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カフェ・フーケ〜店長自慢のオリジナルブレンド〜
ちょっとしたお話。

巴里祭と革命記念日
■7月14日は1789年にバスティーユ監獄が民衆によって襲撃され勝利をおさめた歴史的な日です。フランス革命勃発の日ともいわれていますよね。1年後の1790年にシャン・ド・マルスにおいて行われた連盟祭では国王夫妻が列席のもと、タレーランがミサを執り行いました。因みに国王夫妻が断頭台の露と消えるのは僅かに3年後の事です。
■第三次共和制下の1880年以来、7月14日はフランスの国民の祝日となりました。現在シャンゼリゼ通りでは大規模なパレードが繰り広げられてフランスの夏の風物詩ともなっています。
■さて、この日を「巴里祭」というのは日本だけだったりします。フランスで「巴里祭」と言っても通じないんですよね。これはルネ・クレール監督の映画「Le Quatorze Juillet(直訳は7月14日)」を日本語に訳した時、「7月14日」(=つまりフランスでは暗に革命記念日を示す)が日本にはそぐわないと考え、「巴里祭」とした為です。1963年になって、この日は日本のシャンソンの祭典「巴里祭(パリ祭)」となりました。(当時は7月13日)
「王妃」の名を持つシンフォニー
■エステルハージ侯爵の楽長であったフランツ・ヨーゼフ・ハイドンが、生涯に作曲した交響曲は104曲という膨大なものでした。彼が交響曲の父と呼ばれる事のはこれが所以なのでしょう。この中には「パリ交響曲(パリ・セット)」と呼ばれるものがあり、第82番から第87番の6曲がこれにあたります。パリ・セットは当時名声が高かった演奏団体ル・コンセール・ドゥ・ラ・ロージュ・オランピックとこれを支援するドーニ伯爵の依頼で作曲されました。
■パリ・セットの4曲目にあたる第85番(変ロ長調)は「王妃(Le reine)」という異名がつけられています。ハイドンの交響曲にはこうしたものがちらほらと見受けられ、第22番(変ホ長調)には「哲学者」、第82番(ハ長調)には「熊」などの名が。「王妃」は1785年頃に作られたとされています。王妃マリー・アントワネットがこの作品を好んだ事が異名の由来でもあり、1787年にパリにて初演、翌年のパリ・セットの出版(初版)にあたり「フランス王妃の」と記されました。
樹齢321年が見てきたもの
■ルイ14世の時代にヴェルサイユ宮殿の庭園に1本のコナラが植えられました。後にルイ16世の王妃マリー・アントワネットはその木陰を愛し、いつしかそれは「マリー・アントワネット王妃のコナラ」と呼ばれるようになりました。
■2003年の夏のパリでは、街路樹の葉が枝ごと暑さの為に落ちてしまうほどの記録的な猛暑に襲われました。そして1999年の暴風雨にも耐えたというこのコナラも遂に運命に逆らう事は出来ませんでした。高さ約35メートル、幹の周囲は5・5メートルの大木は321年の樹齢を数えたまま2005年2月9日に伐採され、静かな眠りについたのです。因みにコナラは環境次第では1000年も生きるともいわれています。
世界最高の時計
■ヌーシャテル生まれのスイス人アブラアン・ルイ・ブレゲが、今までにない最高の複雑時計の注文を王妃マリー・アントワネットから請け負ったのは有名な「首飾り事件」の翌年の1783年。彼は1775年にパリに時計工房を開き、以来ルイ16世夫妻を始めとするフランスの王侯貴族を顧客につ優れた時計技師でした。
■パーペチュアルカレンダー(=Perpetual Calender。永久暦。閏年にも対応したカレンダー)、ミニッツリピーター(=Minute repeater。二度打ち時計、引き打ち時計と呼ばれ、バネをひく事により時を告げる時計の事。1時間・15分・1分を表す3種類の鐘の音を組み合わせ時刻を表した。闇の中でも時間を知る事が出来る)、トゥールビヨン(=Tourbillon。姿勢や重力などでどうしても出てしまう姿勢差による誤差を補正する為に考えられた仕掛け)、スプリットセコンド(=Split seconds。最上級のクロノグラフ。つまりストップウォッチ機能を持つ)など「時計の4大機構」を組み込み、他にも昼夜を表す太陽と月のマークが出るなど様々な機能をも持ち、金側、しかも機械の大部分が金という豪華さ。直径は6.3センチ、厚さ2・6センチ。これだけの機能を持ちながらこの薄さ。複雑時計とは、時を刻む作業に付加価値を併せ持つ時計の事です。「金も時間も制約はしないこの世で最も美しく複雑な」というマリー・アントワネットの注文に応え、ブレゲは約20年もの歳月をかけてこれを作り上げました。他の大勢の顧客からの注文もこなしていた為に、これだけの年月がかかったともいいます。
■しかし、「ブレゲNO.160」−後世に「マリー・アントワネットの時計」と呼ばれる−を注文主であるマリー・アントワネット本人が手にする事はありませんでした。1789年の革命の勃発に伴い、ブレゲも王侯に近い存在であった為、故郷のスイスに亡命。マリー・アントワネット自身も1793年に断頭台の露と消えてしまうのです。
■後にこの時計の所在は分からなくなりましたが、20世紀に入りデヴィット・ライオネル・サロモンズ卿が所有。ブレゲ社の時計の愛好家であった彼は「ブレゲ(社)の時計を所有する事はポケットの中に天才の頭脳を忍ばせているようなものだ」という有名な言葉を残した事で知られています。サロモンズ卿の死後、この時計はイスラエルのメイヤー記念イスラム記念館(美術館)に寄贈されました。しかし1983年4月16日に盗難に遇い、現在はその行方は不明のままです。
ハンカチーフの日
■11月3日は「ハンカチの日」。これは当時のファッションリーダーでもあったマリー・アントワネットに由来します。18世紀においてロココ調のデザインが主流であったハンカチは実に多彩な形をしていました。菱形、丸形、三角形、長方形など。元々は「頭を被う布」の役割を果たしていた「ハンカチ」は、その素材の貴重性から親から子へと受け継がれるものとして、或いは男性から女性へと贈られる愛の形へ、または逢引などの小道具に使われたりと変化を遂げました。因みに1枚のハンカチが引き起こした悲劇として知られるシェイクスピアの「オセロー」は1世紀前の17世紀後半に上演されています。また当時の贅沢品であったレースを使ったものは、その持ち数で家柄が分かるとまでいわれました。
■マリー・アントワネットはその様々な形を否定し、正方形へと改めるよう夫君ルイ16世に進言。こうして1785年「フランス国内におけるハンカチは全て縦横同じ寸法のものに」という法令が出され、正方形のハンカチが広まっていきます。1983年日本ハンカチーフ連合会はこの故事に因み、マリー・アントワネットの誕生日(11月2日)に一番近い日本の祝日である11月3日(文化の日)を「ハンカチーフの日」と定めたのでした。
ファッションとしてのジャガイモの花
■じゃがいもは「大地の林檎(Pomme de terre)」と呼ばれます。新大陸からヨーロッパに入ってきたのが16世紀であったにも関わらず、18世紀のフランスでは庶民の主食はパンであり、じゃがいもは家畜の餌としてしか考えられていませんでした。これを飢饉の際の食糧に、と考えたのはアントワーヌ・オーギュスタン・パルマンティエ。この功績により後に授爵し、男爵となっています。彼の名はメトロの駅名となり、パルマンシェ駅3号線には様々なじゃがいも料理や彼の足跡を見る事が出来ます。また生誕250年記念につくられた像はホームに展示されています。
■彼はドイツで捕虜生活を送っている時に食糧としてのじゃがいもの存在に出会います。1769年から1770年にかけての飢饉を経て、1778年に『じゃがいもの科学的分析』を発表、ヌイイーのサブロンにじゃがいも畑を作りました。しかしフランス人に馴染みがないこれを、いざその口に運ばせるという事はなかなか難しかったのです。そこで考えたのはこれ。畑を昼は国王親衛隊に監視させ、夜はそれを解くのです。「あの畑には何か美味しいものがあるようだ」と人々が思ったのはいうまでもありません。この事からじゃがいもがフランスに広がっていったといいます。その速度がどのくらいのものだったのかはももかは分かりません。何故なら下記に出てくるジェルマン・シュヴェはじゃがいも栽培で身をたてようとして失敗しているのです。フランス革命の勃発が1789年、シュヴュの失敗が1793年ですから、まだそんなには浸透していなかったという事なんでしょうね。因みにボーヴィリエ曰く「じゃがいもの最上品はオランダ産」との事でした。
■さて、貴族はというとじゃがいもの事を「庶民のパン」と呼び、それを食す事よりもその花を飾る事が流行しました。国王ルイ16世は上着のボタンの穴に挿し、王妃マリー・アントワネットはその結い上げた髪に飾ったといいます。
ヴェルサイユのばらに想いを寄せるとき
■王妃マリー・アントワネットといえば薔薇を愛した女性としても知られています。彼女の肖像画の1つに薔薇を持っている作品があるのですが、あれは当時は珍しかったピンク色の薔薇だったりするのです。こんな彼女に薔薇を納めていたのがパリ近郊バニョレに花栽培を家業としていたジェルマン・シュヴェ。シュヴェは王政転覆後も最後に住んだコンシェルジュリー牢獄においてもマリー・アントワネットに薔薇を送る事を止めませんでした。しかしこれに反革命的な手紙を添えたという事が罪に問われ、逮捕されてしまうのです。結局、17人の子持ちという事で赦免されたのですが、「貴族の花」「反革命の象徴」である生業の薔薇を一株残らず抜かれ、生計を絶たれてしまいました。
■その後のシュヴェはじゃがいも栽培で失敗した後、パリにおいて実は知る人ぞ知る高級食材店を営み、これが成功。彼の店「シュヴェ」にはタレーラン、ミラボー伯、カルノー、タリアン夫人などの著名な顔ぶれを見る事が出来ました。また料理人としても第一人者となり、カレーム、グッフェ、ベルナール、デュナン等の後のフランス料理界で活躍する人々を指南したりとシュヴェ自身も目覚しい活躍をしたのでした。
「パンがないならお菓子を食べればいいのに」
■これは1789年10月のヴェルサイユ行進の時に、パンを求めて来た民衆に対して王妃マリー・アントワネットが言った言葉といわれています。実はこの言葉の出典は1770年に著されたジャン・ジャック・ルソーの自叙伝『告白』の中にある「さる高貴な王妃(王女)の言葉」として紹介されたもの。1770年といえばマリー・アントワネットは王太子妃としてフランスに輿入れしたばかり。因みにこの言葉の主はルイ15世の娘であるヴィクトワール王女が飢饉に際して言ったもの。マリー・アントワネットへの民衆の怒りはこういう言葉を彼女に擦りつけたのでしょう。
■言葉の中の「お菓子」。本によっては色々あって「ケーキ」「ブリオッシュ」「クグロフ」と訳されているのですが、どうやら意味するところは同じみたいです。主に使われている「ブリオッシュ」はパン屋でもお菓子屋でも売られていますからそれをケーキと訳してもおかしくはないと思うのです。もっともももかはフランス語は詳しくないのですけど(笑)。

■■ブリオッシュ■■

語源はブリ(砕く)とオシュ(揺さぶる)という説、地名ブリーが由来する説など諸説があります。ウィーンで生まれ、パン職人がフランスに持ち込み17世紀に改良されました。初めはブリー・チーズを使っていた事はアレクサンドル・デュマも指摘するところで、それが現在のようなバターと卵をふんだんに使った物となったのです。形は色々とあって、良く知られているのは、「フランス中世の僧侶の頭」のクロリオッシュ・アデット。その他、「王冠」のクローヌ、「円筒型」のムヌリーヌ、「バウンド型」のナンテール等があります。

■■クグロフ■■

語源はドイツ語のクーゲルホフで、クーゲル(球)とホフ(輪)が結びついて出来た言葉という説、グーゲル(僧帽)という説があります。ブリオッシュの一種で干し葡萄が入っていて(ドライフルーツでも作りますけど)アルザス地方の名菓として知られています。当時はビール酵母を使って焼かれていましたが現在はイースト菌を使うところが多いみたいです。マリー・アントワネットはこれが大好きでヴェルサイユで作らせていました。ポーランド王スタニラフ・レクチンスキーもこれを好んで食べた事が知られています。クリスマスに食べる事が多いのです。
トルコとの戦いで生まれたクロワッサン
■その誕生にはオーストリア・ハンガリー帝国とトルコ帝国との戦いが背景にあります。17世紀にトルコ軍は領土の拡大を目指して東欧へと進出します。1683年ウィーンを包囲していたトルコ軍をオーストリア軍が破り、それを祝して敵軍の旗印であった三日月を象ったパンを作ったという説、1686年ブタペストを包囲していたトルコ軍が市の中心部に向かって地下トンネルを掘り始め、それに気づいたパン屋が味方にこれを伝えた事からそれを機に敵軍の旗印であった三日月を象ったパンを作る特権を与えられ広まったという説があります。語意はフランス語のクロワトル(満ちつつある、転じて三日月)、クロワッサンはその形と共に三日月を示すフランス語です。
■マリー・アントワネットによりフランスに持ち込まれたクロワッサンは、やがてフランス全土に広がります。彼女もヴェルサイユ宮殿でこれを作らせました。尚、ウィーンタイプは普通の菓子パンの生地で作られていて、今日のクロワッサンとは形が違うともいわれています。朝食にはカフェ・オ・レとクロワッサン、というのがフランスの定番でしたが果たして現在はどうなのでしょうね。
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