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時代遅れの性器教育

☆時代遅れの性器教育 (その1)
さて教育現場で行なわれている性器教育に関して「正義のロリコン?その1」にて挙げた三つの特徴の内、その二番目の「内容的に時代錯誤」という点について続いて考察してみたいと思います。

性器教育とは性を教育する上において内容が性器に偏重したものだと言えます。
この性器教育推進派の先生方は、時代の最先端だと信じておられる様ですが、実は内容的に時代錯誤であることをどうもご存じないようです。このことについて時代を遡って考えてみたいと思いますが、まずは今日の状況から。
今日の性器教育のバックボーンであるジェンダーフリーに対する疑問や懸念の声は、2003年7月23日付の読売新聞社説にも「ジェンダーフリーの"呪縛"を解け」 として取り上げられ、世論としての高まりをうかがい知る事が出来ます。
「男女共同参画の名目の下に、これとはおよそ無縁の不可解な教育が、全国の学校現場に広がりつつある。ジェンダーフリー教育である。言い換えれば性差解消、つまり男らしさ・女らしさを全面的に否定する教育だ。
(略)
 政府は、昨年十一月にも、福田官房長官の国会答弁で、政府が推進する男女共同参画社会は、男らしさ、女らしさを否定するものではないと、"ジェンダーフリー教育"とは一線を画していることを明言している。これを受け、都道府県の担当者を集めて、趣旨の徹底もはかった。当然の措置である。
ジェンダーフリーという言葉自体、九五年の世界女性会議北京宣言や、国連婦人の地位委員会の年次会合報告書などに使われていないと国会で指摘された。
(略)
教育現場は、ジェンダーフリーの呪縛(じゆばく)から一刻も早く脱却すべきである。」
(http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20030722ig90.htm 現在はリンク切れ)

またこのジェンダーフリーとその教育は、今日のみならず過去にも否定された代物です。
まずソビエトで革命が起こされた頃に政策として展開され、そしてその後否定されているという点から述べてみます。
ジェンダーフリーを巡る基本的な改革はロシア革命直後から何度かに分けて実施されたようです。中身は家長権の廃止、離婚の自由、財産権および親権の平等、家事労働の共同化、保育所の設置といったものです。なるほど、近代的な内容が盛り込まれています。第二次大戦が勃発するよりも遙かに以前の事ですから、時代を考えると非常に先進性があったことがわかります。
ところがこれに、家族制度の廃止・性の自由などが盛り込まれるようになります。また性差を階級闘争と捉える手法も打ち出されているのです。その結果生じた弊害として、堕胎と離婚の激増、出生率の急減、少年非行の増加など、社会のモラルの破綻が生じています。なんだか、今の日本に似ていませんか。さて、これに対し、スターリンは1934年以降、この政策を廃止、離婚手続きの複雑化、子供の保育・教育における親の責任の増大、国家の基礎単位として家族の重視などの政策を打ち出したようです。
粛正の犠牲者を山と築いた独裁者スターリンでさえ、国家の基礎に家庭や家族がある事までは変えようがなかったという事でしょうか。

日本では、私が知っている範囲だけでも80年代に性教育か性器教育かという議論がありました。その中でジェンダーフリー的な性器教育は、性器にのみその内容が偏重した悪しき典型として当時既に否定されているのです。
性教育か性器教育か、と言うと一見言葉の遊びのようにもみえますが、何度かNHKラジオなどでも取り上げており、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。その頃から性器教育を脱した性教育の本が多数出版される様になりました。つまり、性器教育を脱しようとする動きが当時から既にあったと言えるのです。

・参考図書:
  八木秀次著 『誰が教育を滅ぼしたか』:PHP研究所 2001年刊
・参考ウエブページ:
  神名龍子「ジェンダー素描 64.ジェンダーフリーと社会主義」
http://www4.hp-ez.com/hp/eon/page40/64
(ジェンダーフリーと社会主義)
☆時代遅れの性器教育 (その2)
さて、視点をもう一度現代に戻して、性器教育が今日においても先進性が無く時代に逆行しているということを、その内容の面から考えてみたいと思います。
それに先だって今回は、「性器教育」ではない「性教育」を概観するため、性教育の書籍から内容を見てみることにします。
まず、当然ですが子供から大人に育つ上で理解しておくべき性に関することがらを学ぶ、という構成となっていることが挙げられます。その理解の為の着眼点は色々とあるようですが、それらは全て、大人になってゆく過程で自分の性について考える機会を与えるものになっています。
この考える機会を与える、というのは重要なことだと考えます。つまり大人になるにあたって性に道徳の観念を確立するための基礎固めになるといえますし、人生における性別の意味、さらに婚姻や家族を考えるきっかけになるものだからです。
ではその例を一つ、書籍で紹介されていた思春期男子の質問の中からピックアップしてみましょう。
「精通が始まりました。姉、母と同じお風呂を使っています。自分が先に風呂に入ると妊娠させたりしないでしょうか。」
これは大人から見ますと、実に他愛(たあい)のない質問です。これに対して回答者は湯船を通じた妊娠はあり得ないことを答えるだけでなく、加えて姉・母のために配慮をしている点を立派だと誉めています。
この配慮をほめる点は非常に重要だと考えます。
思春期になれば、家族同士であっても性の自己管理をすることを学ぶわけです。子供の時なら特に男性・女性を意識しなくてもよかったとはいえ、大人になればそうはいきません。ここでの着眼点は、自分が大人になる上で持ってしまった能力(妊娠させ得る)という事の自覚を通じ、大人になる上での自己管理を促しているのです。これはひいては親の加護からひとり立ちし、大人として社会参加する際の土台となると考えられます。

こうしてみますと、性を理解することは成人してからの社会性にも繋がりうるものだといえます。
その他にも、勃起してしまったところを母に見られた思春期の少年のケースを題材に、母親の反応を通じて思春期を迎えるにあたっての自己管理に気付かせる、という性教育の題材もあります。これにも同じ教育効果が期待されるのではないかと思われます。
また性教育の書籍の中にはポルノグラフィに言及しているものも多くありますがいずれも、こんなものに惑わされないで自分とパートナーとの関係を築くこと、そしてそこには大人としての責任が伴うことを教えています。
男女間の恋愛以外の記述、例えば男同士や女同士の愛、さらに両性具有、あるいは体の性と自分で認識している心の性が不一致である場合などについては、必ずしも全部の書籍に詳細な記載があるわけではありませんが、同じく大人になる過程での自分の体と心の性を理解する過程の一つの例として示してあります。つまり、ことさらに奇異に考えるべきではないこと、またいずれにせよ大人としての責任が伴うこと、などが共通して記述されています。

さてこれらの内容は、将来大人になる生徒児童にとって必要なものであると考えます。それは思春期にさしかかった若人が自分の性と向き合う中で、社会の中でその性を自分なりに考え、必要な管理をし、異性を尊ぶ事を身につけるための大きな要素だと言えるからです。
特に、昨今は性にまつわる犯罪が凶悪化しているといえます。
中学生の先生が女子中学生を金で買い(※1)、小学校内で起きた先生の女子児童暴行未遂を学校ぐるみで隠蔽する(※2)といった凶悪さは、罪を犯す者に性の自己管理能力と責任感が伴っていないことが一つの要因であるとも言えます。
性犯罪の防止と凶悪化の歯止めは、まず当然ですが性にまつわる犯罪者に対する摘発徹底と厳罰に処す事です。加えて、若人が将来こうした罪を犯す様な大人にならない事も必要です。それには、家庭での性を含めた教育が何よりでしょうが、加えてここに挙げました性教育も必要ではないでしょうか。

以上、性教育への期待をごく一部ではありますが例を挙げて述べてみました。
勿論、性教育の実施自体、性の営みの秘匿性や性の神秘性を損なうという指摘もあり、性教育なら手放しで喜んでいいかどうかは議論の分かれるところです。しかしながら性モラルを破壊する性器教育を駆逐するためにも、性教育の見直しも考えてよいのではと思います。

※1)03年10月に中学校教諭伊丹直之容疑者(31)が出会い系サイトで知り合った女子中学生に猥褻な行為をし、福岡県警に逮捕された事件。

※2)03年10月に小学校教諭の橋本拓容疑者(33)が勤務先の東京都八王子市の小学校内会議室で高学年の女子児童に暴行しようとした婦女暴行未遂事件。
☆時代遅れの性器教育 その3)
前回からの続きです。
ところで学校で推進している性器教育ではどうでしょうか。
性器教育では人格面、社会面、性の自己管理の視点が欠如しているとの指摘はよく見かけます。性器教育では折角教育を施しても「生徒に人としての価値を伝えられていない(性器教育を実施した先生の感想)」との現状がある様です。
また、性器教育ではなく性教育を求めるものとして『男女がお互いの特性を認め合い、助け合いながら共に生きていく共生教育として、また生命の誕生のすばらしさや死の悲しさ(生と死の教育)を、感性をとおして学習する生き方を学ぶ教育としたい』との意見を掲載したPTAサイトもありました。これは、性に関する教育を、まるまる学校で行なうものとした立場での意見です。本来、家庭でも習得するべきでもありますから、少々問題を感じないでもありません。しかしながら、少なくともここでも性器教育は歓迎されていないのです。

ここで今一度、学校で行なわれている性の教育が、性教育とは言いがたい、ただの性器教育であるかを説明する例として、「ラブ&ボディ」を挙げてみます。これは性器教育の教科書でも最右翼とされるものです。
「ラブ&ボディ」は中学校に教材として配布までされる騒動となり、国会でも論争の対象となりました。これを週刊新潮の記事からの引用で追跡してみます。
まずこの書籍ですが、この性質を良く表すコメントがあります。「(若人の性モラルが壊滅的である)現実が度を越しているからといって、それをすべて追認して本を作るのはおかしい(亀井郁夫議員)」というものです。国会でも、こうした立場からの批難が挙げられています。
さらに内容について、
山谷えり子衆議院議員のコメントから見てみます。「衆議院でも問題にさせてもらいましたが、あまりにもイージーに性を捕らえています。だって中学生にピルを勧める内容ですよ。ひどすぎる」とあります。
これは「ラブ&ボディ」において避妊薬であるピルを「女の子が自分で避妊できるのが最大のメリット。世界中で広く使われている薬だよ」として使用を推奨した点について特に述べられたものです。
さらに「ラブ&ボディ」には避妊の失敗率を「ピル1%コンドーム12%」としてピルなら絶対という印象を与えています。
このピル礼賛の記述に対し、前回に挙げた性教育書籍との比較で追跡してみます。
まず、ピルは体への負担を女性にのみ背負わせる、体内時計の破壊など副作用は女性の自己管理に任されてしまう、男性側の協力や思いやりをなおざりにしかねないとして、大人であっても使用は熟慮すべきだとあり、使用を推奨していません。
確かにピル礼賛の方の言われるような優秀な薬効のピルもあるのでしょう。しかし、如何に優秀であっても(あるいは優秀な性能を持てば持つほど)女性が化学薬品を用いて自らの体を男性の快楽に都合よくさせてしまう代物だとも言う事が出来ます。それは、よく言われる性の自己決定の一つかもしれません。しかし性教育を受けた男性との協調があれば、この女性の自己犠牲的な性の自己決定は不要になるのではないでしょうか。
性教育を受けた男性、つまり自己の性を管理し、性のパートナーへの愛欲に伴う責任を考える事が期待できる男性であれば、こうした女性のみ自己犠牲を強いるような決定はさせない様に思います。
勿論、これらは可能性ではあります。が、いずれの性教育図書でも男性側の協力や思いやりをなおざりにしかねないピルの偏重は間違いだと指摘しているのです。

このピルひとつの記述をとっても、性器教育は視点が性教育と異なる事がわかります。また、性器教育は性器を通じてセックスと快楽を得るものとの認識に偏って理解されやすいとされていますが、なるほどこのピルのの記述を見てみても、そうした指摘は当たっているように考えます。

※先の山谷えり子議員ですが、私が尊敬する才女の一人です。謹んでホームページを紹介いたします。
また、今後とも益々のご活躍を期待申し上げます。
http://www.yamatani-eriko.com/index.html
☆時代遅れの性器教育 その4)
前回からの続きです。性教育と性器教育の比較に於いて、性器教育の最右翼とされる「ラブ&ボディ」の内容について掘り下げています。
さて、前回にも紹介しました様に、コンドームよりピルが有効という情報を中学生レベルで認識したら、性のモラルは一体どうなるのか、と不安を持ちます。
週刊新潮02年7月11日号にもこの「ラブ&ボディ」に関する記事として、性器教育と性のモラル破壊への懸念が指摘されています。特に、ここでは「フリーセックス信仰の典型」との指摘もあります。
この週刊新潮記事には明星大学の高橋史郎教授(教育学)のインタビューも掲載されており、「ラブ&ボディ」の騒動が学校で起きたことへの懸念を指摘しています。
「子供というのは学校で配布されるものは基本的に疑うことなく受け入れます。セックスを奨励するような内容の冊子が配られれば、影響は計り知れないです。」とあります。
さらに、前回に触れましたピルの記述について武田玲子(クリニック玲タケダ院長)の意見も掲載されています。
「そもそも中学生がピルを服用するなどとんでもない話です。月経が始まったばかりの女性や妊娠経験の無い女性が服用を続けるなんて。」「ガンの比率も高くなるデータもあります。」
さらにこの記事にはピルの記載内容について問題点ありと指摘がありました。「ラブ&ボディ」に用いられているピルの失敗率が米国の数値に比べて低すぎるというものです。つまり、確認されているデータよりも、いかにもピルに効果があるような数値になっているのです。
これはフリーセックスを信望するあまり、主張を正しく見せかけるための数値操作をしたと言えそうです。先の「ラブ&ボディ」を推奨し、配布した人々が、特定のイデオロギーを持っているとされる証左かもしれません。

さて、先に「ラブ&ボディ」が国会で騒動となったとしましたが、勿論この「ラブ&ボディ」を推進した議員もいたのです。
これを教科書として採用する為に推進したのは、社民党の女性議員でした。またその議員の「ラブ&ボディ」推進理由の国会説明は「かつて女性は自分の体について考えることも触れることも許されなかったから」だとのことです。つまりは動機が近代の話ではない事が伺えます。また、この"かつて"がさす時代も不明確です。
少なくとも、昭和20年代の雑誌「りべらる」をみても、この時点で(あるいはその記事を信じるなら戦前にも)性をモダンでハイソな雰囲気で謳歌していることがわかります。
こうしてみますと"かつて"とは、もう生き証人も無い大昔の様です。
無論、その"かつて"の有り様を教える事は大切でしょう。しかし、それは今日の女子中学生がピルでセックスを受け入れるほどの結果を必要とするほどのものなのか、大いに疑問です。
 疑問といえば、性器教育と性教育の考察をする上で性器教育の推進をしたこの政党の先進性にも疑問を持ちます。さらに政策の考察に正しさを考慮に入れているのかという疑問も感じます。

一寸話しは脇道にそれますが、この政党の掲示板は、党の先進性を熱烈に賛美する投稿が連続して成されています。しかしそれらの内容は私が子供の時に既に聞いたことがあるもので、先進的な印象をもちませんでした。こうした、前に進まない先進性にも疑問がわきます。ここでこうしてみると投票すべきでない政党はどこかも見えた気がするのですが、如何でしょうか。
☆時代遅れの性器教育 その5)
さて、こうした性器教育の政治的影響力につきましては、最近の報道にも現れるようになりました。「共産革命の武器はセックスだ。それで社会の論理をつき崩せというヘルベルト・マルクーゼの理論がちらついている。」として、影響を危惧する論調も多くあります(週刊新潮03年4月17日号「偏見自在」から引用)。
しかし、いまだに性器教育こそ正義として扱っているマスコミ・新聞が多々あるのも事実です。先の「ラブ&ボディ」も配布が中止となって残念無念という記事が共同通信社系の報道で配信されたりしました。マスコミや先生方は、どうやら未だに「ラブ&ボディ」が目指す「正義」を諦めていないことの表れではないでしょうか。
先生方も「社会が悪い。そのための正しい理論」とでも吹き込まれているのでしょうか、世間知らずで学ばない体質から無批判に進めているように思います。そして持ち前の反社会性から保護者・PTAへの説明責任、自分らが行なっている事の検討や検証などは、思いつきもしないのでしょう。
前に掲げた三重県の市民によるインターネットニュース(現在、移転)の笠間小の問題でも「これは性教育ではなく性器教育だ、などの声が出されている。」と指摘されています。これに対し担任が取材に応じていない点が気になりますが、これも先生の反社会性の表れに思えます。

さらに性器教育の危惧は、03年に起きた長崎の少年による幼児殺害事件に関しても取り上げられました。アサヒ芸能でのタイトルをピックアップしてみますと
『深層スクープ/長崎「局部切り少年」を生んだ暴走「性教育」・ペニス模型で「射精実演」・「近親相姦アニメ」上映』とあります。その記事に於いても「長崎12歳の暴走は過激な性教育での結果起きたものだ。背後に性のトンデモ教育の蔓延がある」という指摘がなされています。
なるほど、社会性を欠いたまま性器の興味をかきたてたらどうなるかという結果の一つかもしれません。何しろ、その知識と興味を満たす欲望を力を持って行使する為、弱いものを狙うというあたり、実に社会性が欠如していますから。
さらに、この記事では先に著作を紹介致しました八木秀次先生がインタビューで登場、小学生の子息が学校で受けた性器教育の実態を知って、学校に乗り込んだいきさつが語られます。併せて精神科医のコメントとともに長崎12歳の事件と過激性教育の関連が記されています。が、やはり性器教育を取りやめたとの記事は未だ見当たりません。相変わらず、こうした性器教育については、さらに広がりつつあるようです。
さて、ここまで性器教育の実施反対を述べてきました。やはり性器教育は今の時代にあっておらず、全く先進的でもなんでもない様に思います。また、先の亀井郁夫議員の言葉にありますとおり「(若人の性モラルが壊滅的である)現実が度を越しているからといって、それをすべて追認して本を作るのはおかしい」と考えます。

以上、今回までは「内容的に時代錯誤」という点で、あれこれ書き上げて見ました。
続きまして、第三点の「性に政治的な正しさを求めている」について、次回より進めてみたいと思います。
                       →正義とファシズムに続く


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