このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

通りすがりの武田菱
(長野)

信州に残る武田信玄の所縁の場所って結構あるんですよね・・・。



信州駒場の長岳寺。
野田城で病に臥した信玄は駒場で病没したといわれここに安置、荼毘にふされたのだとか。
遠征途上の終焉の地、とまさにそんな感じの静かな時が流れる村の一角にあります。県境も間近。
5月に訪れたので新緑がとても綺麗でした。
武田菱の乱舞する本堂。寺宝は信玄の兜の前立。
密かに裏山で荼毘にふされた信玄ですが、その葬り方には
古来より土葬か火葬かが謎とされていました。
昭和6年に信玄の遺骨が岩村田の竜雲寺境内で発見されその折に火葬という事が判明、また信玄公火葬塚と呼ばれるものがこの地にあり、そこから灰と骨粉が認められたといいます。この為、信玄没後400年にあたり灰塚供養塔として十三重之塔が建立されました。灰塚供養塔は左。右は馬場美濃守信房の供養塔です。
そういえば高坂弾正、勝頼を迎えに来て駒場で信玄のありし日を回想していましたね。
信玄は3年の間、喪を隠し、鎧姿のまま石棺に納めて諏訪湖に沈めるようにと遺言したといわれます。諏訪は信州の中央に位置し、信玄の第四子・勝頼の生母である諏訪御料人の里。関東・東海・北陸の交通の要所でもある事から諏訪攻略は信玄にとっての上洛の足がかりともなりました。後に織田信長による武田攻略では、高遠を落とした後に諏訪に入り、新府へと攻めていったのです。
昭和61年、湖中に武田菱を思わせる菱形の物体が発見されました。その後の調査は進んでいるのでしょうか。
冬の諏訪湖は白鳥飛来地です。


諏訪には信玄の墓といわれるものがあります。
諏訪大社上社の普賢堂跡の裏手の山には、坂上田村麿の墓標の横に信玄の墓標があるのです。

信玄の側室となり四郎勝頼を生んだ諏訪御料人。諏訪総領家の姫君として生まれ、生家を滅ぼした信玄に迎えられるという運命を、彼女はどのように受け入れたのでしょう。
井上靖の『風林火山』では由布姫という名を得て、後に小坂観音院で過ごしたと描かれています。昭和38年に建立された諏訪御料人の供養塔は、円光院(山梨県)の正室・三条夫人の供養塔の二分の一の高さとし、材質は同じ佐久石を使用していました。そして約50年。長い年月の中で風化した供養塔は平成23年5月3日に御影石製の新しいものに建て替えられ、開眼供養が行われました。
また、かつては山門前に病床の御料人を見舞った信玄が何度も何度も振り返ったという「見返りの桜」がありました。400年の長きを生きたこの桜も昭和40年代に枯れ朽ち、惜しまれつつも切り倒されました。
現在の小坂観音院といえば紫陽花の名所。夏に青紫の花が咲き誇ります。
桜の名所・高遠城址(別名・兜山城)です。
1200本もの高遠小彼岸桜が開花する桜祭りの期間は小さな町に車と人が溢れます。小ぶりな濃いピンク色のこの桜は明治8年から植えられ、遠い昔この場所に散った人々に思いを馳せるかのように咲き乱れます。ジモティーの特権で、ももかも毎年訪れています♪
高遠城は山間の小さな集落の中にそびえる山城ですが、交通の要所でもある事がすぐ分かります。諏訪を背後から攻めるにはやはりここを抑えたい。誰もがそう考えるような場所なんですよね。

今川に追われた信玄の父・信虎は、信玄亡き後この場所で孫の勝頼に会いました。彼はそれから1年後、甲斐の土を踏みたいと念願しながらこの地で亡くなったといいます。
織田軍による武田攻略では城主であり勝頼の異母弟・仁科盛信がここで激戦を繰り広げました。盛信は討死。それから9日後、天目山において勝頼は自刃し武田家は滅んだのです。


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