| |  |  | | ススキの向うに魚雷試験場関連の建物が残っています。 直ぐ後ろに片島の丘が見えます。
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| |  |  | | 正面から。 下半分は石を緻密に組み合わせるなど、重厚な作りです。
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| |  |  | | 向かって右側の入り口から入ってみます。 天井はすっかり無くなっています。足下はセメント張りの上、右側手前には白いタイルが貼られています。銭湯を思わせる様な、真っ白いタイルです。
 壁は綺麗にセメントで覆われていた様ですが、風化も激しいようです。
 また二階の床の痕跡と思われますものは特に見出せませんでした。もしかすると二階に見えます窓は、明り取りの窓かもしれないと勝手ながら想像しました。
 突き当たりの壁の右下に、奥の部屋に進む入り口が見えます。
 あちこちに木も生え、すっかり廃墟です。
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| |  |  | | この部屋の奥には、セメントの台座があります。 想像としましては、なにか重量物を扱う様な装置が設置されていたのではと思います。よって、ここで魚雷に試験に必要な作業を行ったとも考えます
 当HPでは、ここを魚雷調整工場と推定致しておりますが、これはこの建物が試験場とトロッコで繋がる位置に隣接しますこと、調整池と思われますものと隣接している事からの推定です。
 試験を行う魚雷はこちらの建物に運び込まれ、こちらにある台座に設置した装置の上で発射にあたっての最終検査や調整、あるいは試験後の回収後も様々な検証を行ったものと考えたことによります。
 魚雷は精密機器であり、一定の深さを保って直進する為に自ら姿勢制御を行うなど、複雑な機構を持っていました。よって各種調整、そして検証は重要であったものとも考えます。
 ちなみに、同じ川棚町内の下津には魚雷工場もありましたことから(後に石木に移転)、ここの建物では特に生産は行っていないのでは、と想像します。
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| |  |  | | 建物は二つに仕切られ、奥の部屋に繋がる入り口がひとつあります。奥を覗いてみますと、木が生い茂っています。 | 
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| |  |  | | こちらも屋根はありません。木がぼうぼうに生い茂っています。セメント張りではないのですが、セメントの台座がいくつかあります。 大きな窓のお陰で、部屋の中は大変明るい状態です。
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| |  |  | | さらに建物の後ろへ出る入り口がありました。外はさらに木が生い茂っています。 | 
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| |  |  | | 建物の背面は少し平らな部分がありました。またセメントで出来たものもありました(写真中央下)。建物の基礎か、とも思いましたが特定できませんでした。 | 
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| |  |  | | こちらは別の位置にありました建物の基礎と思われる物です。ひざまでの高さしかありません。 こうしたものがいくつか合ったのですが、木が覆い被さっているため、全体はよく分かりませんでした。建物の基礎部分とも思われます。
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| |  |  | | 魚雷の浮力などを調整する場所と思われます。 相当な広さと深さがあります。右に魚雷調整工場が見えます。
 写真は東から西へ向けて撮影しており、海は写真の向こう側になります。
 深さは1メートル7〜80センチはありそうです。
 底の状態は泥がたまっているのか、草が生えています(底の状態を確認すべく降りてみようとは思ったのですが、後で登れる自信が無く、やめております)。
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| |  |  | | 調整池のそばには小さな小屋があります(右側に魚雷調整池が見えます)。 | 
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| |  |  | | 石をがっしりと組み上げた小屋です。また内側はセメント張りとなっていました。 魚雷調整工場と同じ作りです。こちらも屋根が抜けています。
 中には何もありませんでした。
 これは調整池用の揚水ポンプ小屋ではないかと推定致しました。
 と申しましても、調整池のすぐ横にあるというだけの理由ですが。
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| |  |  | | 調整池の側から海を見ます。 いくつかセメントの台座もありました。調整池に魚雷をおろすクレーンなども有ったのではないかと思いましたが、特に特定出来ませんでした。
 
 魚雷試験場、調整工場共に、クレーン類、支柱、トロッコのレール、パイプ等は見出せませんでした。また錆すらほとんどみあたりません。つまり、金属類が一切残っていませんでした。
 これは海の側だけに腐食してしまったためともいえますが、セメントに錆色くらいついていそうなものです。
 もしかすると戦後に屑鉄として全てもぎ取られてしまったのではないかとも想像しました。そのくらい、遺物は何も発見できませんでした。
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