このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

彼は相模からやってきた


果ては越後・相模・甲斐の三国を巻き込んだお家騒動といえる御館の乱。それは上杉謙信の二人の養子・上杉景勝と上杉景虎の戦いでした。三郎景虎は北条氏に生まれ、甲斐に続き越後へと人質として向かう事になります。しかし越後での待遇は、実子のいない謙信の養子となり、謙信の前名である「景虎」を与えられ、更に姪(景勝の妹)を妻に迎えるというものでした。しかし平穏な日々も謙信の急な死により終わりを告げ、越後は内乱に巻き込まれていきました。

上杉景虎の実家、小田原城。
北条三郎氏秀と呼ばれ、武田信玄の養子として武田三郎と名乗り相甲同盟が破れると小田原に帰って同族の北条幻庵の婿養子となった彼は、今また人質として越後へと向かう事になりました。景虎は大酒呑みだったともいわれますがこの環境が彼を酒に走らせたのかもしれません。
小田原といえば提灯ですね。街灯が小田原提灯風なのがとってもグー♪そしてこのお城に立ち寄った時には象さんと記念撮影しましょう。

北条早雲以降、北条五代の墓が並ぶ早雲寺は、箱根湯本という温泉地にあります。
景虎の岳父となった北条幻庵が造ったと伝えられる枯山水の庭園も見る事が出来ます。屋根には後北条氏の三鱗紋がキラリ☆小さなお寺のように見えて、ここはやはり後北条氏の所縁だったんだ〜!と幸せを実感する瞬間です。連歌師・飯尾宗祇にもお会い出来ます。恩師(専門は俳諧)にここを訪ねた事を報告したら、株が上がりました。秀吉が一夜城で使ったという鐘楼もあったり。ここ、小田原攻めの本陣でもあったんですね。
景虎のお兄さんである氏政や氏照のお墓は小田原にもありますがこちらは写真が今一つなので載せられませんでした(^^;)。

さて、景虎が身を寄せることになった越後へと舞台は移ります。これは春日山城三の丸付近。
右側の林の中が上杉三郎景虎館(三の丸)で左側の林の中が米蔵のあったあたりです。上杉謙信の養子となり春日山に入った景虎は御館の乱が勃発し、前関東管領上杉憲政の住まう御館に逃れるまでここで過ごしたのです。
実父である北条氏康が亡くなった時、彼は一度北条家に戻ります。しかし小田原に留まる事なく越後へと向かいました。彼にとって越後とは唯一、彼に居場所を与えてくれた地であったと
ももかは考えます。

資料によっては二の丸とある景虎の住居跡も春日山では三の丸です。ちゃんと碑もあります。
現在ではアニメ化された某小説(何とはあえて言わない)の影響からか、この看板を上回る看板が設置されているらしいですね。
これは1993年の写真。この年、3回はここを訪れたももかでした(^^;)。すっかり『天と地と』の世界につかっておりましたので。そういえば春日山の絵地図もどこかにしまってある筈。

直江屋敷址。
景虎と同じく養子となった景勝。彼は景虎を御館の乱で破り、越後を掌中に収めました。その彼が絶対的信頼を寄せていたのが名将・直江兼続です。普段は笑みも見せなかった彼が、唯一心を開いていた人物・・・なのかはどうか分かりませんが、とにかく兼続は景勝の治世になくてはならない人物です。
兼続の元の名は樋口与六といいました。彼の前立は「愛」〜♪美しさは「罪」〜♪
1581年に与板城主直江信綱が春日山城で殺害され、家名が絶える事を惜しんだ景勝により与六は直江家を継ぎました。この時、信綱の妻であった船は与六に嫁いでいます。
信綱が住んだ直江屋敷は春日山城の北東にあります。

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