このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




母子地蔵尊

1932年、現在の中国東北部に「満州帝国」が建国、日本から沢
山の人々が移り住みました。いわゆる「満州開拓団」です。
戦争末期、満州方面に配備されていた関東軍は、邦人を置いた
まま南下を始めます。これはソ連参戦に対し、満州国の南東部で
持久戦闘を展開するためとされます。要は、軍は次の戦闘に関
する認識をしていた訳です。が、昭和20年(1945年)5月、つま
り終戦の3ヶ月前にも開拓団は「満州国」へ出発しており、開拓団
の団員に対し、危険情報というものがどこまでもたらされていた
のか、大いに疑問です。
そして、ソ連軍は一方的に不可侵条約を破棄して侵入、在留日
本人は見殺しにされる運命となりました。
戦後、開拓団員たちは広野に取り残されて難民となり、自力での
日本への避難となりました。
徒歩での避難、餓えはお年寄りや子どもたちには特に過酷で衰
弱による死者がでました。さらに現地やソ連兵の「略奪」「暴行」
「強姦」などで、開拓団は多くの犠牲者を出しました。
終戦の年の冬には、なんと24万人にもおよぶ邦人が命を落とし
たとされます。
東京空襲が8〜10万人の犠牲、広島原爆が14万人、長崎原爆
が7万人もの犠牲を出しておりますが、それよりもはるかに多い
犠牲が出たのです。

犠牲になった方々のご冥福をお祈り致します。
また慰霊の為に祀られた「まんしゆう母子地蔵(母子地蔵尊)を
紹介致します。
                  (ちばてつや著「家路」小学館を参照に編集)



浅草寺
大きな提灯で有名な雷門をくぐった、仲見世です。
大勢の人で賑わっています。

宝蔵門前
仲見世を通り抜け、宝蔵門の右横に小さな地蔵があります。

母子地蔵尊
赤いのぼりの立つ中に安置されています。
これが、終戦後の混乱の中で日本に帰ることができなかった人々の霊をなぐさめるために祀られた地蔵です。
通り過ぎる人が、あら可愛いと声をかけていました。

母子地蔵尊を正面から
佐賀で飲食店を経営しておられるご夫婦が引き上げ者で、ご体験をお話を伺いました。
「ソ連兵が来たとき、兎に角、ばりばりと撃ってきた。右に左にとばらまくように撃つソ連兵の弾の下を、地べたを這って逃れた。現地で開いた飲食店は結構繁盛してきたが、財産もすべて置いてきた。
夫婦二人だったので身軽さのお陰でなんとか生き延びることができた。互いに助け合う余裕もなかった。」
「合流した邦人家族に女学生が居たので(暴行されないように)持っていたはさみで髪を男の子の様に虎刈りにした。」
「乳飲み子を抱えたり、小さな子どもを連れた母親らは、大変な苦労だった。」
「道ばたに暴行されて半分裸の女性が、目を見開いたまま泥に顔を半分埋めて死んでいた。その傍に小さな子がぺたりと座り込んだまま眠るように死んでいた。3歳くらいの子だった。」
「衰弱して昏睡になった自分の子の首に手をかけて死なせた後、発狂して入水自殺した人もいた。」
「もし、現地で子を産んでいたら、大変だったと思う。無事に帰れたかどうかわからない。」

宝蔵前の賑わい
母子地蔵尊の周りはひっそりしていましたが、目の前にある宝蔵門はご覧の人だかりでした。


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