このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

薔薇の小径
〜仏蘭西を歩く〜


ももかの行きたい異国の一つ仏蘭西のあれこれ。
フランス革命史蹟めぐり。別名・『ベルばら』への旅(笑)

■写真提供はこゆりです。 2000年11月撮影■


ヴェルサイユ宮殿(現・ヴェルサイユ宮殿美術館)

ルイ13世の狩猟の為の館をルイ14世が増築。
ルイ14世からルイ16世までの治世に王宮として使用されました。

マリー・アントワネットが初めて足を踏み入れたのは1770年5月16日。15歳の時でした。以後1789年10月5日に起こった「ヴェルサイユ行進」により国王一家がパリに帰還するまでの歳月をここで過ごす事になります。

国王一家が去った後の宮殿では家具調度品、美術品などは散逸してしまうのですが、様々な人達の努力によって買い戻されたり寄贈されたりして、現在に至っています。

1559年。国王アンリ2世は、王女の結婚祝いに行った槍試合で、モンゴメリー伯に致命傷を負わされ亡くなりました。王妃カトリーヌ・ド・メディシスはその惨劇の現場となったトゥールネル城館を忌み、チュイルリー宮殿を作りました。これが宮殿の始まりです。
因みにチュイルリーは「瓦焼き作業」「作業所」の意で、もともとここは煉瓦が焼かれていた場所でした。

1789年。国王ルイ16世一家はヴェルサイユからパリに移されここで過ごしました。しかし翌年8月10日連盟兵の助けを借りた自治体が宮殿を襲撃。国王一家は宮殿に戻る事が出来ないまま同13日にタンプル塔へ移されたのでした。この時の虐殺は凄惨を極めたといわれ、犠牲者は現在、ダンフィール・ロシュロー広場のカタコンブ(地下墓地)などに葬られています。

またチュイルリー宮殿はルイ16世以降のヴェルサイユに帰る事のなかった君主達、・・・つまりルイ18世、シャルル10世、ナポレオンらの居館ともなりました。
1871年のパリ・コミューンで焼失し、現在は公園となっていてパリ市民の憩いの場です。

チュイルリー宮殿(現・チュイルリー公園)

バスティーユ牢獄跡(現・バスティーユ広場)

1789年7月14日。
武器を求めるパリ市民によってバスティーユ牢獄が襲撃され、ここにフランス革命の火蓋が切って落とされました。バスティーユ牢獄は1370年にパリ市長ユーグ・オブリオによって建設が始められ、1382年に完成。後に国事犯の牢獄として使用された事からパリ市民の恐怖と憎悪の対象となっていました。鉄仮面やヴォルテールが幽閉された事でも知られています。

当時収容されていた囚人は7人。この襲撃の数日前、牢獄の窓から演説をして司令官ド・ローネー侯爵の怒りをかったサド侯爵は他施設に移されていました。襲撃によってサド侯爵の部屋は荒らされ、獄中で書き上げた原稿は紛失。1世紀後にこの時の作品は出版という形で甦る事となります。

翌日、国王ルイ16世が「反乱」として解釈したこの日の出来事を「革命」という言葉で訂正したのはリアンクール・ド・ロッシュフーコー公爵。
バスティーユ牢獄は7月16日に解体が始まり、翌年2月6日に終了。現在は広場となり、1989年に革命200年を記念してオペラ・バスティーユ(新オペラ座)がその傍らに建てられました。

1793年の国民公会により設置された革命法廷の本拠地であり、もともとはパリ裁判所の一部として建てられたコンシェルジュリー牢獄。

当時の検事だったフーキエ・タンヴイルはここから民衆の逮捕・刑の宣告を行い、その数は2年間で2700名余りといわれています。この中には「人民の友」を殺害した‘暗殺の天使’シャルロット・コルデや、恐怖政治を敷いたロベスピエールやサン・ジュストの姿もありました。

かつて「レーヌ・ド・フランス(フランス王妃)」と呼ばれたマリー・アントワネットは1793年8月2日から処刑までの76日間をここで過ごしました。その独房はルイ18世の要望により礼拝堂となっています。

1914年に牢獄としての機能を廃止。現在は歴史資産として一般公開されています。

シテ島にあるコンシェルジュリー牢獄、パリ裁判所


ルイ15世広場(現・コンコルド広場)
ルイ15世の騎馬象を置く為に造られ、パリの中央にあたります。
「ルイ16世広場」「大革命広場」という名を経て現在は調和を意味する「コンコルド広場」と呼ばれています。


ルイ16世の処刑は1793年1月21日。現在のコンコルド広場北西のブレスト市を表す彫像が置かれているあたりで行われました。その後断頭台は同5月10日以降チュイルリー公園側の格子前に常設され、1795年に撤去されるまで多くの血が流されました。
しかし断頭台が実際にその役目を終えたのは死刑廃止となった1981年の事。現在カルナヴァレ博物館には実際に使用されていた2基の断頭台が保管されています。当時、一文化を担った「パリ製」の断頭台はフランス国内はおろか国外まで輸出されていました。明治大学に併設する軍事博物館には国内唯一の断頭台の複製品がある事で知られています。

このオベリスクはシャルル10世に贈られたもので、エジプトのルクソール神殿にありました。足下のプレートには国王夫妻の処刑の記録が彫られています。

1200年フィリップ・オーギュストが作ったルーブル城壁がその歴史の始まりでフランソワ1世が宮殿として改装。ルイ14世の居城でしたが後に離宮であったヴェルサイユに政治と文化の中心が移りました。

フランス革命以降は美術館として一般に公開され、収蔵物も増えていきました。ナポレオンも美術収集に熱心な一人でした。
フランス革命という時代を生きた画家の一人ジャック・ルイ・ダヴィットも『マラーの死』『ナポレオン一世の聖別式とジョゼフィーヌ皇后の戴冠』などの様々な作品を残しています。またウジューヌ・ドラクロアの2月革命を描いた作品『民衆をひきいる自由の女神』もここに展示されています。現在は世界三大美術館の一つとしてその役割を果たしています。

ルーブル宮殿(現・ルーブル美術館)


ノートルダム寺院からみたパリの風景
セーヌ川の流れは昔と同じ。

ノートルダム寺院は革命時代に荒れ、それをナポレオンが修繕。彼はここで戴冠式を行いました。歴代フランス国王がランスで戴冠式を行ってきたのに対し、パリでこれを催すという事。彼にはそれなりの意味があったのです。

遠くにフランス革命から100年後に造られたエッフェル塔が見えます。


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