| かつての引揚者の埠頭跡地です。
撮影は、直ぐ横にある浦頭引揚者資料館前からです。
遠くに当時の桟橋が残っています。
そして手前の工場、その右側の三角形の空き地に、当時は関連する施設がありました。 |
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| 浦頭にあります引揚記念平和公園の看板から当時の配置をみてみます。
ここには慰霊塔、歌の碑、そして資料館が建設されています。
こちら浦頭には検疫所が置かれていました。
また現在ハウステンボスとなっております場所には引き上げ援護局がありました。こちらは当時の面影は全くありません。 |
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| 正面に大きな慰霊塔です。右手にあるのが資料館です。
資料館につきましては、私が到着したときが夕刻であったため既に閉まっておりました。改めて訪れたいと思います。 |
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| 当時の桟橋を見て見ます。
今日も使用されている様です。
第2次世界大戦後、東アジア各方面に展開していた日本軍の兵員や、日本人移民・開拓民が米軍GHQの指令により続々と日本へ戻ることとなりました。これが復員や引き揚げで、各地の港に様々な船で人々が上陸しました。
こちら浦頭には百万を越す人々が上陸したそうです。 |
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| 引き揚げ者は全国の港湾施設から上陸した様です。参考としまして博多です。
実は、引き揚げにあたり,現在の北朝鮮から徒歩で38度線を越え、米軍に保護された後に博多湾に上陸した方からお話しを伺う機会がありました。上陸された港の場所までは特定できませんでしたが、強い印象として残っているのが、米軍空襲のために一面の焼け野が原になっていた博多の街だったそうです。
港に降り立ったら、桟橋から見えるはずのあの賑やかに栄えた博多の町はまるまる無くなっていて、今の福岡空港の後ろの山まで見渡せたそうです。
写真は、現在の博多埠頭です。ここも港湾として古くから栄えましたことから多数の引揚者が上陸したと推測されますが、当時の名残は在りません。 |
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