このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




生月島砲台跡(砲隊観測所)その2

2階部分
                        
二階部分入り口
二階部分は、一階とは階段ではつながっていません。
そこで二階へ入るために、土手をよじ登りまして、入り口までたどり着きます。
こちらの入り口も、ドアを剥がした様な跡が残っています。

二階部分
二階部分は南北に伸びており、その北端の半円部分です。壁に一定の隙間が設けられています。
また床は無く一階部分と通じています。
半円部分は人がかろうじて歩けるだけの庇状のでっぱりが設けられています。
ちなみに真正面には、何かの調査をしたのでしょうか。黄色の印をつけた白い紙がガムテープで貼ってありました。
さて、一階部分からこの外を見ることが出来る隙間までの高さは約3メートル半くらいです。

スリット部分を外から見てみました。フラッシュをたき、部屋の中も同時に見えるように撮影しておりますが、内側は真っ暗です。
屋根の上には、石がセメントで固定されていました。盛り土をして木を植えるためではと考えました。ご覧の通り、木がびっしりと生えており、見事なカモフラージュです。この為、地図サイトの航空写真で付近を見ても、この砲台観測所の場所は全く見つけられませんでした。

北側の半円部分を北東側から見ています。先ほどの位置から下を見下ろしています。北側の土手へ上がる階段があります。
また半円の一階部分の窓が見えますが、これに庇がついているのが見えます。またこの窓は周辺を見るのは出来ません。これは明かりを得るためのものと考えました。

生月砲台観測所の露出部分
ご覧の通り、要塞のような外観です。
ここの部分だけ三層です。上を二階、四角い窓が見える部分を一階として紹介しました。
その下に四角い部分があり、そこにも部屋があります。ここを便宜上、地下室として紹介いたします。

クローズアップ
接近してみました。同じくフラッシュをたき、二階部分の屋根の内側も写してみました。

地下部分
地下部分の開口部分です。開口部は泥で塞いだのか、かろうじて隙間が開いている感じです。さらに中に人が入らないように木で塞いであります。

開口部から中を覗いてみました。中は真っ暗でしたので、フラッシュを使用しました。
手前の開口部は半分近くが埋まっているようで。全体を見渡すことは出来ませんが、とても狭い印象を持ちました。大人3名も入れば、ぎゅうぎゅうではないでしょうか。

付近
さて、今回の観測所の南隣に、石垣が組んでありました。通路に見えます。林の向こうは木が明るく、段差(あるいは崖)あるものと思われます。
実はこれを撮影したタイミングが丁度日暮れで、あたりは急速に暗く、足元や周辺の探索は充分にはできませんでした。
加えて、別途書きましたとおり崖が近くにあり、探索は安全とはいえません。

観測所の東側、やや斜面を下がったところに家の基礎と思われます四角いセメントの枠がありました。
観測所を支援する建物があったものと想像します。兵隊の食事、寝泊り、あるいは通信など、いろいろと考えて見ました。

生月島北端
島の風景を紹介いたします。
まずは島の北端です。
この生月島の西側は風と波で浸食され、切り立った崖になっています。北端には現在灯台がありますが、ここには大砲が据えられていました。今回、紹介いたしました観測所と連動していたと思われます。
大戦中、対馬海峡付近では、米潜水艦による商船攻撃が行われていました。緊迫した海域であったものと思われます。

今度は島の北東方向を見てみます。
本当は砲隊観測所から撮影したかったのですが、周辺は木で覆われ、遠くを見渡すことが出来ませんでした。戦後に伸びた木のために視界がさえぎられたものと思われます。そこで、森を出て遠くが見える位置まで移動しての撮影です。
周辺は島がいくつもあって海峡を形成していることがわかります。

砲台の機能考察
さて、今回の砲隊観測所ですが、看板には砲台とありましたものの、私は砲隊観測所と考えております。
まず、砲撃を行うにはそれを制御する指揮所が必要です。また、御所解しました構造からも、ここで戦闘を行うには無理がありますのと、半円状のスリットが、周辺を観測する構造と考えたことによります。
さて、画像は日本軍の演習における指揮所に設置された砲隊鏡です。

右から覗いて左方向を見て、遠方を観測します。
望遠鏡のこの構造は、簡単に言えば望遠鏡を縦にしたものといえば判りやすいかもしれませんが、勿論、砲兵を支援するために複雑高価なものでもあります。また、これは数キロもの重さがあるそうです。大きな三脚に据えられている事でもお分かりかと思います。

砲隊鏡望遠鏡
さて、生月の砲隊観測所の半円部分ですが、推定で一階床から二階スリットまでの高さは三メートル半でした。

HP『三浦半島の要塞』の管理人デビット佐藤殿より、
『壱岐要塞生月砲台には、昭和17年に八八式射撃具が設置された記録があります。』
との情報を頂戴いたしました。
ここから、この射撃具を用い、設置した大砲を制御していたものと考えます。

さて、この八八式射撃具につきまして写真や図面がないか探しておりますが、現状見つかっておりません。
別途、調査しましたものを元に、私が模式図を描いてみました。
図面等が入手できましたら、すぐに紹介したいと思います。

先ほどの、私の図面を、半円部分と重ねてみました。写真ではお伝えし切れていないかと思いますが、この露出している部分は意外と大きく、三メートル半の射撃具が悠々と入るものでもあります。
また二階の構造が入り口からまっすぐなのは、この射撃具の搬入などを考えると必然な構造とも考えます。

天井
半円部分の天井です。画像上側が北側になります。
線がいろいろ描かれています。これは付近の島の方角を描いたものです。先ほどの射撃具のおよその方角を合わせるのに、この線を見ながら行ったのでは、と考えます。
天井の凹みですが、縦に長いものを上で固定するものなのか、通風孔かは判断がつきませんでした。

参考
こちらは神奈川県の東京湾入り口にありました砲台の観測所です。
左半分が二階建てくらいの大きさですが、内部は下のドアから上まで筒抜けになっているそうです。また左側は部屋が半円状に、またスリット状の窓があいています。これも、同じ形の砲隊鏡が収められていたものと思われます(現在、施設の敷地内ですので、外部から望遠撮影にとどめました)。

参考
こちらも、神奈川県の東京湾入り口の砲台です。
大砲をすえていた台座の跡です。生月島にも、同じように台座を設けていたか、それとも移動の出来る車輪の付いた大砲をすえていたのかは、確認仕切れておりません。生月も、日本海の入り口付近でもあり、交通の要所といえます。そのことから、なんらかの大砲を安定して据える為の工夫はなされていたものと考えますので、砲隊観測書付近の林の中などを散策すれば、何か残っているかもしれません。



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