| 駅を平沼商店街の道端から見上げてみます。
ビルやマンションの間を縫って線路の高架が見えます。
この高架の右側に、当時の駅の跡が残っています。 |
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| 平沼駅跡を道路わきから見上げて見ます。右側に、ちょっとだけホームの端が見えます。赤い車両が通過していることでお分かりのとおり、線路は今日も現役です。この高架に、戦時中に焼けた駅のホームが残っています。 |
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| さて、列車のいない状態で、もう一度、駅を観察してみます。
駅舎は、ビルの三階の高さにあり、両側にホームの跡、それぞれに階段がひとつづつあります。
先にも書きましたとおり、線路は現役です。つまり戦前からある高架です。
首都圏にはこうした戦前からの路線が使われている場所は多数あります。
明治、大正、昭和と、線路は日本中に伸び、日本の近代化に貢献しました。
そうした線路は、21世紀の今日も尚、現役であることを思いますと、大変頑丈に作られた事を実感します。
とはいえ、もちろん、補修は行われている様です。 写真でもお分かりのとおり、橋脚はつぎはぎとなっています。 |
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| 現在、平沼駅跡は、周囲を高い壁で囲われており、また中は線路関係の資材置き場となっております。
この壁の為に、残念ながら駅の中に入って詳細を撮影することはできませんでしたが、見える範囲で撮影を行いました。
方向は、先ほどの駅舎を見たのと同じ方向で、写真奥側が横浜駅方面です。
左右に、それぞれのホームから降りる階段が、またその階段はおよそ建物の2階程度の高さに設けられたコンコースでつながっています。コンコースは柱の間、正面に見えます。 |
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| では、左右にあります階段を観察してみます。
まずは登り側のホームから(先ほどの全体観察で左側ホーム)。
おそらく六角の柱が当時のもので、四角の白っぽいブロックは近年、封鎖のために設けられたものと思われますが、人が通る幅はあけてありますので、保線作業者などの通行の確保と考えます。
また、かつて鉄筋の柱が立っていたと思われるところに、Hの字に鉄筋がわずかに残されています。 |
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| この階段跡を車窓から観察してみます。
あっというまに走り去ってしまいますが、なんとか撮影出来ました。
やはり周囲をブロックで囲んであり、階段はアクセス出来ない様になっています。確かに、駅に誰かが侵入してホームに上がった場合、安全とは言えない状態ですし、やむを得ないのか、と思います。
さて、一緒にホームも観察。手すりなどは全く見当たりません。地上から約3階程度の高さですので当然手すりなどはあったと考えます。もしかすると木造の手すりであった為、現存していないのか、と思いました。
またホームはセメント剥き出しではなく、なにか敷かれている様に見えます。また、それはアスファルトにも見えますが、判断できませんでした。また、これは焼け残ったものではなく、戦後に何らかの目的(風化防止等)でアスファルト状のものを敷いたとも考えられますが、やはり判断出来ませんでした。
またホームの線路側に面した端は、手前の方は垂直ですが、鉄橋と思われます向こう側は斜めとなっています。客車に乗るには不便におもうのですが、駅舎として使われた当時からの形状かどうかは、観察できた範囲では判明しませんでした。 |
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| 登りホームの階段を別の角度から。
橋脚と一体となっています。
左側、階段が平らになっており、踊り場とおもわれます。 |
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| さらに別の角度から。階段の斜面を裏から見た形になります。
周囲も、そしてこの階段の裏面も、黒ずんでいます。
空襲を受けた際、多量の煤が生じたのだと考えます。
この平沼駅は戦時中、空襲を受ける前には休止していて、駅としては使われていなかったとのことです。これは不要になったからではなく、省エネのためだったそうです。当時、町工場がこの周辺にあり、駅としての需要はあったものと思います。またその為、、人の往来は少なくなかったのでは、と考えます。また空襲の際、ガードしたに逃げ込むというのはありえる話で、空襲の時にここには少なからず人は居た、とも思われます。
ということは、ここでも犠牲になった方がおられるものと思います。ここの炭は、そうした状況の証拠だと感じました。そして、駅舎やこの周辺で大量の殺戮があったことを改めて認識しました。 |
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| 先の上りホーム階段をさらに別の角度からみました。右側に階段が見えます。
手すりなどは残っていません。また階段の向こうに隣接する建物の窓が見えます。
駅の壁の名残は見えませんが、駅舎として使われていた当時は何らかの壁はあったのでは、と想像します(でないと、階段が風雨にさらされますので)。 手前はコンコースと階段です。 |
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| では今度はくだり側の階段を観察してみます。
階段両側の柱には、タイルが綺麗に張られていることがわかります。 |
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| 上り側と同じく、車窓から下り側ホームをみてみます。
やや不思議なのですが、線路に面するホームの端が斜めです。
昨今のホームは、列車との隙間を作らないため、ホームの端はむしろ凸に線路側に出ているかと思います。
しかし、こちらの形状では客車に乗るときに隙間ができてしまいます。乗客の乗り降りの利便性のため、なんらかのホームと車両の隙間を埋める方法はあったものと考えますが、残念ながらこちらの観察では判明しませんでした。 |
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| 下り側ホームの階段です。
風雨にさらされて汚れてしまっています。
手前の鉄の柱が転がっているところがコンコースです。向かって右の鉄の柱は断面から線路にみえます。これが何かは判断がつきませんでした。組みあわせて溶接してあり、バリケードでも形成していたのでしょうか。
また下端にコンコースから手前に下りる階段があります。この階段は写真のすぐ下のところで壊れており、地面までとどいていません。 |
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| 階段の上の部分。
階段の頂上から空が見えます。
またここは鉄筋の建物が密接しています(写真左)。この為、日陰になっています。 |
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| 階段の途中にある柱を見てみます。
綺麗にタイルが張られています。
またタイルは少しずつですが、色が異なってみえます。
おそらく、複数の色のタイルをランダムに貼って華やかな仕上がりとしたのでしょうか。 |
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| 周囲の柱を見てみます。
これらも当時は綺麗にタイルが貼られていたものと思われます。
現役の駅の頃は、さぞ綺麗な駅舎であったろうと想像します。 |
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| 平沼駅跡および周辺の支柱にはいくつかの穴が開いています。これらは機銃の跡では、とのお話もありました。
ただ、この穴ですが、他の戦争遺跡で見かけます機銃弾の跡からしますと、形状が違う印象があります。
米軍が用いた航空機の機銃は、12.7mmもの直径がある弾丸を速いスピードで発射していました。これは日本軍機の翼や胴体の支柱を折ってしまうくらいの威力がありました。またセメントに当たった場合も、大きくセメントを抉ります。あちこちの戦争遺跡で見かけましたものも、セメントが大きく打ち砕かれていました。
さて機銃がセメントに当たった跡、特に貫通せずに炸裂した場合、周囲のセメントは砕かれて飛び散り、すり鉢状の穴が開きます。
ところで、あらためてこちらの平沼駅支柱にありますこちらの穴は周辺のタイルが残っており、セメントが飛び散った様には見えません。また穴は埋めてあるので判断しづらいのですが、すり鉢状には見えません。さらに見た目の判断ではありますが、その他の戦争遺跡の弾痕に比べ、やや直径が小さい印象があります。
また、ここだけ穴を埋める形の補修があること、しかも乱雑な埋め方をしている事から想像して、最近になって橋脚の保全の為に内部鉄筋の状態を見るために掘った穴か、とも考えました。
が、もしこれらの破損が空襲を受けた当時からあるのだとすれば、機銃弾痕の特徴ではないことから、爆弾や焼夷弾の破片が飛んだ跡とも考えられます。焼夷弾は、地上にぶつかると、爆薬が炸裂して周囲に燃焼剤をばらまきます。その際、破片も飛び散るので、建物などに破片が跳ね返った跡が残ることはあり得ます。
一方、横浜空襲の際に低空を飛び交う戦闘機が機銃をばら撒く様に手当たり次第に射撃していたとの話もあります。この駅舎も、機銃の跡は見出せるものと思います。 |
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| では、今度は道路側から見える範囲でホームを観察してみます。下から見上げますので、ホームの床底を裏から見る形になります。
まず、気づきますのは、真っ黒い炭の跡です。
またホームの線路へ面した段差部分に窓状の穴があります。
この穴はアーチ状に形作ってあります。また、さび色の枠が見え、鉄枠が嵌っているものと思われます。
これは階下への明り取り窓ではないかと考えます。
なかなか凝った設計だと考えます。 |
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| 下り側ホームに見える柱です。屋根を形成する鉄骨の基部の様です。
柱はタイルが張られ、さらにその上の部分は大理石風に見えます。 |
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| 下り側ホームの階段側から、ホームを見上げたところです。
橋脚にさびたボルトで固定された、焼け焦げた柱がありました。
これは当時の駅舎を構成していた壁の一部ではと考えます。この駅は、柱と柱の間に木で構成した壁をこしらえて駅舎を形成していたものと思われます。
残っている柱はすっかり炭化しており、ここで轟々と火が燃えた事がわかります。 |
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| 以上、駅舎あとは壁に囲まれて内部にはいれないため、外から見える範囲の観察となりました。
この平沼駅は周囲に看板ひとつなく、戦争遺跡としては忘れ去られているのかもしれません。
遠くには、再開発で明るくおしゃれな街に発展したみなとみらいの象徴でもあるランドタワーが見えます。やや霞んでいますが、建物の隙間から見えます四角いビルがランドタワーです。
平沼駅は、ランドタワーの、ほんのすぐ隣にあります。
みなとみらいの方角ですが、B29の第三波が焼夷弾を投下したところです。
また、4回に分けて投弾薬されており、またそれは北から順に投下されたとのことです。
空襲のあった日、この撮影した場所に立っていたら、
第一波で炎上する横浜駅方面から火がせまり、第二波で落ちてくる焼夷弾の空気を切る音が周囲に響き、続いて今見ている方向に着弾の音が響いてきたものと思われます。 |
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| では、現在の地図に投弾点を書き加えてみました。
第一波、そして二、三、四、五波と投弾、図で上から順に投弾、右下が第五波です。今回の平沼駅周辺は近くの平沼橋へめがけたもので、図の上から二番目周辺になります。
●第一投弾点
(東神奈川駅/83機)
●第二投弾点
(横浜駅南西、平沼橋付近/146機)
●第三投弾点
(港橋、現在のJR関内駅/132機)
●第四着弾点
(吉野橋付近)
●第五着弾点
(本牧大鳥国民学校付近/第四着弾点と併せ157機)
投弾点につきましては、平均弾着点、または投下目標と記述している資料もあります。恐らく、おおよそこの周辺を目掛けて投下されたものと理解されます。
勿論、地図の印があるところだけ投下されたわけではなく、広い範囲に投下されています。
また市街地、住宅街をめがけてに落とされていることがわかります。 |
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| 75年当時の航空写真から抜粋してみます。
写真上が北側、また右斜め上方向に横浜駅があります。駅舎に、かろうじて鉄筋の陰が見えますが、航空写真でも有り、あまりはっきりとはしません。
場所は先の投弾点でも照会いたしましたこちらを
クリック
。
縮尺など適当に切り替えまして、場所のご確認をお願いいたします。
神奈川駅から歩いて十数分程度かかります。
平沼駅跡周辺の道路は、戦時中の区画が残っている場所だそうです。写真左下方向に二股に分かれている道も、この駅が現役のときからあり、またこの道の合流付近あたりは駅前ロータリーがあったのだそうです。
また、同時にこの時の空襲で焼けだされた周辺の写真も多くインターネットで見る事が出来ます。
それらは空襲前と空襲後を並べて表示してあるものもあり、これらを見比べることで、たくさんの家屋が徹底して焼け尽くされたことが理解できます。
軍事的な攻撃は、軍隊が互いに待ち構え、相互が真正面で衝突しあって生じるとは限りません。むしろ無防備か、あるいは防備の弱いところを狙うのがセオリーともなっていると考えます(先日のアメリカで起きた9.11テロも最初、武装的な防備の無い旅客機内で発生しました)。
こうした例は空襲でも多いと考えます。
1945年2月13日、第二次世界大戦終結直前にドイツのドレスデンという都市が空襲を受けました。65000発にも及ぶ焼夷弾が投下され約20万人の市民が犠牲になったといいます。 原爆ではない、いわゆる通常兵器で、広島・長崎に匹敵する死亡者が出ました。
軍隊同士が真正面で衝突し戦闘が展開しますと双方に多量の犠牲が出ます。そこで空軍で敵国内の都市を攻撃、敵国民と軍隊の士気を低下させるという戦略が採用されたわけです。
つまり武装組織である軍隊を狙わず家族や産業を破壊することで、敵国の国民・兵士の士気を衰えさせ、戦争を有利に運び、早期の終結とするという戦略です(「ドゥーエ理論」と呼ばれる)。過去、これは都市を破壊する攻撃として展開されています。
一説によると、ドイツのドレスデンは無防備都市宣言をしたため、連合軍爆撃機は悠々と焼夷弾を落としたとも言われています(もっともドイツ空軍や高射砲部隊の駐留が無く、ソ連軍が迫っている戦況で、反撃も出来る状況ではなかったようですが)。無防備都市宣言をしたうえで一般市民に多数犠牲が出たことを思いますと、精神的な影響も著しかったのではないでしょうか。
ちなみにドレスデン空襲では、1945年2月13日午後10時過ぎに200機を越す爆撃機から焼夷弾が投下、さらに3時間後、14日午前1時過ぎにさらに多い400機以上の爆撃機がドレスデンを襲撃しました。
この時間差は故意に設けられたもので、最初の攻撃で混乱を起して避難や消火にあたるあたる人々を狙うという目的があったのです。 |
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| 空襲時に撮影された写真を示します。
写真は平沼駅周辺をクローズアップして確認したもので、粒子が粗く見難くなっており、まことにすみません。線路、道路は現在と同じ配置との情報から、位置の特定は容易にできました。
現在の横浜周囲から西へ一列に火元があるのでしょうか、ここから大きく画面上の方へ煙が上がっています。さらに現在の平沼橋駅(相鉄本線)からも煙が上がっています。平沼駅周辺は、まだ煙は見えません。粒子が粗く平沼駅最後の姿は確認しづらいのが、残念です。
二番目に平沼駅周辺で写真で読み取れる範囲の線路を青い曲線で、平沼駅を薄青楕円で囲っております。画面左下方向へ二股に分かれている道が、現在と同じです。
これらは掲載にあたり、管理人にて修正を行っております点,よろしく御理解ください。
撮影されたタイミングは不明です。現在の横浜駅の西側、保土ヶ谷の方から煙が上がっている一方で平沼周辺は未だであることから第二波が始まった際のものではないかと考えます。
三番目に現在の地図を重ねて見ました。
平沼駅跡は赤い十字の部分です。その左上、ジョモ・出光と記載のあるあたりから煙が上がっており、投弾は広く撒き散く形で行われたのか、と考えます。
尚、横浜の空襲は、この写真からも判りますとおり、日中に行われました。それまでのB29が行った日本空襲は夜間や未明が多く、対地レーダーと照明弾とで照準していました。が、横浜では日中に堂々と来たことになります。
空襲は、1945年5月29日午前9時22分に始まり、午前10時半に終了。この1時間の間に、東京大空襲の約1・5倍もの物量が投下されたのです。
ところで先にも述べましたように、平沼駅は第二波の目標である平沼橋の近くにあります。この平沼橋周辺に焼夷弾が落ちる前に、すでに大きく煙が上がるなど付近は炎上していました。第一波の空襲と併せ、火災で人々は避難を始め、さらに消火作業を行ったと考えられます。そこへさらなる投弾。ドレスデンとおなじく人々を殺傷する時間差が、ここも生じていたのです。 |
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| 米軍は家々を燃やし尽くすため焼夷弾を主に用いました。
これは地面に落下すると内部に仕込まれた爆薬が炸裂、粘着性の可燃性物質を撒き、周囲を火の海にします。
空襲は1時間つづき、逃げ惑う人々にさらに焼夷弾が降って大混乱となりました。そして火が燃え尽きた後には、苦しむ姿勢のまま炭になるまで燃えた遺体が町中に転がっていたそうです。炭になった遺体は性別すらわからない状態のものが多く、遺族も遺体を見つけ出せなかったのだそうです。
今回の訪問にあたり、偶然にも現地でお話を聞くことが出来ました。
飛び散った焼夷弾で体が燃える我が子を助けようと、自分の背中が焼夷弾で燃えているのもかまわずに、なんとか子供の火を叩き消そうとしていた男性もいらしたそうです。そして子供の火が消せないとわかると、子供を抱き、最後の気力で川に飛び込んで、そのまま行方がわからなくなったとのことです。
火に追われた人々はつぎつぎ川に飛び込み、市街地の川は黒い遺体で埋め尽くされ、そして遺体から滲み出た油の様なものが水面に黒々と浮いていたそうです。
先の空襲での死者に対し、行方不明者が非常に多いのも、焼けて遺体が残らなかっただけでなく、川に流されてしまったケースが多くあるのではと考えます。
今日も、その川に花を手向ける人も多くおられるそうです。私も花こそ準備をしておりませんでしたが、お話を伺った川に手を合わせてきました。
合掌。 |
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