このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




報道その2(激化する戦争)
    


霧の濃霧地帯へ(アッツ島)
『濃霧は濃く重く、暗緑色の膿はうねりにうねった。』

アリューシャン攻略 上陸用舟艇
『輸送船をはなれてアッツ島ホルツ湾をまつしぐらにすすんだ舟艇はザザッと一斉に海岸に突っ込んだ。』

アリューシャン攻略
白黒写真をベースに着色したものの様です。
肩に担いでいるのは大砲のパーツに見えます。左端の車輪の形状から、九二式歩兵砲では、と推測します。
急な斜面は分解して担いで運んでいた様ですが、相当な重量では、と想像します。
背中の「θ」の形の輪はカンジキです。

アリューシャン攻略
『カンジキは穿いていてもザラメ雪の急斜は歩いては下れない。ぐつと雪の上にこしをおろすとそのまま一挙に二、三百メートルも滑り降りる。』

アリューシャン攻略 食事
『 「食事始めッ」ありのように続く縦隊は到着順に食事を摂った。凍った土の上に腰を下ろして凍った口糧を噛る有志の労苦。銃後の我々に何の不平不満がありえよう。』

食事が弁当箱で支給されています。
寒い中、食事も凍ってしまっているのか“口糧を齧る”とあります。ご飯のでんぷんも冷えると食べづらいでしょうし、決していい食事ではないのかもしれませんが、兵士らの表情にはほっとした様子がみてとれます。
弁当箱は四角く見え、アルマイト製のものと思われます。民生品にも似た形のものがあり、空軍も機内でこれと良く似た弁当箱を使っている写真があります。

北方の守り
北方に配備された野砲。10糎加農砲と思われます。

おらが村に援兵くる
収穫期の農作業支援です。

軍人援護強化週間
『 軍人援護強化週間に応え、動けぬ体で精密地図を製作する白衣の勇士 』

病院内で、傷痍軍人にも任務を与えているところの様です。

遺族の出迎え
『 靖国神社大祭委員長土肥原大将は、遺族を東京駅へ出迎えた。遺族はいっそうの感激に咽んだ。 』

靖國神社祭典慰霊飛行
『靖國神社臨時大祭の十月十八日、上空を日の丸の標識をつけて飛ぶ鹵獲機、右はダグラスDC5、左はボーイングB17型。』

背景に靖國神社の特徴ある鳥居が見えます。
遺族が多く出席していることからも、大勢の死傷者が出ている事が伺えます。また、それを戦時中にも報道していたことがわかります。
飛行機の左側B17は初期の尾部銃座の無いタイプに見えます。また右側の飛行機はDouglas DC5とのことです(シルエットがやや違って見える印象をもちますが、角度の所為でしょう)。

薯 収穫
『 お薯の名産地群馬県吾妻軍から二百万貫という大量が山越えて長野県田澤へ運び出された。やがて上京、家庭へゴロゴロと入る。 』

トラックを用いての、一挙出荷の模様です。
これは想像になりますが、多量にまとめて輸送されておりますことからも、配給用かと考えました。
戦時中、農産物の収穫にあわせ特配(特別配給)があったとも聞いたことがあります。銃後を守る家庭に、ここに写っている芋が配られたとも考えました。
特配といえば、正月前にみかん3個が特配だったという話も聞いたことがあります。
尚、写真ですが、トラックの車間が狭く見えますが、停止しているものと思われます。報道用に待機しているのか、とも想像します。

在支米軍基地攻撃
『わが陸鷲の猛爆に炎上する存支米空軍○○飛行場。ごらんのごとく、敵基地は片つ端から爆砕されてゆく、日本本土空襲の叫び今や何処ぞ。』

対戦中、米軍は中国に飛行場を建設、B29も中国から出発したものがありました。写真は、中国にあった米軍飛行場を空襲したというもの。ただ、元のキャプションにも”○○飛行場”とあり、場所や飛行場名が書かれていませんでした。

國鉄挺身支援
戦時中、工場生産に加え、国鉄など輸送機関などにも広く女性の進出がなされ、男女共同参画がありました。

桂林
『桂林へ桂林へ、わが清栄は既に六里の間近に迫つた。
 写真は桂林を目指す、健脚舞台の進撃』

対英印戦線
『 チン渓谷地帯における英印17師の包囲網厭縮のためマユ河上流を強行渡河する我が精鋭歩兵部隊 』

満州技術少年兵
『格納庫の前に飛行機は曳き出されました。さあ、手入れです。一人前の技術兵としての希望が彼方にまつて居ます。』

整備中の飛行機は、立川キ36九八式直協機と思われます。また、車輪にはタイヤカバーが付いているそうですが、この写真には取り付けられていません。整備中のためはずした、とも思われますが、周囲にそれが置いてあるのは見えません。満州の様な寒い地域では、泥などが入り込んで凍り付いてしまう事から、カバーをはずして運用したとのことで、これも外したままの運用かもしれません。

満州技術少年兵
訓練の模様です。バランス感覚を鍛えているのでしょうか。人の背丈程度の柱の上に、片足で立ています。
陸軍も基礎訓練で、高く水平な柱の上を歩かせる訓練をしました。体を鍛える上で必要なものと理解されていたのでしょう。

本頁作成にあたり、飛行記名称など情報提供を頂きました。
ありがとうございました。


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