このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください




防空監視所 その2

タマゴのような構造物。
これが戦前に作られた防空監視所です。
この場所は近くに宮浦坑という大正時代から続く大きな炭坑があり、またこの壁の向こうにある三井化学も戦前からこの土地で操業していました。
これらからすると、ここはこの様な防空監視が必要になった背景とも理解されます。
しかしながら、周囲はあまり見晴らしはよくありません。この写真の右奥にはやや小高い部分があり視界を阻害しています。
そうしてみますと、もうちょっと高台の見晴らしの良い場所につくるのが妥当ではないか、とも思われます。また、三井化学は戦前から巨大な建家で操業していますので、その屋根にでも造る方がより妥当です。(三井化学大牟田工場を参照)
また見晴らしの良い位置にも実際に設置されています。大牟田市市役所屋上には当時の防空監視所が残っています。ですので、道端にあるこの防空監視所は、あまり役にはたたない様な気がします。

左側に見える黒く小さいブロック(煉瓦?)は他の戦前からある炭坑住宅の壁にも用いられている例があり、古くに構築されたものと考えられます。
一方で、白っぽく見える右側のセメントブロックは、後に作られた物と想像します。白いブロックは3〜4メートル続いており、この先には門柱の様な柱が立っていて、さらにその向こうには黒く小さいブロックが続きます。
これらから、かつてここには門があり、その門番小屋を兼ねたものと想像します。
さらに道路を挟んで反対側にも入り口があり(現在の三井高圧の出口)、道路を挟んで向かい合った門だったとも想像されます。

離れた位置から。ここにはかつて門があった事がよくわかります。
そのことから、まず門番さんが待機する場所だったとも考えられます。つまり戦争中というご時世からその門番小屋を防空トーチカの形に仕上げたということです。
さらに空襲を受けた際の門番さん待避所と被害に対応した情報伝達の送受信を行う場所として、普通の小屋よりはこうした形のほうが頑丈であり、有用と考えられます。
ちなみに大きなブロックで閉じられていますが、周囲にはあちこちにこうした感じで門を閉じたと思われる場所がありました。

覗き窓のクローズアップ。
漏斗のように開いています。ここから覗けば必要な視野は得られたのでしょう。
セメントの厚みは相当にあるようです。例えば機銃掃射などで貫通ということは無さそうです。
位置は私の目の位置よりやや低めでした(ちなみに私の身長は175cm)。

右側の窓から奥をのぞいて見ました。どうやら壁の内側にも窓が開いているようです。となると、窓の向きは防空窓というより、あきらかに門番用ですね。
玉砂利の混じったセメントで構成、表面にきめの細かいセメントを塗って仕上げたのがわかります。

丁度人が通りかかりましたので、大きさを比べてみてください。また、表面のセメントがはがれているところは引っかいた様な跡がついています。これは恐らく表面の仕上げのセメントを食いつきよくする為の物ではないでしょうか。

赤ペケ印の場所にあります。
http://www.its-mo.com/emmctl.htm?ENC= hNDnFpTMIY3u0srMGbKOGHGH0tPpEXd%2Fx9Pu6EdbaiCFo36mV2XR% 2BqQZGExjSxWr3xo4a8wj52i73QflnE7nzKnuvS21euVW6H7fxq9RGq4xgmQGoUwMhg% 3D%3D&x=244&y=213


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