基本体操
「オイ 下ヲ見ズニ 元気ヲ出シテ 歩イタ歩イタ
「ウハッ!
眼がマワッテ アブナイアブナイ」
「イカガミヲノバシテ 上体ヲ前ニシテ…」
「兵田!
アゴヲ引イテ 下腹ニ力ヲ入レテ…」 |
| 入隊後、早速の訓練です。
歩く、整列、といった基本は徹底して行われた様です。
手前のものは「橋梁」で、この上を歩く訓練です。絵ではわかりませんが、相当な高さです。こちらのページ
(●クリック)
にもありますが、大人の背丈の3倍はある様に見えます(4〜5メートル?) |
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行軍
「今カラヘコタレチヤ ダメダゾ!
落伍スルノハ恥ダゾ」
「足へ靴傷(マメ)ガ 出来チャッテ スコシ痛イナア」
「マダ共栄ヲ出発シテカラ七八里位ダラウ」 |
| 背嚢、銃とフル装備での歩行訓練です。
今日では、歩兵の移動は車両を用いるのはあたりまえです。が、大戦当時はどこの国でも、歩兵を移動させる車両の配備(いわゆる機械化)は進んでいませんでした。アメリカは当時から自動車王国だった背景から、兵員輸送車両を多く配備しましたが、それでも行き渡らず、歩兵は移動時に同行する戦車へよじ登るなどしていました。
それも出来ない場合は、ひたすら歩くしかありません。兵隊の訓練で、歩くことが重要視されているのは、鍛錬というだけでなく、そうした背景もあるか、と考えています。
さて絵ですが、柿が実っており秋であることがわかります。春に入隊し、秋にいよいよ駐屯地から外へでての訓練と言うことでしょうか。実際にも秋から冬にかけての農閑期に駐屯地以外での演習は多く行われていた様で、稲刈りの終わった水田に陸軍が展開している写真もあります。
台詞に「七八里位ダラウ」とあります。
一里は約4キロですので、三十キロは歩いていることになります。恐らく一日で歩いた距離ではなく、途中で野営をしながらの行軍では、とも想像しています(このシリーズには、テントを張って飯盒炊飯を行う絵もあります)。
また台詞には「靴傷(マメ)」とあります。今日ではまめ(手足の皮膚が他の物とこすれてできる水ぶくれ)は肉刺と書きますが、当時はこちらも使っていたのでしょうか。 |
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消防演習
「ワッショワッショ」
「コノ勢ヒナラ火事モタチマチ鎮火ダ」 |
| 消防演習で、手動ポンプを用いての訓練が描かれています。
こうした訓練の頻度などは把握していませんが、
防空演習と兼ねたものだけでなく、消防に関し軍隊の活用も期待されていたのでは、と考えています。関東大震災の大火事、大阪でも市街地が丸々無くなる大火事など、各地で都市火災は猛威をふるっていました。当時の陸軍においても災害出動の任務があり、訓練も行っていたのではないか、と思われます。
兵士は、ベルトに、銃剣だけはつけています。あと、何故か肩章襟章がついていません。 |
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衛兵勤務
「明日ハ俺達も衛兵勤務ダゾ」
「勤務ノ時間ハ間違ヒノ無イヨウニシッカリヤラウゼ」 |
| 当番制の警備を描いたもので、これも訓練の一環の様です。
2名ほど待機、2名ほど巡回を行っている様です。古い戦前の街角を写した写真には、銃を肩に担いだ兵隊が2名ならんで歩く姿が映っている事があります。ひょっとすると巡回は、共営内のみではなく、周辺をぐるりと一周していたのかもしれません。
右側の兵士2名は、会話から下番(軍隊などで、勤務を終えること、非番)と思われます。腰のベルトを外し、ゲートルもつけていないラフな姿になっています。また、肩章、襟章も外していますね。 |
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銃剣術
「何ヲッ!ヤァ!」
「勝負アッタ コラ元気ガナイゾ!ガンバレ」 |
| 銃剣術の訓練の様子で銃の先端に銃剣を付けて戦う訓練です。
どこの国でもライフルの先に銃剣を付け、長槍の様に使用しました。現在もこの銃剣に関しては各国が創意工夫を凝らしており、現用中国軍でも銃と一体にした折りたたみ式を開発、またこれは刀状のものではなく突き刺し専用の形状をしています。
日本では、諸外国と同じく戦前に銃剣術を取り入れるにあたり、さらに発展をし、面・小手・胴をつけ、銃剣を模した木銃を用いる武術として成立しました。剣道と同じく、心・技・体を同時に鍛えると言う趣旨での訓練とも考えられます。が、絵からみても訓練は大変そうです。
今でも剣道の一部の流派で残っているらしく、武道場で見かけた事があります。 |
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