このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




ころ島 邦人引き揚げ収容所跡地

その2



ちゅうごくでは、ちべっとで沢山のひとびとがころされました
てんあんもんじけんでも沢山がなくなりました
ぶんかだいかくめいでも沢山のひとびとがしんでしまいました
ちゅうごくのひとはしりません


                        
さて、ここからは、現地を旅行された方の画像を頂戴し、当時の建物を紹介いて参ります。

事のはじまりは、こちらのサイト、新京敗戦記(2)という詳細な手記です。邦人の引揚者に多数の犠牲者が出たのは、これまで現地人の迫害と飢えと疲労として紹介されてきましたが、ここではさらに疫病に苦しめられたことが判ります。

こちら: http://www.justmystage.com/home/yagisan/ haisenki2.html

この手記には、集中営(収容所)と病院の描写もあり、さらに見取り図が附属しています。
ある方が、この手記の内容とグーグルアースの画像が一致することを発見、確認の為に現地へ行き、タクシーを借り切ってグーグルアース画像を頼りに収容所跡地を訪問され撮影をされました。
この度、その画像を頂戴しまして掲載の運びとなりました。

駅及び周辺
駅舎です。
これはホーム側から撮影したものです。
馬杖房駅と書いてありますが、当時は葫盧島駅と呼ばれていました。
現在は乗客は扱っておらず、無人駅となっています。引き揚げ者たちは、この駅で下車し、徒歩で収容所へ向かいました。

駅構内の付属建物を見てまいります。
これらの建物も満州国時代のものです。

こちらの建物は、住宅風です。
駅長社宅かもしれません。

駅前にある日本人住宅です。恐らく鉄道員の社宅でしょう。

収容所跡の石垣
こちらの石垣は、日本人観光客が、収容所跡として案内される場所です。
しかし、実際は収容所とは無関係です。

石垣の東の壁
これは、さきほどの石垣の南端から東方向を見たものです。
第三集中営はこの遠景にある崖の向こう側にあります。引き揚げの時、この道を延々とあるいた人達、病人の移動など大変であったろうと想像します。
この崖は前出の第三集中営の見取り図にかきこんであった山を削った後にできたものです(埋め立ての土を採取したものかもしれません)。

学校
引き揚げ初頭に、ころ島駅に着いて後、小学校に収容された、と書かれた手記があります。つまりここには学校があったことがわかります。
そこでグーグルアースにて日本人小学校らしいものを探し、第一集中営のそばに、この建物がみつかりました。

ちなみに現在は亜鉛工場の事務所になっています。門柱には
「葫蘆島○廠 工貿実業総公司 供銷科」
と書かれています。"○"は文字の変換ができませんでしたが、亜鉛の意味、銷は「売る」意味です。

校舎を撮影、明かりを取る広い窓が印象的です。
中央、何も植えられていませんが、花壇が見えます。

これが学校だとすると、校庭から各部屋に直接出入りする作りとなっており、ややめずらしい建て方です。戦争末期の工費節約かもしれません。

間隔を開けた凸状の飛び出しが屋根に見えます。これは防火壁と考えられ、こうした構造が、如何にも日本のものに見えます。

中央に窓のすくない部屋がいくつかあり、両側に窓三つの部屋が並んでいます。
窓三つのは教室として妥当です。
窓二つのが教員室、窓一つのが校長室、医務室、宿直室と推定すれば、校舎であろうと推定できます。

第一集中営
第一集中営は、広い平坦部に広がっています。
右奥、平らな屋根の部分は中国人による増設です。

家の屋根をクローズアップ。

煙突の上部は、凸形にとがっています。
最も上から飛び出している円筒状のものが煙突で、その周りをレンガで取り囲んでいる構造ですが
それにしてもずいぶんと頑丈に作られたものだと考えます。
煙突から推定するのは炊事用、温突(おんどる)、ペチカが挙げられます。
温突の場合、床下に熱気をまわしますので、煙突は家の横に出来ることが多いのだそうですが、もしそうなら、建物の壁にそったこれは温突かもしれません。

また煙突は3本ともにそれぞれ屋根の近くに斜め方向の板状のものが取り付けられています。
画面ではやや黄色に写っています。
これはそうぞうですが、かつての屋根瓦と煙突が面するところの隙間を埋めるものではないでしょうか。
今現在は瓦を含めた屋根の構造が薄くなっていて、ここが浮いて見えるわけです。
ここに写っている瓦はセメントの薄いものです。セメント製の瓦は戦前にもあった様ですが、どの程度普及していたかは不明です。一方で、屋根に粘土焼きの瓦、そして防寒をかねて厚く屋根を作っていたかもしれません。その名残では、と想像した次第です。

さて、こちらは赤レンガではなく、塗り壁です。
よくよく見ますと、凝った装飾が施してあります。幹部クラスなど、お偉い方の家だったのかもしれません。

建物には見えるだけで4本の煙突が見え、反対側にもあるとすると、他の家よりも多く配置されているように見えます。
一番手前の煙突、下の方に小さく黒く穴が見えます。灰をかき出すものかもしれません。

手前、煉瓦の壁は一度崩れたのでしょうか。恐らく戦後の中国人が作ったものでしょう、随分とやっつけ仕事です。


画面中央奥に、先ほどの建物の屋根と煙突が見えます。
屋根のデザインも、丁寧に作られていることがわかります。
煙突がまっすぐ伸びているのが印象的です。

画面中央に、かつての煉瓦の家が見えます。
その左右にセメントの平らの屋根の建物があり、ここが増設部分です。
手前、四角く庭があります。文化住宅に小さな庭というのは昔から日本人の憧れですが、ここ満州でも同じで、例えば撫順の家々も庭を持っていました。
ここ、ころ島でも庭付きがみられます。


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