|
| さて性の正義ですが、おおむね性のインモラルを駆逐して秩序と尊厳をもたらし、穢れの無い社会の実現と男女平等を目的とする、とまとめる事が出来るかと思います。特に性のモラルの向上を期待している事がそこから読みとれます。
性の正義を推進される人々の立場に立ってみるならば、きっとその人なりに正義を愛し、そして正義をなすために活動をされているのだと思います。
しかし、残念ながらそれでも性の乱れは改善しないと考えています。
それは、性のモラル向上を目指す活動を御破算にしてしまうような考え方をする人々が、規制推進派のみならず性に関して正義を唱える人々の中にある、ということなのです。
そうした人々の思考は、おおざっぱに
「構造的にロリータコンプレックスと変わらない」
「内容的に時代錯誤」
「性に政治的な正しさを求めている」
という3つの特徴に分類できると考えます。
では最初に「構造的にロリータコンプレックスと変わらない」という点から考えてみましょう。これはずばり学校教育を通じて行われている性教育です。特に教育を行なう本人は正義のつもりでも実はセンスが一緒だ、というのがポイントです。
ロリータコンプレックス(以下、ロリコン)の語源はナボコフの小説『ロリータ』で、本来は「幼児に性的愛情を持つ事」すなわち「ペドフィリア」の別称です。この「ペドフィリア」は精神疾患(いわゆる人格破壊)によるものとされます。しかし今日、ロリコンと略して呼ぶものは、アニメキャラクターをはじめとする虚構や想像の産物を愛すもの、かわいらしいものに夢中になるものなどを含めた、非常に広い意味で使われているようです。
ところでロリコンなどの性的倒錯については反社会的性質の有無が問題になります。しかも、もしそれが学校で行われるとすれば場所が場所だけに、放火魔の町火消しと同じくらいシャレになりません。ここで皆さんの中には学校の先生と反社会性、という組み合わせに不自然さと唐突さを感じる方があるだろうと思います。普通学校の先生方は尊敬されこそすれ、軽蔑される存在ではないはずです。それは確かにその通りです。私も過去に恩師と呼べる人と多く出会っていますから。
しかしながら社会人としてどうか、と疑問を抱かずにはおれない先生も実際には少なくないようです。その反社会性がロリコンに類似する構造の温床だと考えられます。
この社会人として認めがたい先生については詳細を述べると長くなりますから、先生らによる職務放棄、嫌がらせなどに言及している書籍とウエブページを次節で簡単に紹介するのみとします。
特にそうしたBBSを追跡した感想としましては、どうも相手が子供だけに知能・知性が大人に及ばないのをいいことに横柄になるか、異様に慇懃(いんぎん)になるか、のどちらかの事象が目立ちます。児童・生徒を将来社会に巣立っていく個人として見ているかどうか、という根本的な疑問さえ起こります。そして社会がそういった先生方がいることに危機感を覚えるのは当然です。そこで先生方に対し「人」という形のバッジを配って啓発を図ってみたり、研修を受けさせてみたり。まあ研修というのは企業や公務員では当たり前に行われているもので、そのこと自体は別に問題にはならないはずです。しかし先生方がバッジや研修を不当なものとして反発している、との報道もあります。曰わく、社会の言いなりになってしまうから受け入れられないとのこと(でも、その社会から給料はしっかりもらっている…)。先生と呼ばれるからには大人なわけでしょうに、こういった駄々をこねてすねている態度には児童と先生が逆転しているような印象さえあります。
これらの現象は先生特有の職業病かもしれません。まず若くして就職するとすぐに、未熟なままいきなり先生と呼ばれます。親や子供からのちやほやぶりにいい気になることが出来るのです。
普通の職業では、やっと社会人になっても最初は未熟者として扱われます。そして仕事を通じ一人前になる、修行ともいえる過程があります。しかし、先生ならそういった経験をしなくて済むのです。そして児童・生徒が相手だという、立場の違いによる圧倒的な優位性が最初から与えられます。つまりイーブンな人間関係をどのように成り立たせていく試練を殆ど受けません。
誰もが大人になれば自己と社会との対峙を経験するのは世間の約束事ですが、これは先生という職業には無縁だと考えます。 |
|
|
|
| 前回からの続きです。学校での性教育について述べる前に、学校という場所についての印象をまとめています。
先生方に対する正直な感想は、威張り散らすか、ヘンテコに慇懃(いんぎん)になるかのどちらか極端に見えることが多い、ということです。よって権威として扱われると無邪気に喜び、批判を受けると過剰に反応して子供みたいに頑な(かたくな)な態度を示すのだといえます。
こうした敵対心を露骨に表すからバッシングを受けるわけで、自ら悪循環を進めているとも言えます。さらに先生方で徒党を組み組織的に悪循環を行おうとしているようにさえ見えます。
では、参考資料として書籍から。
○岡田春生著『ダメ教師・悪ガキからわが子を守る法/"危ない学校"は、ここを見ればわかる』 ごま書房(ダイソー出版で再販)
ウエブページ「教育広場・3教育に関する実態・対策」
http://www.af.wakwak.com/~yume/kyoiku3/
に、この本に基づいた「抗議の方法」「子供を守る対策」「良い学校の選び方」などの具体的対処方法が掲載されています。これは逆にいいますと、わが子への自己防衛が必要となる事態なのだといえます。
○鴨野守著『広島の公教育はなぜ崩壊したか』世界日報社刊
本書からは、広島における破綻した義務教育環境の実態、そして広島ではなぜ珍走団(暴走族のこと)がいまだに最盛なのが窺えます。
○新聞記事より。「教師のワイセツ行為後絶たず、広島市教委調査」
『教師によるワイセツ行為が後を絶たない実態が明らかになった。大半は児童、生徒が被害者にもかかわらず、市教委は抜本的な対策を講じてこなかった。身内に甘い体質を背景に「許されない行為」を繰り返した構図が浮かび上がる。』(中国新聞:01年12月8日より)
その他にも教員の性に関する犯罪の報道は枚挙にいとまがないので、省略します
○インターネット掲示板から、教員の資質に疑念を感じるものとして、
http://life2.2ch.net/kankon/kako/1025/10257/1025713546.html
http://life2.2ch.net/kankon/kako/1030/10304/1030472020.html
http://life2.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1056375204/l50
http://tmp.2ch.net/test/read.cgi/company/1056345840/l50
などがあげられます。
私自身の体験でも、先生方の自浄能力の無さは、小学校5年のときに感じました。
担任F原教諭による職場放棄です。ご本人は日々のんびり遊んでいる。授業は自習。クラスに落ち着きがなくなると菓子を配って静める。ペーパーテストは前日に公開してから実施。先生公認のカンニングですが、こうして出た結果を学習意欲の向上だと自慢していました。しかし、この先生には懲戒もなにもされませんでした。子供心にあきれたものです。 |
|
|
|
| 前回からの続きです。学校と先生がたの閉鎖性と反社会性について長々述べてきましたが、これは今回からの学校での性教育における反社会性を説明するための前振りです。誤った性教育が行われ、却って性のあるべき姿を破壊している、そういう結果をもたらす業界の体質を予め概観してみました。もちろんすべての報道が事実を伝えているとは限りませんし、すべての先生がみなそうだと言う気もありません。
しかし、学校の先生が、しばしば社会人として未熟で自浄作用が無い点を念頭においてみてください。
さて、学校という本来人を育成すべき場所でロリコンそのものの行為が行われているのです。と、いきなり申しますと驚かれるかもしれません。そこで順序としてこの"そのもの"とは何なのかを説明してみます。ここでは性のモラルを向上するとして規制対象上げられるCG・絵画のジャンルから、いわゆるロリコン漫画にありがちなパターンを抽出してみます。
ここでは協力者の情報提供を受けて、女性が嗜む男児物・相姦物にまで範囲を広げて考察してみました。特に女性が嗜むロリコンジャンルは「ショタコン」や「ヤオイ」と呼称され、巨大な出版ジャンルとして確立しています。これらには共通して、かなりの頻度で次のような特徴があることがわかりました。ロリコンの黄金のパターンといっていいでしょう。
まず主役は性に未熟な男児や女児。そして性を知らないという設定です。そこに「おにいちゃん」あるいは「おねえちゃん」が登場。そして男児・女児の興味を満たしにかかるわけです。筆おろし(男性の初体験の俗称)に導いたり、自慰行為を指導したり、またペッティングや性交渉に至ったり、あるいは支配的に快楽を引き出したり、というものです。
これらの特徴を拾ってみますと、男児や女児は性に興味があるといっても男女の性差にではなく、興味は自慰や性交などの行為に限定されています。つまり、大人の爛れた性の世界を予め知っているくせに性交渉には無知、というキャラクターです。
こうしたキャラクターは、まず実際にはありえないと思われます。読み手に卑猥な感情移入を誘うものとして創り出されたものに他なりません。つまり少年少女の望みをかなえてくれた優しい大人に、自分のあられもない姿をさらけ出す、という設定の都合で生み出されたものなのです。明らかに非現実的でバーチャルなものですが、これは読み手の感情移入に都合がよいように意図されたものだといえます。もちろん漫画だから当たり前ですが。
こういった実に不自然なキャラクターへ感情移入をするがゆえに、ロリコン志向やショタコン志向のオタクと呼ばれる男女が「現実の異性を愛せない」「二次元萌え」「異性からもてない」「性交渉について未経験である」と揶揄されるのでしょう。
すみません、ちょっと休憩。私自身、書いていて気分が悪くなりました・・・・。
なんつーか、正直、気色悪い。私は、日ごろよりCG・絵画の規制には反対だとは言っているのですが、だからといってこのテのワンパターンな漫画を評価しているわけでは決してなかったりするのです。調査のためとはいえ、読んでて吐きそうになった・・・。漫画がひたすらインモラルで野放図な猥褻奔放であればよい、とは間違っても思っていないのです。さて、気を取り直して・・・
これらは、漫画という二次元の限定した世界に成立する、馬鹿馬鹿しくも儚(はかな)いものだといえます。言うまでもなくこういった行為があれば逮捕されます。それは児童ポルノ法が成立する前から既に実施されていることです。
さて、上に紹介した嘔吐もののロリコン漫画の世界と似たようなことが、教育の名の下に実際に行われ、しかも自浄作用の無い組織のため何らの自省もなされずに繰り返されているとしたらどうでしょう。
社会の性にモラルをもたらすためには、日ごろよく言われる「CG・絵画の規制」と学校での性教育と、一体どちらの規制の方が重要度が高いのか、考えてみなければなりません。 |
|
|
|
| さて、ではいよいよ学校での性教育について述べてみます。佐藤幹夫氏は著書『精神科医を精神分析する』(洋泉社新書)で、学校における狂った性教育の例を取り上げておられます。
まず学校性教育の教案の内容ですが
(学習の目標)「適切な時間、場所でマスターベーションをし、適切に後始末ができること。」
(指導の展開例)「(勃起した)男児の絵を見せて、皆さん、この絵の男の子たちを見て、どのようなことに気づきますか?(ペニスの勃起を指摘する生徒がいなければ、補足する)」
(指導上の留意点)「射精に至るまでのやりかたについては、父親・男性職員が個別に実際指導することが望ましい。授業前に家庭・学校・職場での積極的な統一体制をつくる。教えすぎることはしない。」
はっきり言ってこれには参りました。一見して非常な不可解さを感じます。内容もさることながら、こうした行為を教育と称して行うこと自体の不可解さを特に強く感じます。
恥ずかしい言葉も恥ずかしがらずに授業で発表する様にしましょう、恥ずかしい図も堂々と見せましょうという点の不可解さがあります。父親や男性職員に「個別に指導する」といわれても実際にやって見せろとでもいうのでしょうか。さらになぜ男性職員なのか?平等なら女性職員でもいいではないか?という突っ込みの一つもしたくなりますし、普通に考えて男の先生に股間を個別指導して欲しい児童がいるとは思わないのですがね。
これはもう、ポルノという虚構の世界なぞ足元にも及ばない状況です。
先のロリコン漫画の特徴を思い出してください。教育を通じて実際に行われている内容と先生方の姿勢は、実はロリコン漫画のパターンそのものだという点がお分かりでしょうか。
実はこういった性器を露出する学校の性教育は広がりを見せています。千葉県での実例がインターネット配信ニュースサイトで取り上げられていましたので、ここで紹介してみます。
『大安町立笠間小で行われた性教育に保護者から疑問の声』
http://www.internet-times.co.jp/news/news150302/top_kyouiku_1_150302.htm
(現在、リンク切れ)
「小学一年生にペ○ス、ワ○ナ(※1)などの性教育/大安町立笠間小、保護者から疑問の声」として、以下の指摘がなされています。
「過激な性教育が行われていることが、本紙の調査でこのほど判明した。保護者からは小学一年生にこんなことを教える必要があるのか疑問だとの声がある。」
これは一年生に配られた「男の子と女の子のちがいって なあに?」という学習プリントが騒動の発端です。また、そのプリントには、見た目には男女の区別のつかない二人の子どもの裸体の絵に男性器と女性器が描き込まれ、並行して男女の性差の否定がなされているというものです。
これに対する保護者の疑問と反応としては以下が挙げられています。そのまま引用しますと「男の子らしさ、女の子らしさが否定されています。つまり男女の特性をお互いが認め、相互に高め合うことではなく、ペ○スとワ○ナの性器の違いのみが、男女の違いであるとしているのです。」「子どもたちが学習内容を本当に理解出来ているのか疑問です。」とあります。
なるほど、私も保護者と同じく大いに疑問だと感じます。男と女の性差を否定する一方で、絵として記号化してまで、男女の性器を強調しているのです。つまり性器とその機能をあらわにする性器露出を教育で行なっているのです。
ここで私が注目するのは、これらの教育が思春期より前の児童を対象としている点です。つまり男女の性差が体にはっきり出てくるよりも前の幼い児童であり、内容を理解するには明らかに早すぎるという点です。青田刈りでもしようというのでしょうか。
性のつながりは、パートナーと共に築き上げるものだと言えると思います。言い換えれば、大人になってから、互いの責任において培っていくものではないのかということです。しかし、ここで紹介した教育ではそこに行き着かない可能性が高い。プリントの内容もそうですし、第一に対象が小学生です。こういった教育の推進に対しては憂慮の念を禁じ得ません。
※1それぞれ男性器と女性器をさしますが、実際の教育資料には文字が入っています。なんでも伏字は男性的な価値観であり、女性解放の一環として性器名称を隠さないんだそうです。つまり、家族の間でも「ちん△」「まん△」とはっきり言い合う事を理想としているのだそうな…。
しかし、本稿ではすべて伏せ字とします。まず、一般表現物での取り扱いを踏まえてそう判断しました。さらに、性器名称をあからさまに口にするその点こそが彼らのイデオロギーの象徴であるため、敢えて伏字とすることが却って文章の公正性を保つことになると判断しました。
また○や△のままでも、普通の常識を持った人には理解の支障にはならないでしょう。もしもこれが多くの人が知らない言葉だった場合は、○や△に本来の文字を入れたところで結局説明が必要となり、いずれにせよ手間は変わりません。
補足:
ちなみにこれは提供頂いた情報ですが、とある掲示板にこの授業を受けたという人の投稿があったのだそうです。授業では男児の希望がベテランの女教諭より若い女教諭へ集中(新卒か教育実習生でもいたんですかね)。投稿者は飽き足らずに再履修をお願いしに下宿へ押し掛けたそうです。が、あとで親の知人だとわかって青くなったとか。またその若い教諭はお見合い結婚で早々に退職。しかも彼女は「若いうちなら、子供でさえ女としてちやほやしてくれるから」と言ったとかなんとか。 |
|
|
|
| 前回からの続きで、性器を露出し、その機能のみを強調する教育について考えていきます。さて前回挙げた懸念は、その性教育の内容が実にロリコン漫画的であることでした。これは、さらにポルノ的であると言いなおしてもよいでしょう。そして具体的には男性器→勃起→射精という繋がりだけが一人歩きして伝わってしまうものでもあります。
さてここでポルノが若人に与える悪しき影響として常に持ち出される決まり文句を思い起こしてみましょう。それは、異性に対する認識がポルノ的になってしまう、という言い方です。つまりポルノとして記号化された性を異性だと認識してしまうわけです。こうして体や異性の認識がその記号化された性情報に支配され、パートナー同士の行為と共有感を阻害してしまうというものです。そしてそれは一方では、若者による異常な犯罪が起こるたびに「こころの専門家」により飽きもせず繰り返される「現実と虚構の区別がつかなくなっている」というコメントに形を変えて現れたりもします。
ただ、この阻害についてはあまり被害を過大に考える必要はないものと考えます。ポルノは対人関係の能力を備えている年齢である成人向けに販売されるものです。よって異性認識が阻害されたとしても、人間は自己の責任と努力によってそれを予防し修正するものなのです。成人ならその程度のことは意識せずとも自然に行っているものです。人間の心なんて、そんなにヤワなものではありません。またそういう意味ではポルノは所詮ポルノでしかない。一々目くじらを立てるほどの重大な影響力などありはしないのです。
しかし、ポルノの一つであるロリコン漫画に酷似した行為を、学校という場で教師という権威を以て未成年である児童・生徒へ提供した場合はどうでしょう。
児童心理学者のインタビュー記事からの引用になりますが、普通の児童・生徒は学校で教わることを疑ったりしないのだそうです。そうなりますと、影響としては深刻だといえます。本来、性を教育するというのは、例えば男性なら、男性として生まれた自分について考える機会を与えるものでしょう。無論、その中には男性を選びたくないという人もいてもいいのですが(いわゆるマイノリティ)。
しかし男性として生まれたからにはまず射精を教える、というのではまるでポルノの主人公を演じさせているような印象を持つのです。教育現場では明らかに男児と射精を直結しています。これは「男性はマッチョに勃起」「男ならカッカとエレクトして当然」というポルノ・エロ的に記号化された男性像だといえます。つまりは男性器の機能は射精で、射精できたら大人への階段をクリアした、男は女を犯しさえすればよいと伝わりかねないのです。こうした教育は、行うべきではないと思うのです。
私が学校の性教育をロリコン漫画のノリだとしたのは、あくまで揶揄ではありません。先生が教育者の名を借りて行っていることが、ロリコン漫画に登場するやさしい「おにいちゃん」と「おねえちゃん」の典型的な行動そのものになっている。これはシャレになりません。大人が子供よりも立場が上だということに付け込んで、初体験(男子で俗に言う筆おろし)までコントロールしようというのですから
ポルノは子供に悪い影響を与える、というPTA的発言がそのままそっくり学校性教育に当てはまってしまうなんて、これ以上皮肉な事態があるでしょうか。
さてロリコン漫画で餌食となる男児は、決まって従順な性質の美少年です。しかも男児とは思えない程のジェンダーフリーな美少年です。あくまで漫画という表現ですが。さて教育現場ではどうなのでしょうか?ちょっとわかりませんが、まず従順な子でしょう。容姿は教員のお好みで選び放題ですね。
さて、これらの特徴を備えた学校での性教育は、特に性器教育と呼ばれるものです。また、その性器教育は、ジェンダーフリーと呼ばれる思想から生じたものです。この性器教育を推進する立場の教員らが自主研修に使用したパンフレットから二点ほど抜粋してみます。 |
|
|
|
| 前回からの続きです。性器教育推進の教員らによる自主研修パンフレットから二点ほど抜粋してみます。
『自分見つけ 〜自分のよさや自分らしさを大切にしよう〜
「男だから」「女だから」という考えにはとらわれてはなりません。大切なのは自分自身のよさ、自分らしさに自信を持って生きようとする子どもを育てる授業です。皆さんも一緒に考えてみませんか。』
『なぜ、性交するのでしょう。〜心、そしてからだのふれあい〜
人は一生を通して誰かとふれあって生きています。性交は新しい命を生み出すだけでなく、心とからだのとっておきのふれあいの側面があることを伝えていきたいと思います。』
皆さんの中には、これらを見てこれこそ正義だと思う方もおられるのではないでしょうか。なるほど一見すれば確かに、平等を成し遂げつつ、個人の幸せを目指しているものに見えます。しかし、これが性器教育へ結び付くとなると、その動機については掘り下げ直しが必要です。
まず、二項ほど紹介した内の一番目から掘り下げてみましょう。
『自分見つけ 〜自分のよさや自分らしさを大切にしよう〜』
についてですが、男女の差異を取り除くことで平等を目指す考え方で、いわゆる典型的なジェンダーフリーというものです。平等の徹底を説くために性差の解消を目指すということは、言い換えれば「男らしさ」「女らしさ」を全面的に否定するということであり、さらに男女の違いは性器の差だけにしかないという極論に直結します。近年顕著に台頭してきたものですが、しかしこれには疑問を感じずにはいられません。まず男らしさ、女らしさを否定することについての疑問、そしてその代わりとしてあてがわれている「自分らしさ」という概念に対する疑問です。
標題にある「自分見つけ」という言葉は、いわゆる「自分さがし」の亜種のつもりでしょうが、日本語として変ですね。「自分さがし」「自分らしさ」「本当の自分」……もう聞き飽きて辟易している陳腐な表現です。そしてその陳腐で、しかもその正確な意味内容はというとまことに曖昧模糊としたこの概念を、わざわざ教育現場で強調してまで教える必要があるのか、という点に大変不可解なものをも感じます。
そもそも、貴方の自分らしさとは何かと問われて、即答できる人はまずいないでしょう。よほど自己顕示欲にとりつかれた人でない限り、戸惑うのではないでしょうか。それは自分らしさという概念に寄りすがらなくても、社会生活に支障が無いことを示していると思います。
ある評論に書いてあったことなのですが、「○○らしさ」という言葉が成立するためには、その前提としてその「○○」とはどういうものかという概念があらかじめ共有されている必要があります。「学生らしさ」「社会人らしさ」…みんな学生とは、社会人とは常識的にこういうものだ、という概念が前提になっています。もしいきなり「いかにも火星人らしい」と言われたら、火星人などだれも見たことはないのですから、「らしい」と言われてもピンとこない、つまり「○○らしい」という表現自体が成立しないのです。
「男らしさ」「女らしさ」というのも、男とは、女とは常識的にこういうものだ、というイメージが前提になっているわけですが、フェミニズムの人たちはそのように「らしさ」があらかじめ決められていることに対して怒っておられるのでしょうね。
ではその「男らしさ」「女らしさ」を否定した上での代替物、「自分らしさ」についてはどうでしょう。今見たように「自分らしい」ということが成立するためには、「自分」とはこういうものだということがあらかじめ決まっている必要があります。しかしそれは決して社会で共有できるものではない。人それぞれ違っていて当たり前だからです。そのあまりに多種多様に過ぎるものを学校でいくら教えても、自分らしさというものが得られるとは思えないのです。 |
|
|
|
| 前回からの続きで、学校にて男女の性差の代わりに示している「自分らしさ」について、これは一体どういう概念なのかについて考えてみます。
さて自分らしさとは自分自身の人間像、将来において目指したい目標と定義できるかと思います。
世の中は自分ひとりで生きているわけではありませんから、社会や周囲における属性が自分らしさの重要な要因になります。つまりいくら個人が自分らしさを念じたところで、所属する組織や社会との連結なしには成り立たないと考えられます。
この定義に基づいて、思春期や若人における自分らしさを考えてみますと、自分が大人になったら何ができ、自分の周囲や社会からどのように認められるか、という存在を確立する事だと言いなおせます。
しかし、そういった社会における自分の在り方の確立は誰しも経験することです。特に若いうちは社会人として未熟であるというハンディがありますから、周囲と自分との関係を築くには、苦労と不安を伴うものです。しかし、それらの苦しさを経て、社会や組織がその人を一人前だと認めれば、それがその人自身の「らしさ」だと言えます。
また社会や組織は不変的な物ではなく、変化し続けるものですから、その人自身の「らしさ」も、変化しうるものです。つまりは、その人となりは、生涯をかけて成長し続けるとも言えます。
そうしてみますと、教育現場で教えるべき事は、これら「らしさ」を手に入れる能力、つまりは社会性、公共心、忍耐、試練、自己啓発能力、集団生活への適合を主眼とするのが自然ではないでしょうか。
もともと学校は、児童・生徒一人一人に「自分らしさ」を与えることはできません。上に述べたようにそれは一人一人異なるものですし、それにそもそも他人から、はい、これがあなたの「自分らしさです」と与えられるものではないからです。実際に学校で子供たちに対して繰り返されているのは、「自分らしさ」という言葉の上っ面だけなのです。「じぶんらしさ」「じぶんらしさ」と繰り返すばかりで、その具体的な中身、そして本当に教えるべきその「らしさ」を手に入れるための能力は、きちんと教えているのでしょうか。
公共心の欠如ということが最近とみに言われるようになりました。この公共心が欠如したままで「自分らしさ」ばかりを教えられると、どうなってしまうでしょう。社会的な属性を欠いたまま、自意識の肥大化ばかりを招くことにはならないでしょうか。
特に昨今では、平然と自分のわがままを押し通すことが自分の権利だと主張し、その逆に単に自分のわがままが通らないことを何か重大な人権侵害のように騒ぎ立てる例を、多く見聞きします。社会の中の自分ということに対する認識はなく、自己中心であること、そして自分にとって気分が良いことだけを、自分の権利だと履き違えている状態なのです。
こうした個人主義の妄想ともいえる今日の風潮の中で、周囲への属性ということを子供に教えることを教師にだけ求めるのも難しいことなのかも知れません。
社会性や公共心と結びついていない自分らしさということについては、いくつもの例が挙げられると思います。ここでは、「自分らしく」という言葉を多用しているファッションの類に注目してみることにしましょう。ブランド品、アパレルなどを広く含んだファッション関係です。 |
|
|
|
| さて、ファッション関係での自分らしさについて、いくつか挙げてみます。
まず年少者向けファッション雑誌のキャッチコピーに「自分らしさで、自分をより好きになる」とあります。同じく若年層向けコスメティックのキャッチコピーは「自分らしく、自分のためのビューティ」とあります。
さらにNHKの十代若者発言番組で、いわゆるヒップホップという既成のジャンルを体中に着飾った女学生は「ファッションが私の誇りです。だからファッションをバカにしないで下さい。」と発言していました。
なるほど自分らしさをファッションで表現すれば自分の存在を華やかに周囲へ示す事が出来ます。これはまた、実に気持ちの良いことだろうと思います。
さらにこういったファッションは、より新しい流行を追い求めることを促すという、販売促進の機能も持っています。それに乗っかりさえすれば、ファッションの流行最先端というステータスも同時に得ることができて、より新しくて新鮮な自分らしさを達成出来ます。こうしてみるとファッションという自分らしさは自意識と表裏一体ですね。
しかし、少なくとも私の目には、こうした消費は暴走を生みやすいように思います。特に、近年では小学生でさえファッションの費用が一月あたり数万円を越えるのだそうで、これなど暴走としか言い様がありません。
こうした浪費癖というのは、ファッションが所詮は商品であるという点から説明できると思います。つまり商品ですから誰しも容易に買う事が出来ます。そして皆が買ってしまえば自分らしさは失われ、再び均質化が訪れます。こうした均質化から逃れるには、次に登場する商品を手に入れる必要があります。しかしそれもいずれ均質化していきますから、さらに次の商品の購入が必要となる…。要するに悪循環です。結果、満足しないままの消費をし続けているのではないでしょうか。
また先のNHKの番組で発言した、ファッションを誇りだとする女学生も、商品を通じて他人のコピーを身にまとった状態を、自分は自分らしさのあるかっこいい人だと思い込んでいると言えるでしょう。まあそれは個人の自由ですし、さぞかしそんな自分を満喫しているに違いありません。しかしそれは他人にとってはどうでもいいことです。そんな個人の満足を他人や社会が受け入れなければならないいわれはありません。ファッションの誇りを受け入れてもらえないことへの怒りというのは、突き詰めれば自分の気持ち良さは他人には通用しないという当たり前のことを、さも自分の人格が否定でもされたかのように錯覚していることに他ならないとも言えます。
勿論、ここで私はファッションを否定しようと言うのではありません。ファッションは男性らしさ、凛々しさ、女性らしい美しさや清楚さを演出できるよい手段です。しかしそれは社会の中における自分、ということに対する認識があるから成立することです。それら社会の中の自分という認識を外し、自分らしさだけを追求したとしても、行き着くところはあてどのない浪費の無間地獄だと考えるのです。
「と学会」の本で読んだことがありますが、「自分らしさ」を得る最も安直な手段は、ブランド品で身を固めるか、UFOにさらわれるか、なんだそうです。ブランド品とUFOと、どういう関係があるかと言うと、どちらも本人は努力せずに他人との差別化を手に入れられるということです。つまり「自分らしさ」にこだわりつつも、努力して自分を鍛えて他人にない知識や技術や技能を獲得するというのが面倒な人は、金を出してブランド品を買い漁り、それを個性だと言っておけばすむ。もっとコストのかからないのは、いつのまにか宇宙人にさらわれて身体検査をされた、あるいは宇宙人から宇宙の真理を授かったと主張すること。これなら一銭もかからないし、世間の人々の知らない真理を授かった、自分は特別な人間だ、と優越感にひたることができる。ま、ファッションなんて所詮その程度のものなのかもしれません。 |
|
|
|
| 前回からの続きです。
さて、先にファッションの類にまつわる自分らしさについて考えてみました。これが物質的な自分らしさならば、もうひとつ精神的な自分らしさというのもあるわけです。これについて考えてみましょう。
精神面の「らしさ」とは簡単に言えば、例えば自分の精神の奥深くには他人にないすばらしい能力があると信じ、その能力を持って自分らしさを実現しようとすることだと言えるでしょう。
しかしその一方、精神的な自分らしさを探す行為も物質的自分らしさと同様、社会性を欠いてはやはりそこから得るものは無いのです。
オウムはその最も典型的な例でしょう。
彼らは精神的な自分らしさを求めるなどと聞えの良いことを言いながら、実は単に社会に参加するという当たり前のハードルを迂回したのに過ぎません。そして、自分らの精神を受け入れない社会の方が悪いのだ、との結論へ実に安易に行き着いてしまったように思います。
オウムの信者たちは、真摯な努力による崇高な精神を持つ自分たちこそ新たな世紀の主人公としてふさわしいと周囲に主張していたようです。現在では趣旨の変更もあるようですが、周囲は崇高な精神を受け入れる運命にあると信じている点は変わっていないものとされています。
しかし社会がこのオウムの価値観を求めていないのは、皆さんもご理解いただけると思います。オウム特定の組織の中で神秘体験を経て確信を得たからといって、社会がそれを受け入れなければならない理由にはならないのです。
こうしてみると、物質的であろうと精神的であろうと「自分らしさ」という価値観は所詮同じ構造を持っているのであり、そのような「自分らしさ」だけを追及するよりも、普通に社会参加が出来る能力を身に付けるほうがよほど大切だと言えそうです。つまりそれは社会性や公共心、そして自己啓発能力です。そうした能力を通じて、結果として人それぞれの「らしさ」を築いていく事が出来るのです。ただ、それらは従来から行われていた普通の授業でも得られるものではないでしょうか。
このように考えるならば、学校で過度に「自分らしさ」を強調しようとしているのは、やはり異常な事態です。
ではここで改めて、なぜ教育現場でことさらに「自分らしさ」ばかりを取り上げようとしているのか、考えてみる必要があります。
まず想像できるのは、先生方が言葉の上っ面を伝えることを教育だと錯覚しているのではないかという点です。
今ひとつは、先生方が性差ということに異様に神経質になり、「男らしさ」「女らしさ」を必死で否定しようとするあまり、そこからその代替品として何か耳当たりの良いものが必要になったのではないかという点です。
では「男らしさ」「女らしさ」を否定しようとするのは何故なのか、ということになりますが、これは性による差別解消がその目的であると考えてよいでしょう。
まず性別による「らしさ」には、予め社会に固定されたイメージへの当て嵌めが伴います。その当て嵌めは過去の伝統的男女観へも繋がっているため、そこから忌まわしい男尊女卑までたどり着いてしまう、ということを危惧しているのでしょう。
しかし、こうした性差の解消で性差別をなくそうという主張をいろいろ追跡してみますと、性差と性差別とが同等に扱われている事を見て取ることができます。つまり各々の性における「らしさ」が男尊女卑の延長にあると考えているのです。これを簡潔に言い直すならば「性差別があるのは性差があるからだ」となります。こうしますと、性差別をなすくには性差を無くさなければならないことになります。はたして、それは正しいのでしょうか。 |
|
|
|
| 前回からの続きです。「差別をなくすために性差をなくす」ということについてもう少し考えてみます。
まず差別という行為の本質について整理してみるならば、それは差別をしたい人が差別対象のカテゴリーを不当に貶め、その結果相対的に自分が高まったような錯覚を起こすものだといえます。その為、差別という行為にはカテゴライズが必要です。また差別をしたい人は、差別対象と自分のカテゴリーを別々に分けておく事が必要です。
性差別も男と女と言うカテゴライズを前提としています。男女差別をなくすには、性差というカテゴリー分けをなくすことだ、という考え方がここから生じます。
しかしあくまでも差別の本質は、自分の属しないカテゴリーを不当に貶めるという卑しい行為です。つまり差別はカテゴリーを利用はしますが、差別の正体はカテゴライズでもなければカテゴリーそのものでもないのです。
確かに性差、つまり男性・女性というカテゴリーをなくしたら性差別はなくなるかもしれません。でもそれは、差別の中で性を利用したものがなくなるだけです。つまりそれは別の差異を利用した性差別以外の差別が始まるだけです。しかも差別をしたいという動機の卑しさがあるかぎり、差別者はいくらでもカテゴリーを作り出してしまうのではないでしょうか。
これらの事を踏まえますと、性差は必ずしも性差別の本質ではないのだと考えられます。
学校の性器教育は、本質でもなんでもないことへ過剰に反応し、挙句に「自分らしさ」などという無駄になりかねない価値観を与えようとしている。これは反社会的な行為です。しかも対象は、まだ批判力も無い子供です。このことだけを見ても、先生方は生徒児童を社会へ巣立っていく一人の個人としては理解していないような気がするのですが、如何でしょうか。 |
|
|
|
| 次に「正義のロリコン?その6」で紹介した性器教育推進派教員による自主研修パンフレットの二番目、『なぜ、性交するのでしょう。〜心、そしてからだのふれあい〜 』についても考えてみましょう。
これはまず、性の自由化を目指したものである事は容易に理解できます。
なるほど自由と平等を巡る言説には、従来からしばしば性の自由化ということが抱き合わせになってきました。自由意志を持つ個人であるなら、性に関しても平等で自由であるべきだという考え方です。例えば戦後直ぐに創刊された「りべらる」※1という雑誌にもその特徴を見る事が出来、随分と歴史が有る事がわかります。
では、学校の教員自主研修パンフレットにある『なぜ、性交するのでしょう。〜心、そしてからだのふれあい〜 』はどうでしょう。これも自由・平等の発想であり、特に女性解放のキーワードの一つ「性の自己決定権」、いわゆるリプロを教えようとしているものだと理解できます。
また、ここでは「心とからだの、とっておきのふれあい」と称して、性的な触れ合いに特別な意味をこめようとしています。そして小学校低学年に男女のハダカ絵を見せながら、セックスは自分を大切にするもので、且つ相手との最高のふれあいであると強調して、リプロへ繋げる方法を採っているのです。
セックスは「自分のため」「最高のふれあい」というのは、なるほど正しい事のように聞こえますが、でもそれは大人になってから自分で考えたので間に合う話です。そもそもよほど禁欲的な環境に押し込められてでもいない限り、普通に学校に通い、普通に仕事をし、普通に他人と交際していれば自然と理解するものなのであり、わざわざ授業で教えるようなものではないでしょう。
それに「最高のふれあい」などと誇らしげに書いていますが、しかしこればかりだと快楽主体と伝わりかねませんので、やはり本来は理解力の伴った大人のテーマであると考えるべきです。さらに、いくら自分のためとは言っても周囲に迷惑をかけるような行為は許されるはずもありませんから、やはり自己の行動に責任を持つ成人した大人のテーマだと言えます。
しかしこの性器教育ではどうでしょう。教育対象はまだ幼い生徒児童です。男女差を自覚していない第二次性徴前の段階でこうした教育を施すと、どうなるのでしょうか。
これについて性器教育に対して論じられた各種意見を見てみますと、パートナーとの関係や婚姻、さらに次世代の子孫を生み育てる意義、といったものを著しく軽視したものだという指摘が多くなされています。
そしてそれらの中には「最高のふれあいを通じて、自分のためにお金が入ってきたら、という発想が出てくる」とのゾッとするような指摘もありました。
近年の若年層のモラル低下については皆様もご周知かと思います。性についても同じくモラルの低下が顕著で、これらはこうした教育の結果だともいえるのです。
さてそうなりますと、こうした教育を児童へ行なうべきかどうかを根本的に考え直す必要があります。考え直す、といっても何も難しい分析を要するものではありません。その教育は結果として社会に性のモラルをもたらしたのかどうか、家族の尊重へ結び付いたのか、という簡単な考察ですぐに判る事です。もっとも、肝心の学校の先生方がこうした考察をするのかどうか非常に気になるところです。
むしろそうした先生方はこんな子供を量産したいがためにこういう教育をなさっている訳でしょうから、自分の思い通りになって裏ではほくそ笑んでおられるかもしれませんね。少なくともこうした先生方には、世の子供たちの学力低下やモラルの崩壊を嘆く資格はありません。
さて、ここまで学校における性器教育の実態について考えてきました。これをさらに掘り下げるため、性に関して正義を唱える人々の特徴の特徴として既に挙げた内の二番目、「内容的に時代錯誤である」という点について考えてみることにします。
本項の最後に当たり、とりあえず学校の先生方には真っ当な庶民感覚を身に付けていただくようお願いしたいと思います。
いじめに不登校に学級崩壊に学力低下と、教育の現場は問題山積だというのに、性器教育という極端でヘンテコな教育を社会のコンセンサス抜きで推進する神経の持ち主。そして卑怯なことに、これは子供が相手なら自分の行動にツッコミを入れたり反撃したりする能力も無かろうという甘えの上に成り立っているとも言えるのです。子供の人権や子供の自主性を踏みにじっているのはいったい誰なのでしょう?
ロリコンとはどういう人かという議論では必ず「子供だったら相手にしてもらえると勝手に期待をする精神的に未熟で頭の悪い人」と指摘がなされます。一面的な言い方であることは認めますが、でも性器教育の推進者とロリコン趣味とは、この点においても気味が悪いくらいそっくりだと感じられませんか? むしろ性器教育の推進者がご自分の行動を正義だと素朴に信じ切っているという点に比べれば、自分の性的嗜好が正常なものではないことを一応自覚しているロリコンさんのほうがまだマシだ、と言うとそれこそ言い過ぎでしょうか。
(※1りべらる:昭和21年創刊。太虚堂書房発行。戦後直ぐの創刊で、いわゆるカストリ雑誌のひとつ。
性の様々な奔放さを、紡績工場の女工、バスガァル、カフェの女給、戦争未亡人にスポットを当て、ルポ仕立てで書いたものです。
時期としては自由と民主主義の気運が改めて高まり、また産児制限議論が再燃した頃です。記事には当時の世相も見られ「吉原(売春宿の集まり)で、水溶性ペニシリンによって性病から解放されたと好評。」といった記事があります。また、同性愛者の駆け落ち記事もありました。当時、同性愛者は珍しかったのかもしれません。)
→時代遅れの性器教育へ続く
|
|
|
|