このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




京泊震洋特攻基地跡

  
昭和20年3月18日より、小富士空十六分隊員約130名が京泊、田ノ平築の民家に宿泊しな
がら、5月26日迄のわずか80日間たらずで、京泊港の両岸の岩山に震洋艇を格納する掩体
壕を構築しました。
さらに昭和20年7月25日に第六震洋隊岩切舞台が編成されました。約50名の搭乗員が50
隻の震洋艇で京泊基地に進出、本土に迫る米英艦船を攻撃すべく、配備されていました。

震洋とは250キロの爆薬を内蔵した一人乗りのモーターボートで、敵艦船へ体当たりをして撃
破する事を目的とした特攻専用兵器です。
震洋は全長5.1メートル、重さは約1.4トン。例えば乗用車日産スカイラインの全長が4.5メート
ルですので、それより一回り大きい程度の大きさです。


京伯の漁港を1975年の航空写真でみてみます。
この湾の両側の入り口の壁に、震洋基地のトンネルがあります。航空写真からはその位置は全くわかりません。
ちなみに、現在の京伯の漁港は埋め立て整備がなされ、湾の大きさは写真より一回り小さくなっています。

まず京伯湾の西側岸壁から東側の掩体壕があるあたりを見てみます。掩体壕は横穴トンネルです。
ここからでは、全く位置がわかりません。 

先ほどの写真の撮影位置から後ろを振り向いて、西側の掩体壕を見ます。
段差の下の部分に基地のトンネル跡があります。 
崖に口を開けているのが、トンネル入り口です。
もうひとつトンネルがあり、それは左の建物の後ろで、ここからは見えません。

さてトンネルの中を見てみます。入り口は、ほぼ埋め立てられていました。
中は、戦争遺跡名物の粗大ごみだらけでした。

もうひとつのトンネルです。
こちらもほぼ埋め立てて、閉鎖されています。

カメラだけをなんとか持ち上げまして、トンネルの中を見てみました。かなり、いびつで凸凹なトンネルです。

湾の入り口の東側に回ってみました。こちら側には記念碑が立っています。この後ろに、掩体壕として使われたトンネル跡があります。 

入り口です。崖にいきなり穴があけられています。

入り口から中を除いて見ます。岩がごつごつとむき出しになっています。
周辺もですが、セメントなどで作られた跡はなく、一寸、軍事基地には見えません。まさに終戦間際の切羽詰った中での基地建設であったと想像します。

奥まで入ってみました。粗大ごみが散乱しています。
当初、重いボートを運び出すためのレールなどが残っているかとも予想しましたが、当時をしのぶものは見当たりませんでした。 
ちなみに、右下に転がっているのは自転車の車輪です。これを元におおよその大きさをご想像下さい。
自家用車より一回り大きなボートを入れる割には狭い、さらに1.4トンもあるボートを収納するには、足元が凸凹という印象です。レールなどは敷かれていたのではないか、と想像します。掩体壕の奥行きは計測を行っていませんでしたが、3〜4隻程度なら押し込めそうな印象でした。

壁をみてみます。
白っぽい跡があります。
これは想像ですが、漆喰(しっくい)かなにかで内部を白く塗っていたのではないでしょうか。少ない灯りでもより明るく見える工夫の為に、壁を白く塗っていたと想像します。尚、白い色のものは何かについて特定できませんでしたが、粉状でした。

奥から入り口をみてみます。広角レンズで撮っているので判りにくいかもしれませんが、壁は平らではなく、粗雑な印象です。
当時の人たちの、慣れない作業と必死さが伺えます。

入り口から外を見てみます。湾の対岸が見え、その右端あたりに西側の基地トンネルがあります。

入り口前から、海を見ます。
右手に広がるのは橘湾で、右側遠くに青く霞んでいる半島は長崎半島。この山の向こう側に長崎市があります。 
撮影当日は、やや強い風があったのですが、波は穏やかでした。内海である為でしょう。
震洋は一人乗りの小さなボートですし、波の静かな湾内の方が作戦を遂行しやすかったものと想像します。

場所は、現在雲仙市になっています。
諫早方面から訪問されます場合、57号線で小浜温泉を目指し、そのまま海岸線にそって251号線を進みます。

南串第二小学校があるところで国道から右折しますが、看板があるわけではなく、場所はややわかり難い状態です。また道路も狭くなりますので、訪問の際には地元車両にご配慮の程、お願い致します。 場所はこちら。

トンネルのおよその場所を赤丸で囲ってみました。




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