このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




  日本軍機
                                                   



97司令部偵察機

97式軽爆撃機(キ30)  佛印上空

97式軽爆撃機(キ30)
航空撮影の任務を遂行中とのキャプションです。後ろ座席の乗組員が大型の航空カメラを持っています。

プス・モス機 (輸入機、新聞社の社有機)

三菱 九六式艦上戦闘機  樫村兵曹の片翼帰還
樫村兵曹の片翼帰還の図です。
樫村兵曹が、中国南昌上空での空戦において米国製のカーチス戦闘機と空中戦となり2機を撃墜、更にもう1機を迎え撃とうとしてこれと空中衝突をし、片翼がもぎ取られましたが、抜群の操縦技量でそのまま帰ってきたものです。樫村兵曹は体当たり片翼帰還の勇士としてマスコミでもてはやされ、またこの機体は国内でも展示がなされていました。
そののち樫村兵曹は南方戦線(ガダルカナル)で撃墜されています。
この他、日華事変では、南義美が体当たりでの片翼での帰還を果たしています。ただ、こちらは新聞にも載らなかったそうで、もしかすると二番煎じの記事になるからでしょうか。マスコミと言うのは、当時からそんなものなのだと感じました。
南義美は、以後、真珠湾、インド洋、珊瑚海海戦、マリアナ沖海戦、エンガノ岬沖海戦と、最前線で飛行を続け、最後はフィリピン戦線での航空特攻で戦死しました。

さて、この写真は絵葉書からのスキャンですが、様々修正を施されておりますし、写真そのものが合成して作られたものでしょうか(当時のカメラの普及率などを考えてみても、片翼帰還時に上手く撮影できたとも考えにくく思われます)。
また、この絵葉書にはこの機体のキャプションが一言も書いてありませんでした。当時は書かなくても皆が知っていたということなのでしょう。

97式(キー15)「神風号」
三菱キ15(制式後、九七式司令部偵察機となる)の試作二号機を、陸軍の承認の下で朝日新聞社が購入したものです。
胴体、パイロット席のあたりに新聞社のマークが見えます。左橋は撮影を行った僚機の翼です。
これは97式の試作2号機を、あの「朝日新聞」が陸軍に陳情して三菱より買取をし、さらに三菱設計のこの機体に中島製のエンジンを搭載して「神風号」となりました。日本人が設計、製造したまさに純国産機です。

この機体は、飯沼正明飛行士と塚越賢爾機関士により東京〜ロンドン間を94時間17分56秒(実飛行時間51時間19分23秒)という、当時としては驚異的な記録で飛行し、日本最初の国際記録(FAI/国際航空連盟が公認した日本初の国際記録)を樹立しました。
当時の欧米人は極東の島国に、この様な優秀な航空機と操縦者がいることに驚愕したそうです。これは前年の賞金レースで東京ーパリ100時間に挑戦した有名な欧州のパイロットが全て不成功に終わっていたからでもあります。また、設計も製造も全てが日本人の手で行われました。この事も世界の注目を集めました。

飯沼飛行士の出身地である長野県南安曇郡豊科町の生家に、偉業を讃える『飯沼飛行士記念館』が設立されております。JR大糸線柏矢町(はくやちょう)駅近くの ●こちら です。

神風号広告
当時の雑誌広告から。機器メーカーの広告に神風号が登場しています。

水上機母艦上のメンテ作業中。零式三座水偵と思われます。
貨物船を改良した特設水上機母艦でしょう。エンジンを始動した迫力ある構図です。

零式三座水偵

零式水上観測機

一式陸上攻撃機
南方での作戦中です。

川西航空機 九七式大艇
機体を後ろから見たところです。主翼の上でメンテを行っている2名の人物から大きさをご想像ください。
また翼の斜めの支柱に爆弾がぶら下がっており、哨戒に加え、攻撃任務にも付いていることがわかります。

川西航空機 九七式大艇
不鮮明な写真ですが、九七式大艇です。左側の軍艦と共に波の静かな湾内で待機中の様です。

川西航空機 九七式大艇 広告
軍にも採用されましたトラクターの広告です。
九七式大艇を牽引しており、大きな飛行機も楽々引けるパワーを強調したものと思われます。
ちなみに九七式大艇は南方方面の旅客任務に就いたこともあり、国民にも知られた機体だったのでは、と想像します。

九九式双発軽爆撃機

九七式重爆撃機

中島 一式戦闘機「隼」(キ43)
広いエプロンにて待機中の隼です。左の機体は風防前にかろうじて棒状の照準器が突き出しているのが写っています。またプロペラに注目、知覧特攻平和会館にて展示されている型式ではプロペラの翼は3枚ですが、左の機体は2枚の翼に見えます。

中島 一式戦闘機「隼」(キ43) その2

中島 一式戦闘機「隼」(キ43)
徹底した軽量化を行った華奢な機体がよく判ります。機体の強度不足、防弾装備の不足が悩みの種であったとのことでした。またエンジンの始動時に機体が揺れると、尾翼が震えた、という当時の逸話もあります。

中島 一式戦闘機「隼」(キ43) その4
ほっそりした機体であることがわかります。
大きな機銃を搭載できず、武装が諸外国の戦闘機よりも乏しいのも欠点とされます一方で、卓越した飛行性能を持ち、敵味方両方のパイロットから優秀な機体であると認められていたとされています。
ちなみに大戦末期に大型機関砲(20mm)を搭載した試作機が作られています。ところで、大戦末期にこれに搭乗したというエピソードの紹介を見かけたことがあり、もしかすると試作機(つまり正式採用されていない機体)も実戦投入されたのでしょうか。

編集御協力
憂国烈士様、淀様、椿様、戦艦榛名様


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