このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

永代の京
〜京都市/東山区編〜

明智光秀首塚
けちみつひでくびづか  明智光秀(1528?−1582) 豊臣秀吉(1536若しくは1537−1598)

本能寺の変から僅かの間天下人となっていた明智光秀は、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、近江坂本城に逃れる途中で横死してしまいます。案内板には家来が彼の首を落とし、知恩院の辺りまで来たものの、夜が明けた為にこの地に首を埋めたと書き記されています。別のお話によると秀吉は三井寺で光秀の首実験を行い、翌日に粟田口に晒しました。粟田口黒谷通の東方に埋められていた首は、明和8年に明田利右衛門という人物が貰い受け此処に葬ったとも伝えています。小さな塚には「光秀公」の文字が掲げられ、ちゃんと整備されていて当初予想していたようにおどろおどろしいというイメージは払拭されました。白川沿いを歩きながら辿り着いたのですが、観光客も少なくて何だかとても良い感じでした。
明保野亭
あけぼのてい 坂本龍馬(1836−1867) 柴司(1844−1864)

清水寺に続く三年坂にあって、元は坂本竜馬が常宿していた「明保野亭」を改装したもの。幕末期には討幕の志士達の密議に使われていたといわれます。元治元年6月の「明保野亭事件」の舞台でもあり、現在は京料理がいただけます。
粟田神社
あわたじんじゃ 青蓮院門跡鎮守社

粟田天王社、感応院新宮とも呼ばれる青蓮院門跡の鎮守社で、貞観18年に京の七口の一つ粟田口に創建されました。門前の道は旧東海道です。この年、京では悪疫が流行し勅使として藤原興世が平癒を祈願。満願の夜に信託が下り「吾は大巳貴神なり。帝都の祇園の東北の霊地に祀るべし」とあった為、この地に神祠を建立したのだとか。粟田口といえば高台!坂道がとてもきついのですが見晴らしは最高。粟田祭にて使われる阿古陀鉾は、知恩院にある瓜生石からにょきっと生えた瓜から象っているといいます。
安祥院(日限地蔵)/梅田雲浜墓所
あんしょういん/うめだうんぴんぼしょ浄土宗 山号/なし 本尊/阿弥陀如来  通称/日限地蔵 京都六阿弥陀の一つ

「日限りさん」として親しまれる安祥院は、五条坂を少し上ったところにあります。元は大藪村(現・久世大藪町)にありましたが、享保年間に木喰正禅阿上人が此処に再建しました。約2.6mの金銅製の地蔵尊には霊元法皇や宮の各々が奉納したという銅鏡が鋳込まれているのだそうです。この地蔵尊や、御本尊・阿弥陀如来は上人の作。境内には西京極の佃橋から移された橋桁石や梅田雲浜のお墓があります。また此処には播磨林田藩の大高忠兵衛も眠っています。彼は赤穂浪士大高源吾の子孫であり、幕末の池田屋事件の折に現場を脱出し翌日新撰組によって逮捕。後に六角獄舎で獄死し、安祥院に葬られたのです。因みに池田屋で命を散らせた大高又次郎は一般に彼の義父とされていますが、年齢が余りにも近い事から彼の親類ではないかと言われています。司馬さんの小説で又次郎を斬ったのは監察の山崎蒸さんでした。テレビでも彼らの遺恨が赤穂浪士の討ち入りから続いていたというドロドロしたお話でしたが、加藤虎ノ介さん演じる夜中の山ちゃんこと、山崎さんが良かった!
石塀小路
いしべいこうじ

ロケ地として有名な小さな石畳の道。ももかが通った時にもテレビ番組の取材中でした。元々は明治の初め頃、川の氾濫を防ぐ為に煉瓦で作られた道だったりします。そしてこの煉瓦、京都で焼かれたものなのだそうですよ。また一部には京都初の市電の敷石が使われているのだとか。
一條天皇皇后藤原定子鳥戸野御陵
いちじょうてんのうこうごうふじわらのさだことりべのみささぎ 藤原定子(977−1001) 一條天皇皇后(一條院皇后宮)

化野・蓮台野と並ぶ三大葬送地の鳥辺野にあります。鳥辺野は賀茂川東方、五条から今熊野の一帯の事。藤原定子は藤原道隆と高階貴子の長女で一條天皇の皇后。その明るく優雅で美しい姿は『枕草子』に生き生きと書き留められています。定子の実家である中関白家は叔父の藤原道長の権力が強まる一方で衰退していきました。また定子も3人の子供に恵まれますが若くして亡くなりました。その臨終に残した歌「煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれと眺めよ」から土葬にされ鳥戸野に葬られたのです。かなり急な階段を登った先にあり、整備されていますが1人で訪れるのはちょっと怖い感じ。ももかはスーパーダッシュで帰って参りました(笑)・・何度行ってもそんな感じ。この鳥戸野陵は醍醐天皇皇后穏子、円融天皇女御皇太后詮子、後朱雀天皇皇后禎子内親王、後冷泉天皇皇后歓子、白河天皇皇后賢子、堀河天皇女御贈皇太后茨子の火葬塚にもなっています。こうしてみると平安中期には既に火葬が珍しい事ではなくなっていて定子の土葬こそが珍しい事だったように思いますがどうなのでしょうか。でもとある貴族の子女が幼くして亡くなり、悲しみに耐えかねて親が翌日従者をやって埋葬させた場所の様子を見に行かせたら既に何もなかった(犬の類に喰われてしまったらしい)、という話があるんですよね。風葬もあった訳で。裏平安京を垣間見るような記述です。
一本橋(行者橋・阿闍梨橋)
いっぽんばし(ぎょうじゃばし・あじゃりばし

川に架かる橋で、別名を「行者橋」または「阿闍梨橋」といいます。比叡山の阿闍梨修行で千日回峰行を終えた行者が、粟田口の尊勝院の元三大師に報告し、入京時に最初に渡る橋なのだそうです。千日回峰行というと宮本武蔵!確か、大河では僧侶に追い出され・・・。他に最澄や弁慶も行っていますが、1200年の歴史の中で、平成15年に満行された酒井大阿闍梨の弟子藤波源信師まで47人しか果たせなかった比叡山・究極の修行なのです。千日をかけほぼ地球1周(37000キロ)を巡拝というのですから、凄いですよね。という事は此処を渡る人って相当な方々だったという事ですね。勿論、庶民も渡っていたのでしょうが。人1人がやっと通れる程の細い橋。白川沿いに植えられた柳と川を泳ぐ鴨ちゃん達を見ながら、思わず写真を撮ってしまいました。
今熊野商店街
いまくまのしょうてんがい

今熊野商店街の前身は門前町だったようです。通りには新熊野神社も鎮座。泉涌寺や東福寺に行かれる時はこの界隈を散策するのも楽しいですよ。
新熊野神社
いまくまのじんじゃ 京都三熊野の一つ

永暦元年に後白河上皇が平清盛に紀州国の熊野神を勧請させたのが始まりです。熊野の新宮の意として「新熊野(いまくまの)」の名が付けられました。大樟(くすのき)さんと呼ばれる大樹もこの時に植えられたといいます。12月23日に行われる綱掛神事では触れることも出来、その後でももかも御神酒や稲穂をいただきました♪戦乱による焼失もあり、一時衰退。江戸時代になって後水尾天皇の中宮徳川和子(東福門院)が復興を発願、聖護院宮道寛親王により再建されました。熊野という事で御神紋は「梛に烏(八咫烏)」です。三本足の烏ですよね。参拝順序がありますので、境内の案内板を見て正式参拝を。
新日吉神宮
いまひえじんぐう

豊国廟のすぐ近くにあり、その名の通り日吉大社所縁の地です。後白河上皇が院の御所を法住寺に定めた時、皇居の守護神山王七社を迎えたのが始まりで当初は壮麗を極めた社殿と敷地だったのだとか。応仁・文明の乱を経て戦国時代に衰退。ほぼ現在の場所に還座したのは後水尾天皇の勅令による江戸時代の事でした。日吉というだけあってお猿と豊臣秀吉にも関わりがあるのですが、こちらの守護はやはりお猿で、阿吽のお猿さんがとても可愛いのです。昭和33年に法住寺御陵から後白河天皇の御神霊を迎えて合祀。そして翌年には神宮号を許可されています。一見してみると小さなお社なのに何故に神宮なのかというのが疑問でしたが、その深い歴史をみると頷けました。境内の飛梅天満宮は洛陽二十五社の一つ。
大谷祖廟(東大谷)
おおたにそびょう 真宗大谷派 本尊/阿弥陀如来

弘長2年に亡くなった親鸞は東山西麓の大谷の地に納骨され、この墳墓が大谷祖廟の起源とされています。江戸時代の東西本願寺分派に伴い整備と修築を繰り返し現在に至っています。新撰組二番隊伍長で監察であった島田魁さんの墓所としても知られています。しかしこの墓地内でも高台の26区にあったこの墓所は現在は撤去され、彼は無縁仏として御廟に納骨されています。・・平成の、つい最近の事です。
鴨の河原
かものかわら

鴨川の河原は亡者の霊魂が集う場所。つまり死体を晒したり捨てたりした所でもありました。『方丈記』に出てくる場面が至る所で日常的に繰り広げられていたのでしょう。刑場にもなっていて歴史的著名な方々の処刑も数多く行われました。現在は改修工事の為、綺麗に整備されその歴史は微塵にも感じられません。夏の鴨川の川床は名物。でも京都の夏は酷暑で鴨川に出向いてもやっぱり暑かったりするのです。
祇園会所跡
ぎおんかいしょあと

八坂神社の西楼門側の信号機向かいにあるところが祇園会所跡です。丁度コンビニのローソンが建っているところですね。この場所は実をいうと三条小橋池田屋で起った池田屋事件の折、血を吐いた沖田さんが引き上げた所なのです。ももかは夜の祇園さん散策の折はこちらで必ずお買い物をします。
京都霊山護国神社/明治維新史跡公園(維新の道
きょうとりょうぜんごこくじんじゃ/めいじいしんしせきこうえん(いしんのみち

明治元年に初の官祭招魂社として創建され、その当時は霊山官祭招魂社といいましたが昭和14年に現在の名に改称。幕末の長州、土佐、筑前、肥後といった各藩の殉難者ら549柱を祀ります。その中には著名な方々の名前も数多くあげる事が出来ます。坂本竜馬・中岡慎太郎・桂小五郎(木戸孝充)と幾松夫妻・吉田稔麿らの池田屋事件殉難烈士、久坂玄瑞らの禁門の変殉難の長州藩の面々・・・。高杉晋作も忘れてはなりません。これらの方々が祭神として祀られていらっしゃるのですね。墓城入口が自動改札みたくなってしまったのは残念です。何だか現代的すぎて。昔は新撰組所縁の壬生寺のように此処にも幕末ファンが残したノートが野ざらしのように置かれていましたが、現在はないようです。何時の頃からかそれを入れるプラスティックケースを見るようになったんですよね。今は墓石も整然としているように感じられます。後に太平洋戦争等の殉難者を合祀。また霊山護国神社参道の第二の鳥居の辺りを「維新の道」と呼んでいます。春の午後、桜散る竜馬さんのお墓から彼等が命を燃やした京の町並みを見るのがお勧めです。眼下に見える維新の道に植えられた桜並木もとても綺麗なんですよ。平成22年大河ドラマ『龍馬伝』の影響からか、前年の秋の龍馬さんの墓前にはいつにない参拝者の数!驚きました。
清水寺
きよみずでら 北法相宗大本山 山号/音羽山 本尊/十一面千手観音 世界文化遺産

界文化遺産で京都では珍しい法相宗寺院。妻の安産の為に鹿の胎児を求めて音羽の山に分け入った坂上田村麻呂は、音羽の滝で修行中の延鎮にその非を説かれ、妻と共に帰依。八坂にあった館を寺とし北観音堂と称しました。創建は延暦17年ですが、その後焼失を繰り返し現在の建物は寛永10年の再建によるもの。この時「清水の舞台」も再建されました。ライトアップの期間も設けられていますので夜の散策にも足を延ばされる事をお勧めします。ももかは春のライトアップが好き。先年の土砂崩れの為一部山肌が改修されていますが、そこに桜の若木が植えられました。これが成長して花をつけ私達を迎えてくれる日が楽しみなのです。田村麻呂所縁という事から阿弖流為と母礼の碑をみる事が出来ます。「田村堂」を見ると田村麻呂を連想してしまうももかなのでした。坂道がきつくて観光客も多いけれど何度でも行く価値はあり!!33年に1度という本堂の十一面千手観音像の御開帳があった平成12年はかなり多くの参詣者があったようですが、ももかは台風真っ只中の雨降りの日に訪れたので静か過ぎるくらいでラッキー♪時間帯も早かった事もあり殆ど貸切状態でした。また、寛永再建370年記念として243年ぶりとなる奥の院御開帳(平成15年)も良かったですよ。『源氏物語』では夕顔の葬送の際に清水寺の辺りを見上げると明かりが多く見え、人が沢山いるという場面があります。また『枕草子』『更級日記』や謡曲『田村』『熊野』にも登場。『源平盛衰記』には鵺の死体を清水寺の岡に埋めたとあり、これも何処なのか想像を巡らせるのも楽しいと思います。平成5年秋・平成13年春・平成16年秋・平成22年夏のJR東海のCMにもお目見えし、「京都にうんと詳しいほうがかっこいい」のフレーズはももかの琴線に大きく触れました。

■■成就院じょうじゅいん 清水寺本坊 別名/月の庭 
普段非公開。願阿上人によって創建され現在の建物は寛永16年のもの。『築山庭造伝』に「典雅温淳体の庭」と記される庭園は「月の成就院庭園」「月の庭」として有名です。夜間特別公開の満月の日に是非訪れたいもの。月見をする庭ではなく月光で照らされたお庭を見るのです。念願叶ってその日に訪れたものの、雲が多かったんですよね。でも月明かりの威力がありましたし、夜間拝観も素敵でしたよ。人も多かったですけども。深みと奥行きが感じられる遠景が手前の池泉庭園とよく調和していて、凛とした静けさを感じさせてくれます。

■■泰産寺■たいざんじ 清水寺塔頭 本尊/十一面千手千眼観音(子安観音) 通称/子安の塔
聖武天皇と光明皇后が観音に子授けを祈願し安倍内親王(後の孝謙女帝)を授かった為、三重塔を建て観音を安置されたといいます。源義朝が敗れた後、常盤御前が3人の子供を連れて京を逃れる際に立ち寄り祈願した場所なのだとも。元は清水寺仁王門の下にありましたが、泰産寺は明治の廃仏毀釈の際に廃されてしまいます。この影響で泰産寺に関する詳細な事は分からないのだそうです。塔は明治43年に現在の場所に移築。平成24年までの改修工事が終わった後の平成26年に訪れてみれば。鮮やかな朱色の柱の建物が目新しかったです。
建仁寺
けんにんじ 臨済宗建仁寺派大本山 山号/東山(とうざん) 本尊/釈迦如来 京都五山第三位

建仁2年に建立されこの年号を賜って寺号とした京都最古の禅寺。諸堂は中国の百丈山を模したものだとか。建造物は応仁・文明の乱によって荒れ天文21年の大火で殆どが焼失。現在残っているものは江戸時代のものです。俵屋宗達真作として伝えられた『風神雷神図屏風』のお寺としても知られています。通常は複製を展示していますが、専用の部屋は以前よりも落ち着いた雰囲気に生まれ変わっていました。晴れた青空の下是非に対して欲しい枯山水の「大雄苑」、宇宙の根源的形態を示し禅宗の四大思想をその図形で象徴した「○△□乃庭」、紅葉と苔の絶妙な色合いが見事な「潮音庭」は素晴らしいです。法堂には小泉淳作の双龍(平成13年筆)が描かれています。境内の「だらにの鐘」は源融の河原院のもので賀茂川七条釜ヶ淵に沈んでいたとの言い伝えがあります。融ファン必見ですね。平家ファンなら忘れてはならないのが勅使門。またの名を「矢の根門」「矢立門」といい、平重盛の六波羅邸の門であったとか、平教盛の舘門だったなどといわれています。

■■西来院■さいらいいん、せいらいいん 建仁寺塔頭 本尊/地蔵菩薩
通常非公開。応永年間に蘭渓道隆により創建、また法孫大宗が清本院を再建し西来院と改めました。蘭渓道隆は寛元4年に来日、京都や鎌倉などで臨済宗を広め、鎌倉では北条時頼によって創られた建長寺の開山となりました。正元元年、京都に戻ると建仁寺第11世住職となり西来院を住持寺としました。蘭渓道隆の寺として、格式が高いお寺でもあります。応仁天文の乱で類焼し慶長年間に再建。明治4年建仁寺の塔頭の一つである普光院と合併。
落ち着いた枯山水のお庭が素敵でした。秋に訪れたので苔と紅葉の対比が綺麗でしたよ。平成25年秋の特別公開では京都文化協会とキヤノン株式会社の「綴プロジェクト」による最先端のデジタル技術文化財高精細複製品『八橋図屏風』(尾形光琳/メトロポリタン美術館蔵)・『江戸風俗図屏風』(菱川師宣/フリーア美術館蔵)・『国宝 山水長巻』(雪舟/毛利博物館蔵)・『竜虎図屏風』(雪舟周継/クリーブランド美術館蔵)が展示されました。

■■正伝永源院■しょうでんえいげんいん 建仁寺塔頭 本尊/釈迦如来
通常非公開。元々正伝院と永源庵という名の二つのお寺でした。正伝院は鎌倉時代の創建で、荒廃していたものを織田有楽斎により再興。永源庵は南北朝時代の創建で熊本細川家の始祖細川頼有の所縁で代々細川家の菩提寺として存在しました。明治の廃仏毀釈によって建仁寺もその影響を受け、当時無住であった永源庵は廃寺処分となりこの地に正伝院が移りました。その後細川家の菩提寺「永源」の名を留め正伝永源院と改称。福島正則寄贈という「朝鮮鐘」が無造作に置かれている所が良いですね。余り公開されていないお寺なので傷みも少なくて庭を見ながらゆったりと出来ます。因みに正伝院の建物のうち財閥三井家所有になった如庵・露地・書院は現在愛知県犬山市の有楽苑に保存されています。有楽苑は犬山城近くで穏やかな良い場所にあって、お茶を嗜んでいる方は必見です。珍しい水琴窟もありますよ〜♪

禅居庵/摩利支尊天堂■ぜんきょあん/まりしそんてんどう 本尊/聖観音 通称/まるしてん
「まるしてん」とも。摩利支尊天堂ではお参りが出来、こちらには七頭の猪に乗った三面六臂の御本尊がいらっしゃいます。日本三大摩利支天の一つ。境内には猪がいっぱいで、「猪の寺」といわれているのが分かります。

■■大統院■だいとういん 建仁寺塔頭(別格地) 本尊/聖観音
通常非公開。観応年間に夢窓派の青山慈永が創建。しかし天文21年、天文法華の乱により焼失。後に再建されました。儒学者林羅山も一時寓居していたそうです。大正13年秋に表門、唐門を残して焼失し、本堂のみ昭和5年に再建。本格的に再興に向けて動き出したのは昭和30年頃からといいますが、その余りにも長い時間に、苦労が偲ばれます。特徴的な方丈前庭園「耕雲庭」は苔と白砂による市松文様が美しく、北山安夫が平成21年に作庭。この庭園をもってお寺の復興が成った事から、期間を設けて公開が出来るようになったそうです。国指定重要美術品「赤絵十二支四神鏡文皿」は奥田頴山作陶のもの。円山応挙真筆といわれ、元々は千本出水の玉蔵院にあり‘出水の七不思議’の一つとされた『幽霊図』、鈴木松年『髑髏図』、白隠慧鶴『蛤蜊観音』は個人的におすすめ♪

■■霊源院■
れいげんいん 建仁寺塔頭 本尊/薬師如来

通常非公開
。応永年間龍山徳見和尚を開山として創建(但し創建には諸説あります)。当初は霊泉院といい、その後霊泉院の僧である瑞巌龍惺和尚の軒名「霊源」を採って霊源院と改めました。一休宗純が幼年の折、此処で師のもとで作詩の法を学んだとか。明治に入り妙喜庵跡の現在の地に移転。平成25年秋の特別公開では京都文化協会とキヤノン株式会社の「綴プロジェクト」による最先端のデジタル技術文化財高精細複製品の『国宝 上杉本 洛中洛外図屏風』(狩野永徳/米沢市上杉博物館蔵)を展示。また、「一休禅師墨蹟」が公開されました。お茶室では甘茶が多く植えられたという甘露庭を見ながらゆっくりと出来ます。平成27年「第49回京の冬の旅」の公開に合わせて、毘沙門天の御朱印ができました。この冬の特別公開は毘沙門天像の公開のお寺が多かった(毘沙門天特別公開=霊源院・六道珍皇寺・勝林寺)ので、東寺と合わせて毘沙門天の御朱印を続けていただいた方もいらっしゃったのではないでしょうか。奈良薬師寺の吉祥天(限定)の御朱印の横にいただくと、左右見開きに夫婦が揃い、何だか微笑ましいのです。
高台寺
こうだいじ 臨済宗建仁寺派 山号/鷲峰山(じゅぶさん) 本尊/釈迦如来

豊臣秀吉没後、正室北政所が建立したお寺。正式には高台聖寿禅寺。別名を蒔絵の寺。江戸時代に何度か火災に遭っている為、建物の多くが焼失していますが現存物の華やかさに当時を偲ぶ事が出来ます。何だか「華やか」の中に「緊張した重々しさ」があるんですよね、このお寺の空間って。お茶室もあって茶道を学んでいる方は必見。勿論お茶も頂けます。拝観券も蒔絵が印刷されていて素敵なの♪春秋にはライトアップ期間が設けられているので夜の風景も楽しめます。風がない時に池に映る紅葉も素晴らしいです。個人的には枝垂桜が咲く春がお勧め。「波心庭」の白砂の上に光に照らし出され幻想的に咲き乱れる桜は素晴らしい!以前フラッシュ撮影厳禁だった夜間拝観も、近年の携帯電話とデジカメの普及でそれもままならなくなったのか、現在は大いに撮ってくださいという方向のよう。そして特別拝観の回数が増えた事がお寺を変えたのでしょうか。あらゆるところが美しく整備され、団体にも対応♪これには驚きです。ねねの道に下りる途中、壁に浮かぶ「夢」の文字は「長七郎夢日記」みたいで笑ってしまいました(現在見られず?)。因みに此処は桓武朝に参議だった菅野真道が桓武天皇の菩提を弔う為に弘仁年間に建てた雲居寺(別名・八坂東院)の跡地になります。天治元年には大仏も建立されましたが応仁の乱により失われ、その後高台寺の建立の為に雲居寺は十念寺に併合されました。実は此処、ちょこっと新撰組にも関わりがあるお寺なんです。近藤さんや土方さんと分離した伊東さんが高台寺党として月真院に入った折、土方さんは此処に大砲を据えて襲撃を企てたのだそうです。近藤さんに反対された為に実現には至りませんでしたが、土方さんってば何という暴挙に出ようとしたのでしょう(^^;)。

■圓徳院/北政所御化粧御殿跡碑/北政所御殿跡碑/三面大黒天尊天■
えんとくいん 高台寺塔頭 本尊/釈迦如来 
豊臣秀吉の正室北政所の甥・木下利房が寛政9年に木下家の菩提寺として開きました。開基は高台寺の三江和尚です。北庭の石組がとても美しく、ライトアップ期間に訪れるのがお勧め。昼間の紅葉の頃も素敵なんです。運が良ければ庭の解説も聞けるかも。灯りに照らされた庭はそれはもう幻想的なの。また三玄院住職春屋宗園に襖絵の製作をお願いしながら許されず、住職が不在の時に桐紋の襖絵にさらりと絵を描いていってしまったという有名な長谷川等伯の障壁画が移されています。もしかして現在は複製画に入れ替わっているかもしれませんが・・・。ももかはテレビで取り上げられていたのを見て、面白いお話だなあと感心したのでした♪『長谷川等伯展』(平成22年東京)で東都で拝見しましたけれども、背筋がピンとなる程の感動を覚えました。また月照上人と西郷隆盛は此処でヒミツの談議をし、山岡鉄舟は此処をお宿にしていたのだとか。三面大黒天尊天は、福徳信仰の象徴として秀吉が念持仏にしたとか。御堂は京都御苑からの移築。

■月真院 (御陵衛士屯所址)げっしんいん 高台寺塔頭 山号/叢林山(そうりんざん) 本尊/千体地蔵菩薩
普段非公開ですが時折開いています。宿坊となっていますので、どうしてもという方はお問い合わせを。此処は幕末に新撰組の参謀であり後に近藤さんや土方さん達と分離した伊東甲子太郎(通称カッシー)とその同志14名が禁裏御陵衛士に任じられた際に屯所とした場所でもあります。彼等は庫裏の屋根裏部屋を使っていたのだとか。み、見たいっ。伊東さんは後に油小路にて新撰組に暗殺されるのですが、それは此処に移ってから僅か半年余りの出来事でした。ねねの道に面していて、ともすれば新撰組に所縁ある場所という事も知らないまま通り過ぎてしまいそうです。看板が出ているので要チェック。ちょうど若手芸術家さんの作品公開を月真院のお庭を使って行っている時があり、お庭は見た事があるんですよ。夜だっただけに幻想的でした。
後白河天皇法住寺御陵
ごしらかわてんのうほうじゅうじのみささぎ 第77代後白河天皇 (1172−1158)

後白河天皇は名を雅仁といい、鳥羽天皇と皇后藤原璋子の第4皇子で崇徳天皇の同母弟。在位は僅か3年と短いものでしたが、それ以降の院政の時代は源平合戦期と重なってもいて、重要な役割を果たしました。源頼朝曰く「日本国第一の大天狗」とも評されてもいるのは周知の通り。今様の名手と知られてもいて、彼の撰である『梁塵秘抄』は有名ですよね。「仏は常にいませどもうつつならぬぞあわれなる人の音せぬ暁にほのかに夢に見え給ふ」はももかも好きです。 この御陵は国家の大事がある時には鳴動するのだとか。参道は土日祝日は施錠され、入る事が出来ません。他、後伏見天皇九世皇孫常胤親王、後陽成天皇皇子堯然親王、後水尾天皇皇子堯恕親王、霊元天皇皇子堯延親王・堯恭親王、東山天皇皇曾孫真仁親王、東山天皇五世皇孫教仁親王が眠っています。
西福寺
さいふくじ 浄土宗 山号/桂光山 本尊/阿弥陀如来 橘嘉智子(786−850) 嵯峨天皇皇后、檀林皇后

葬送の地・鳥辺野の無常所の入口にあたり、弘法大師が此処に地蔵堂を建て自ら作った土仏地蔵尊を祀った事が始まり。檀林皇后こと橘嘉智子サマ所縁のお寺で、檀林皇后像や「檀林皇后九相図」があります。嘉智子サマが夫君・嵯峨天皇を戒めたのはこの絵図。まさに日本版の「死の舞踏」ですよね。嵯峨さん、一体貴方は何をしでかしたというのでしょう(笑)。門前には「六道の辻」が。節分の日はお蕎麦のご接待があります。美味しかった♪
三十三間堂
さんじゅうさんげんどう 妙法院門跡の境外仏堂 宗派/天台宗 山号/なし 本尊/千手観音

式名は蓮華王院本堂。後白河上皇が院御所造営にあたりその中心に1001体の観音を安置する仏堂を建立したのが始まりです。建長元年の京都大火によって灰燼となった堂の中から救い出されたのは千体仏のうち156体と二十八部衆。これが復興された御堂に安置されています。団体の参拝も多い為か雑然とした入口は現代的(^^;)。でも一旦御堂の中に入ると薄暗い中に金色に輝く観音様がずらり。何ともいえない静寂が心地良いです。冬の平日などのちょっと参拝客が少なそうな時に行くのが良いですよ。宮本武蔵も此処で戦っていますよね。江戸時代は通し矢が盛んだったそうです。東側の築地塀は太閤塀といい、瓦に残された桐紋も要注意。平成18年夏のJR東海のCMに登場。
地主神社
じしゅじんじゃ 世界文化遺産

奈良時代の創建で、現在の社殿は徳川家光寄進のもの。平成6年には世界文化遺産に登録されました。清水寺の傍にありその立地と京都最古の縁結びの神様がいらっしゃる事から、いつ訪れても人で一杯です。学生さんも多いですね。おかげ明神の裏にある祈り杉は昔丑の刻参りが行われた木。今でも釘の跡が残っているのが分かります。謡曲『熊野』『田村』にも桜の名所として登場。平成24年に御朱印授与が始まったようです。
将軍塚大日堂
ょうぐんづかだいにちどう 青蓮院門跡の飛地境内 宗派/天台宗 本尊/胎蔵界大日如来

東山三十六峰の1つ華頂山の山頂にある青蓮院の飛地境内。桓武天皇は平安遷都の折、新京の永遠を祈って高さ八尺の土偶に鉄の甲冑を着せ、鉄の弓矢を持たせて王城鎮護の為にと西向きにして埋めるように勅したとか。また京に異変がある時は必ずこの塚が鳴動するようにと「将軍塚」と名づけたという話もあり、平安末期から鎌倉時代にかけての鳴動の記録が残っています。この「将軍」とは坂上田村麻呂を示すともいわれ、古くから田村麻呂の墓とされてきました。実際の田村麻呂のお墓は山科区にあります。一応この延長線といえばそうですよね。勤王志士も安全を願いお参りしたといいます。東山山頂公園も近くにあり、夜景を見にやって来る人も多いです。かなり坂道が大変なので車を使用された方が良いかも。

■将軍塚青龍殿 しょうぐんづかせいりゅうでん  本尊/秘仏青不動明王
大正3年に建てられた平安道場(旧大日本武徳会京都支部武徳殿)を解体し、東山山頂の青蓮院飛地境内に大護摩堂として平成26年4月に再建されました。堂内には日本三大不動の一つ国宝「青不動明王二童子像」が。同年秋、「青龍殿落慶記念 国宝青不動明王御開帳」が行われました。ももかは11月の紅葉の盛りに夜間拝観で5年ぶりにお会いしました。大きな「舞台」からは京都の街並みが展望出来ます。展望台もあり、夕日も綺麗なんですよ。そして境内の紅葉が美しかったです。
青蓮院門跡(青蓮院旧仮御所)
しょうれんいんもんぜき 天台宗 山号/なし 本尊/熾盛光如来 粟田御所、五ヶ室の一つ 

古来比叡山延暦寺の三門跡の一つとして知られ、現在は五ヶ室(京都にある天台宗の5つの門跡寺院)の1つでもあります。最澄は比叡山を開くにあたり山上に幾つかの住坊を造りましたが、その一つの青蓮坊が青蓮院の前身です。明治に至るまでの間、天台座主は代々皇族か五摂家の子弟が継承しています(皇子12人・その他皇族13人・摂関家子弟13人・足利氏1人)。青く苔生した庭が印象的で、夜間拝観の折には面白い趣向がなされています。平成7年夏のJR東海のCMに登場。また平成21年秋にはこのお寺では初めての国宝「青不動明王二童子像」の御開帳が行なわれました。感動しましたよ♪お不動さまは平成26年に落慶した将軍塚青龍殿に移られていらっしゃいます。個人的に此処のパンフレットは配色が良くて品があるので好きです。道沿いと境内の大楠は存在感がありますね。
翠紅館址
すいこうかんあと

霊山正法寺の塔頭東光寺が前身です。東光寺の創建年は不明ですが、永徳2年にその所在が記され、江戸時代初期まで存在したと推測されます。鎌倉時代後期に四条大納言隆親の三男の権中納言隆良はこの場所に別荘を建て、鷲尾と号しました(のち、鷲尾姓)。そして別荘を淑阿弥と称し、その絶景なることは有名だったそうです。後に西本願寺の別邸となり、現在は料亭・京大和となっています。幕末所縁の場所としても知られ、安政3年には周防の僧月性・梁川星厳・梅田雲浜らが会合を開き、文久3年の1月には武市半平太・久坂玄瑞・井上聞多らが会合を開き、特に6月には桂小五郎・真木和泉らが「翠紅館会議」を繰り広げたというヒミツの場所になっています。此処でいろんな事が話し合われたのですね。
晴明塚址
せいめいづかあと 東福寺南大門〜南遣迎院周辺 安倍晴明(921−1005)

安倍晴明の墓が東福寺の辺りにあると知ったのは学生時代の頃でした。以来何処なんだろうとずっと探していて、初めて東福寺に紅葉狩りに行った時、訪ねてみた事があったのです。でも答えは芳しいものではありませんでした。東福寺の南大門から南遣迎院の辺りには昔竹林があり、その中に晴明塚があったといいます。この辺りに塚があるという伝えは、晴明さんの別荘(三ノ橋西南とも)説、陰陽師居住区説などがありますが、はっきりした事は分かりません。後に塚も他のものと一所に纏められ竹林も縮小されてしまいました。その移転先の辺りで晴明さんを偲びつつ、竹林の残りの竹が風に揺られるのを見たのでした。
青竜寺
せいりゅうじ 浄土宗 山号/見性山 本尊/聖観音(伽羅観音) 通称/伽羅観さん

通称を「きゃらかんさん」として親しまれている青龍寺。この名の由来は、本尊聖観音が香木伽羅から彫られている事によります。良い香りがするのでしょうか。残念ながらガラスごしでしかお参り出来ません。延暦8年桓武天皇の命により西京区の小塩山に創建されたのが始まりで、始めは大宝寺と称していました。平安遷都と同時に現在の地に移転。後に焼失しましたが法然上人の弟子見仏により平安時代末期に再興。一時衰退していましたが寛永年間再興。境内には念仏石というものがあります。隕石とも言われているのです。「お叩きください」とあったので叩いてみましたよ。
泉涌寺/月輪御陵
せんにゅうじ/つきのわのみささぎ 真言宗泉涌寺派総本山 山号/東山 本尊/釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒如来の三尊

天長年間に弘法大師がこの地に庵を結び、法輪寺、仙遊寺などの名を経て健保6年に泉涌寺と改称。この由来は寺の一角から出た湧き水によります。この清水は現在でも枯れていないとか。仁治3年に四条天皇が葬られてからは歴代の天皇の山陵が多く営まれ皇室の御香華院として信仰されています。これが「御寺(みてら)」と呼ばれている所以でもあります。月輪陵にも隣接していて皇室所縁の人々の名の多さに圧倒されてしまいます。境内には清少納言の供養塔とゆっきー(藤原行成)と交わした歌の歌碑があるのですが、これは彼女が仕えていた一條天皇の皇后藤原定子が眠る鳥辺野が近い為でしょう。東大路通から薄暗い道をひたすら歩いたところにあるので夕方の参拝はちょっと心細いかも。タクシーを使う人も多いみたいです。有名な楊貴妃観音像は柔和なお顔立ちが気品があって美しく、泉山七福神番外にもなっています。最近は縁結びで有名。平成10年秋のJR東海のCMでは「この時代に生まれてよかった。七百年の秘仏楊貴妃観音像に会えました」との言葉が。成人の日の「泉山七福神めぐり」は七福神を祀る塔頭七寺に番外二寺を巡るというもの。福笹を持った人々で山内はとても賑やかで、お詣りには長い列が出来るところもあり、ご接待を受けながら巡ると2〜3時間はかかるかも。ももかは旅人ゆえ、福笹を持ったまま宿に帰ったりバスに乗ったり新幹線に乗ったりするには勇気がいりましたので、七福神の御朱印をいただきながらお詣りいたしました。実は同じことを天龍寺でもしたという♪

■■今熊野観音寺いまくまのかんのんじ 泉涌寺塔頭 山号/新那智山 本尊/十一面観音  通称今熊野
「今熊野の観音寺さん」「今熊野」の名で知られ、嵯峨天皇の勅願により天長年間に創られたお寺。白河法皇の時代、頭痛封じ、頭の観音様として知られて以来現在に至ります。また泉山七福神の恵比寿神(三番)をお祀りしています。泉涌寺に向かって歩いていると左手に赤い橋が見えてきて、そこが入口。紅葉が鬱蒼としているので1人で歩くのは怖かったのですが、あの界隈にしては一番参拝者が多かったです。ご朱印を頂く人も多かったですね。それは西国三十三ヶ所、洛陽三十三ヶ所を始めとした霊場だからなのです。藤原三代の墓として、藤原忠通・九条兼実・慈円が眠っています。

■■雲龍院うんりゅういん 泉涌寺別院 別格本山 山号瑠璃山 本尊/薬師如来 
泉涌寺の別院で応安5年に創建。その後焼失と再建を繰り返し、江戸時代の初めに如周宗師が雲龍院と龍華院を合併し雲龍院とし、今日に至っています。皇室所縁のお寺としてこじんまりとしながらも手入れが行き届いた庭が素敵でした。時間があれば写経も出来たんですが・・・。台所に小さいのですが大黒様がいらっしゃいます(泉山七福神の五番)。

■■戒光寺かいこうじ 泉涌寺塔頭 淳別格本山 山号/光明山 本尊/丈六釈迦如来 通称/身代わり丈六さん、丈六さん
鎌倉時代の創建で、元は現在の京都駅八条口付近にあったのですが、応仁の乱で諸堂を焼失。その後戦火を避けながら一条戻橋や京阪三条の東側に移り、正保2年に至り泉涌寺の塔頭という形で現在の形となりました。通称は「丈六さん」で、この名は御本尊である丈六釈迦如来像からきています。丈六というだけあって本当に大きいんですよね。圧倒されます。その首に流れるような痕があるのは、血の痕とも言われています。後水尾天皇が暗殺者に命を狙われていた時、身代わりになった時についた傷なのだとか。また境内には泉山七福神の弁財天(二番)をお祀りしています。
戒光寺といって思い浮かべるのは御陵衛士のお墓です。近藤さん土方さんらと考え方を違としていた伊東甲子太郎(カッシー)他15名は、新撰組を脱退しこの戒光寺湛然の肝煎りによって組織された御陵衛士となります。しかしカッシー以下4名は慶応4年11月19日に油小路にて斬殺され、壬生寺に葬られました。ここに改葬されたのは明治元年。その中には「魁先生」の異名を取り近藤さんの四天王ともいわれた藤堂平助も含まれています。新撰組史跡を歩くうちに彼等に会いたいと願っていたのですが、何度目かの京都旅行でようやくお会いする事が出来ました♪わ〜い。しかし、その後。大河ドラマの影響かファンのマナーの低下故か、御陵衛士の皆さんの墓所には柵が張り巡らされてしまいました・・・。びっくりです。現在墓参は事前申込制です。


■■新善光寺しんぜんこうじ 泉涌寺塔頭 本尊/阿弥陀如来 
その名の通り、信州の善光寺如来を本尊としたお寺。後嵯峨天皇の勅願で一条大宮に建立。後に応仁の乱を経てこの地に移転。人の訪れが余りないのですが、行き届いた庭の苔生した風情に思わずシャッターを切りたくなるようなそんな美しい場所です。鳥の声も響いて静かなところでもありました。泉山七福神番外愛染明王をお祀りしています。

■■善能寺ぜんのうじ 泉涌寺塔頭 本尊/観音菩薩 
弘仁14年、弘法大師によって創建。元は八条油小路にあり、天文20年に後奈良天皇の綸旨により現在の地に移されました。創建の年をみると泉涌寺よりも古い歴史を持っています。境内には日本最初の稲荷社、重森三玲作の池泉式庭園があります。延段も三玲のデザインなんですよ。住職が不在の為、ひっそりとしていますがこちらも紅葉の季節は綺麗なのだそう。洛陽の札所でもありますが、御朱印は泉涌寺の本坊でいただく事になります。

■■即成院そくじょういん 泉涌寺塔頭 山号/光明山 本尊/阿弥陀如来 通称/那須の与一さん
「那須の与市さん」の名で親しまれているお寺。『平家物語』の扇の的で有名な与一の所縁の寺という事からか、寺紋も扇。山門には鳳凰がちょこんと乗っているのが宇治平等院と同じ。正暦3年に恵心僧都が伏見に建立した光明院が元になっていますが、様々な遍歴を経て現在の地に至ったのは明治時代だといいます。特に明治の廃仏毀釈・神仏分離の時代には苦難の道を歩んでこられたようですが、人々による信仰の篤さが今現在の暇なく参詣者が訪れ祈るという姿を伝えているようです。このお寺の阿弥陀様は25の菩薩を従え、臨終に際して極楽浄土に導くという阿弥陀来迎の姿を立体的に表しています。それが本当に素晴らしいのです。ちょうどももかが訪れた時は午後の光りが仏様にあたって何ともいえない情景がありました。お練り供養も近づいていて大変忙しい中、折角一人でお参りに来られたのだからと説明をして頂きました。泉山七福神福禄寿(一番)をお祀りしています。


■■悲田院ひでんいん 泉涌寺塔頭 本尊/阿弥陀如来 
悲田院はもともと仏教の思想に基づいて設けられた貧窮者や孤児の救済施設を意味します。聖徳太子が四天王寺に四箇院の一つとして建てた「悲田院」が最も古く、続いて光明皇后の建立のものなどが知られています。平安京の悲田院もその流れを汲んでいるのでしょう。東西二ヶ所にあったといいます。延慶元年、無人和尚がこれを一条安居院に再興し四宗兼学の寺としました。後花園天皇はこの寺を勅願寺としたことから、以降当寺住職は代々天皇の綸旨を賜わり紫衣参内が許されたのだそうです。正保2年に現在の地に移転。実はこの地蔵堂で、宿老山名宗全持豊と管領細川勝元の葬礼も執り行われているのですよ。舅と婿とはいえ、応仁の乱の東西の大将が同じところでというのが面白い。亡くなったのも同じ年(宗全入道は3月で勝元様は5月)ですけども。本堂の宝冠阿弥陀如来座像は快慶作の可能性が高いことが平成21年に判明。また泉山七福神毘沙門天(六番)をお祀りしています。

■■法音院ほうおんいん 泉涌寺塔頭 本尊/不空羂索観音 
洛陽三十三ヶ所観音霊場唯一の不空羂索観音を本尊としているお寺です。泉山七福神の寿老人(七番)をお祀りしています。嘉暦元年創建。後に応仁文明の乱により焼失し、江戸時代に至り現在の地に再建されました。現在の本堂は英照皇太后大葬の御須屋を賜ったもの。書院は伏見桃山城の遺構の一部です。江戸時代は駿州田中城主本多家の京都における菩提寺でした。写仏が出来るお寺でもあります。

■■来迎院らいごういん 泉涌寺塔頭 禁裏御菩提所泉涌寺別当 山号/明応山 本尊/阿弥陀如来
観音寺に入る手前に案内板があります。初めは本当にこんなところに入っていって良いのかなと思えるような道なのですが、すぐに門が現れてホッ。大同元年に創られたお寺との事でこちらも古いのですが、文明の乱で灰燼と化したという歴史があります。前田利家にも所縁があり、そして大石内蔵助にも所縁があるのです。心字池を巡らせた含翠庭は笹などが生い茂っていてまるで森の中にいるよう。今まで見てきた庭園とは一味違う寂しさ侘しさを感じました。名水の独鈷水も有名です。泉山七福神の布袋尊(四番)をお祀りしています。
大雲院(祇園閣)
だいうんいん(ぎおんかく)浄土宗 山号/龍池山 本尊/阿弥陀如来 別名/銅閣寺

通常は非公開。ねねの道から円山公園・八坂神社へと向う道に一風変わった建物があるのですが、それが祇園閣です。夜間拝観で知恩寺を訪れた時、闇に浮かぶ祇園閣が見えましたよ。大雲院は天正15年に正親町天皇の勅命により、織田信長と信忠の菩提を弔う為に創建。名称は信忠の法名(大雲院殿三品羽林仙厳大居士)に因んでいます。始めは烏丸二条にありましたが豊臣秀吉により寺町四条に移転、昭和48年に現在の地に移りました。祇園閣は昭和3年に大倉喜八郎によって建立され、建物の内部壁面にはシルクロードを思わせる壁画が描かれています。異国情緒溢れるって感じですよ。銅葺きの屋根を持つ事から別称を銅閣寺(銅閣)ともいいます。墓地には織田信長と信忠の碑が建ち、石川五右衛門のお墓もあります。
大将軍神社(三社)
たいしょうぐんじんじゃ 藤原兼家(929−990)

平安遷都の折、京の四隅に祀られた大将軍社のうち東南を守護するお社です。主祭神は須盞鳴命で相殿には関白太政大臣となった藤原兼家を祀っています。兼家はこの地に東三院を建てました。その息子・道長は兼家の神像を作りこれを東三条院の鎮守としたのですが、大将軍社の境内には小さくも「東三條社」があり、藤原氏隆盛時代を彷彿とさせます。兼家の屋敷自体は応仁の乱で衰退し、この東三條社のみがその名残を伝えているといって良いでしょう。かつては鵺の森とも呼ばれ、源頼政の鵺退治伝説を思い起こさせます。路地を入った所にあり、訪れる人も余りいなくていつもひっそり。此処に足を延ばす時はいつも雨ばかりでしたが、3度目の正直でようやく晴天の写真を撮れました。案内の看板は日本語の他に英語・ハングル・中国語と国際色が豊か。もしかして日本人より外国人に注目されている?御本殿脇の大銀杏は樹齢800年という古木。住宅密集の一見して分かりにくい場所ですが、モコモコとした樹木を頼りに境内を探してみてください。冬は無理かも(^^;)。
高山彦九郎像/高山彦九郎先生皇居望拝趾
たかやまひこくろうぞう/たかやまひこくろうせんせいこうきょぼうはいあと 
高山彦九郎(1747−1793)

三条大橋東詰で御所を伏し拝んでいるのは高山彦九郎さん。若者達から「土下座」と呼ばれ待ち合わせ場所として親しまれているこの像。昭和3年建立の初代は昭和19年に金属供出で撤去され、現在は昭和36年に建てられた二代目です。彼は蒲生君平・林子平とともに寛政の三畸人と称された尊王家です。新撰組などが活躍する幕末期にはあと70年程の歳月が必要で、彼はある意味時代に先んじていたのかもしれません。
瀧尾神社
きおじんじゃ

創建年は不詳。大己貴命(大国主命)、弁財天、毘沙門天の三神をお祀りしています。『源平盛衰記』に「武鶏ノ社(後に多景の社)」と記されており平安時代には存在していた事が分かります。天正14年豊臣秀吉による方広寺大仏殿建立の為、現在地に移転。宝暦年間の改築の折に瀧尾神社と改名。江戸時代中期、大丸百貨店の礎を築いた大文字屋の下村彦右衛門が熱心に参拝した事が知られ、境内には大丸繁盛稲荷社もあります。本殿は「北山貴船奧院御社」旧殿を移築改築したもの。九山新太郎による拝殿天井にある長さ8メートルの龍の彫刻は溜息をつくほどの迫力と美しさです。他の調度にもゴテゴテしたものがありますが、こういうの好きなんですよね。本殿のお猿も愛らしいです。

■■三嶋神社祈願所みしまじんじゃきがんしょ
天津日高彦火瓊瓊杵尊、大山祇大神、・木之花咲耶姫命をお祀りするお社。後白河天皇の中宮・建春門院にはなかなか皇子が授かりませんでした。そこで摂津の三嶋大明神に祈願したところ霊夢を感じ、男御子を授かったのです。これが後の高倉天皇でした。喜んだ後白河天皇により三嶋大明神を永暦元年愛宕郡朝岡山小松ヶ谷に勧請したのが始まりです。焼失と再建を繰り返し、平成12年に諸事情により社殿を失い、祭神は瀧尾神社に遷座しました。本宮は2年後に旧社地である馬場町に小さいながらも再建された事から、こちらは祈願所となっているようです。安産四十一社の一つで安産と夫婦和合の社として知られ、鰻が特徴的で、鰻放生大祭(鰻祭)は、本宮ではなくこちらの祈願所で執り行われます。社紋は隅切三文字。
辰巳大明神(辰巳稲荷神社)/巽橋
たつみだいみょうじん(たつみいなりじんじゃ)/たつみば

赤い巽橋に住んでいた狸を祀ったお社で、芸事の神様でもあります。この白川界隈は桜の名所という事で立ち寄ってみたのですが思っていた以上に人が多くて驚きました。ロケも多い場所です。平成6年夏のJR東海のCMでは祇園・巽橋あたりを取り上げて放映。
田中神社
たなかじんじゃ 伏見稲荷大社境外摂社

京阪鳥羽街道駅の近くにある伏見稲荷大社の境外摂社。京から稲荷大社への参詣、そしてその帰り道にあるお社という事もあって古くからその存在を知られています。御祭神は田中大神。稲荷大社は元々農耕に深く関わるお社ですし、この田中という名もそれに準じる神様という事になるのではないかと思うのですが詳しい事は分かりません。平安時代に和泉式部が稲荷社に詣でた際、時雨にあって難儀をしたという話が残っていますが、それを垣間見ても千年の歴史があるという事が分かります。小さなお社ですが稲荷大社の摂社という事もあって朱色の空間がそこにありました。
知恩院
ちおんいん 浄土宗総本山 山号/華頂山 本尊/(本堂)法然上人、(阿弥陀堂)阿弥陀如来

正式名称は華頂山知恩教院大谷寺。承安2年に法然上人が草庵を結んだ吉水禅房跡に、源上人が文暦元年に創建。石段を登りきったそこには大きな本堂。そして信徒さんの多さに圧倒。見られないものもありますが、「知恩院の七不思議」も面白かったですよ。ももかが訪れた時は台風で阿弥陀堂が大破し修理中でした。夜間拝観で見る紅葉は格別♪境内が広いからか、多くの人が拝観していたのですがゆったりと出来ました。真夜中の「ミッドナイト念仏」にも参加してみたいものです。江戸時代は徳川の砦として二条城、黒谷さんに並びこちらも重視されたといいます。ですからいろんなところで徳川色を見つける事が出来るのです。徳川2代将軍秀忠の娘で豊臣秀頼の正室として知られている千姫のお墓も此処に。そういえば戦争で供出され行方不明になっていた鰐口は数年前ひょんな事から実在する事が分かりました。夜間特別拝観も素晴らしい。紅葉も綺麗なのですが、夜の広い境内やお堂は凛とした空気が気持ち良いのです。お土産には知恩院売店(泰平亭)、南門亭(和順会館横)南側の自動販売機で買える「知恩院のお茶」を♪販売元は「宗教法人知恩院」でございます。

■■瓜生石うりゅうせき
知恩院の黒門前にあって、七不思議の一つ。「うりゅうせき」「かしょうせき」と呼ばれる祭石で、一夜にして瓜が実り「牛頭天王」の文字が記されていたので,牛頭天王を祭神とする粟田神社にこの瓜を納めたと伝えられます。

■■経蔵■きょうぞう
元和7年に建立。普段非公開。八角形の輪蔵には『宋版大蔵(一切)経』約六千巻が収められているのだとか。彫刻がまた見事で力強いのです。天井や壁面には豊かな色彩で飛天などが描かれています。華やかなんですよ。

■■三門■さんもん 京都三大門の一つ
普段非公開。京都三大門の一つであり、木造建築でも日本最大の楼門。現在の物は元和2年に徳川2代将軍秀忠が再建したものです。平成9年冬・13年冬のJR東海のCMにも登場しています。釈迦如来像、十六羅漢像が安置されています。天井絵の竜には勢いがあって素晴らしいです。

■■勢至堂■
せいしどう
とにかく石段を登りきった果てにあります(笑)。この石段、108段あるのですよ。本地堂ともいって法然上人終焉の地である大谷禅房の跡に建てられました。知恩院で現存する最古の建物で享禄3年のものです。こちらも徳川色が濃かったです。
智積院根来寺
ちしゃくいんねごろじ 真言宗智山派総本山 山号/五百佛(いおぶさん、いおぶっさん)本尊/金剛界大日如来

空海によって創建されたお寺ですが、天正13年に豊臣秀吉と対立し、一山悉く焼かれ滅亡しました。難を逃れた玄宥僧正はその居を高野山や京都に移しながら再興を願っていましたが、大坂夏の陣により豊臣氏が滅びると前々から智積院能化の学識に帰依していた徳川家康により祥雲禅寺を寄進され、これを智積院と改称しました。この祥雲禅寺は元々秀吉が子の鶴松の菩提を弔う為に建立した寺なのですが、不思議な歴史を感じますよね。26歳の若さで亡くなった長谷川久蔵の桜図が見事でした。久蔵は等伯の息子です。因みにここは幕末では山内容堂の常宿所。東山という地は観光客が多くて騒々しいイメージがあったのですが払拭されました。平成19年初夏のJR東海のCMに起用。近畿三十六不動尊霊場20番の不動明王は智彗不動、麦つき不動の名があります。
仲源寺(目病地蔵)
ちゅうげんじ(めやみじぞう)浄土宗 山号/寿福山 本尊/地蔵菩薩 通称/目病さん


一般に「目病地蔵(めやみさん)」として親しまれているお寺。四条通に面していて雑踏の中、何だか由緒ありげな感じと思ったところが此処です。本尊地蔵尊は初め「畔の地蔵」と呼ばれ、四条大橋から東北に通じる畦道にあった祇園村のお堂に祀られていました。此処を行き交う東山に参詣する人々が雨宿りをした事から「雨止地蔵」の名もあります。この雨止が転じて目病となったともいわれています。また鴨川の氾濫を鎮める為に祀られ、地蔵尊のみが残ったとも。お花祭の夜に訪れた時は、門が開け放たれて甘茶が振舞われていました。節分の夜も素晴らしかった♪ライトアップされた仏様の幻想的な事、この上無しです。
長楽館
ちょうらくかん

元々は「たばこ王」と称された村井吉兵衛が明治時代に建てた別荘で、この名は伊藤博文がつけたものです。現在はレディースホテルとなっている他、一階は喫茶やレストランとして一般の利用も出来ます。ロココ様式の家具や部屋は豪華で本当にゆっくりお茶を楽しみたいところ。ももかはお花見の折にここでお茶をしたのですが、この時頂いた「さくらムース」が美味しかったの〜♪塩漬けの桜の花を使っているところが時季をちゃんと見ているって感じで。以来、祇園さん界隈を巡る折にはよく利用するようになりました。12月に京都に行く際もクリスマススイーツが食べたくて寄ってますね。クリスマスの飾り付けを見るのも楽しみなんです。
長楽寺
ちょうらくじ 時宗 山号/黄台山 本尊/准胝観音菩薩

暦24年に桓武天皇の勅願によって創建。伝教大師が開基。本尊の観音菩薩は歴代天皇の即位の時のみ御開帳される秘仏なのだとか。元々は現在の円山公園の大部分を占める敷地を有していたものの大谷廟建設により規模は縮小、明治初年には境内の大部分が公園に編入されました。高倉天皇中宮の建礼門院が、壇ノ浦の戦いから帰京し髪を下ろした寺としても知られ、春の特別展では建礼門院所縁の秘宝を拝見する事が出来ます。ももかは崇徳天皇の持念仏に感動。裏山には『日本外史』でも名高い頼山陽先生のお墓があります。ここに行き着くまではちょっとした山道と烏の来襲がありましたが、学生時代この本を読んでいつかは山陽先生にお会いしたかったももかは感無量でした♪
剣神社
つるぎじんじゃ

平安京の鬼門を守護するお社の1つ。古い社伝によれば平安遷都の折、王城鎮護の為に京の巽の地に宝剣を埋めそこに神殿を造営したといいますが、はっきりした事は分かっていません。中村直勝氏の説によれば、このお社の一帯は鳥戸野という葬送の地。その時に被葬者と共に葬られた宝剣等が何らかの折に見つかりお社に奉納されたのではないかとの事。とびうおの絵馬が珍しいですね。また昔はほととぎすの名所だったそうです。初めてももかが訪れた当時はネット普及以前でガイドブックにも記載がなく、大体の見当をつけながら歩きつつも最終的には交番のお世話に。
陶匠和気亀亭宅跡碑
とうしょうわけきていたくあとひ 和気亀亭(初代江戸中期生没年不詳、四代1826−1902)

江戸時代の清水焼陶工の和気亀亭の邸宅跡に建てられた碑。初代和気亀亭は江戸時代中期の人で、宝永元年(一説に寛延元年)に五条坂上音羽町に窯を開いたといいます。屋号を亀屋、代々平吉と称しました。特に四代目亀亭の作が素晴らしいのです。この碑がある五条坂近辺は清水焼を中心とした陶芸の盛んな地です。
東福寺
とうふくじ 凛残集東福寺派大本山 山号/慧日山(えにちざん)本尊/釈迦如来 京都五山第四位

実はももかがこのお寺に初めて行った理由は安倍晴明さんのお墓を探すという事。当時はまだ晴明さんの墓所が嵯峨にあるという詳しい資料の入手は困難でした(今では容易いですが)。ならば足で探すしかない。お寺の人にも聞いてみたのですけれど分かりません。晴明さんのお墓は歴史の流れの中、転々として現在に至っているのでした。東福寺は奈良の興福寺に準えようと鎌倉時代に九条道家が創建。東大寺の「東」と興福寺の「興」を取って名づけられ、京都最大の大伽藍を造営しました。建物は幾度かの火災で焼失したものの、その風貌は当時ならではの大きさ。六波羅門は六波羅探題の遺構を移したものといい、小さいながらも歴史がつまっています。開山堂の庭は美しいの一言ですね。庭といえば重森三玲作庭の方丈庭園「八相の庭」も忘れてはなりません。特に市松の庭がお気に入りです。日本最古のお手洗い「東司」は室町時代の建物。お手洗いはその方位によって東司(東)・西浄(西)・登司(南)・雪隠(北)などといいますが、その作法も厳格だったそうです。東福寺の境内は千松林の名があり松や桜が多く植えられていましたが、修行の妨げになるとの事で桜は伐採され、現在は紅葉の名所としても有名です。でも紅葉の時期の観光客の多さは修行の妨げにはならないのでしょうか。この時期にはカメラを持った参詣者の姿が通天橋に多く見られます。紅葉の当たり年、早朝の臥雲橋から見たモミジは素晴らしいものでした。平成9年秋のJR東海のCMに登場。さて、戦国時代このお寺には尼子氏の遺児がいました。これを「七難八苦を我に与え給へ」という三日月の山中鹿之介幸盛が見出し、尼子勝久と名乗らせ還俗。後の尼子氏滅亡までの苦難を歩んだのです。通天橋を見るとどうしてもこの事を思い浮かべてしまうももかなのでした(笑)。

■■一華院■いっかいん 東福寺塔頭 本尊/白衣観音
普段非公開。永徳2年に東漸禅師が創建しました。寺号は「吾れ本と茲
(この土に来たり、法を伝えて迷情を救う。一華五葉を開き、結果自然に成る」に寄るそうです。東福寺の仏殿には高さ15メートルの釈迦如来像が祀られていましたが明治14年尉焼失しています。その遺構として大仏の蓮華台花弁が塔頭に配られているそうですが、ここではそれを見ることができます。大きな仏様だったのですね。「依稀松いきまつの庭」の松は見事。緑の庭の中に、長く長く枝を伸ばした松の姿は圧巻です。松を愛でながら飲むお茶は美味しいですよ。

■■桂昌院けいしょういん  東福寺塔頭 本尊/
観音菩薩
普段非公開。元亨年中に創建。後宇多上皇所縁で、度々臨幸があったと伝えられています。故に後宇多天皇菩提所。境内に三面大黒天が祀られています。開運!

■■光明院こうみょういん  東福寺塔頭 本尊/
釈迦如来 
明徳2年創建。「日本のガーデニングです」としてJR東海のCMに登場したのは平成12年の秋。重森三玲作庭の「波心の庭」の美しさといったら、この世界を自分の物に留めておきたいと思うほど!寺名の「光明」をテーマに作庭され、別名を「苔の虹寺」といいます。波打つ白砂とその波を受け止めるような苔の緑の色彩が絶妙なのです。石は滋賀県南郷の洗堰の物を使用。紅葉の時期はいつも静かなこの場所も人が多いのですが、平成26年11月の紅葉真っ盛りの朝に訪れた時は貸切り状態。常連の方は平日の早朝に庭を楽しまれるようです。12月に訪れた時は静寂の中、ゆったりと庭を鑑賞しました。

■■最勝金剛院■さいしょうこんごういん 東福寺塔頭 
普段非公開。久安6年摂政藤原忠通夫人・宗子により創建。元々この地は、藤原氏の氏寺であった法性寺の寺域であり、最勝金剛院もこの塔頭として建立されました。しかし後に衰退。鎌倉時代に九条道家により東福寺が創建されると、最勝金剛院もそれに伴い東福寺の塔頭となりました。代々九条家により継承されてきたものの、室町期に衰退し、九条家の墓の管理と名刹復活を兼ねて昭和46年に再興。九条兼実の廟があります。

■■三門■さんもん 本尊/宝冠釈迦如来
普段非公開。現存する禅寺三門としては日本最大最古。日本は小さなものを作るのに長けた特有性を持っているようですが、大きいものも大好きなんですね。大仏様(天竺様)、禅宗様(唐様)、和様を組み合わせた三門上層には、急な山廊を上っていかなければなりません。上ったら勿論降りなくてはいけないんですが、これが緊張しました。朝一でまだ拝観者が少ない時で良かったですけど(^^;)。須弥壇中央には本尊宝冠釈迦如来が安置されています。「紗雲閣」(妙⇒女偏を避けて糸偏で書かれている)の筆は足利義持のもの。平成20年夏のJR東海「そうだ京都、いこう」CMに登場。

■■盛光院■ じょうこういん 東福寺塔頭 本尊/白衣観音
普段非公開。文永年間に創建され、当初は光明蔵院と称し、のちに盛光院と改めました。本堂は江戸時代に焼失し、現在のものは昭和5年に再建されたもの。庫裏は文化5年に豊後の宝勝院の本堂を移築したもの。池泉式庭園は小さいながらも趣があり、紅葉と苔との彩がなんともいえませんでした。11月に公開されていますが、賑やかな東福寺界隈にあって、静かなひとときを過ごせます。

■■勝林寺しょうりんじ 東福寺塔頭 本尊毘沙門天
普段非公開。天文19年創建された東福寺の鬼門を守る「東福寺の毘沙門天」のお寺。第43回京の冬の旅(平成21年)初公開で、大正15年以来83年ぶりに毘沙門天立像のご開帳がありました。毘沙門天立像は平安時代につくられ東福寺の仏殿天井内に密かに安置されていたものを江戸時代に発見、後にこのお寺に移され本尊として祀られました。もともと塔を建てる為の基壇が既にあった場所に毘沙門堂を建立した為、床が斜めになっているのだそうです。毘沙門天は黒っぽい容姿をしています。ツアーのお客さん達が帰られももか一人だけ残された時に独り占めしちゃいました♪そしてお寺の方にお願いをして懐中電灯で光を当てていただきました。百足もお見かけしましたが、毘沙門天といえば虎。こちらの襖絵も虎なのですが、櫟文峰
(あららぎぶんぽう)の作品は素敵でした。円山応挙作「七難七福図」(の七難の方を2点)なども鑑賞出来ました。田村月樵の「毘沙門天曼荼羅」版木はまさに「良い仕事してますね」といわんばかりの芸の細かさ。しかもこれを彫った時って彼は若いんですよ〜。16歳ってどうよ?という・・。昔の人って凄い!平成25年秋、本尊毘沙門天の胎内仏を250年ぶりに初公開・・という事で夜間特別拝観に出かけて参りました。小さくて綺麗な胎内仏三体は、御厨子ごと胎内に入っていたのですって。初公開の時は、懐中電灯で照らしながらという手法での公開でしたが、それから4年が過ぎたこの年、久方ぶりにお会いした毘沙門天はLEDでライトアップされていました。最近は限定の御朱印が多々いただけます。

■■即宗院そくしゅういん  東福寺塔頭 山号/臥雲山 
普段非公開。室町時代に島津氏久が創建。幕末には西郷隆盛が僧月照と茶室採薪亭に隠れ密議を凝らしていたところでもあります。月照は清水寺の住職で後に隆盛と手に手を取って入水した御方。そのお墓は清水寺成就院にあります。隆盛は生き残り明治時代の西南戦争で戦死していますね。天勝院篤姫は徳川将軍家への輿入れの際、近衛家の養女となりますが、こちらに立ち寄ったといいます。即宗院の庭園は『都名勝林泉図絵』にも紹介されている名園。苔の生した様は勿論の事、蹲も見事でした。

■■退耕庵たいこうあん 東福寺塔頭 本尊/千手観音
普段非公開。貞和2年創建。応仁の乱で焼失し、安国寺恵瓊により再建されました。作夢軒の名で知られる茶室は石田三成、小早川秀秋、宇喜多秀家、安国恵瓊らの豊臣恩顧の大名達が打倒・家康の密議を諮った場所なのだとか。南庭は開山性海霊見和尚の作庭の真隠庭(しんにんてい)。苔生した様子が素敵♪小野小町も所縁らしく『第43回京の冬の旅』の特別公開用看板には「古の佳人 小野小町ゆかりの寺」とありました。小町作とされる前かがみになって痩せ衰えた「小町百才の像」や玉章地蔵尊があります。どうやら元は渋谷越にあったという小町寺の物が時を経てこちらに伝えられたようです。また鳥羽伏見の戦いの防長殉難者の菩提寺としても知られています。それというのも長州藩の陣が置かれていたから。こうして考えると戦国の頃から毛利寄りのお寺なんですね。

■■天得院てんとくいん 東福寺塔頭 山号/万松山 本尊/千手観音
五芒星こと桔梗の咲き乱れる秋の庭が素敵なお寺です。普段は非公開ですが、桔梗の咲く時期にその門を開きます。ももかが立ち寄ったのは桔梗はとっくに終わっていた晩秋でしたが、特別公開をしていた時でした。また、この時はライトアップも。東福寺界隈は夜になると人通りも少なく、故に東山の秋の夜間拝観名所の中にあってお客様もそんなに多くないので静かにゆっくりしたひとときが過ごせます。苔がもこもこしていて良いんですよ。正平年間に創建され衰退と再興を繰り返し、明治元年には東福寺塔頭の本成寺と合併、現在に至っています。現在の堂宇は天明9年再建のもの。興味深いのは此処を住庵としていた豊臣秀吉・秀頼父子の五山の学僧文英清韓が方広寺の鐘銘を撰文したところでしょうか。これがあの「国家安康君臣豊楽」で大坂の陣の口火を切ったといわれるものです。この事柄は天得院を一時衰退させてしまうのです。

■■同聚院
どうじゅいん 東福寺塔頭 本尊/十一面観音 通称/じゅうまん不動さん
文安年間に作られ、康尚作の不動明王が有名。元は藤原道長の法性寺五大堂があったところといわれて、不動明王はその中尊だったそうです。他の4明王は散逸してしまいましたが、この像だけが残ったのは火除け像として崇敬が篤かったからとも。

■■龍吟庵
ょうぎんあん 東福寺塔頭第一位 本尊/宝冠釈迦如来
普段非公開。元は東福寺三世・無関普門(大明国師)の住居跡。後に庫裏後方の地中から遺骨を収めた骨蔵器が発見され、塔所であった事が確認されました。方丈は室町初期に作られた日本最古の現存方丈建築。扁額は足利義満の筆です。昭和39年に重森三玲が作った庭は素晴らしい♪白川の白砂利を使った「南庭」、徳島の黒砂利を部分的に用いた「東庭(不離の庭)」、鞍馬の赤砂利で一風変わった雰囲気を味わえる「西の庭(龍の庭)」。それぞれの庭に配した竹垣も斬新で、庭に続く空の様子を現しています。

■■陀院(芬陀利華院)ふんだいん 東福寺塔頭 本尊/阿弥陀如来 通称/雪舟寺
元享年間に関白一条内経が創建して以来、現在も一条家の菩提所になっているこのお寺は、別名雪舟寺といいます。これは庭園が雪舟の作庭と伝えられている事によるもの。寺同様に元禄4年と宝暦5年の火災で庭
園も衰退しますが、昭和年間に復元されました。苔の美しいこの庭を見て暫し心を癒す。そんな事が出来るお寺です。

■■霊雲院れいうんいん 東福寺塔頭 本尊/文殊菩薩
明徳元年に岐陽方秀によって創建。元は不二庵と称していたそうです。後に庭は荒廃し重森三玲が復元しました。「九山八海の庭(霊の庭)」「臥雲の庭」が素晴らしいのです♪庭の中央には九山八海石と須弥台と石舟を組み合わせ須弥山を表した遺愛石と呼ばれる石がありますが、これは肥後細川家から拝領したもの。枯山水の白砂利の力強い波紋が印象的です。迫力がありますよ。幕末に西郷隆盛が密議を交わしたといわれ、日露戦争では捕虜になったロシア人兵士達を収容した京都の寺院の中の一つでもあります。
得浄明院
とくじょうみょういん 信州善光寺浄土宗大本願京都別院 山号/本覚山 本尊/一光三尊阿弥陀如来

信州の善光寺の京都別院の尼寺として明治27年に創建。比較的新しいお寺という事になりますが、普段は非公開です。元々この地は知恩院入道親王坐住の華頂殿の一部だったそうです。特別公開の折に訪れたのですが、信州善光寺の御開帳の年にまさか京都の善光寺まで拝観する事になるなんて。善光寺様式の御本尊一光三尊阿弥陀如来を拝し、そして信州善光寺とは大きさが異なっているものの、お戒壇めぐりに挑戦。地下に下りていくと草鞋があってそれを履いて暗闇を進むのですが、草鞋は脱げそうだし、暗いし黴臭いし、人気がないので取り残されたような気分になるしで大変怖かったですね(^^;)。尼寺三十六所巡礼第10番。通称を花の寺というのは、アヤメ科の「一初(イチハツ)」を始めとする花々が見事な事から。平成22年10月、約100年ぶりに総門の看板を新調。
豊国神社
とよくにじんじゃ

後陽成天皇から「豊国大明神」の神号を与えられた豊臣秀吉が祀られています。秀吉没後に建てられたお寺は徳川時代には完全に破却され、現在の旧方広寺大仏殿跡地に復興したのは明治13年の事。地元では「ほうこくさん」と呼ばれていますが、正式には「とよくにじんじゃ」といいます。宝物殿もあって豊太閤関白印は秀吉が使用したものなのだそうですよ。天下人になった秀吉にあやかり出世開運を望む人はご参拝を。摂社の貞照神社には秀吉の正室北政所が祀られています。京都国立博物館の北側に立地。静かです。
年坂/産寧坂
にねんざか/さんねんざか

清水寺に続く道。二年坂は大同2年に、産寧坂(三年坂)は大同3年に出来た事からその名がつきました。産寧坂は子安の塔に安産祈願に訪れる参詣者が通った道でもある事からこの字を書きます。雰囲気のある石段の坂道に、これまた雰囲気のある民家やお店があって散策も楽しいですよ。平成23年冬のJR東海のCMで紹介。
ねねの道
ねねのみち 
高台院(1547?−1624)

電線地中化工事を終え、御影石2500枚を敷き詰めた歩きやすく美しい、高台寺を中心とする道。高台寺道。豊臣秀吉の正室高台院(北政所・ねね)の名がこの由来ももかは清水寺から円山公園散策には必ず通ります。洒落た店も出来、抹茶パフェで有名な都路里も支店を出しています。
花見小路
はなみこうじ

元は建仁寺の寺領でしたが、明治7年に祇園甲部お茶屋組合が7万坪を買い上げ、花街として整備。
京都といったらこの小路でしょう。全長1キロ余りの通りに並ぶお茶屋さんなどの建造物からは、紅殻格子に犬矢来といった京都的なものも見る事が出来ます。平成14年景観が変わりました。電線を地下に埋め、敷かれた御影石による石畳は舞妓さんのぽっくりの音が聞こえてきそうです。平成19年冬のJR東海CMに登場。
法観寺
ほうかんじ 臨済宗建仁寺派 山号/霊応山 本尊/薬師如来
 通称/八坂の塔

正式名称は霊応山法観寺で、「八坂の塔」と呼ばれ親しまれています。聖徳太子の創建といわれ天暦2年には塔身が西側に傾き、雲居寺(現在の高台寺の辺りにあったお寺)の僧・浄蔵貴所が加持をして直したという故事が残ります。幾度か焼失し、現在の塔は延慶2年、後宇多上皇の援助を受けて北条貞時・山内円成尼が復興したもの。塔に登ってみるとかなり小さいというか低いという感じがします。南禅寺の山門よりは低いような・・・。また聴鐸庵(別名・仰輪所)と呼ばれる茶室があります。現在、こちらには平成9年まで某旅館の庭にあって旅館の廃業によって移されてきた木曽義仲の首塚があります。
方広寺
ほうこうじ 天台宗山門派 本尊/大日如来  豊臣秀吉(1536若しくは1537−1598)

天正14年に豊臣秀吉によって建立された京の大仏殿。その大きさは創建当時の奈良の大仏を凌ぐ程だったとか。慶長元年の大地震を始めとして幾度の災禍に遭い、その度に大仏は再興を繰り返します。寛政10年に雷によってまたも焼失。天保14年に再び建立され旧大仏の10分の1の木造半身像が寄進されましたが、昭和48年の火災によってその姿は失われたままです。境内には大坂の陣の引き金になった「国家安楽君臣豊楽」の文字が刻まれた鐘があります。その文字の部分が強調されているので直ぐ分かります。東大寺・知恩院の鐘と並ぶ日本三大名鐘の一つ。
豊国廟
ほうこくびょう 豊臣秀吉(1536若しくは1537−1598)

豊国廟参道(通称・女坂)を上っていった先に豊臣秀吉が眠る豊国廟があります。慶長3年に亡くなった秀吉は油ガ峰に葬られ、その西側には豊国社が造営されました。しかし元和元年大坂夏の陣に勝利した徳川氏は豊国廟社を廃止。この時、豊国社の御神体は新日吉社へと密かに遷されています。明治31年の秀吉300年忌にあたり、豊臣家所縁の旧大名諸家は豊国廟復興をはかり、秀吉の廟所をやや東の阿弥陀ヶ峰に遷しました。この廟所は565段に及ぶ石段を登りきった先にあるのですが、とにかく長い(笑)。しかし登らねば太閤さんにお会いする事が叶わない。大河ドラマ「秀吉」オープニングにも登場した事は周知の通り。
 
法住寺法住寺殿跡碑
ほうじゅうじ 天台宗 
山号/なし 本尊/不動明王 通称/身代不動尊、身代わり不動さん

右大臣藤原為光が花山天皇の女御となった娘(心氏)子の菩提を弔う為にその邸宅を寺としたのが始まり。長元5年に焼失し、以後再興される事はありませんでした。永暦2年から寺跡を含む一帯に後白河上皇の院御所が作られ、法住寺殿と呼ばれるようになりました。その広さは十余町。三十三間堂はもとい新日吉さんまで軽く含まれてしまうところに、後白河さんの権勢の程が分かるでしょう。因みに碑は現在の法住寺門前と三十三間堂の庭で確認出来ます。現在の法住寺はそんな昔を想像する事も難しいくらいにこじんまりしています。本尊は後白河法皇の念持仏といわれる不動明王です。四十七士の木像があるのは大石内蔵助がここで策を練ったから。長らく工事中でしたがお堂も完成。平成22年に訪れた時はピカピカでした。写経体験も出来ます。節分の日は島原の太夫による小餅まるめがありますよ♪
寶樹寺
ほうじゅじ 浄土宗西山禅林寺派 山号/清凉山 本尊/阿弥陀如来

通常非公開。延長3年左大臣藤原忠平が創建した法性寺の塔頭勝円寺が前身と云われています。勝円寺は昔この地の北に一ノ橋と呼ばれる橋が架かっていた事から別名を橋詰堂と呼ばれていました。宝永3年聖空上人によって中興され寺名を寶樹寺と改められ、天台宗から浄土宗へ改宗。本堂右手には「常盤薬師」「子育て常盤薬師」と呼ばれる秘仏薬師如来座像が安置されています。飾り気のない素朴な仏さまなんですよ。でも温かい。縁起によれば後冷泉天皇の御世の天喜年間、生母藤原嬉子が重病の折に関白藤原頼通が仏師定朝に命じて作らせたものといいます。平治の乱で源義朝が戦に敗れ、側室の常盤御前が三人の子供を連れて落ち延びる際には従者に負わせていたのだとか。雪の降る中、常盤は捕えられた母と子供達の命乞いの為、大和から六波羅に向かいました。ちょうど唐橋黒門(一ノ橋)まで来た時に体を休めようとして数本の松に目を留め、その下で疲れを癒したそうです。松の下を立ち去ろうとした時「不思議なる哉薬師如来の御身重きこと盤石の如くして動きたまはず」--薬師如来は此の地に留まり子供達を加護すると告げたのだとか。その「雪除けの松」の根もあります。雪除け松は応仁の乱で焼けたとされていますが、明治末期、京阪電鉄の建設工事に伴い境内を掘削した時、地中から松の根が見つかったのでした。また大正末期に本堂改築をした際、松の根が須弥壇の材料に使われたのだそうです。 他、寺宝として伝北斎筆と源琦筆の『常盤御前雪除松図』があります。「第48回 京都非公開文化財特別公開」にて拝観。
 
法性寺
ほっしょうじ 浄土宗西山禅林寺派 山号/大悲山 院号/一音院いっとんいん 本尊/千手観音

通常非公開。延長2年に左大臣藤原忠平が創建の尼寺。
藤原家の氏寺、また京洛21ヶ寺の一寺として大いに栄えました。藤原道長も境内に五大明王を安置する五大堂を建立しています(現在の泉涌寺塔頭の同聚院の辺り)。藤原忠通の曾孫・九条道家が延応元年に東福寺を建立した頃から衰退。応仁の乱で建物は焼失、明治に再建。元々法相宗で後に天台宗となり、現在は浄土宗西山派の尼寺です。平安時代には広大な敷地を持っていたと伝えられていますが、実にこじんまりとしています。ももかも洛陽霊場巡りをしていたからこそ御縁がありましたが、そうでなければ立ち寄らなかったかもしれません。でもこちらの御本尊様は国宝の二十七面千手観音!創建当時の仏像であり、灌頂堂の本尊と伝えられ「厄除観音」の名で知られています。拝観には事前申込が必要です。洛陽霊場の御朱印をいただきに立ち寄った際はお茶とお菓子をご馳走になりました。そして平成24年秋「第48回 京都非公開文化財特別公開」にて、ようやく御本尊の千手観音菩薩立像(国宝)にお会い出来ました。
円山公園
まるやまこうえん

明治19年に造られた京都最古の公園でその名は廃絶となった円山安養寺から取られました。桜の名所として知られ、此処にある枝垂桜の大木は見事の一言に尽きます。樹齢約70年の2代目枝垂桜は15代佐野藤右衛門により育てられ昭和24年にここに植えられたもの。その幹は害虫を防ぐ為に白く塗られているのですがそれが夜になるとライトアップに映える事!ううう〜幻想的♪人も一杯♪とはいえ最近は鳥害の為、桜木の健康状態が気になるところ。園内には池泉回遊式庭園や坂本竜馬・中岡慎太郎の銅像があります。この竜馬さん、寺田屋に残る肖像画がモデルらしいです。彼等に見守られながら頂くお弁当はカクベツ。でも烏も多いので注意して下さいね。実は幕末の頃は茶席が多く、新撰組の近藤さんも料亭左阿彌で豪遊していたのだとか。平成18年春のJR東海のCMに桜が起用。
三嶋神社
みしまじんじゃ


天津日高彦火瓊瓊杵尊、大山祇大神、・木之花咲耶姫命をお祀りするお社。後白河天皇寵愛の中宮・建春門院はなかなか皇子が授からず、摂津の三嶋大明神に祈願したところ霊夢を感じ、念願の男御子を授かりました。これが後の高倉天皇です。喜んだ後白河天皇は、三嶋大明神を永暦元年愛宕郡朝岡山小松ヶ谷に勧請したのが始まりです。焼失と再建を繰り返し、平成12年10月に諸事情により社殿を失い、祭神は瀧尾神社に遷座しました。しかし平成14年9月に旧社地(東山区馬場町)に小さいながらも本宮が再建され、瀧尾神社のお社は現在祈願所となっています。安産四十一社の一つで安産と夫婦和合の社として知られ、鰻を祀っているのも特徴的。大山祇大神のお使いは鰻なのだそうです。社紋は隅切三文字でこの「三」は鰻を表し、絵馬にも鰻が描かれています。境内にある源義経所縁でもある搖向石には男の子を授かるという力があるのだとか。平成22年御鎮座850年大祭斎行。平成26年鰻祭復興60周年大祭斎行。
耳塚
みみづか


豊国神社の鳥居から道を挟んで西にあります。文禄慶長の役で武将は海を渡り戦いました。でも本国には首級を持っていく事が出来ません。そこで持ち帰ったのが耳であり鼻でした。それを埋葬したのが此処。
八坂神社(祇園社)
やさかじんじゃ(ぎおんしゃ)

平安京の東方を護る青龍が棲むといわれ、神殿の下には竜宮に繋がる龍穴があるとか。創建時期は不明。祇園牛頭天王神社、祇園社、祇園感神院、祇園寺、祇園大神社などとも呼ばれてきましたが、明示元年神仏分離令に従い今の名称となりました。有名な祇園祭の正式名は祇園御霊会。平安初期に皇位を巡って非業の死を遂げた人達の御霊は、疫病を撒き散らすと考えられていたのですが、それを鎮める為に営まれたのが御霊会なのです。祇園祭の最初の記録は貞観11年ですが、それから約100年後の天禄元年6月14日の祭礼以来、例年の催しとなりました。祇園祭は一度は行ってみたいと思っていたところ、願いが叶い宵宮と山鉾巡行を見る事が出来てカンゲキ!境内には『平家物語』所縁の忠盛灯篭もあります。祇園造で有名な本殿は承応3年に再建され、平成14年に3年に及ぶ修復工事が終了したばかりです。昇殿参拝をした折には雅楽の東儀家に伝わる笛なども拝見出来て、ももかは感無量で御座いました♪夜の祇園さんは少し怖くて美しいです。円山公園の花見の時期には夜店も出て普段の不気味さは何処へやら。それは凄い賑わいですよ♪また祇園界隈の待ち合わせともなっている鳥居前にはいつも人の姿があります。平成10年冬のJR東海のCMでは夜の神楽殿に芸妓さん達の群舞(?)が美しかった♪
安井金毘羅宮
やすいこんぴらぐう

崇徳天王社・安井神社ともいい、建治年間に創建され、光明院観勝寺と言ったのが前身です。この寺域に蓮華光院が建てられた折、金比羅宮を勧請し鎮守社としたのが始まり。「縁切り縁結びの石」には近年参拝者も多く、特に女性に大人気です。

■■金毘羅絵馬館■こんぴらえまかん
お社に奉納された絵馬を飾っています。昔、絵馬に願いを込めて奉納した人達の事が想像出来ます。でもももかは余り興味がなかったりして・・・(笑)

■■ガラスの部屋■がらすのへや
ガラスの部屋ではアメリカ現代ガラス作家の第一人者デイル・チフーリのマッキア「海の神」が床に収められています。マッキアとは貝状のガラスの事で、チフーリの作品の代表的なもの。チフーリといえば現代ガラスを収集している美術館では御馴染みの作家さんで、片目アイマスクのアメリカ人間国宝第一号でもあります。当時の名誉宮司鳥居博愛さんは始め50センチ位の作品を購入し、これを床に入れる事を思いつきました。この「床に飾る」という演出(?)にはチフーリ自身も驚いたのだとか。この事は作品「海の神」がコレクションに加わる一端となったのだそうです。床下のマッキアが照明の光を受けてとても綺麗なんですよ。他にアール・ヌーヴォー、アール・デコ期のガラス作品も展示。小部屋を改装しての造りの為、おじいさんの書斎に入り込んだ子供のような気分になります。
養源院
ようげんいん 真宗遣迎院派 山号/南叡山 本尊/阿弥陀如来 通称/血天井、宗達寺

浅井長政の長女で織田信長の姪、そして豊臣秀吉の側室茶々(淀殿)が、父の菩提を弔う為に建てたお寺。寺名は浅井長政の院号・養源院天英宗清からきています。後に焼失しますが茶々の妹で徳川2代将軍秀忠の正室江与(お江、小督)によって再興。有名なのは伏見城陥落により自刃した鳥居元忠らの血で染まった廊下の板を天井に張った血天井。目を凝らすと所々に指や顔の跡が分かります。薄暗い部屋の中にあって生々しいものです。廊下は鶯張りですが、平成23年には大河ドラマの影響からか、例年より多くの参拝者により傷みが見られるようになったとか。
龍馬坂
りょうまざか 坂本龍馬(1836−1867)

龍馬坂の由来は、慶応3年11月17日に近江屋で命を落とした坂本龍馬・中岡慎太郎・山田藤吉の葬儀が執り行なわれ、霊明神社の境内地に埋葬されるにあたりこの道を通ったからなのだとか。二年坂から少し入ったところの石段がそれで、それを登ると霊明神社の社殿が見えてきて、その先の正伝寺へと続いています。今は舗装された道が横切っていますが、昭和時代まではもっと森の中だったそうです。紅葉が有名。ももか的にはかなり高度な坂です(^^;)。
霊明神社
れいめいじんじゃ

文化6年8月に主殿寮史生の村上都貝愷が、正法寺の塔頭清林庵が所有する山林を買い受けて開拓し、その年の11月に創建。徳川政権下でありながら、神道葬祭を行なっていたのは珍しい事だったとか。当初は広い境内地を有していましたが、明治8年に上知され、現在の規模まで縮小を余儀なくされました。本当に小さな神社なのです。幕末の頃は倒幕の志士達にも知られ、その立地からも利用されていたといいます。いざという時、逃げるのに都合が良かったそうですよ。故に、幕末で命を落とした志士の中には、この境内地に葬られる人達も多かったそうです。文久2年11月には長州藩の船越清蔵守愚が祀られ、12月には安政の大獄で殉難した志士達の慰霊祭が執り行われたそうです。また、慶応3年に亡くなった坂本龍馬らも此処に葬られました。因みに墓地は東山招魂社(現・霊山護国神社)の管理となっています。昭和時代、台風の直撃を受け、長らく修理が出来なかったそうですが、近年ようやく完成。ピカピカです。境内には猿田彦明神神石がありますが、これは源融所縁の河原院造営時に奉られていた神石なのだそうですよ。龍馬坂、維新の道、どちらからもすぐ。でもかな〜り坂道はキツイです。
六道珍皇寺
ろくどうちんのうじ、ろくどうちんこうじ 
建仁寺塔頭
 臨済宗建仁寺派 山号/大椿山(たいちんざん)本尊/薬師如来 通称/六道さん
 小野篁(802−853)

白楽天の生まれ変わりと称される程の才能を持ちながらその性格故に嵯峨上皇の逆鱗に触れ、隠岐に流されたという逸話を持つ小野篁さま所縁のお寺。創建の年代には諸説あり、はっきりしていません。葬送の地・鳥辺野の入口に位置し元は愛宕寺といい、平安鎌倉時代には東寺に属していました。かつてこの地は「轆轤原」と呼ばれていました。平家所縁の「六波羅」はこれが訛ったものなのです。更に此処は冥府の入口「死の六道」といわれています。篁堂(閻魔堂)には閻魔大王坐像と共に小野篁像が。体育会系の。「迎え鐘」「冥途降りの井戸」は古典にも詳しいですね。近年門が改修。以前は通りすがりでも気に止まらない程の門だったのがはっとする朱の門に変わりました。8月7〜10にかけて行われる「六道詣り」には多くの参詣者で賑わいます。『源氏物語』では桐壺更衣の葬儀が行われた寺とされています。平成20年「第42回京の冬の旅」で初公開、地獄絵の絵解きをしていただきました。また同夏定期観光バスコースに組み込まれるなど、最近はよく知られるところとなりました。平成27年「第49回京の冬の旅」では毘沙門天像を公開。前回の特別公開から7年の間、六道さんの特別公開時に京に行けなかったももかですが(境内はお邪魔したこともあります)、ようやく近年復活した「黄泉がえりの井戸」も間近で見ることができました。素晴らしい・・。境内の竹林大明神には篁さまが念持仏としていた荼吉尼天が祀られているそうです。
ちなみにももかの数珠巡礼スタートはこちらから。因みに読み方としては『京都市の地名』(平凡社)では「ちんこうじ」となっていますが、どちらでも良いみたいです。
六道の辻
ろくどうのつじ

六道珍皇寺から西福寺門前の辺りが六道の辻と呼ばれる場所。六波羅蜜寺も近く。この辺りは葬送の地・鳥辺野。つまり冥界の入口だったのです。さあ、迷ってください(笑)。
六波羅蜜寺
ろくはらみつじ 真言宗智山派 山号/補陀洛山 本尊/十一面観音 通称/六はらさん

この辺りは六波羅と呼ばれ、平安時代末期には平家一門の屋敷があった場所でもあります。天暦5年当時流行した悪疫を祓う為に空也上人が刻んだ観音像を本尊とした西光寺を創建。後に六波羅蜜寺と改称。現在の本堂は貞治2年のものです。空也上人は阿弥陀聖、市聖と呼ばれ諸国を巡って念仏を勧めた人で、こちらの空也上人像や平清盛坐像は有名ですよね。清盛公のお姿は一門の武運長久を念じ、朱の中に血を点じて写経した太政大臣時代のお姿なのだとか。初めてお会いした時には薄暗い空間の中で鳥肌の立つような張り詰めた空気が流れました。空也さんへのノートがあったのも印象的。約30年ぶりに改修工事がなされ平成20年10月に生まれ変わった収蔵庫は明るく、国宝・重要文化財の木像のお姿もまた一味違って見えます。本坊もこの度改修。辰年に12年毎に行われる本尊御開帳には美しい十一面観音様にお会い出来ます。平成24年秋の御開帳では、ももかも初めて御本尊様を拝し御加持をいただきました。お正月に授与される皇服茶を一度いただきたいもの。節分には中堂寺六斎会による無形文化財の六斎念仏踊りが奉納され、とても華やかです。ちょうど土蜘蛛の吐いた糸がももかのバックに引っ付いていて、それを見た通りすがりのお兄さんが「良いものだから大切にしないとね」と教えてくれました♪そうなの?と記念程度で持ち帰りましたが、後で調べてみたところ金運のお守りになるとか。ほんと、良いものではありませぬか(*^^*).。嬉しい♪
若宮八幡宮
わかみやはちまんぐう

天喜元年に後冷泉天皇により創建。元は六条左女牛にあった為、六条八幡、左女牛八幡と呼ばれていたとか。天皇家を始め源氏や足利将軍家の信仰も篤いお社でした。応仁の乱で炎上の後に復興、豊臣秀吉により数回の移転をよぎなくされましたが、慶長10年に現在の地に移りました。昭和24年に陶器の神様である陶祖神椎根津彦命が合祀され陶器神社とも呼ばれています。八幡さんなので此処の神紋は鳩♪境内には連理の枝ならぬ縁結びの木があります。



京大路をそぞろ歩き
いもぼう平野家本店いもぼうひらのやほんてん

円山公園にある食事処で、その名の通り
いもぼうが有名。享保年間に平野権太夫が唐の芋を植え、それを海老の形に似ているところから海老芋と呼んだのだとか。これを棒鱈と炊き合わせたものが「いもぼう」。以来300年。熱々が美味しいです。
木村茶舗きむらちゃほ

六道珍皇寺近くにある小さなお店。慶長4年の夏に起こった幽霊飴伝説に因んだ
幽霊子育飴が名物です。カンロ飴のような味で懐かしい感じ♪
七味屋本舗しちみやほんぽ

清水寺面参道にある
七味唐辛子の専門店です。明暦年間に河内屋と号し、茶店を営んでいましたが、そこで出していた「からし湯」が評判になり七味唐辛子を扱うようになったといわれています。いつも人で賑わっていますよね。普段のももかは善光寺唐辛子『八幡屋磯五郎』に慣れ親しんでいるので、人によって配合が違うんだなと実感。柔らかい辛味の中に京都らしい上品さがあるような感じ。カルビーの「ポテトチップス七味あじ」(近畿地方コンビニエンスストア限定)はこちらの七味唐辛子が原料に用いられています。

HOME 京華万里 永代の京



















このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください