|
|
| こちらのページでは、平和紀念東京博覧会の概要を紹介いたします。
大正11年(1922) 3月10日から7月20日の期間で東京は上野公園と隣接する不忍池で
平和記念東京博覧会が開催されました(関東大震災の前の年)。
会場は二つあり、第一会場が上野公園、第二会場は不忍池の湖畔に作られました。
明治から大正にかけて、東京を始めあちこちで博覧会が開催されました。これらは主に殖産興業をテーマとし、生産・近代化をアピールしていました。
一方、この平和記念東京博覧会は自由と平和を強調、各地各国の文化を強調した内容となっています。つまり、興業による国の強化(富国)より、文化を優先させた趣旨がありました。文化国家のイメージを強調し西欧各国へアピールする趣旨だったといえます。
テーマごとに建物がある点は、今日の博覧会、あるいはその前に開催された東京大正博覧会と同じですし、また類似もみられます。様々な企業の協賛もあり、会場には広告塔がいくつも建てたれていたようです。博覧会の開催手法は、すでに確立していたともいえます。
そして様々なデザインのパビリオンが作られました。大胆な幾何学的な曲線で構成された建物は、建築技術と建築家の技術の粋を極めたものです。
では、こちらでは博覧会のテーマ別に建てられた館を紹介します。
⇒画像インデックスへ
まず地図で会場をしめし、赤枠で囲んだエリアの建物を紹介する形とします。
画像はダウンロード形式としました。より大きく画像を見ることが出来ますので、ご面倒ですが、よろしくご容赦ください。
また、テーマ館毎の内容は、ほとんど情報が集まりませんでしたが、判明している限りお伝えしてまいります。 |
| |
|
|
|
博覧会会場の設営ですが、展示物の一部は開催にまにあわなかった、開催後も一部、工事が行われていた(以下、掲載しております写真の一部に、観客がいるのに、売店とおもわれる小屋が組み立て途中に見えるものもあります)などがあり、開催が大規模であっただけに、運営側がどたばたであったのか、などと想像しています。
実際、当事の案内本の記述に"天候の都合や何かでとにかく開館はしたものの、会場はまだまだごった換えしているから、すっかり準備が整うのは、夜間開場の始まる4月半ばだろうという。外国館の出品などまだ太平洋の途中にあるのがある。"とあります。
またリピーターが少なかったという説があります(二度もいくものじゃない、という知識人の文章が新聞に載るなどした)。また開催当初、行列が出来るほど人気だった乗り物(飛行機の形状で、プロペラ推進の遊覧ボート)も、最後のころは閑散としていたともききます。
ただ、やはり戦前では最大の規模でもあり、一千万人もの人出となったそうです。
特に大変に好評だった夜間のライトアップなど見所が多かったとされます。
このライトアップは、当事、近代的なものとして理解されていた電気をふんだんに用いるものでもあり、好評だった背景だったといえます。浅草では、電球を体中につけて、暗くしたステージでキラキラと踊る(コードを引きずりながら)というのが出し物として成り立った時代でもあります。
他の見所といえば、大小さまざまの噴水でしょう。国産の大小様々なポンプが実用になり、販売されはじめた頃でもあり、写真にもさまざまな噴水があります。
ライトアップと噴水は、当事、さぞ楽しめたことでしょう。同時にそれだけの演出が出来る技術が確立したことのアピールでもありました。耳目を集めるには充分な内容であったはずです。
ちなみに開催日は、日露戦争奉天会戦記念の日でもあります。
またロシア革命により日本に逃れたロマノフ将軍の令嬢マリヤがロシヤパンの店先で客寄せをしていたという興味深いエピソードがあります。もともとロシヤのパン(ロシアパン)はライ麦が原料で一般にわれわれがなじんでいるパンとは、やや食感が異なっています(ライ麦パン?黒パン?)。
ただ、ここで言うロシヤパンは、明治42年に中村屋(今日も肉まんやカレーで有名)から販売されたものに近いのでは、と思われます。
このパンが売られた場所は特定できませんでしたが、推定として、第二会場の西側(第一会場から見て不忍池の反対側)の航空交通館の前、宮島模型と並んだ露西亜(ロシア)館ではないかと考えます。
飲食物でいえば、今日も駄菓子屋にあるカルミンが大きな円筒形の広告塔を会場に建てています(回転するものと思われます)。その広告塔が建っている建物ではドーナッツが売られていたとのこと。またまたパビリオンの台湾館では烏龍茶(ウーロン)が振舞われたなど、なかなか飲食についても当時としては珍しいものが沢山あった様です。 |
| |
|
|
| ちなみに出展された物品は、各館とも工夫を凝らした様です。呉服店がマネキンを使い、店頭での取引を再現した展示物を掲載するなど、消費をくすぐるものも多くあった様です。
また博覧会ですので、消費商品だけでなく、学術的なものも並んでいた様です。
地質および鉱物類、金属、鉄、石炭、石油、硫黄類、リン鉱石、黒鉛、練炭、骸炭※、鉱毒除害、鉱業用機械器具。秋田鉱山専門学校から鉱物の標本ならびに調査図表が陳列。八幡製鉄所から、製鉄の工程紹介と、模型の出品がありました。
(※骸炭:コークスのこと。製鉄で用いる。)
また当HPでは別途、山口県宇部市の炭鉱跡地を訪問していますが、この平和記念東京博覧会に展示物を出していました。この展覧会の案内本に
"山口県宇部元山炭鉱株式会社※の出品は最上部に二間程の宇部炭田の断面図を掲げ"という記述があります。
この元山炭鉱につきましては、詳細は未確認ですが、大正時代に創業を始めていた本山(もとやまたんこう)炭鉱と同じかもしれません(誤植かもしれません)。
二間は1メートル10センチ程度(間は長さの単位で、一間は約55センチ)。瀬戸内海に有望な炭層あり、というアピールが出来たものと思われます。鉱山館では、この博覧会の一面を知る興味深い情報があります。
" 鉱産物の出品数は大正博覧会に比較して二割の減少、また第一次大戦の休戦以来、金属工業の不振のため、有力な鉱業会社の出品物は大正博に比較して思わしくない。 "
というものです。
確かに興業と富国よりも文化を強調したかったとはいえ、大規模に行われた博覧会でありながら、内容が乏しくなったというのは意外です。ただ、第一次大戦が終了し、世界的に景気が冷え込んだ(戦争特需の反動もあって)時期でもあり、そうした不景気の影響か、とも考えます。
学術以外にも展示物はあり、宝物といえるものもあります。
宝飾業者の出品で、ビルマ産の三万円相当のヒスイ、天然真珠や象牙が展示されていました。
いろいろな国のパビリオンもありました。それぞれの国の紹介がありました。
例えば朝鮮館は朝鮮様式の内装を持ち、農林水産業などの産業の紹介(サンプルの展示など)、古美術の陳列、特産品、絵葉書の販売が行われています。
そして、模型も多数展示されていました。朝鮮家屋模型、首都塩羅ナ、仁川港模型、そして金剛山模型がありました。優待券を持参すると、茶菓子の提供、絵葉書他印刷物(パンフレット)が無料で提供されました。
他のパビリオンも同様だった様です。
新しい生活についての展示もありました。東京瓦斯(ガス)の展示がそれで、、" ガス子婦人が瓦斯の合理的な考案を宣伝する "というものでした。
そのほか、新しい生活の紹介としましては、文化村があげられます。いわゆる文化住宅で、様々な近代的設計の建物が、会場に実際に建設され、見学できました。今で言うモデルハウスで、家具が配置され、建物の中に入って見学が出来ました。 |
| |
|
|
| この博覧会開催にあたり、様々な省庁や会社が動員されました。
まず交通について、その利便性を図るため、鉄道省は車両編成を増やし、京濱省電は臨時便を増発。市街自動車は会場四方からのバスの利便性を図り、上野にあった八十五台に加え、品川から三十五台、新宿から二十台が応援に回されました。
人力車は、地方客のために賃金の標準を定めて安心して使える様にしています。
ちなみに万世橋駅から上野の会場までが三十五銭でした。(秋葉原の万世橋にあった駅で、今も、上野側から見て橋を渡ったすぐ右にレンガでその跡地があります)。
また新宿駅からは一円二十一銭でした。人力車で新宿駅からだと、相当な時間がかかっただろうと想像します。
博覧会内にも各種の施設が整えられました。
銀行の出張所、郵便局の出張所(貯金事務を除く一般通信)、救護所は赤十字病院職員が配置され、無料で治療をうけられました。
さらに婦人休憩所が設けられ、男子禁制でゆったり休める配慮がなされていました。会場の写真をじっくり見ましても、ご婦人の見学者が多く見えます。
地方からの来訪者の為、付近一帯の旅館ホテルが連絡を取り合い、案内地図や交通手段案内の作成を行い、利便性を図っています。 |
| |
|
|
| 平和記念開催ポスターの絵を使用した案内書の表紙です。 |
| |
|