このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




山口県宇部市散策


                        
宇部常盤通り
山口県宇部市は、かつては石炭で有名で、戦前から様々な重工業も起きており、発展してきました。
ここではまず戦前に宇部市役所が発行した絵葉書をご紹介いたします。

宇部の繁華街で、今日の市役所がある、常盤通りです。
雨の振った後でしょうか。濡れたように見える道路ですが、舗装のおかげで水溜り一つ見えません。
沢山の幟、そして意匠を凝らした支柱にずらりとぶら下げられた街灯もみえ、盛繁が伺えます。
まだカメラが珍しい頃ですし、撮影にあたり、右側の人物は撮影者の方を珍しそうに見ています。

宇部市公会堂
渡辺爺記念会館と呼ばれる建物です。建築したてでしょうか。建物前の広場は特に舗装もされているようには見えません。この空き地は、現在は公園として整備されています。
この渡辺爺記念会館は、音響も意識した壮麗なつくりとなっています。
また、この会館は現在も現役で、演奏会をはじめとする各種イベント、そして先日は映画ロケにも使用されました。

宇部港から工業地帯を望む
宇部は石炭を基幹に産業が発展、左端に、小さいのですが、石炭の縦坑櫓が写っています。沖の山炭鉱と思われます。
右側遠くになだらかな山が見え、これは霜降山と思われます。
石炭採掘による石炭産業と、それを基幹とする産業の発展を遂げる宇部ですが、石炭採掘は昭和40年にぴたりと辞めています。しかし、その後も宇部興産が牽引する重工業都市として発展します。
経済も順調で、昭和50年代までにデパート5件、アーケード街も2つと、都市の規模のわりに大きな商業地帯も発展しています。

同じく工業地帯です。
左端に帆をたてた船(おそらく貨物)が見え、時代を感じさせますが、工場の建物郡はとても戦前とは思えない近代的な印象があります。

宇部には大きな人口湖、常盤湖があります。
瀬戸内は大きな河川がなく、かんがい用の池が多くあり、宇部では大規模に常盤湖をつくりました。
この池は農業用水として活用、水田へ水を供給しています。
飲料水には用いていないそうですが、少雨水不足の際は、水を流用する事もありました。

現在は常盤公園のあるにぎやかなところです。当HPに掲載している石炭記念館も、この常盤公園にあります。

画像は、現在の常盤公園のある湖の南西から北方向を見ているものと思われます。正面遠くが黒岩山ではと推定したことによります。

では、今日の宇部を市街地中央を流れます真川を中心に散策してみました。
まずは列車が走っているところです。
一両編成で、とことこ走っていきました。写真右側に宇部新川駅が、左側に琴芝駅があります。
かつて石炭産業が盛んだったとき、ここは石炭を満載した貨物列車が走りました。
また、宇部セメントの原料である石灰石もここを通過しました(今は、興産専用道路で運搬されます)。

今は、静かに旅客を渡しているこの橋も、宇部の発展を支えていました。

一見、普通の鉄橋ですが、なんと大正時代に掛けられた橋でした。
場所は こちら 。橋脚に、橋の由来がありました。
鉄製ですが、割れていますね。


宇部 真締川 寿橋 (昭和13年竣工)
真締川鉄橋を下ったところに寿橋があります。
場所は こちら。
戦前に架けられた橋です。
川下から撮影。後ろに鉄橋、そのさらに後ろは山口大学医学部です。

新川橋
こちらも戦前に架けられた新川橋です。さきほどの橋から川を下ったところです。
場所は こちら。
地図でご覧になってもお解かりいただけますが、今日は川上側の新川大橋が交通の主流です。この新川橋は特に車の行き来もありませんでした。区画整理の結果でしょうか、向かって左側は川に沿って小さい道がある以外はいきなり正面にビルがあるなど、交通として使うことは既に考えられていません。

角度を変えて反対岸から。
後ろに市役所が見えます。

さて、この橋は橋脚のたもと(市役所側の岸)に、大戦中の機銃掃射の跡が残っています。
ここ宇部市は戦前から重工業が会ったため空襲を受け、焼け野が原となりました。
米軍が燃え上がる 恩田小学校校舎 を撮影したフィルムが残っています。
工場を破壊する爆弾と市街地を焼く焼夷弾を使い分けての空襲でした。
宇部空襲については市民らにより書籍にまとめられており、不発の焼夷弾を処理中に爆発(燃焼剤を爆発によって飛び散らせる為、爆薬がはいっている)、腕が飛んでしまった市民の話なども収録されています。

先ほどの写真に、銃弾痕を観察した結果、推定される銃弾と破片の飛び散り方向を書き加えました。
セメントが打ち砕かれている様子がお解かりいただけますでしょうか。
米軍が用いた12.7mm機銃は、初速が速く、瓦屋根でもかるく打ち抜いて部屋に飛び込んでくるほどのものでした。
不発の機銃弾を拾い悪戯で家の火鉢(ひばち、炭を入れる暖房器具)に入れたらこれが爆発、火鉢は粉々、奇跡的にけが人はでなかったものの、家中が灰で真っ白になったという話もあります。

宇部は前述しましたとおり、激しい空襲を受けました。
加えて原子力爆弾の練習に使われた経緯もあります。

原子力爆弾は非常に大きく重たい爆弾でした。
その為、爆撃機B29も、改造しなければ、これが搭載できないほどでした。
こうした重たい爆弾を高空から落としても、なかなか狙ったところには落ちない。
そこで米軍は、原子力爆弾投下の予行演習として、原子力爆弾と同じ大きさの爆弾を作り、中に火薬を詰め込んで落としました。重さは5トン。
空襲で主に使われた爆弾は225kgで、これ一発で三階建てのビルを崩壊させる力がありましたが、その22倍近い重さがあったわけです。

またこの予行演習として、米軍は自国内の安全な演習地ではなく、日本に戦闘行動(つまり空襲)として実践訓練で投下しています。
全国に15発ほど。
その内、1〜2発が宇部の工場地帯(宇部ソーダ工場)に落とされました。
この新川橋、最初の写真の左側、数百メートルのあたりだったようで、犠牲者も出ています。
                              
                      合掌

琴芝れんが広場
大正時代に建設された宇部紡績所の跡地です。昭和18年に、呉海軍工廠宇部分工場となり、魚雷の部品などを作っていました。昭和20年7月の宇部空襲で消失、黒々と焼けた煉瓦だけが残りました。
煉瓦壁は、戦後も建物の一部や塀として使用されましたが、平成12年、琴芝兼営住宅の整備に伴い、壁のみを産業遺跡として残すこととなり、移設保存されています。
煉瓦壁表面は、かつては黒く焦げていましたが、移設にあたり表面を磨きなおし、かつての戦災をしのばせるものではなくなっています。
場所は こちら 、宇部の市立図書館の裏です。


紡績工場跡地(琴芝煉瓦広場)

以上、宇部市街地の真締川付近でした。



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