このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




  報道その4
                                                   



テレビジョン試験公開(昭和15年/1940年)
テレビジョンの試験放送を一般公開したものです。
TV量産化された際に採用されたブラウン管方式の初の一般公開です。ブラウン管が考案されるまでは、画面にギッシリ並べたドットの点灯オンオフで表示するものが考えられていました(昭和6年の雑誌の記事から)。一つ一つのドットは小型化した豆電球で形成され、実験レベルまでは作られていた様ですが、一般公開までされたかどうかまでは、把握できておりません。
今日、当たり前に存在しているTVは、かつては科学技術の最先端でもありました。映画にも未来的なツールとして、1926年製作のドイツ映画「メトロポリス」、1940年の「エノケンの孫悟空」にも登場します。

テレビジョン実験と観衆
テレビジョンに集まった見物人です。
中央上に点灯しているブラウン管が見えます。画像が不鮮明で装置の大きさが判りませんが、奥行きはあるものの、意外とコンパクトに見えます。
右側にも装置が見えます。なにやら装置の上に斜めの板が配置されている様に見えます。想像ではありますが、おそらくこれもテレビジョンで、ブラウン管は上向きに取り付けられ、斜めの板の鏡に反射して見せているのではないでしょうか。

防空演習(昭和15年)
画像が不鮮明で申し訳ありません。
昭和15年に空軍を動員した大掛かりな防空演習の模様です。写真は内務省敷地内にて模擬爆弾を展開しているところです。
白い煙が三箇所左から右へたなびいており、また一名ほど人影が見えます。

防空ですが、国内には昭和初期から関心があったようです。
大正の関東大震災の経験から大規模な災害に対処する訓練が必要だという意識は国民の間にあり、また昭和6年の満州事変、また目覚しい航空機の発展から空襲についての関心も国民の間にはあったようです。
中国大陸には米国の義勇航空隊「フライングタイガース」がいました。 さらに昭和13年に国府軍が二回、はるばる海を越えて九州に飛来しています。一回目は伝単で政治宣伝ビラを撒き、二回目は爆弾を投下しています。(国府軍とは国民党の軍隊の正式名称で総司令官は蒋介石。1937年当時、陸軍だけでも総数300万人にもなる当時世界最大の人員が居た。ちなみに二度の爆撃で用いられたのは当時最新鋭のアメリカ製双発爆撃機、マーチンB−10。)
よって、国内が爆撃されることは充分に考えられていたのでしょう。 
そのためか防空演習は昭和12年4月には「国民防空」(内務省主管)が交付、防空演習も何度も実施されている様です。
今回、掲載しております防空演習は昭和15年(1940年)です。日本軍の北部仏領インドシナ進駐、ハルノートから太平洋戦争勃発に至るのが昭和16年。まさに、緊張が高まろうとしているときです。
その様に考えますと、かなり緊迫した演習だったのでは、と想像されました。が、当時の記録をまとめてウェブ掲載されたものを拝見しました範囲では、さほどの緊張感もなかったようです。
これは、後々、B29によってあれだけの犠牲が出るとまでは流石に判らなかったからか、とも考えております。

防空演習・模擬焼夷弾
演習にあたって、模擬焼夷弾を炸裂させたところです。これも写真が不鮮明ですみません。中央で炸裂、右側に火の粉が飛び散っています。
前後の防空演習の写真は首都圏ですが、この写真は地方都市(福岡?)での演習風景です。
ちなみに防空演習というとバケツリレーとして、一列に並んで水の入ったバケツをどんどん運ぶという訓練が行われました。
聞いた話ですが、古い倉庫か何かを実際に消す訓練を実施、またその際に臨場感を出そうと模擬的に小さな焼夷弾を燃やしたところ、あっという間に大炎上、倉庫は燃え尽きてしまい、集まった人々が呆然とした、という事もあったそうです。

防空演習・空中聴音器
土を高く盛った囲いの中に聴音器が、右側には盛り土の上に人が待機しているのが見えます。緊張感を感じる写真ではありますが、防空陣地自体へ横から灯りを当てていることからもお分かりの通り、演出した写真と判断します。

防空演習・探照燈
大きなサーチライトです。車輪がついており、容易に移動できる様です。
左側に角度を調整するハンドルがありますが、随分と長く作られています。
この写真も、右側から兵隊を照らす演出がなされています。

防空演習
飛行場でしょうか、吹流しが見えます。
その脇で身構える機銃手、また上空を飛行機が旋回しています。

琵琶湖訓練場 (昭和15年)
琵琶湖は大津にあった飛行訓練基地です。
ここでは水上機の訓練が行われています。


90式水上初歩練習機が用いられています。
キャプションには、離水までの時間は十二秒と記述があります。随分と早く飛び上がれる印象をもちました。

無事、訓練を終えて戻ってきた機体です。湖面の波は穏やかに見えます。

人力で湖面からの引き上げを行っています。翼の先あたりに、近江富士と呼ばれる山が見えます。

食事風景

明野陸軍飛行学校訓練 (昭和15年)

整備状況です。
機銃を交換、下の写真では、その試射を行っています。


重巡上の水偵 (昭和16年)

現地での航空基地整備(昭和16年)
(キャプションには『海軍○○基地』とあり、飛行場名やどの戦線かについては記載がありませんでした。背景の雰囲気からみて南方ではなさそうです。)

エンジンの整備


エンジン整備

プロペラ整備

タイヤのゴム交換

少年飛行兵の訓練(昭和19年)
少年飛行兵の訓練で、屋内での教科の風景です。
円形のテーブルの上に模型があり、その上に輪が配置されています。この輪ですが、キャプションが無く、想像でしかないのですが、この輪は方向を知るアンテナで、その実習ではないでしょうか。

少年戦車兵訓練

航空機増産の啓蒙 (昭和20年)
若人らの工場動員の様子と、増産への呼びかけ記事です。
ちなみに飛んでいるのは三式戦闘機飛燕に見えます。ただ、手前の飛行機が右へ飛んでいる様ですので、すれ違いざまに撮影した、というよりも、どうやら合成写真の様です。

生産工場

プロペラの整形


前の写真、そしてこちらの写真は一見爆弾にも見えますが、増加タンクと思われます。
これは燃料をいれるタンクで、飛行機の翼の下や胴体の下にぶら下げるものです。
戦闘機の場合、空中戦を行う際にはこれを捨てて身軽になり、機内のガソリンを使って飛びます。
それにしても、人の大きさと比べましても随分と大きいものです。




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