このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




魚雷試験場(その他)
    


その他:魚雷に付いて。
魚雷の構造につきまして、模式図を示します。
魚雷は筒状の形状をもつ兵器で、筒の先端に爆破する炸薬が、そして筒の後ろに推進力を得るスクリューがあり、船へめがけて水の下を進み、船にあたれば船体を爆破します。
スクリューの動力は主にエンジンが採用されています。そしてエンジンを回すため、燃料と気室(エアボンベ)も内蔵しています。
また、整流板と舵が取り付けられており、これで姿勢を制御します。
魚雷は、高度な技術と精度が求められた様です(炸薬は勿論ですが、推進を行うエンジンの制御、そして姿勢制御など)
その為、各種試験が実施された様ですが、その際は弾頭部分を炸薬の入ったものではなく試験用に付け変えたことが、別途ご紹介いたしましたショートカット先にも紹介されています(走行試験後に水面へ浮き、回収を容易にする)。

こちらは、大刀洗平和記念館(福岡県)に展示されております魚雷です。
但し、これは戦後のもので、また非常にコンパクトなものです。川棚で生産しましたものの全長は、もっと長いものです。
筒状の外観で、後ろにスクリューと整流板が取り付けられているのがわかります。

鹿屋基地の資料館(鹿児島県)に屋外展示されている魚雷です。
これは艦船から発射するものです。
川棚で生産した物は航空魚雷、つまり飛行機から船をめがけて落とすもので、これよりは小さいものです。

その他:
今回、確認出来ておりませんが、魚雷試験上のあります片島の半島は、その付け根の丘の上に防空陣地がありました。現在も弾薬庫が残っているそうです。
なるほど、この特異な形の試験場は空からも目立つでしょうから、空襲の対象となる事は充分考えられ、防空陣地も必要と判断されたのでしょう。
そうなりますと、どこかに防空壕があったのではないかと考えられます。

例えば、別途掲載しております魚雷艇訓練所跡にありました横穴の様な防空壕です。
予想としましては、片島の丘に面している斜面に防空壕の入り口が開いていそうに思います。
しかし私が見た範囲でそうした痕跡はありませんでした。

ところでもしかして横穴があるか?と思われるものがあり、紹介して見ます。
建物を見下ろす位置からの撮影をしようと、背面の斜面にあった小さい道を登った際に陥没穴をみつけました。
この穴を覗くと、奥に空洞がある様にも見えます。写真をご参照ください。随分と深そうなのと、垂直に切り立っているので中に入ることも適わず、上から覗きこんだだけです。
穴を見下ろす角度で写真を撮って見ました。
向かって左側は段差があり、その下に魚雷試験場の調整池があります。

穴の開いていた直ぐ横の段差の下で、その段差の壁をみてみます。
写真の真中の土手の上が,先ほどの撮影個所です。
周囲に比べてやや凹んでいる様にも見えますが、何もないただの土手です。
まず、横向きの穴があったかどうかにつきましても、崩落部分から見えた範囲のみしか確認できておらず、断定できません。
また掘りやすそうな土砂に見えますが、防空壕にする場合、崩れる事を心配する必要がありそうでし。つまりセメントか何かを施工したはずです。他の防空壕などは、セメント張りでしたが、そうした施行をした跡も見出せていません。

ここからは私の勝手な想像となりますが、防空壕とは行かなくても、やはり何か横穴でもあったのではないかと思います。
つまり横穴を掘ったあとで、穴の入り口を埋めた、土砂を入り口にたっぷりもって、土手と同じ様に見える様にした、というものです。そして、私が観察した陥没穴は、そうした横穴の天井が崩落したものというわけです。
ただ、横穴があったとしても、わざわざ埋めるくらいです。ひょっとして何かトンネルに隠したかったのかもしれません。
戦後すぐに、兵隊らは占領軍であるアメリカ等の指導や、あるいは自主的に武器弾薬類の撤去・廃棄を始めました。主に海洋投棄された様です。
ここ魚雷試験場に沢山運び込まれていたと思われる魚雷も、戦後は廃棄したはずです。
ところが、もしかして魚雷の駆動部や姿勢制御を行う部品は精密且つ生産は高度な技術を要したため、捨てるにしのびず、一部を捨てずにとっておいたのだとしたらどうでしょうか。
試験場後ろの横穴に入れて、入り口を埋めておく、くらいのことはしたかもしれません。
また特殊な魚雷の技術を、占領軍から秘匿したかったとして、埋めたかもしれません。
当時、各国は誘導魚雷などの研究も進めていました。これは船のスクリューの音を拾って、その音の向きに進んでいくと言うものです。船はスクリューで推進しますから、こうした誘導を行う魚雷を発射されると船は避け様がありません。
ドイツでは、いち早く実用化され、日本でも実用化の目処は立っていたとされます。隠すとしたら、こうした最先端の技術であったかもしれません。勿論、その試作品があり、しかもそれが川棚にあったら、の話しですが、、、。

以上、あくまで私の想像です。恐らく、内部を探ろうにもトンネルそのものの倒壊を招き、何も見出せないか、などとも考え、想像をめぐらせるだけに留めております。
ですので、各位におかれましては間違ってもここを掘ったりされません様、崩れてくる土手に思いっきり埋まるかと思います。


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