| 軍艦の浮かぶがごとく、鉄筋コンクリート、そして櫓で構成された島です。緑のない異様な光景でもあったそうです。
炭鉱住宅も島内に建設、学校や映画館があるなど、町を形成していました。
しかし水源もなく、飲み水に至るまですべて船で運び、生活を維持していました。
島の外周は約一キロです。
また海底の石炭は島から周囲3キロの範囲に広がっていたそうです(三池炭鉱の炭層の広がりからすると、随分と狭い)。
撮影は、戦後復興の中の島の姿でもあります。
志免炭鉱と同じ世代に、その存在を誇った炭鉱という事で、紹介してみます。 |
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| 船の艦橋にも見えた部分には、神社があります。
建物で島は埋め尽くされている事が判ります。なるほど、軍艦という例えももっともだと思います。
大戦中には米潜水艦が魚雷を発射したという逸話もあるくらいです。
(恐らく、実際に打ち込まれた物ではないと考えています。が、確かに周辺海域では軍用鑑以外も、多数が米潜水艦によって犠牲となっており、あり得ない話でもないかとも思います。)
神社の右にあります塔が縦坑櫓です。
神社の左には木造の建物が見えます。これは想像ですが、炭鉱夫の住宅ではないかと思います(なんとなく、生活臭を感じますので)。 |
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| 炭鉱夫住宅。9階立て
当時は木造のいわゆるハモニカ長屋が当たり前で、鉄筋製の炭鉱住宅は珍しかったのですが、そのなかでもこうした高層の住宅はとくに珍しかったものと思われます。 |
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| 廃墟として紹介されますことの多い軍艦島の中でも、特に有名な撮影ポイントです。
洗濯物を干すための棒がずらりと並んでおり、これは木で出来ている様に見えます。
また焼き板塀があるなど、時代を感じます。
行き交う主婦の姿も見えます。 |
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| これも有名なアングルです。
葦簀(よしず)に洗濯物と、生活観が見て取れます。またぎっしりと生活が積み重なる様に詰まっていた事が伺えます(なにやら映画ブレードランナーを連想しますが)。
窓枠ははっきりとは見えませんが、木枠に見えます。 |
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| 護岸壁です。
高い壁で島の周囲が囲まれていた事が判ります。
また、この護岸壁の下に見えますでっぱりは人が歩けるほどの幅で、これは今日も残っており、島を一週する事が出来ます。 |
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