このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
ふ〜ん、なるほどねぇ。 要約すると、 この一里塚はおよそ360年ほど昔に鹿角街道の起点である盛岡城下から 約55km地点に築かれたらしいです。 昔の旅人が難所である「車ノ走り峠」越えに向かう前や、 宿場「荒屋新町」を目指す目標として利用していたみたいですよ。 そして昔も冬季は通行止めであったとのこと。 なお、より詳しく知りたい方は以下の案内板の全文をどうぞ。 七時雨一里塚(ななしぐれいちりづか) この一里塚は、鹿角街道の起点である盛岡城下鍛冶丁(盛岡市紺屋町)から十二里のところに築かれています。 盛岡藩は通常の三十六丁を一里とするところを四十二丁を以って一里としているところから、 起点からの里数が少なくなります。(一丁は、約一〇九m) 塚の規模は、高さ約一・八m、塚の裾幅は約七m、両塚の頂部間は約十四m、両塚の裾部間は約五mで、これが道路幅になります。 『奥州道中』の一里塚に比べると規模が小さいですが、 藩の脇街道であることや山道の地形が影響していると思われます。 一里塚が築かれた年代は、推測の域を出ませんが、承応二年(一六五三)の藩の家老日誌『雑書』に 奉行を派遣している記述があることから、この前後と思われます。 なお、安永四〜九年(一七一九〜二四)に『鹿角街道並木植立奉行』が任命され、街道の整備補修がされています。 正保四年(一六四七)の南部領総絵図の中に一里塚を示す印があり、その南側には『七時雨山』が描かれ、 脇には『七シキリ山大難所三里間雪中牛馬不通』と記されていることから、冬期間は通行止めであったことが分かります。 当時の旅人は、難所である『車ノ走り峠』越えに向かう前や 険しかった山道を下り疲れを癒す宿場『荒屋新町』を目指す目標として、この一里塚を利用したことでしょう。 当町には一里塚が四ケ所と並木道が一ケ所現存しており、 江戸時代の交通史を解明する上で貴重亜な資料を私たちに伝えています。 →出発する! |
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