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廃虚 あれこれ

廃虚あれこれ
昨今、あちらこちらで廃墟に関心が高まっているようです。
先日も「廃墟探訪」(中田薫著/二見書房)なる本を購入。廃墟を訪ね歩く趣味の人が居るとは聞いていましたが、その内容の充実さ、写真の出来に、ここまで芸術的に充実するジャンルだとは予想もしていませんでした。
近年では、こうした廃墟に関する書籍も増え、またいずれも力作写真で構成しています。これらをみても、廃墟への思い入れというのはなかなか深みのあるものの様です。
日頃、我々は美しく発展していく町並みの姿と共に生活をしています。しかし廃墟はその対極です。非日常で、私たちの生活から懸け離れた建物の姿です。廃墟は役割を終えた建物です。人々に見捨てられ、取り壊すことすらされずに時間だけが経過し、徐々に崩壊し始めた姿です。これら廃墟は見かたを変えれば建物サイズの粗大ごみですから、普通は誰しも見向きもしないものです。
しかし、今にも崩れて覆い被さってきそうな廃墟の姿に魅せられる人も居るのです。そうした人々に支援されて廃墟をテーマにした書籍の登場となったのでしょうし、またこれら書籍からさらに廃墟へ関心をもつ人は増えつつあるように感じます。
実は、私も廃墟巡りをしたことがあります。初めての車の初ドライブが石炭の炭坑後を訪ね歩くことでしたから、私も廃墟趣味(?)があるようです。(そういえば、そのときの車も廃屋みたいな車だった、、、。)

さて、廃墟についてあちこちで取材してみましたところ、人によって廃墟への感じ方はずいぶんと幅があることが判りました。まず不気味さを感じる人が多い様です。また、詩的な感傷を抱くこともある様です。廃虚はもともと人が居た場所ですが、その人の気配も朽ち果てている、その喪失感が寂しさと切なさを呼び起こすからかと思います。
遊園地の跡地は、もっとも詩的な感傷に浸れる様です。かつて幼いときに両親につれられて幸せな時を過ごした遊園地。日が暮れとともに疲れて眠ってしまい、そのまま連れ帰られた記憶が廃墟の遊園地でふと目が覚めるように思い出される。そんな時間軸を飛び越えたイリュージョンみたいな感覚でしょう。
また、廃墟の朽ちていく空間に身を置くと、過去に置い去ってきた薄気味悪い物がふつふつと甦るような錯覚におちいったり。これも詩的な感傷の延長でしょう。人の個性の一つに記憶がありますが、廃屋をきっかけに記憶がよみがえるのかもしれません。
まあ、だからといってそういう人にトラウマなんて必ずしも無いのはご愛敬でしょうか。
アジアパーク
さて、遊園地の廃墟といえば、九州ではアジアパークの跡地が挙げられます。
近年、その荒れ果てた姿が雑誌に取り上げられて以来、有名になっているようです。
アジアパークとは、長大な水路が園内に作ってあり、この水路に沿ってボートが進むアトラクションが売り物だったそうです。この水路には世界の有名建築のミニチュアが配置してあり、それをボートから眺めて世界遊覧の気分を味わうという趣向です。なるほど確かに世界をクルージングするというのは魅力的で、それを公園でボートに乗ってお手軽に、というのは着眼点としては良かったと思います。しかし冷静に考えると、ボートに乗って模型を見て回るだけですから、一度訪れれば充分(というより、人から話を聞いただけでも充分?)かもしれませんね。それに、それぞれの国を象徴する建物を並べるという発想は、渡航が自由化されて海外旅行の憧れが実現可能になった昭和30年代末期のものともいえます。その当時ならいくらかお客を呼べたかもしれませんが平成のこの世の中ではどうだったのでしょう。しかし、それでもこのアジアパークは7年の営業の後、2000年8月をもって閉鎖されます。
さて、閉園となったアジアパークは、今度は遊園地としてではなく、廃墟として語られる様になりました。営業していた公園よりも閉園した方が話題になるのですから、廃墟に惹かれる人というのはどこか世間様とは感覚がずれているのかもしれません。
さてそのアジアパーク跡地ですが、荒れ果てていました。
水路が廃土と思われるもので埋めてあり、さらに草が生え放題だったので、もとがどういう状態であったかを推測するのは、かなり困難です。再開されるとの情報も聞いたのですが、これでは公園としての再開発はありえないでしょう。
またその草ですが、廃虚見物どころではないくらいの勢いで生えています。ヘタをすると草に溺れて方角がわからなくなり、遭難の危険があります。かつての水路をたどるのも、草に阻まれて無理でした。
それにしても、華やかさを演出してきた建物のレプリカ群が、生い茂る草に覆われて風化しているのは、なんとも物悲しいものがあります。
ちなみにこのアジアパークは、三井グリーンランドという、地元では最高峰の遊園地と敷地を連ねております。そこから華やかな歓声と音楽、そして遊具の音が風の音に乗って聞こえてきます。が、一旦踏み込んでみると、あたりは乾いた草の音しかしませんでした。
九州でもトップの遊園地の華やかな空間の道路一つ隣にある、朽ち果てた空間。もし、アジアパークで素敵な思い出を創られた方がこの廃虚に入りこんだとしたら、大変な喪失感を味わうのでは、などと想像しております。
火の国ランド
さて公園の廃虚で、アジアパークよりも先に潰れた九州のテーマパークといえば「火の国ランド」が挙げられます。
熊本は松橋ICから車で10分という地の利を売りにした(もっともこれは広告であり、実際に10分での到着は無理ですが)南国リゾートへの憧れをベースに巨大な体育館にプールを詰め込んだものだと思えばわかりやすいかと思います。
こういった建物内に南国を再現するリゾートの駆け出しで全国的にも有名な常磐ハワイアンセンターは、現在「スパ・リゾートハワイアンズ」となっており、非常に長く人々の人気を保っている様です。この常磐ハワイアンセンターへは行った事が無く、あくまで私の想像ですが、このハワイアンセンターはハワイを演出することで実際の旅行よりもハワイを満喫できるのだと感じます。つまり日本人の憧れる形に合わせこんだハワイだということです。だから、世代を超えて支持され続けているのでしょう。
まあ、そうしたハワイアンセンターと並べては酷かもしれませんが、火の国ランドは敢え無く潰れています。
さて火の国ランドは私が熊本に移住したときは既に潰れていました。知人によると、ぬいぐるみのバイト料がよくて勤めたが、南国熊本で全身ぬいぐるみは大変にきつかったとのこと。その為か、ぬいぐるみを蹴ってきた小学校低学年児童に腹を立ててしまって蹴りかえしたら吹っ飛んだとか。
またジェットコースターが、規模のわりに有名だったとのこと。なにしろ、レールや足場がぎしぎしと鳴り響いたのだそうで、乗らなくても下から見ているだけで「いつか崩れるぞ」というスリルを満喫できたとか??

私が訪れたときは閉鎖後でした。ドーム周辺の遊園の遊具はすべて撤去され、わずかの小屋と、遊園エリアの街灯の跡、そして遊園列車の軌道がさびて放置されていただけでした。ジェットコースターは跡形もありませんでした。
肝心のプールを配置したドームですが、廃墟には珍しく、まったく荒らされていませんでした。入り口、窓はすべて閉鎖されたまま、誰も進入した形跡がありません。
周囲は背丈よりも高くススキなどが生い茂っていたのですが、裏側に低い窓があり、中を覗き込む事が出来ました。で、ガラス越しに中を覗いてみて驚いたのが、亜熱帯を演出するために植えられた観賞植物が枯れていなかったことです。作り物ではなく本物に見えたのですが、それが青々と茂っていたのです。
ガラス張りなのでかなりな暑さになるのは熱帯植物だからいいとして、水分はどうしたのでしょうか。屋根に穴が開いていれば、雨で行き続けたとも考えられますが、そういった破損は小高い斜面の上から見ても確認できませんでした。よくまあ生き残っているものだと感心しました。まさかプールへ根っこを伸ばして水分補給とか。まあ、それくらいしか考えられませんけれどもね。
あと万国旗をはじめ、椅子やポスター類もそのまま掲載されていました。つまり、ドームのなかの空間は火の国ランドの閉鎖時をそのままに封印していたのです。外壁は錆びと風化で痛みはじめていたのですが、それでも建物の中は当時の雰囲気を残し続けていたのです。なにか、タイムカプセルの様な不思議な廃虚という印象でした。
ちなみに現在は整地されて宅地になっているそうで、当時の面影を見出すことはできません。 
お化け病院
廃墟は風化によって徐々に壊れていく空間です。同時に日常から隔離された空間でもあります。こうした空間に惹かれる人は、いくら増えたとはいえ、やはりメジャーではないのでは、と思います。
また廃墟に対する趣味趣向は、いい年をした大人が壊れた建物にずんずん入り、感傷に浸りながらうろうろする行為を伴います。なので、あまり人には勧めにくい性質のものでもあります。また廃墟を趣味とする人が感じるものは、必ずしも幅広く共感できる感覚とはいかない様です。
但し、お化けとなると少しは共感があるかもしれません。
というのも、廃虚にお化けという修飾語(?)が付いているケースをいろいろ聞くからです。お化けホテル、お化けアパート、お化け病院、お化け校舎、お化け倉庫などなど。
こうしたお化け○○といったものを多々聞くのは、共感のしやすさかもしれません。

が、そうしたお化け云々は、見る側の気持ちでそうなっているのも多いのではないでしょうか。つまり、思い込みということです。その例として、こちらの地元で地元の雑誌にも取り上げられた為に有名になったお化け病院について書いてみます。
先のお化け○○で、もっとも多いなと感じるのはお化け病院です。廃墟となった病院にお化けが出るとなると、なにやら因縁めいて、怖さが倍増するからでしょう。
さて、その雑誌の取材ですが、もともとは男性カメラマン一人で行なわれる予定だったとか。ところがお化けに恐れおののくカメラマンは女性ライターを強引に連れて行って取材。最初は建物の中の遺体安置室、手術室と丹念に見て回ったそうですが、お化けに怯えたカメラマンは「お化けが写ったら大変」と、さっさと撮影を辞める決意を固めてしまいました。「だったらカメラは要らんじゃん」とライターに突っ込まれたカメラマンは、そういわれてみれば確かにそうだとばかりに「後は任せた」とライターを残して窓から脱出してしまったそうです。自分が誘ったライターを放置しての逃亡ですが、窓の外の植え込みにハマったそうです。
さて、その病院ですが、普通の廃虚とは違う違和感があったそうです。人の気配がないのは廃虚ですから当然として、人が居た形跡がなかったとか。まあ加えてお化けにも遭遇せず、廃虚といっても抜け殻の様な不思議な感じをもって、その廃病院を後にしたそうです。

ところでこの病院は、取材した方には気の毒ですが、お化けは出ません。廃病院であることは間違いないのですが、営業をしていないからです。実は知人がその病院の売店へ勤める予定を立てていたのだそうです。が、医師会との調整やら資金やらの都合で、建物は出来ても開業しなかったのだそうです。
そこでの医療行為が無い以上、お化けの原因になる事も無さそうに思います。
さて、私もこの連載に併せてその跡地を確認してみましたが(お化けが出ないとわかれば、そりゃもう、元気百倍)現在は工場に生まれ変わっており、病院当時の建物が残っているかどうかまでは判りませんでした。
こうしてみますと、お化けなんてのは、お化けが居るという気持ちが廃虚をその様に見せてしまうだけではないでしょうか。つまり、お化けという思い込みが廃虚に対する印象を決めてしまっていて、実は建物や廃虚そのものとは関係ないという気がします。

さて、お化○○と名の付く廃虚へお化け目当てに出かけるのはお勧めしません。
別にお化けの肩を持つわけではないのですが、やはりお化けも好きでお化けをしているわけではないのだと思います。そこへ物見遊山でがやがやと踏み込まれては、腹も立つでしょう。結果、何らかのトラブル、つまりとり憑かれたりといったことになりかねません。
志免炭坑跡地
さて、廃虚に関する話題です。廃墟の空間に不気味さや詩的なものを見いだす方々も多くいらっしゃいます。なるほど、ノスタルジーをかき立てられる風景です。ところで私はあまりそういうものは感じていません。もともと古墳を訪ね歩くのが好きなこともあり、廃墟は近代遺跡探求という感覚です。
特に炭坑と廃校を探索する機会に恵まれたことも、そういった近代遺跡という感覚へ結びついている様です。
ただ近代遺跡探求に加えて、廃墟探訪をしていると聞こえるはずのない音を感じることがあります。その廃墟がまだ生きていた(って言い方も変ですが、人々と共に活動していた)時の営みの音です。オーディオをやっているからでもないのでしょうけれども。
私が多く見て回った石炭の跡地は、私が生まれる前に既に機能を終えている物ばかりです。よってまだ炭坑が全盛期だった頃の音は知りません。でも廃墟と、そこに朽ちて横たわる機械から、建物が活動していた当時を想像すると、その過程で音を想像してしまうのだと思います。
重い石炭を多量に運び上げる機械は、駆動させる用力もとても大きな物でしょうから、きっと地鳴りのような低い、ごうごうとした音だったにちがいありません。そういった、稼働した音を想像してしまうのです。

知人の先導で福岡周辺の炭坑跡を訪ね歩きましたが、中でも思い出深いのは福岡県須恵町の志免炭坑跡地です。昭和30年後半までは国鉄の炭坑街として栄えた町です。
ここは施設の跡地とボタ山※が一緒にあるので、見学にはもってこいかと思います。
高速九州道の太宰府・福岡間の須恵パーキングエリアから西にセメントで出来た巨大なタワーとボタ山が見えますので、通過される際は見てみてください。遠くからでもその巨大さがお分かりいただけるかと思います。
(※ボタ山:石炭を掘った際に出る、土砂や粘土をボタといい、これを積み上げた山をボタ山といいます。)
さて、この炭坑跡地は思い出深いものです。というのも私が訪れたときに、そこの炭坑で働いていたというおじいさんが偶然にも通りかかり、当時の事が聞けた事によります。

志免炭坑のシンボルでもあるタワー(立坑櫓)は強力な巻き上げ機を備え、ワイヤーケーブルを引っ張って、地下から石炭を引き上げていました。
地下450メートルまで垂直に延びる坑道からあらゆる物を上げ下げしたのだそうです。そのタワーはそうした重量物に耐えるために柱が何本もある巨大なものとなり、自重が千トンを越えるのだとか。
そして背後にあるボタ山へ土砂を運ぶコンベア支柱も聴きました。ボタ山斜面にある当時の足場の跡も伺いました。そうしたさまざまな配置をはじめ当時の有り様を聞いているうちに、当時の音も耳の底からわいてくるような錯覚にとらわれました。
そのおじいさんと別れた後、撮影を続けたのですが、あたりは風とボタ山に生えた草の音、そして虫の音に満ちていました。が、ファインダーを覗きつつ当時を思い浮かべていくうち、そういった音が蘇るように感じたのです。
風化したセメントから染込んだ音が甦ってくる、と言ったら大げさでしょうか。
坂本村鮎帰小学校責分校跡
前回からの続きです。近代遺跡探求として今度は学校の廃墟、廃校を挙げて見ます。これもあるはずの無い音を感じるものです。
廃校も訪れると学校の営みの音、特に子供の声がわいてくることがあります。まあ、私が割と子供にまとわりつかれやすいタイプなので、余計に感じやすいのかも知れません。まとわりつかれたといえば、紅葉を撮影していると集団下校の小学生十余名にまとわりつかれたりとか。丁度いい道草にされたようです。廃校も、かつてはこうした元気な子供らの声に満ちていたに違いありません。

熊本でも校区統廃合で、学校があちこちで廃校となっているようです。中には明治に設立したり、平成にユニークな設計の新校舎となった学校も閉鎖となり、次々と学校の歴史が止まっています。児童・生徒の減少に伴い、学校区の統廃合はやむを得ない事だと考えます。児童もお友達が少しでも多い方がよりよいでしょう。が、こうした統廃合で学校の数が減ると、地域によっては学校が遠くなってしまうところも生じてしまい、通学に大変な苦労が伴なう場合もありうるでしょう。そして卒業生の方々は母校が無くなることに、さぞ寂しい思いをされるだろうなと想像します。

さて先日のことですが、坂本村鮎帰小学校の分校である責分校跡に行って来ました。道の両側に築年月を経た貫禄のある木造家屋を見ながら進みますと、堤高82mにも及ぶ積み重ねた石(ロックフィル式)で構築される油谷ダムにたどり着きます。
ダムを過ぎると、谷間に流れる小川と平行に走る道は両側に谷の壁が迫りつつ、坂道をうねうねと登っていきます。川も斜面を転がり落ちる感じで、ずいぶんと早い水の流れでした。谷の上を見ると高速道路が遙か高いところに通っています。ここらの高速道路は山々にあいたトンネルを橋が繋げる形になっていますが、この橋桁が平野部の高速道路とは形状が随分違ってセメントの四角く細長い棒となっています。これが山から山へにゅっとつきだしている感じです。谷底から遙か上の方に見上げると、随分不思議な建築物に見えます。

さて先の分校跡は両側に山の迫る谷底の小川のそばにありました。
校舎は消防署の分所との看板が立てられていました。廃校の校舎は公民館として活用しているケースはよくあります。ここは山火事等に対処するなどの多目的に使用するため、校舎は残されたようです。この校舎ですが、昭和34年築とありますので、県下でも古い方になります。ちなみに最も古い木造校舎は五木村の小学校ですが、ダム工事に伴なう移転により、03年8月に取り壊されました。

責分校は、小さなものでした。2階建てで、4つに部屋割りされた木造校舎でした。私が訪れた時には、煙突は落ちていました。霧雨が降っていて、グランドも柔らかくぬかるんでいました。
そして小さなグランド、グランドの隣りには小川をまたいでプールがあり、そのプールへ行く可愛い橋がかかっていました。丁度、学校の真ん中に川がある感じです。
あたりは水の音で満ちていました。熊本と宮崎・鹿児島とを行き交う高速道路の遙か足元の谷底に、水の音だけで満たされている場所があるのです。
人気の無い校舎の周囲やグランドを見て回りますと、遊具が片隅に寄せられていていました。また草が徐々に広がって、緩やかに自然の営みに取り込まれつつある印象を得ました。グランドには川に降りる階段がこしらえてありました。そこをおりてみると、川と川べりに児童らが遊んだと思われる跡がありました。澄んだ水の流れと周囲をしばらく見物、子供が遊んでいた様を想像していると、子供の声が浮かんできました。
人気の無い川の音に満ちた空間から改めて緑豊かな山の斜面の上を見上げると、無機質な高速道路の橋げたが見えます。なんだか頭の上を走る高速道路だけせわしく時間が流れていて、その周囲の木々や小川は当たり前のようにゆったりと時間が流れているようにも思います。そんなゆっくりとした時間を経て廃校は自然にとけ込んでいくようです。
廃校
先日、とある古本屋で雑誌を入手。昭和33年1958年の小学館の小学5年生9月号ですが、これに、とある分校が紹介されていました。時代としては東京タワーが建設途中で、見開き綴じ込みにカラーで東京タワーの完成想像図が載っていました。

さて、その分校ですが「たった7人の学校」として神奈川県足柄上郡山北町三保小学校大又沢分校が取り上げられていたのです。なんでも山の奥にダムを建設する為に作業員らの集まる集落を作り、そこにいる子供達のために学校を新設したというものでした。ダムは山の奥にあり、ふもとからの道路もないところです。ふもとからは軌道(トロッコレール)を道路代わりに歩くしかないとか。
また本校の三保小学校から二時間も山を登ったところとあり、かなり山奥の様です。校舎も小さく、教員も原政男先生がたった一人とのことでした。また「もうすぐ、道もできる」とうれしそうな児童のコメントも印象的でした。
となると興味がわくのが、この学校の今日の姿です。きっと発展して鉄筋コンクリートの校舎になっているかも、などと考えていました。
先日、神奈川県方面に行く機会があったのですが、行くことができず確かめられませんでした。また改めて調べてみると、なんと廃校となっていました。
多分、ダムが出来上がって作業員が山をおり、学校も閉鎖になったのでしょうか。先の雑誌の記事で屈託無く笑っていた少年少女らも大人になり、あちこちに四散してしまっているでしょう。
さて、その周辺ですが渓流つりでは有名なスポットのようです。地図でも道路が確認できますが、ダムの周囲には家らしいものも見あたりません。となると、作業者が生活した建物や営林署の軌道とともに廃村になっているかもしれません。分校も役目を終えて静かに山の奥で朽ち、自然に返っていこうとしているのかもしれません。
さて、そうなると廃墟趣味がむらむらと刺激されるわけですが、いかんせんこちらは九州で、かたや神奈川県の山奥です。今後も、何かのついでというのも無さそうです。
もし大又沢分校OBの方がおられたら、ご様子でも伺えたらと希望します。





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