このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




下関 魚雷基地跡


                        
明治時代、ロシアのバルチック艦隊の脅威を受けていた日本は、列島4島の海峡に多数の砲兵陣地を置きました。
そのほとんどが榴弾砲を置く設備で、進入してくる戦艦に対し、砲弾を浴びせる配置となっていました。
ここ、下関も同じく砲台が置かれていました。かつて江戸末期にイギリス戦艦の砲撃を受けた下関だけに、ここを敵国の戦艦がすり抜けていくことは非常に現実味が合ったものと思われます。
これら敵艦を阻止する陣地は大掛かりなものですが、ほとんどが大砲を据えたものでした。
今回、紹介しますものは、その中でも珍しく、魚雷を発射して敵艦の侵攻を阻止する陣地の跡地です。
下関市と門司との間の海峡にあります。
場所は こちら。
撮影は、彦島南公園から海へ降りてきたところです。
写真は北東へ向いて撮影しています。遠くに関門大橋と大きな貨物船が見えます。

ちなみに、全国、あちこちに設置された、対艦船陣地ですが、現存しているものも少なく、また木々に埋もれて山中のどこにあるのか全くわからないものも多い状態です。

航空写真
国土地理院の昭和49年撮影の航空写真です。
画面に、海へ突き出した魚雷陣地が見えます。
ちなみに陣地左側の陸地は森ですが、現在、広い公園となっています。また画面左外は広く住宅街が広がっています。

陣地の蕎麦によって見ました。
この海へ突き出した石垣の先端に魚雷発射管が据えられていたそうです。
現在、台風で崩落した為に修復が行われています。石垣もその時に積みなおしたものと思われます。またさらに、台風で修復されたものも崩落してしまっています。

では海に突き出している岸壁から海岸を見てみます。
まず土手が見え、トンネルが見えます。
このトンネルは魚雷をしまっておく倉庫です。
ここから魚雷を運び出し、発射管まで運んで、敵艦めがけて発射します。
手前足元には、おそらく魚雷を運ぶためのレールがあったものと想像します。
その上は現在、公園になっています。この公園に何らかの軍事施設があったのでは、と想像しますが、そうした名残は見当たりませんでした。

魚雷倉庫跡です。
きちんと詰まれた煉瓦が印象的です。
高さは2メートルもありません。
ここには魚雷は一列にしかもし人力で押したとしたら、狭い中でのぎゅうぎゅうの作業です。
ちなみにトンネルの突き当たり、暗くて判りにくいかもしれませんが、斜めに穴が開いているのがお解かりいただけますでしょうか。これは雨水菅でこの土手の上にあるグランドの排水用で、最近作られたものです。
足元のセメントもその際に整備されたものと思われ、陣地があった当時とは全く雰囲気が変わっているものと考えます。

では陣地から南西を。正面が北九州市門司です。右側にはこんもりとした緑とブルーシートが見え、これが本州です。
バルチック艦隊はこの右奥から関門海峡へ来ることが想定されています。もしここから魚雷を発射すれば、気づいた時には逃げようがありません(ただ、外れれば門司に当たります)。

地図で見てみます。
右上に関門大橋のある関門海峡、左側が響灘(日本海側)です。
バルチック艦隊が進入するとすれば左側から、小倉の沖を通って回り込んだら、射程に入ります。
逃げようの無い場所に設置されていることがわかります。

これは他にも掲載しておりますが、魚雷発射の瞬間をとらえたものです。撮影は艦船のもので、また昭和14年ですので、下関に陣地があった明治時代とは異なりますが、概ね、こうした形状です。
左にある魚雷発射管から細長い魚雷が撃ち出されたところです。細長い魚雷は右端に爆薬が、筒の中にスクリューを回す動力が、そして左側に魚雷発射管に隠れていますがスクリューがあります。
下関の魚雷陣地も、こうした具合に魚雷を発射したものと考えます。
魚雷は、水中をすすみ、艦艇の胴体にぶつかり、爆発による火災と船体に開いた穴による浸水を生じさせます。
明治時代から対艦船の決定的な兵器として、各国がしのぎを削って開発と運用を研究していました。

下関の魚雷陣地を門司側から見ています。魚雷陣地の場所はお解かりいただけますでしょうか(ブルーシートの右側、画面中央です)。
ロシアバルチック艦隊は、日本海海戦で壊滅、日本へ侵攻する事はなかったため、この陣地も使われずにすみました。
今日、崩壊しながらかろうじて残っているこの陣地は、日本周辺の激動の歴史と、外敵に対峙していた歴史の証でもあります。



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