このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




雁ノ巣飛行場跡地

                        
雁ノ巣飛行場航空写真
雁ノ巣飛行場は、福岡第一飛行場とも呼ばれました。
昭和10年(1935年)に飛行場が起工、昭和11年に完成します。
本格的な大陸の空の玄関として活躍しました。

さて、空港の様子を空から。これは戦後、1950年に米軍が撮影した雁ノ巣飛行場です。
ご覧の通り、滑走路が二本、交差して設けられています。
格納庫などは向かって右側(東側)に建っています。
またその右斜め上に水上機を運航するスロープがあります。右側右斜め上に直線状のものが飛び抱いているのがそれです。
雁ノ巣飛行場は陸上機と水上機ともに運用されていました。が、滑走路、格納庫は既に取り壊されて残っておらず、今日、唯一残っているのはこのスロープのみです。
戦後、ここは米軍が使用した時期もあったようですが、空港としての機能は今の福岡空港に移り、閉鎖されます。
今日、レクレーションセンターが出来ており、当時の名残はまったくありません。実はこれら建物の間に当時の滑走路がわずかに残っているそうですが、残念ながら見つけ切れませんでした。

雁ノ巣飛行場跡地
今日、唯一残っている水上機用スロープです。右側に岸壁があり、斜めのスロープが海に下りています。
背景に、大きな橋が見えます。

スロープを降りてみました。
博多湾は波が静かで、水上機運用に好都合であったことがよく判ります。
セメントは侵食され、丸みを帯びたひびがはいっています。

スロープから、かつて空港があった方向を見てみます。
大きなスロープです。砂浜の人影と比較してみてください。

スロープを上がってみました。かつて名島空港にあった格納庫がここに移設されていました。が、使われないまま長い間放置され、損傷が激しく、残念なことに取り壊されました。

スロープを上がったところに門の跡がありました。何か扉をつけていたと思われます金具が付いていました。
スロープからはやや離れており、スロープの門ではないと考えています。

スロープを上がって、かつての格納庫跡地を見てみます。

かつて格納庫があったエリアですが、セメントが広がっているだけで、格納庫があったことをうかがわせるものはありませんでした。

では、海岸に戻りまして、スロープ周辺の岸壁を回ってみます。
海岸沿いはセメントで舗装されていました。一部、土砂が崩れて、崩壊が始まっていました。

セメントで舗装されたエリアは木や草で覆われて何処まで広がっているかはよくわかりませんでした。

割れたセメントに花が咲いていました。
また、ところどころボルト状のものがセメントに残っていました。

茂みの中に四角い箱状のものもありました。当時のものと思いますが、何をしたものかはわかりませんでした。厚みがあり、鉄筋の通った頑丈なつくりで、また高さは2メートルもありません。

九州山口沖縄及び四国各県の愛国婦人会代表国際福岡雁ノ巣飛行場献納式愛婦号
かつての雁ノ巣飛行場は、広く、市民に知られていた様です。
また時代を背景にした写真も残っています。
写真は昭和16年、九州山口沖縄及び四国各県の愛国婦人会代表が国際福岡雁ノ巣飛行場にて『愛婦号』を献納した際のものです。
民間基金で飛行機を購入、これを献納して軍務に使用した、いわゆる愛国機のひとつです。

雁ノ巣飛行場ですが、長い間、古本屋や古道具屋を見て回っているのですが、絵葉書が見つかりません。過去、一種類のみ非売品を見たことがあるだけです。広い滑走路から中島式AT型旅客機が離陸、遠くに格納庫や管制塔が見えるという構図でした。
一方で、雁ノ巣飛行場が建設される前に大陸への空の玄関として建設された名島飛行場は、比較的安価に古本屋などで入手できます。
この雁ノ巣飛行場の入手しにくさと名島飛行場の(比較的)入手しやすさの違いについて、勿論、私の探索不足もあるのでしょうが、まずそれぞれの飛行場が活躍した当時に販売された絵葉書の売れた数の違いではないか、と思われます。多く売れた絵葉書が、今日でも中古市場で入手しやすい、というわけです(数が多いですから)。
これの当時の売れ行きの差は、同時に名島飛行場と雁ノ巣飛行場の世間が感じた珍しさの差ではないかと考えます。
雁ノ巣飛行場を利用した人数は、運用した時期が短く、水上機のみの運用であった名島飛行場より圧倒的に多いはずです。つまり雁ノ巣飛行場の運用の頃は航空輸送が身近になり、すっかり馴染みになってしまったからともいえます。

近代の交通も参考になります。
新幹線も、東海道新幹線が出来たときは、学校から先生の引率で見に行った、児童書での特集や、本も多数出来て、また子供番組にも多々登場しています。が、今日では東北から九州までポピュラーとなり、なじみの交通機関となりました。新幹線は、さらに路線を延ばしては居ますが、東海道新幹線ほどの大騒ぎにはなっていません。
大きな吊り橋も同じことを感じます。
下関から九州を繋ぐ関門大橋も、建設途中から当時の児童誌に登場、さらに子供向け番組のロケ地にもなりました(『走れ!K100』第5話)。
そして開通した際には、中継車が渡り初めに参加、この生中継映像を見るために、授業を中断した学校が多数あったようです。しかし、その後の瀬戸内を渡る巨大吊り橋では、ここまで世間の耳目を集めてはいません。
これらを参考にしてみますと、名島に比較して本格的な飛行場であった雁ノ巣は、やはり二番目ということになるのでしょう。
しかし同時に、それだけ空の旅がより皆の手に届くものになったともいえます。

雁ノ巣飛行場ですが、大陸へつながる空の玄関でもあり、国内定期便運航にも活躍、軍務もこなしました。そのことから、当時の雑誌類でも多々、登場していると思われます。今後とも収集を続けて生きたいと思います。




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