| 第二集中営を見てまいります。
第二集中営は、駅の南西、駅を望む高台にあります。
第一、第三と比較して、家の形にバリエーションがおおい特徴があります。が、一見して日本人住宅とわかります。
こちらの建物は、この地区で唯一の二階建ての家です。
二階、立派なベランダが作られています。
ベランダの右端、ガラス張りの部屋が見えます。温室と思われますが、どうも唐突についているように見え、戦後の中国人の増設では、と考えます。
左右、奥に見えます家も日本人住宅です。 |
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| 漬物にするのでしょうか、白菜が干してあります。この白菜が干してあります段差も、他の壁などと同じ造りですし、当時のものでしょう。
三角屋根が二重になっている家が並んでいます。 |
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| 同じ場所で方向を変えて。
画面中央の家も、ここで唯一みられます形状で、三角屋根の手前にもうひとつ部屋が設けてあります。
周辺は、切った白菜の葉っぱが散らかっています。 |
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| 移動してみます。
足元、段差、起伏があることがわかります。
画面中央、そしてその左奥もかつての日本人住宅でしょう。電柱の影になっていますが、これもデザインに変化がつけてあります。
中央の道をすすんだ写真が次です。 |
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| 右側の列、左側の列で家の形が異なります。
右は三角屋根が横から見ると非対称に。また道路に面して窓が三つ並んでいます。
左は三角屋根ですが、家の端に小さめの三角形の屋根が出る形で造られています。
ちなみに左の家は、先ほどの白菜が干してあった家の裏側と思われます。 |
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| 右側の家は、白いセメントの部分が、後に中国人が増設した部分ではないでしょうか。
奥の煉瓦がかつての家です。 |
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| 第三集中営を、病院の裏庭から見てみます。
第三集中営は4列16棟、1つの棟あたり2階建ての4軒(4世帯)で、1軒あたり8畳間と4畳半の部屋があったそうです。
右端、一棟だけ向きが違っておりますが、それ以外は一列に配置されています。 |
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| 病院の裏庭にて、第三集中営の北(奥側)から数えて第一列と第二列を撮影しています。 |
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| 第一列と第二列の隙間から、端に配置された向きの異なる棟を見ています。
手前、立派な塀の向こうの中庭は畑になっているようで、壁の向こうに枯れて立っているのは、とうもころしと思われます。
壁は、他の場所にもありましたが、大きな石をセメントでかためて形成、また塀の上側もセメントを盛り、角度がつけてあります。 |
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| がっしりとしたレンガ造りで、また窓も大きくとってあり、部屋の中はさぞ明るいものと思われます。
窓も鉄枠と思われます頑丈そうな造りに見えます。
二階の右端と二番目の窓には手すりが見えます。手すりが必要になる、ということは、窓は室内の床からさほど高くない位置に作られているのかもしれません。 |
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| こちらの建物の二階、中央の大きな窓は壊れています。
ここは階段ですので、壊れたままにしていても、特に不自由はしないのでしょうか。
この角度から見ますと、煙突は4つの円筒の突起が出ているものが二つ、2つの円筒の突起がでているものが二つ見えます。
合計で12本の突起があり、それぞれ煙突と思われます。一世帯あたり、3本の煙突がある計算になります。 |
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| 西向きに、第一列の北側を撮影しています。
西に向かって上り坂になっています。
邦人の引き揚げ者は、この斜面を歩いた山越えの道となったわけです。
周辺の道路は舗装されたふうもなく、満州国当時のままなのでしょうか。
ちなみに、道路の中央が谷状にえぐれており、水の流れで掘り下げられているものと思われます。
日本では、昭和40年代まで舗装していない道路は珍しくなく、雨の度に水溜りや流れた雨水で溝が出来上がりました。近所の人は練炭などの灰や夕餉のアサリの貝殻を砕いて水溜りのくぼみを埋めるなどして、皆で家の前の道路を修繕していました。これは、裏路地まで舗装しつくされた今日となっては昔の風景です。
こちら中国では、特に補修もされないのか、溝は遠くに見える三輪の屋根つきバイクが避けるくらいに大きくなっています。また、天気は特に雨が降っているようでもないのですが、中央は濡れており、水が流れている様に見えます。生活用水でも流しているのでしょうか。 |
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| 建物の東側から撮影しています。
上で見たように手前の突き出した部分の南側(向かって左)には大きな窓がありますので、ここが八畳間と思われます。 |
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| この棟は、階段の二階部分の窓や、一部の窓を煉瓦でふさいでいます。
もし、人が住んでいるのだとすれば、修理が面倒になって、とりあえずふさいだといったところでしょか。
こちら、階段の入り口には屋根が設けてあることがわかります。 |
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| 階段です。セメントでがっちり作られた階段です。
右の明るい出口の向こうに隣の棟が見え、これも向こうへ通り抜けられる様に見えます。
あらためて階段を。手すりがセメント一体で造られており、また手すりは綺麗なカーブで構成されています。
この階段の手すりをセメントで造り、手すりを丸く綺麗にぴかぴかにするつくり方は昭和初頭の建築で見かけます。私が見学する機会を得た昭和初頭に建設された小学校の校舎の階段、あるいは宮崎県庁の階段などいくつも例があります。が、こちら満州でも同じ造りになっており、興味深く感じます。
邦人引き揚げ時には、この階段にまで人が溢れたそうです。 |
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| 西向きに、第二列を撮影しています。
西に向かって上り坂になっています。
道端など、建築廃材でしょうか、煉瓦などの破片がちらかっています。こうした風景は、満州の都市でも満州人街には道端に瓦礫の山があったりなどします。 |
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| この角度から見ますと、あらためて中央に階段を配置した二階建て4軒長屋であることが良くわかります。 |
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| では、ここからは病院跡を。
ずらりと出窓を配置した造りです。
ここはかつては、ころ島第三集中営伝染病院といいました。邦人引き揚げ時に疫病が発生し、大勢の犠牲者が出ました。
この病院の役割も大きかったものと思われます。
ちなみに、元は港湾事務所であったそうです。 |
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| 正面玄関を。
現在は廃品回収の人達が倉庫をかねて住み込んでおり、その為か、周辺は大変な散らかりようです。
窓はことごとく壊れています。
右上、この建物の裏側にあるボイラー室の煙突が見えます。 |
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| 窓を見ています。きちっと角度をつけた窓のつくりがわかります。
割れた窓はビニールで補修しています。
画面中央やや左、小さな煙突があり、煙が出ています。先ほどの正面玄関の写真にも、左右に小さな煙突があり、壁が真っ黒に煤けていました。どうも、住んでいる人が後から作ったような風に見えます。周辺にもガラクタが積まれ、防火はいいのかな、と心配になります。 |
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| 病院の裏側、正面玄関の反対側、グーグルアースの画像でTの字を構成している部分です。
裏側は、色の塗り分けもなくシンプルな印象です。
左側の四角い建物はボイラー室です。 |
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| こちらも、病院の裏側です。
病院の裏側の窓は表側と違い、窓枠に角度をつけたつくりではなく、また表側より数が少ないことから、こちら側は廊下では、と考えました。
画面中央、四角い建物がボイラー室で、二階建てです。
平たい屋根なのですが、一見、三角屋根に見えます。これは後ろに見える病院の突起部の三角屋根が重なって見えているためです。
建物の手前、地面が白く、石灰か、あるいはなにかの灰の様に見えます。
その横、大きな煙突が見え、また色合いから煉瓦積みに見えます。 |
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| さて、ここからは病院横の防空壕跡を見てみます。
中央、草むらの間に煉瓦で囲った四角い穴が見えます。
これは通風孔で、2列、6個が確認されました。
この写真は防空壕の上に上って撮影されており、周囲より高い位置であることがわかります。
満州でも、中国大陸から飛来する爆撃機による犠牲は多く出ていました。大連でも、3階建ての鉄筋ビルが1発の爆弾で粉々につぶれ、中から30分以上も、逃げ遅れた人々の悲鳴が瓦礫の隙間から聞こえていたそうです。
遠く、第三集中営と、それを囲む壁が見えます。 |
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| 防空壕跡を南側から見ています。
入り口はふさがれています。
この防空壕は、全く陥没した様子もなく、相当に頑丈そうです。地下に頑丈なコンクリートの部屋を作り、その上に土を盛り上げたものです。こうした重厚な防空壕は、例えば日本国内だと航空隊の通信壕など重要な施設に見られます。
ここ、ころ島の防空壕も、重要な役割をもっていたのかもしれません。 |
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| 以上、ころ島に残る、満州国時代の建物群を見てまいりました。
このたび画像の提供を頂き、アップロードの運びとなりました。
改めまして、感謝いたします。 |
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