺を切り替えて位置を把握ください。
その名に"炭"を留めた、宇部炭鉱で栄えた宇部の名残とも言えます。また、すぐそばには三炭町入口というバス停がある様です。
また宇部は戦時中に激しい空襲を受けて市街地は焼け野が原となりました。この三炭町は、戦後の闇市からスタートした商店街です。

炭都ビル(福岡県直方市)
場所はJR直方駅前です。
炭鉱で栄える町は、自らを炭都と呼んでいました。
例えば三池炭鉱のある大牟田も炭都と自称し、また町を上げてのお祭りも「炭都祭り」というものでした。
こちら筑豊は直方でも同じく石炭で栄え、そして炭都と自称していました。
その名残としてビルに名前が残っています。
一階部分は貸し店舗となっております。

ビルの裏側。ちょっと全体像がわかりにくくなっておりますが、人がお住まいである事を踏まえてこのアングルとしました。

バス停(熊本県牛深市)
魚貫炭鉱跡地にあるバス停です。
場所はこちら。 http://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&grp=all&nl=32/14/12.578&el=130/00/41.346&scl=25000&bid=Mlink  ごらんの際は、適度に縮尺を切り替えて位置を把握ください。
かつての炭鉱は撤去され、また付近をみましても、当時の名残は炭鉱住宅がわずかに残っているだけです。
が、バス停にその名残が残っていました。

炭鉱住宅跡
先のバス停跡から数百メートルの地点で、当時の炭鉱住宅が僅かに残っていました。
お住まいの方は、既に公営住宅へ移住された模様です。
炭鉱住宅というと壁も板で作られたのが多い印象がありますが、こちらは木造に壁をセメントで塗るタイプです。

本山炭鉱跡
宇部市の西隣、山陽小野田市(旧小野田市)にあります本山炭鉱付近です。
炭鉱では坑道や坑外職場に隣接して炭鉱住宅が立ち並んでいるのが通常で、こちら本山炭鉱も住宅が立ち並んでいました。
また、資料によりますと複数の大きな浴場があり、坑道から上がってきた坑夫が、炭で真っ黒な体を洗い流したのではないか、と想像します。こうした浴場は規模の大きな炭坑ならではとも言えます。
現在、跡地は一部が畑になった以外はすべて住宅地となっています。
写真は、炭鉱住宅があったと思われるエリアにて撮影。畑と空き地、そして新しい住宅が並んでいます。炭鉱や炭鉱住宅を連想させるものは何もありませんでした。
写真で写しました四角いセメントの塊ですが、74年の航空写真にも、これは四角く写っていました。航空写真は、周囲が住宅転用される前のに撮影されたものでもあることから、炭鉱時代のものではと思われます。が、何の機能をもつものか、さっぱり判明しませんでした。
また背景の家は木造で、また炭鉱でよく見られる長屋づくりとなっていますが、当時の名残では無く、炭鉱閉鎖後の建築とのことです。

宇部西沖ノ山鉱業所跡地
先の本山炭鉱に隣接して
海底炭鉱の西沖ノ山鉱業所(炭鉱)がありました。
現在、周辺は広く埋め立てがされて石油精製施設となっており、当時をうかがわせるものはありません。
坑口は、資料をもとに推測しますとこのあたりとなります。
http://www.mapion.co.jp/c/f?uc=1&grp=all&nl=33/57/01.085&el=131/11/28.171&scl=70000&bid=Mlink
さて、付近にわずかですが炭鉱の名残がありましたので撮影、場所は、上のリンクの山口東京理科大学の前となります。

さて、離れた位置から。
撮影にあたり、私はこの形状からでは機能がわかりませんでした。
がっしりした足回りで建物の3階建てに匹敵する高さとなっていること、写真左側にはあまり体積のない箱状のものがあり、そこから右に向けて平たく伸びています。
資料によっては、これをホッパーとしていましたが、ホッパーは石炭などを一旦溜めた上で輸送手段へ向けて落下させるものであり、この写真からその機能は想像しにくく思われます。もしかすると、大型ホッパーを構成する一部であったのかもしれません。
さて、背景には石油タンクが見えます。これは隣接する西部石油山口製油所のものです。
石油精製施設などは対テロ警戒エリアです。こちらの炭鉱跡地も、立ち入る事が出来ません。道路から充分に見学する事が出来ますので、訪問されます方は内部へ立ち入らない様、ご協力願います。

以上、今日も見られます炭鉱操業時の名残につきまして、志免、及び比較としましてその他の炭鉱を示してみました。



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