このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




四山鉱港沖竪坑
  (新四山鉱)

                  


新四山坑の航空写真
 昭和40年開坑した比較的新しい炭鉱。
新しい設備と建物を持つ新しい雰囲気の炭鉱だったそうです。昭和62年12月に閉坑。
手前側が三池湾入り口にあたります。
田川市の炭坑から移設した縦坑が写っています。
あと、特徴として捉えて良いかと考えますが、自家用車と思われる車が建物手前にずらりと並んでいます。
今日では、通勤用に自家用車を用いることは別段不思議でもなく、こうした大きな事業所に車がずらりと並んで駐車しているのも、ごく当たり前のことです。
しかし、これが撮影された昭和40年当時はご家庭向けの乗用車が普及し始めたばかりの時です(ファミリーカーで歴史のあるマツダ社ファミリアの初代が販売された年)。
よって通勤に自家用車を使うことはおろか、自動車を持っている家庭自体が珍しかった頃でもあります。
よって三池周辺で言っても、炭坑住宅が炭坑施設のすぐ側に作られていて歩いてもすぐの距離であったり、本来は石炭を運搬する為の三池鉄道が通勤通学車両も通して市民生活に貢献したりと、自動車を使わない通勤がなされていました。
それからしますと、ここに写っている車が勤務用の自家用車だとしますと、ここで働く人の待遇は当時としてもかなり良かったのではないかと想像します。(いただきもの)

現存部分の追記
先ほどの航空写真に、現在残っている建物を水色の括弧 で追記してみました。
ほぼ、当時の名残は残っていません。手前の長い建物は左端だけ。そして縦坑櫓とその周辺は跡形もありませんし、また縦坑櫓から延びるトロッコ軌道と思われるものも残っていません。
さて、ここでは便宜的に手前の長い建物を事務棟、左上の連なった建物を工場棟と名付ける事と致します。

玄関脇から
ご覧の通り、原っぱです。門柱の看板も脱落し、見あたりませんでした。

事務棟
縦坑があったと思われる位置から事務棟を見てみます。もう、ぼろぼろですね。この建物の向こうに三池湾の入り口があります。

事務棟内部
先の向かって右側に見えた1階だけの部分はお風呂でした。
業務を終えた炭坑夫は、まず装備を外してメンテナンスをし、そして帰宅前には石炭で真っ黒になった体を洗って居たようです。
私が取材した範囲で、大牟田周辺の三池炭坑はこうしたお風呂が完備していた様です。が、全ての炭坑においてお風呂が完備していたかどうかは判りません。
写真でみたもので、確か飯塚での撮影だったと思いますが、炭坑住宅の玄関前で小学生くらいの男の子が帰宅する父を迎える場面、同じく炭坑住宅前で割烹着の婦人が夫に煙草の火をつけている写真があり、これらはいずれも顔が真っ黒で、お風呂の後には見えませんでした。

お風呂の中
天井に明かり取りの窓があり、また壁の窓も大きいのですが、やや暗いですね。また、湯船に大きな装置が取り付けられているのが判ります。
これは魚を買う水槽とわかりました。ネーブルランド水族館のバックヤードでした。ネーブルランドは既につぶれており、この装置は放置されたままとなっています。
この場所はこうした炭坑と水族館の2つの施設の名残が重なって存在していました。
ネーブルランドは別途訪れておりますので、そちらもご参照下さい。

湯船のクローズアップ
綺麗にタイルが貼られてあります。
また湯船は深く、段差の所に腰掛けると大人の肩まで浸かることができます。一般の銭湯より深いですね。

お風呂の隣の部屋
床が抜けています。また床下にはセントラルヒーティングシステムが確認できました。パイプの中にお湯を通し、放熱板で周囲を暖める物です(横向きの赤茶色に錆びた棒状のもの)。こうした暖房があることとお風呂の隣であることから脱衣場の跡ではないかと考えます。img4_08.JPG

縦坑櫓跡地
事務棟2階から、縦坑櫓の在ったと思われるエリアを撮影。
金網で囲ってあるエリアに盛り土がされています。
恐らく、ここに縦坑の穴があり、厳重に埋め立てた上で、さらに落盤を警戒して立入禁止の金網を設けたのではないでしょうか。

縦坑櫓跡地周辺
縦坑櫓の周辺。
何も残っていません。向こうに黒い土山が見えます。さらに遠くに有明海が見えます。

工場棟
さて、今度は工場棟。
トロッコ軌道と思われる線路が扉の前まで続いています。
img4_11.JPG

工場棟
縦坑の建家があったあたりから工場棟を見ます。周囲には、ここにかつて建物があったと判る痕跡は全くなく、基礎部まで綺麗に撤去されたようです。
手前に積み上げられている錆びた金属のものは、ベルトコンベアのベルトを支える支柱の様です。まもなく草に埋もれてしまうのでしょう。

工場棟中
綺麗に整理が行き届き、今にも稼働できそうな感じです。
また工場棟のドアの手前まで伸びていたトロッコ軌道ですが、工場の中までは繋がっていないことがわかります。
ドアや窓は鍵がかかっており、内部は隙間から覗く事しかできませんでしたが、見えた範囲では普通の鉄工所の様でした。恐らくは使用する機器類の修理などを行う場所だった野ではないかと思います。ですが、写真で見える範囲でもこれといって炭坑を連想する物は見えません。また他の窓から覗いてみても、炭坑を連想させる物は特に見あたらず、ひょっとすると炭坑が閉山したあと、全く別の工場として機能していたのかも、などと想像しました。img4_13

貯炭エリア
貯炭エリアと思われる跡地。
周囲には門の跡、そして草に埋もれてセメントの基礎部がわずかにありましたが、それ以外は何も残っていません。
広く黒ずんだ原っぱです。草も生えていないのが印象的です。
中央はややくぼんでおり、水が溜まっています。

玄関脇から有明海を
帰り際、門柱のそばにひっそりと咲く桜に気づきました。
向こうに見える海と護岸壁が三池湾の入り口です。更にその向こうに有明海が広がります。
春霞でぼやけてしまいましたが、水平線にうっすらと白く平べったい物が見えるのが三池島です(尖った緑の葉の左側)。ここには、かつて海底炭坑の坑道用の大きな送風機が設置されていました。現在は無人島だそうです。


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