このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




川棚魚雷艇特攻隊

烹炊所・防空壕跡


水田の隅の段差にひょっこりと開いている穴。
これが、川棚特攻隊訓練所の烹炊所跡の防空壕です。

防空壕は3つあった様ですが、一つだけしか見学できませんでした。高さは2メートル弱でしたが、入り口あたりは土砂を捨てた後に平らにした様にもみえますので、実際にはもう少し背が高かったかも知れません。
しかし、この状態でも、乗用車でもらくらく入ることのできそうな大きさです。

内側から見た壁の印象は、川棚海軍工廠のトンネル工場と良く似ています。
防空壕だとして何名くらいは入ることが出来たのでしょうか。
しかし、空襲に対する秘匿性は充分にあるものと考えます。

壁には、木の柱が等間隔に配置されています。
また、セメントの壁を形成する際に同時に配置された様にも見えます。
これは想像ですが、ここに棚があったのではないでしょうか。

同じく天井側にある木の柱
なにやら釘がついています。

最深部には水が溜まり、手前から見学するしかありませんでした。
周辺は、田んぼに開墾されておりますが、ここには烹炊所の建物が数棟ありました。

尚、今回の防空壕は田んぼの端っこにありますことから、農閑期しか見学できませんので、ご注意ください。

特攻隊といえば、太刀洗平和記念館(福岡県)に紹介されています航空機の搭乗員は後に特攻隊として出撃、太刀洗平和記念館には航空特攻隊員の遺書・日記が紹介されています。これには出撃基地において歓待慰問を受けたことが記載され、特に食事のなかに卵があった記述があります。
戦後もずっと貴重品であった卵は、戦時中の食料欠乏の折には、さらに貴重なものであったと考えられます。
これから考えますと、こうした食材は民間を含めた支援があったことによるものと思われます。そして、それは隊員に少しでも良い食事をとってもらおうとしたからだと考えます。
ここ川棚でも、命がけの隊員達への支援として、よりよい食事の提供を目指したと考えます。また烹炊所に防空壕が隣接していたのも、空襲の中でもより安定した食事の供給を考えたものと思います。
ちなみに防空壕背後の斜面の上には、防空指揮所がありましたが現在は私有地らしく、探索していません。


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