このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
永代の京
〜京都市/伏見区編〜
東丸神社
あずままろじんじゃ
明治23年創建。祭神は荷田東丸(春満)。本名は羽倉信盛、通称・羽倉斎。稲荷社の神官羽倉氏は東と西の家があり、東丸は東羽倉家に生まれ、長男信友が家職を継いだ為、次男の東丸は荷田姓を名乗りました。東丸は幼少から歌道書道に秀で、長じては国史、律令、古文古歌に通じた人物として知られ、後に江戸に下向しました。江戸では徳川八代将軍吉宗とも親交があったそうです。吉良上野介もその教えを受けた一人ですが、吉良さんの日頃の行いに対して教える事をやめてしまいます。面白いのは大石内蔵助や堀部弥兵衛、堀部安兵衛、大高源吾などと親交を持ち、吉良邸討ち入りの際は邸内の見取り図を作って大高さんに渡したり、茶会の情報を流したりしているのです。忠臣蔵の影にこの人ありなんですね。賀茂真淵、本居宣長や平田篤胤らと並ぶ「国学四大人」の一人。因みに真淵は東丸の門下であり、宣長は‘松阪の一夜’で生涯でたった一度の真淵との対面により国学発展の契機を得ています。お社は荷田家の一部であるこの地に作られています。御神紋は荷田家の定紋と同じ一重裏梅花。大きくて可愛いこの梅花にも摩訶不思議なるいわれがあり、境内にある荷田社(かだのやしろ)にその事が書かれています。このお社で注目したいのは鳥居。これは奴禰鳥居(稲荷奴禰鳥居)といいそんじゃそこらで見られる鳥居じゃないんですよ。ももかが知る限りでは稲荷山の荷田社、錦天満宮の日の出稲荷大明神にも同様のものが。安楽寿院
あんらくじゅいん 真言宗智山派 山号/なし 本尊/阿弥陀如来
保延3年に鳥羽離宮の東殿に建てられた御堂。本尊は阿弥陀坐像で、この寺名が表すように浄土教に基づいています。膨大な寺領は南北朝の争乱によって失われ、為にこのお寺も規模が小さくなっていきます。後に豊臣秀吉や徳川幕府の庇護を受けました。書院や庫裏は申し込み制の為に通常では入る事が出来ないのですが、境内は自由に散策出来ます。鳥羽伏見の戦いの折には官軍の大本営ともなっていたところですね。一言寺
いちごんじ 醍醐寺塔頭 真言宗醍醐派別格本山 本尊/千手観音 醍醐五門跡の一つ
正式名称は金剛王院といい、醍醐五門跡の一つ。本尊は千手観音で60年・33年に一度、御開帳されます。「ただたのめ、仏にうそはなきものぞ、二言いわぬ、一言寺かな」。この秘仏へ一心に祈れば言下の願いが叶うという事から「一言寺」の別称があるのです。境内の天然記念物のヤマモモの大木に、光仁天皇のお宮は楊梅宮といったのよね〜と関係ない話をしてしまうももか。かなりの高台にあって門に至るまでの坂道と石段が心地良い筋肉痛を約束して下さいましたが、目の前に開ける境内のしっとりとした様子と、門の外に開ける見晴らしの良さが何ともいえませんでした。ここには、建礼門院平徳子に仕え壇ノ浦の戦いの後は大原で過ごした阿波内侍の張子でつくられた座像があるのです。彼女は藤原通憲(信西)の娘で、寺伝によれば、出家して真阿(しんあ)と名乗り清水寺の観音さまのお告げによりこの一言寺を創建したといいますが・・・。像は画像に基づいて元禄7年に造られ、普段は非公開で厨子の内に仕舞われています。内陣の様式は珍しいもの。大和伝統の胃腸薬・陀羅尼助や吉野葛が販売されているのには驚きました。陀羅尼助、京都でも購入出来るんですね。稲葉神社
いなばじんじゃ
淀城本丸址に鎮座するお社で明治8年の創建。淀藩稲葉家の祖・稲葉正成を祀ります。稲葉氏は、5代正知(淀城10代)が下総佐倉藩から十万二千石で入封して以来、12代正邦(淀城21代)まで代々淀藩主を務めました。井上源三郎埋葬地(欣浄寺跡地)
いのうえげんざぶろうまいそうち(ごんじょうじあとち) 井上源三郎(1829−1868)
源さんは武蔵国日野宿北原で八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の3男として生まれます。天然理心流三代目宗家の近藤周助に入門。文久2年、源さんは突如歴史の表舞台に立つ事となりました。天然理心流同門である近藤勇・土方歳三・沖田総司らと共に上京、結成された新撰組の六番隊組長として京の街を駆け巡るという立場となったのです。その後、副長助勤に。源さんは諱を一武(かずたけ)といい、剣の腕は左程でもなかったもののその人柄で人望の厚い人でした。色々な本やドラマなどの源さんといえば、近藤さんや土方さんに比べてやや老成した人として描かれるのは、そうした落ち着いたイメージがあるのかもしれません。慶応4年正月に鳥羽伏見の戦いが勃発。新撰組隊士らと共にこの地にあった源さんも戦いに参加するも、幕府軍は敗走を余儀なくされ、1月4日途上の淀・千両松で戦死。前年に新撰組に入隊していた甥の井上泰助は、その首と刀を羽織に包んで持ち運ぼうとするも重すぎて果たせず、他の隊士に促されて宇治川を渡る手前に埋めたといいます。当時泰助は12歳ほど。後に帰郷、叔父の戦死を伝えました。後に泰助は埋葬の場所を探しましたが、宇治川の流れが変わり(明治時代に大規模な河川改修工事があった事によるのでしょうか)見つける事が出来なかったそうです。埋葬地とされる欣浄寺(廃寺)については長らく不明のままでしたが、平成20年にほぼ特定されました。ももかが訪れる事が出来たのは本当に御縁としかいえません。妙教寺に立ち寄った時に出会った新撰組フリークのお姉さんから、その場所を教えて貰ったのです。この日のももかは、「ちょっと寄ってみるか」程度の淀散策。事前調べもしている筈もなく、全くのノン幕末モード!なのに・・・源さんに呼ばれたに違いないです。伊予親王巨幡御墓
いよしんのうこはたのはか 伊予親王(783?−807) 桓武天皇皇子
別名を黄金塚ともいうこのお墓には、1度目は行き着く事が出来ずリベンジでのお参りとなりました。坂道を登りに登った住宅地の一角の小さな公園の傍に見落としてしまいそうな入口があります。柵門が施錠してあった為に、古墳の上の小さな塚を見る事は出来なかったのが残念でした。伊予親王は桓武天皇と夫人藤原南家の吉子との間に生まれた皇子です。生年が不詳の為に何番目かの男子であるのかを窺い知る事は出来ませんが、恐らく賀美能親王(後の嵯峨さん)、大伴親王(後の淳和さん)に歳が近い方だったと推察出来ます。逞しく成長し父桓武天皇に愛でられた皇子でしたが、後に異母兄平城天皇の御世に謀叛の意ありとして母・吉子と共に幽閉、飲食を断たれた後に服毒して果てました。この変において藤原南家は衰退。しかし彼を葬った平城天皇は生涯、伊予親王の御霊に悩まされたともいわれているのです。伊予親王ってももかは気になる人の1人。またゆっくりお会いしたいです♪慶福寺
えいふくじ 浄土宗 山号/更生山 本尊/阿弥陀如来
創建は鎌倉時代後期といわれ、法界寺塔頭であったと伝わっています。元は天台宗のお寺で宇治郡醍醐村日野畑出の山中にあり、天文17年に捨世派東山一心院の末寺として浄土宗に改宗しました。応仁の乱により堂宇が焼失するも、慶長3年に再興。一時は末寺を有するほどの大寺院にまでなったといいます。後、明治36年にこの地に移転しました。平成に至って本堂を改築し、現在は明るく新しいお寺という感じです。段差がないバリアフリーの本堂には、末寺・浄福寺旧蔵の丈六の宝珠を持つ地蔵菩薩坐像(腹帯地蔵)が鎮座しています。地蔵尊でこの大きさ、初めて拝見いたしました。腹帯の姿は珍しいのだそう。また、末寺の西方堂旧蔵の阿弥陀如来像(平安)や、末寺・壽福寺旧蔵の地蔵菩薩坐像(鎌倉)も安置。春は樹齢50年の枝垂れ桜が綺麗なのだそうで、一度訪れたいもの。此処には可愛いワンコがいるのです。触らせてもらえた・・・v 平成27年の文化財特別鑑賞日にお詣り。大橋家庭園「苔凉庭」
おおはしけていえん 「たいりょうてい」
伏見稲荷大社の北側にある大橋家の庭園。明治末から大正2年にかけて「植治」こと七代目小川治兵衛の作庭により造られました。植治と当主・大橋仁兵衛は親しかったのだとか。庭内にある十二基の石灯籠は当主の趣味との事で、植治も小さな庭にこの数の設置には頭を悩ませたのではないかと推察されます。あれは春日、あれは常盤、これは雪見と灯籠を数えるのも楽しいです。注目したいのは、此処には水琴窟が2つもあるという事。水琴窟は元々庭の蹲、つまり手洗い水のような目的に音を楽しむという日本人の美学(?)が融合したような長閑で雅なものなのですが、これは残存する京都最古のものなのです。菊の花に葉っぱ付の形と一段降りて玉砂利の中に水を流す形の二基は、涼やかな音を送ってくれました。古い庭園は作庭の後、樹木の育ちと共に雰囲気が変わってしまったりするものですが、此処では昔と違うのは稲荷山の麓まで人家が増えた事なのだとか。それに伴い借景庭園ではないものの、以前はなかったものも今では庭の向こうに見えるのだといいます。方位の関係で途中建設をやめた茶室の床や玄関は六角の煉瓦。お部屋の中の調度品も螺鈿の嵌め込まれた脇息があったり、屏風があったり、古い雅楽の楽器があったり、脚のお洒落な文机があったり、ももかの好みなちっちゃな時計があったり。床に置かれていた亀ちゃんの香炉も可愛かったです。←触りまくるももか。縁側のちょっと歪んだガラスも見逃してはなりません。こういう大きなガラスは吹くのが大変なので昔は貴重品だったんですよ。一般の家でこれですか。仁兵衛さんはモダンな人だったに違いない!「苔凉庭(たいりょうてい)」の名は、仁兵衛さんの職業が瀬戸内の鮮魚を一手に扱う元請をしていたとの事で、親交のあった各地網元の「大漁」を記念して名づけたのだとか。現御当主さんもお話好きな方で雑談含め一時間は話し込んでしまいました。荷田春満旧宅
かたのあずままろきゅうたく 荷田春満(1669−1736)
荷田東丸(春満)の邸宅で、伏見稲荷大社の東南隅、東丸神社の横にあります。外観は武家風、屋根は棧瓦葺の四注造を二つ重ねた形。東丸は「国学の四大人」として賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤に並ぶ人物。国学学者の先駆者といって良いでしょう。稲荷社の神官・東羽倉家の次男として生まれ荷田姓を名乗ります。通称は斎宮(いつき)。後に江戸に下り、様々な人と親交を持ちますが元文元年京都にて没。お墓は深草山にあります。明治16年に正四位を贈られ、それを記念して旧宅の一部に建てられたのが東丸神社です。萱尾神社
かやおじんじゃ
日野の産土神であり、法界寺の鎮守社として日野の地に鎮座しています。祭神は大己貴命(大国主命)。創建年代には諸説あり、藤原鎌足が飛鳥時代に創建したとも、藤原北家真夏が奈良時代に創建したとも。真夏は光仁天皇から此の地を賜いお社を建てる事にするのですが、奈良の春日野に似ている事から、地名を春日野と改めたのだそうです。そして社殿の前に「春日野」と標した木札を置いたのですが、なんと鹿に「春」の字を食べられてしまったのです。故に以来「日野」を地名としたのだという話があるのでした。応仁の乱により焼失後、慶安5年に造られた本堂は、彩色豊かであった当時の名残を留めています。狛犬も素敵なんですよ。舞殿も古いのでしょう、耐震補強をしてあります。本殿の前に一基の石灯籠があり、何故に一基?と不思議だったのですが、これはキリシタン燈籠で、珍しいもの。石の下部には人の形(マリア像)と思われる彫刻がうっすらと残っています。個人的には、鳥居から伸びて舞殿をカクカクに囲んで本殿に続く石畳(?)の道筋が面白いと思います。結界を綴っているかのようなんですもの。桓武天皇柏原御陵
かんむてんのうかしわばらのみささぎ 第50代桓武天皇(737−806、在位781−806) 光仁天皇皇子
光仁天皇と渡来系の皇太后高野新笠の第1皇子で名を山部といい、同母兄弟には能登内親王、早良親王(贈崇道天皇)がいます。異母弟・他戸親王は母后である井上内親王が呪詛の罪で廃された事でその位を追われ、代わって皇太子に立ったのがこの方でした。桓武天皇は平城京で即位した最後の天皇であり、遷都を行い京を長岡に、そして山城に定めました。この京は平安京と呼ばれ現在に至るのです。その後の治世は御存知の通りですが、晩年は実弟早良親王を死に追いやった事に対しての苦悩の日々を送ったとも伝えられています。御陵は始め右京区にありましたが賀茂神社に近い事から移転。清少納言が「みささぎは、うぐいすのみささぎ。かしはぎのみささぎ。あめのみささぎ」と愛でた御陵も、歴史の流れの中でその所在を失い、伏見のこの地も後に陵墓の一部が伏見桃山城となる等の変動を経ています。そんな訳で伏見桃山城の天守閣も御陵からは伺えます。個人的に此処は京の鬼門だと思っていたりします。何となくね。北向山不動院
きたむきざんふどういん 天台宗 山号/北向山 本尊/不動明王 通称/北向きのお不動さん
大治5年に鳥羽天皇の勅願により創建。王城鎮護の為、鳥羽離宮に対して北向きに建てられた事からこの名があります。古地図を見ると広域を寺領としていた事が分かります。しかし長らく隆盛を誇っていた寺も、応仁の乱で焼失。後に伏見の大地震にも遭っています。本堂は正徳2年に東山天皇の旧殿を移築したものです。平日なのに境内にはちらほらと人影があって、信仰の篤さを感じました。洗心井でお水を頂き、暫し休息。不動明王は秘仏ですが、毎年1月16日の護摩の日のみ開扉されお参りが出来ます。近畿三十六不動尊第廿二番。旧小枝橋(鳥羽伏見戦跡碑)
きゅうさえだばし (とばふしみのたたかいのあとひ)
平成13年に橋の架け替え工事がありましたが、鳥羽伏見の戦いの足跡は旧小枝橋の辺りにかろうじて残されています。「鳥羽伏見戦跡」の碑、「此付近鳥羽伏見戦跡」の看板、そして「旧小枝橋風景図・小枝橋について」の説明書き。この3点セットが幕末へと誘ってくれるのです(笑)。碑文、新しいです。架け替え工事の折に代えたのかも。この辺りは道が狭いのですが交通量は変わらずに激しいので写真撮影には気をつけましょう♪「小枝橋」は「さえだはし」と読み、古くは平安京の入口でもありました。鳥羽伏見の戦いではこの橋で鳥羽街道を北上しようとする幕府軍と竹田・城南宮に布陣する官軍とが衝突。激戦地ともなった場所です。城南宮→鳥羽離宮跡公園→旧小枝橋という感じで散策されるのが良いですね。京セラ美術館
きょうせらびじゅつかん
平成10年、山科から移転した京セラ株式会社本社ビルに開館した美術館。平成27年「八坂神社名宝展 神々への華麗なる献上品」の企画展を鑑賞する機会に恵まれました。最寄りは竹田駅で、徒歩20分くらいです。京都府総合見本市会館 「京都パルスプラザ」
きょうとふそうごうみほんいちかいかん 「きょうとぱるすぷらざ」
大展示場、第一展示場、第二展示場などの展示場スペースや多目的広場など様々な催しに使用されている会館です。1階の吹き抜けが素晴らしい!地下鉄竹田駅からも歩いて行かれる距離。気になる催しは東京の骨董ジャンボリー(会場はビックサイト)に並ぶのではと勝手に思っている京都大骨董祭かな。京都だけに掘り出し物がありそう。実はももか、此処に2回ほど行ってます。観光・・・?月桂冠大倉記念館
げっけいかんおおくらきねんかん
月桂冠は濠川沿いにある、伏見を代表する酒蔵の一つ。濠川は伏見城の外堀だったそうです。記念館は酒造りの工程に従って見学が出来ます。入館にはお土産が付いていて、月桂冠のワンカップを頂いてしまいました。お酒が飲めないので地元に酒蔵があっても、今まで訪ねる事はなかったのですが、行ってみると面白いものですね。中でもラベルコレクションは、そのデザインだけでも芸術的で琴線に触れまくり。朱印用版木や手押し焼印というものもあって、これが良いんですよ。月桂冠の歴史は寛永14年に始まり、屋号を笠置屋(初代大倉治右衛門の出身・笠置から)、酒銘を玉の泉といいました。「月桂冠」の名は明治38年に採用され現在に至ります。記念館の公開は昭和62年からで、元々は明治42年に酒造として造られた建物を改装したものです。一帯は大倉関係の古い建物が街並みを形造っています。御香宮神社
ごこうのみやじんじゃ
伏見九郷の鎮守であったものを豊臣秀吉の伏見城築城により大亀谷に移転し鬼門除けとしました。慶長10年に現在の地に移り、本殿はこの時に造られたもの。徳川家の崇敬が篤く徳川御三家の祖がこのお社を産土神としたのだそうです。確かに東照宮がありましたわ。でも意外です。だって戊辰戦争で此処は薩摩軍の陣所・・・。すぐ近くの伏見奉行所を護る幕府軍と対座していてその為に「伏見の戦跡」の碑を見る事が出来ます。この名の由来は貞観4年にこの境内に香りの良い水が湧き出した事によるもの。こじんまりとしながらも壮健、という感じがしました。それにしても境内に野ざらしになっていた伏見城の遺構、石垣の山。あれってどうする予定なのでしょう(^^;)。近衛天皇安楽寿院南御陵
このえてんのうあんらくじゅいんみなみのみささぎ 第76代近衛天皇(1139−1155、在位1142−1155) 鳥羽天皇皇子
近衛天皇は鳥羽天皇と中宮美福門院得子の間に生まれた第8皇子で名は體仁。父天皇と異母兄崇徳天皇の確執に巻き込まれた天皇でもあります。生後間もなく崇徳天皇の皇后藤原聖子の養子となり、更に皇太弟ともなりました。即位時には僅か2歳。そして17歳の若さで崩御する事になるのです。近衛天皇には後嗣がなく、異母兄の雅仁親王が後白河天皇として即位。鳥羽・崇徳・後白河の天皇達を渦巻く世界は貴族や武士を巻き込み、源平合戦へと向かっていくのです。母・得子によって建てられた近衛天皇の遺骨が納められた多宝塔は現在豊臣秀頼による再建のものですが、これが素晴らしく美しい!じっと見ていてもももかは厭きませんでした。鳥羽離宮跡に立地。長閑な空間です。欣浄寺
ごんじょうじ 曹洞宗 山号/清涼山 本尊/昆盧舎那仏 通称/伏見大仏
寛喜2年から天福元年にかけてこの地で教化に努めた道元禅師が創建したものと伝えられています。宗派は真言宗から曹洞宗、そして浄土宗へと変わり、再び曹洞宗になったのは文化年間。この辺りは桓武天皇から邸地を賜った深草少将義宣が屋敷を構えたところといわれているんですよ。少将さまのロマンスの原点なのですね。因みに欣浄寺の山号「清涼山」は少将の院号に由来。「通ふ深草百夜の情 小町恋しの涙の水が 今も湧きます欣浄寺」。そんな看板がありますが、池の東の藪陰の道は少将の通い路(道)。此処からあそこまで恋故に歩かれたのですね、少将さま・・・。でも訴訟のある人は通ってはなりません。境内には少将さまと小野小町の塚があり、「墨染井」、別名「涙の水」「少将姿見の井戸」と呼ばれる井戸も池の傍らにあります。近くの墨染寺にも二代目中村歌右衛門氏寄贈の墨染井が残っているので、この二つのお寺は何らかの関連があるのかもしれません。本尊の伏見大仏は一丈六尺の毘廬舎那仏。木造では日本一の高さなのだとか。頭部は安永年間、胴体は寛永年間に造られた事が分かっています。その側に少将さまもいらっしゃいます。小町の恋文を焼きその灰と土を混ぜ込んで作られた少将さま像は哀愁に満ちつつもロマンスの影が。城南宮
じょうなんぐう
平安遷都の折、桓武天皇が京の南方の守護にと建てたのだとか、この地にあった城南寺の鎮守社だったとか様々な説があり創建の由来ははっきりしていません。社誌には神功皇后の昔、軍船に立てた御旗を八千矛神の御霊を憑けてこの地に納めた事に由来するとあります。後、鳥羽離宮の裏鬼門に。白河上皇による鳥羽離宮の造営によって一躍華やかになった鳥羽は「まるで都がこの地に遷って来たかのよう」と言われたそうです。しかし承久の乱以降衰退、応仁の乱で荒廃。明治10年には真幡寸神社を名乗っていましたが昭和40年に従来の城南宮の名に戻りました。春・秋に催される「曲水の宴」は有名です。神苑の桜も綺麗♪また鳥羽伏見の戦いでは官軍の陣所となりました。御神紋は月・星・日を現す三光。平成19年夏のJR東海のCMでは紫の藤棚が印象に残りました。浄菩提院塚陵墓参考地
じょうぼだいいんつかりょうぼさんこうち
竹田小屋ノ内町にある陵墓参考地。明治36年4月に指定。被葬者は不明。白河天皇成菩提院御陵
しらかわてんのうじょうぼだいいんのみささぎ 第72代白河天皇(1053−1129、在位1073−1087) 後三条天皇皇子 六条帝
後三条天皇の第1皇子として生まれた白河天皇は名を貞仁といいました。生母は閑院中納言藤原公成の娘で藤原能信の養女である茂子。院政を行なった事は有名ですよね。御陵は鳥羽離宮跡にあります。白河天皇というとももかは平安末期でありながらも権力を手にしていた天皇(上皇・法皇ともいうわね)というイメージがあるのです。ですから、御陵を拝して驚きました。何だか・・・小さい。交通量の激しい道に面してもいます。時代が変わればこうなるのですね・・。親鸞聖人御誕生之地 ゑな塚・産湯の井戸
しんらんしょうにんごたんじょうのち えなづか・うぶゆのいど
現在は非公開のようです。日野誕生院の西、誕生院保育園の敷地に面したところにある、浄土宗本願寺派(西本願寺)飛地境内です。親鸞聖人は承安3年にこの地に生まれたと伝えられています。瑞光寺(元政庵)
ずいこうじ(げんせいあん) 日蓮宗身延山久遠寺派 山号/深草山(じんそうざん ) 本尊/釈迦如来 通称/元政庵
開祖である元政上人の名を頂いたお寺。元政上人は竹を好んだ事から竹葉庵の別称もあります。極楽寺薬師堂跡に創建された明暦元年当時は称心庵といいました。門から境内、そして本堂と彼の人柄が今でも伝わるような温かみのある空間。屋根は瓦葺でとても美しいのです。上人はJR線を挟んだところ、呉竹が三本植えられた塚の下に眠っています。竹には「一本は、法華経広宣流布のため 一本は、衆生救済のため 一本は両親のため」。そんな意味が込められているのだそうです。水戸光圀は西国巡歴の途中にこのお寺に立ち寄り「嗚呼孝子元政之墓」という碑を建てたいと申し出た事があるとか。当時の住職はこれを断っていますが、現在お墓には真新しい碑があったりします。後世の物でしょう。境内にある白龍銭洗弁財天さんには縁日にお金を持っていきましょう。そして笊で洗うのです。ももかも洗ってきましたよ♪普段非公開、元政上人忌の3月18日に遺宝展あり。石峰寺
せきほうじ 黄檗宗 山号/百丈山 本尊/薬師如来
宝永年間の創建と伝えられ、元々は大寺でしたが度重なる災禍により堂宇は焼失を繰り返します。多田満仲の念持仏と伝えられた薬師如来も昭和54年の火災により本堂とともに焼けてしまいました。現在の本堂は昭和60年の再建と比較的新しいもの。そして至るところに卍があるんですよね。此処が有名なのは画家伊東若冲がこのお寺に庵を結び密山和尚と共にその制作にあたったという五百羅漢らに代表される石仏群。制作年数は10年。門前の長い石段前にも「石像五百らかん」と刻まれた碑もあります。羅漢山は明治以降荒廃していましたが再び整理されたものです。赤門を抜けて初めに目にする「釈迦誕生」から「涅槃場」「賽の河原」まで、鬱蒼とした竹林の中に静かにそこにいらっしゃる石像は圧巻。ももかが立ち寄った時は薮蚊が出るからと寺名が入った団扇を貸していただきました(^^)。善願寺
ぜんがんじ 天台宗来迎寺末寺 山号/誓弘山(せいぐざん) 本尊/地蔵尊(原帯地蔵)
聖武天皇の御世に創建され、長保年間に現在の地に移されました。別名を腹帯地蔵といいます。本尊の地蔵菩薩は約2・7メートルと京都一の大きさを誇り、重要文化財に指定された事をきっかけに昭和49年製の収蔵庫に大切に安置されています。それにしてもその大きさから、お堂の中がきつそうだと思ったのはももかだけでしょうか。この日野には平重衡の北の方・大納言佐局が住んでいたのですが、彼女が安産祈願をしたお寺でもある事から、『平家物語』所縁の場所ともいえますよね。昭和30年代に御神木の榧に仏師・西村公朝が当時の住職の願いにより不動明王を彫りました。生木に彫刻を施すという難行を経て生まれたこの不動さんは「加也の木不動」として大変珍しいものなのだそうです。醍醐寺
だいごじ 真言宗醍醐寺派総本山 当山派修験法頭 山号/醍醐山 本尊/薬師如来 通称/深雪山(みゆきやま)醍醐寺 世界文化遺産
貞観16年に聖宝理源大師が醍醐山上に草庵を結び、准胝観音・如意輪観音彫刻し安置したのが始まりです。その後、醍醐・朱雀・村上天皇の帰依を受け堂塔が次々に建立され大寺院となっていきました。平成7年春のJR東海のCMとして醍醐の桜が起用されますが、同年1月に起こった阪神大震災の為か記録が残っていません。平成7年春・平成13年秋・平成21年春のJR東海のCMに起用。世界文化遺産。この度、特産(?)「醍醐水」を販売。また、季節の予約制ですが夜間拝観も始まりました。
■■三宝院庭園■さんぽういんていえん
三宝院は永久3年の創建。豊臣秀吉が醍醐の花見に際して庭奉行竹田梅松軒等に命じて造らせたという庭園は必見です。つい溜息を漏らしてしまう程の優美さが漂います。池の具合も素晴らしく、ももかが訪れた時はゴイサギがひらりと橋の上に飛んできて参詣者から歓声が。因みに「ゴイサギ」とは五位鷺と書き、その名づけ親は醍醐天皇なんですよ♪神泉苑で「五位」を貰ったの♪平成13年秋のJR東海のCMでも御馴染みですね♪藤戸石(千石石)と呼ばれる緑泥片岩は、名石中の名石なんですよ。元々は足利義政の東山殿から管領細川家を経て織田信長が綾錦の布に包み足利義昭の二条第に据えられたもの。信長の没後、これを秀吉が手に入れ聚楽第に移されていたのですが、ここから運ばれて来たものなのだとか。「藤戸」の名の由来は詳しくは分かっていませんが、石の表面に浮き出た模様が藤の花に似ているからという説もあります。謡曲『藤戸』では源平合戦に藤戸の渡りで馬でも渡れる浅瀬を佐々木源氏に教えた土地の者が、これを他言しないように殺され、石に括り付けられ水の中に沈められたという話になっています。余り知られていませんが、このお庭には豊国稲荷が祀られています。徳川の世を憚るように、そして何時までも秀吉の恩顧を忘れぬようにひっそりとそれは築山の上にあります。花見がてらに訪れながらも桜が早く散ってしまった事と、たまたま醍醐寺展への出品の為、見る事が出来ない仏像や宝物もあって残念でしたのでまた行きたいとは思っています。大善寺
だいぜんじ 浄土宗 山号/法雲山 院号/浄妙院 本尊/阿弥陀如来 通称/伏見地蔵
このお寺は慶雲2年に藤原定慧によって建てられたものです。定慧は鎌足の子で不比等の異母兄。この地にお寺を建てるという事は淡海朝廷がこの辺りに何らかの関わりがあったのかもしれません。天智天皇が亡くなった木幡のすぐ近くですしね。さて、此処は小野篁さまが六体の地蔵尊を彫って安置した事から六地蔵という名があります。後に平清盛が疫病や悪霊の侵入を防ぐ為に六体を現在の六ヶ所(徳林庵・大善寺・浄禅寺・上善寺・源光寺・桂の地蔵寺)に分け置いたのだとか。これを巡るのが六地蔵巡りです。地蔵堂が印象的でした。平重衡卿墓(平重衡塚)
たいらのしげひらきょうのはか (たいらのしげひらづか) 平重衡(1157−1185)
重衡さんは平清盛の5男。源平合戦の折には平家一門の武将として輝かしい戦功を残しています。しかし寿永3年に一ノ谷の合戦で捕らえられ、東大寺大仏殿焼き討ちを怨む南都の僧侶の要求により、その身は奈良へと送られ木津川河岸で斬首されました。北の方は大納言佐局といい、鳥飼中納言維實の娘として生まれ五篠大納言国綱の養女となり重衡さんと結ばれました。奈良へと向かう重衡さんと再会した彼女は、彼が命を落とした後にその首と遺骸を貰い受けて荼毘にふし、その場所に塚を造ったといわれています。現在、彼のお墓とされている場所は公園のようになっていてその真中に「従三位平重衡卿墓」と書かれた立派な石碑が建っています。従三位の公達ですもの、当然?『平家物語』のこの日野の場面、そして千手前とのお話。重衡さんというと猛々しいイメージよりも優しげで儚い面差しのクールビューティなお姿を連想してしまうのは、こんな最期を迎えるからなのでしょうか。因みに大納言佐局は安徳天皇の乳母の1人でもありました。後に壇ノ浦にて入水するも助けられ、建礼門院平徳子と共に大原で余生を過ごし、そこで没したといいます。長建寺
ちょうけんじ 真言宗醍醐派 山号/東光山 本尊/八臂辨財天(秘仏) 通称/島の弁天さん
豊臣秀吉が築城した伏見城は、豊臣家滅亡から江戸開幕を経て元和5年に廃城となりました。それに伴い今まで栄えていた伏見の町は衰退し、これを憂えた豪商らは13代目伏見奉行建部内匠頭政宇に嘆願。元禄12年、建部内匠頭は壕川を開拓するにあたり深草大亀谷にあった即成就院の塔頭多門院を分離して、建部姓の一字と長寿を願い「長建寺」と名付けました。本尊の弁財天は鎌倉時代後期のもので室町時代に琵琶の名手であった伏見宮貞成親王家の持仏堂に祀られていたものと云われ、毎年元旦から15日間のみ御開帳されます。洛南三大奇祭の一つ7月23日の「長建寺の大祭辨天祭(伏見の弁天祭り)」は、 船上で行われる大柴灯護摩法要。良く知られるところでしたが、昭和26年を最後に姿を消してしまいました。赤い中国風の門が印象的です。寺田屋
てらだや
坂本竜馬の常宿としていた旅館。文久2年に起こった寺田屋騒動の舞台で、現在も当時の刀傷が残る部屋を見る事が出来ます。幕末に関するグッズもあって、ファンには嬉しい限り。ももかも司馬遼太郎氏の『竜馬がいく』読破以来、竜馬さんは好きなんです〜♪うふふ。ついつい入口の提灯の前や竜馬さん像の前で写真を取りまくってしまいました(笑)。唐人雁木碑
とうじんがんきひ
「雁木がんき」とは階段状の船着き場の事。朝鮮聘礼使へいれいしは淀川を遡り、この地に上陸したのだそうです。石碑は桂川に架かる宮前橋に続く道に建てられています。桃陵団地
とうりょうだんち
元々伏見という土地は貴族の別荘が立ち並ぶ場所で、これが都市化したのは豊臣秀吉による伏見城築城からなのです。戊辰戦争の折、炎上した伏見奉行所の跡地はその立地条件の良さからか陸軍の土地として工兵隊基地となりました。太平洋戦争後に米軍に渡り、後に返還。現在は団地となっています。「伏見奉行所跡」の碑のすぐ近くにその由来を書いた掲示板があるのですがこの掲示板の上にある笠石は陸軍時代の門に使用されたものなのだそうです。鳥羽天皇安楽寿院御陵
とばてんのうあんらくじゅいんのみささぎ 第74代鳥羽天皇(1103−1156、在位1107−1123) 堀河天皇皇子
堀河天皇の第1皇子で、母は藤原実季の娘苡子(贈皇太后)。名を宗仁といいます。父帝の崩御を受けて即位したのは僅か4歳の時でした。白河上皇の意向を受け5歳の第1皇子・顕仁親王に譲位し、上皇に。この顕仁親王は後に崇徳天皇と呼ばれる事になりますが、鳥羽上皇は彼を自分の子ではなく白河天皇と皇后待賢門院藤原璋子との間に生まれた者として「叔父子」と呼んだのだとか。ここから生まれた確執はやがて保元・平治の乱へ、そして武家政治への布石となるのです。安楽寿院近くにあるこの御陵。御陵内にある「碁盤の梅」の故事も興味深いですよね。とても静かだったのが印象的です。鳥羽離宮跡公園
とばりきゅうあとこうえん
『平家物語』にも記述が残る鳥羽離宮。この離宮はかなり広くて近くの安楽寿院もその敷地内だったりするのです。公園には「秋の山」と呼ばれる鳥羽離宮南殿の築山の遺構が。此処は薩摩軍の砲台となり、現在は碑が建てられています。「鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地小枝橋」の碑もあります。戊辰戦争の口火はここで発射された一発のアームストロング砲から切られたのです。実は「秋の山」って何だろうと思っていたのですが、此処には「春の山」というものもあったのだそうです。築山といえば納得。公園としては広いところなのですが、ももかが訪れたのは平日だった為か人影もありませんでした。ぬりこべ地蔵
ぬりこべじぞう
伏見稲荷大社近くの小さな小道を行ったところにお墓があるのですが、その道の傍らにあるお地蔵さん。明治時代に現在の地に移ってきたようです。病気を塗り込める、特に歯痛にご利益がある事で有名で「京都市伏見区ぬりこべ地蔵様」でも郵便は届くのだそうです。。歯痛、辛いですからね。日野家御廟所
ひのけごびょうしょ
日野家の御廟所。親鸞聖人の父・日野有範、母・吉光女、伯父・範綱、娘・覚信尼のお墓があります。また、忘れてはならないのは「押し大臣」日野勝光卿のお墓があること!・・・この何処かに、なんですが。天明5年に建立された彼を顕彰した「唯称院左大臣碑」があって、彼を偲ぶことが出来ます。細川山名細川山名と連書されていたり、結構面白いのです。日野家の家紋の鶴丸紋が門に輝いています。日野誕生院
ひのたんじょういん 西本願寺飛地j境内 浄土真宗本願寺派(西本願寺) 本尊/阿弥陀如来
浄土真宗本願寺派(西本願寺)の別堂で、飛地境内にあたります。浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、法界寺を創った日野資業から四代の後、日野有範と源義家の孫娘吉光女との間に生まれました。親鸞聖人誕生の地を記念して、文政11年に建てられたこのお寺の境内には保育園も隣接。また敷地内には産湯井戸や胞衣塚もあります。当初は有範堂または宝物堂などとも呼ばれていたのだそうで、様々な名前を経て現在の日野誕生院に改称されたのは昭和6年の事でした。小さなお堂はなんとなく奈良のお寺の雰囲気があって、白砂利が引いた紋様が水を落とした一瞬のようでとても美しかったです。調べてみたところ、これは平安初期の建築様式を模しているのだとか。納得です。平成27年には2度も立ち寄る機会を得ましたが、文化財特別鑑賞の日には説明も伺う事ができました。藤森神社
ふじのもりじんじゃ
元は紀伊郡深草地域の産土神ですが創建の由来は分かっていません。平安遷都よりも古いお社である事は確かで『藤森神社縁起』には神護景雲年間中とあります。本殿にはスサノオ以下の七神、東殿には天武天皇・舎人親王、西殿には早良親王、伊予親王、井上内親王が祀られています。一説に依ると奈良時代に蒙古が襲来するという噂があって此処で早良親王が戦勝を祈って出陣したのだとか。これはずっと後に出来たお話だといわれていますが、あるんですよ〜、境内には蒙古塚が!藤森神社では毎年5月5日に「藤森祭(深草祭)」が開催されお御輿や武者行列、駈馬などが執り行われます。その武者行列の「朝渡」は早良親王が立太子した頃、伊治大領皆麿が陸奥で不穏な動きを見せた為に、親王は征討大将軍として軍を集めこのお社で戦勝を祈願。出陣しようとしたところこれを恐れて乱が平定したというお話の行装です。また「駈馬」は同じく陸奥の反乱に対して征討将軍の勅命を受け此処で祈誓出陣された際の擬勢を象したものだとか。一度お祭を見てみたいものです。お祭といえばこちらの節分会は個人的に好きですv紫陽花の名所。境内にある摂社の大将軍社は平安遷都の折に祀られた大将軍社の1つで方位除けの神として信仰されています。入館料は志納という宝物館にはお馬さんが一杯。また有栖川宮に貸した(そう、貸して差し上げたのです)鎧も必見かも。節分会も密かな楽しみ。伏見稲荷神社
ふしみいなりじんじゃ
稲荷神社の総本宮。和銅4年に創建されたと伝えられていますが実際はそれよりも古いともいわれています。平成23年に鎮座1300年を迎えました。天長4年に東寺の塔を造る為にこの稲荷山の神木を切ったという話もあり、真言密教と結びついて益々稲荷信仰が盛んになっていきました。朱い鳥居が幾つも重なるように続く道には圧倒されますよ。『蜻蛉日記』や『枕草子』にもその信仰の様子が伺えます。稲荷とは「伊奈利」、イネナリ・イネニナルの約まったものであり、「稲」の事。天長4年の記録には既に「稲荷」の文字が現れています。今は伏見街道に面して鎮座しているように見えますが、元々は稲荷山。つまりお山に祀られていました。そしてその麓は藤森神社の社地だったのです。両社の関係を紐解いていくとなかなか味わい深い歴史が見えてくるかも♪奥社奉拝所まではそんなに歩きませんが、お山参道は往復4キロ。清少納言も歩いていますし、歩けるかなと思ったら歩けました。節分の日だったので冷えの方がきつかったです。流石、京都の底冷え・・・。途中で飲んだ甘酒が美味しかったです。平成26年に午年の初午にもお詣り出来て良かったです。平成24年JR東海「そうだ、京都いこう」夏のCMに千本鳥居が紹介されました。伏見神寶神社
ふしみかんだからじんじゃ 神寶さん(しんぽうさん)
かつては稲荷山山頂に祀られていたという平安創始のお社。伏見稲荷大社奥社から少し坂道を登ったところにあります。皇室の信仰も厚く栄えましたが、後に荒廃、昭和32年再建。社名の「神寶」は、物部氏租である饒速日尊(にぎはやひのみこと)が、天神御祖(あまつみおや)から天璽瑞宝(あまつしるしみずのたから)として授かった奉安十種の神寶(興津鏡、辺津鏡 、八握剣、生玉、死反玉、足玉、道反玉、蛇比礼、蜂比礼、品物比礼)で、王位の璽とされたのだとか。此処には狛犬ならぬ狛龍がいらっしゃいます。御朱印は平成24年(辰年)頃に龍の印に変わったようです。平成26年現在、社務所建て替え予定。伏見奉行所跡
ふしみぶぎょうしょあと
元は桃山清水谷にあった奉行所は寛永2年に伏見城跡地であり港を監視する位置でもあったこの地に移され、戊辰戦争が勃発する慶応3年までの間あり続けました。新撰組は不動堂村屯所を経て此処に入りましたが、それからまもなくしてこの戊辰戦争が始まりました。歩いて10分もかからない御香宮神社は薩摩軍の陣営であり、伏見奉行所の旧幕府軍と対陣していました。しかし薩摩軍の勢いに奉行所は炎上、淀方面に撤退する事になります。当時近藤さんは伏見墨染で起こった狙撃治療の為に、沖田さんは病気療養の為に大坂へ下っていました。そんな新撰組を率いていたのは鬼の副長・土方さんだったのです。鳥羽伏見の戦いを歩く折には絶対欠かしてはいけません(^^;)。そうそう、近くの桃陵中学校には昭和46年に建てられた「伏見奉行所跡」の碑があるのですが、これは校庭までがその敷地範囲に入る為なのだとか。伏見桃山城/キャッスルランド
ふしみももやまじょう/きゃっするらんど
昭和39年伏見城お花畑山荘跡に再建され伏見桃山城と遊園地が一体化したレジャーランド。この辺りは昔、指月(しげつ)の森と呼ばれていました。伏見城は文禄3年に築城(指月伏見城)され、2年後の伏見大地震で倒壊の後、地盤の強い木幡山に再度築城(木幡伏見城)されました。慶長5年の関ヶ原合戦の折に焼失。2年後に再建されたものの一国一城令によって取り壊されました。最寄駅からは坂道が続きここが丘陵地という事を実感出来ます。城下だけあって地名の端々残る字体が微笑ましいです。朱色が施された大天閣の中に入るとどど〜んと豊臣の桐紋が出迎えが(^^;)。展望は格別で、滅多に見る事は出来ない天皇陵(この場合桓武天皇陵ですが)を見下ろす楽しみもあります。豊国神社の分社が鎮座しているのが珍しいですし、また大河ドラマ「秀吉」で使用された黄金の茶室と対面する喜びも(笑)。悲しいかな、平成15年1月末をもって閉園。お城も更地に戻されるところでしたが、何とか現存。保存を考えているようですが、耐震強度が基準を満たしていない為、立入禁止となっています。ももかが訪れたのは平成14年の秋の事で、更地になるという当初の情報から「行っておかねば」という事で計画を立てたのです。法界寺(日野薬師)
ほうかいじ (ひのやくし) 真言宗醍醐派別格本山 山号/東光山 本尊/薬師如来
日野薬師、または乳薬師として知られています。日野は光仁天皇から藤原(北家)真夏がこの地を賜って以来、代々藤原氏の荘園があった場所。そしてこのお寺は藤原北家の流れを汲む日野家の菩提寺です。弘仁13年に藤原家宗が薬師如来の小像をお祀りし、後に永承6年に日野資業が薬師如来像を造り小像を胎内に収め薬師堂を建立してお寺としました。この像を胎内に収めるというところから安産祈願のお寺ともなっているんですよね。応仁の乱で多くの建物が焼失し、現在残っているのは本堂と阿弥陀堂のみです。流石に日野一族の里・・・。本堂の薬師如来は見る事が出来ませんが、授乳を祈願し架けられた涎掛けが沢山目につきました。ご利益、ありそうです。阿弥陀堂の阿弥陀如来はふっくらとしたお顔立ちで、平安時代の雰囲気を伝えています。また圧倒される光背や壁画の天人がとても美しくてそして雅なんですよv日野一族というと、後醍醐天皇に付き従い花と散った俊基卿(好きなのv)、足利義政の御台所となった富子や、「押し大臣」と呼ばれた富子の兄・勝光などを思い起こす事が出来ます。こちらに伺った時、ももかの頭の中は既に『花の乱』(@NHK)の世界で御座いました。しかも勝光卿のお軸もあるのですよ!屋根瓦なんて日野家の鶴丸紋で・・・もう、うっとりなんです。初めて伺った時はまだ地下鉄東西線の醍醐-六地蔵間が開通していない頃。昔、石田の辺りは石田の森として交通の難所だったそうですが、歩いてみると難所というよりも人家はあるけど人気がないところという感の方が強かったかな。うららかな秋で、奉納されていた菊とお堂のコントラストが見事でした。静かなところで日野はやっぱり良いところです〜。寶塔寺
ほうとうじ 日蓮宗 山号/深草山 本尊/十界曼荼羅
藤原基経発願、藤原時平が大成したお寺。時は嘉祥年間の事、仁明天皇が竹田芹川に御幸された際、愛用の「龍の爪」(琴の爪)を失くしてしまいます。供奉していた基経はその時は童殿上していたのですが、天皇は彼にこれを探すように命じました。基経は爪を見つける事が出来たらその地に伽藍を建立する事を誓い、この深草の地で見つける事が出来たのです。創建は昌泰2年で、真言宗系の極楽寺として始まりました。現在は日蓮宗ですが、これは徳治2年に当時の住職良桂の日蓮宗への帰依からです。応仁・天文の乱で焼失し、寺は一時荒廃しますが天正18年に再建。七面山山上には法華守護七福即生の七面大明神が祀られています。寺号は鶴林院、常寂寺と名を変え後に寶塔寺となりました。この名は良桂の師となり開山として迎えられた日像聖人が京七ツ口に建てた題目石塔婆の一つをこの日像本廟所に奉祀した事に因んでいます。本堂境内にある多宝塔は京都最古のもの。仁王門の朱(あか)、そして七面大明神の旗の赤が眩しいです。稀に時代劇のロケ地にもなる事も。ももかが立ち寄った時はひっそりとしていました。
■■大雲寺■だいうんじ
寶塔寺の塔頭。鶴林院殿舎の旧地にあります。天文5年の兵火により焼失し、後に方広寺大仏殿の廃材により再興。庭には宝珠庵・黙庵の二つの茶室がある事でも知られています。表門入口近くには七面宮があって七面大明神が祀られています。境内だけ歩きましたが塵一つ落ちていない綺麗さで清清しい気分になりました。墨染寺
ぼくせんじ、すみぞめおうじ、すみぞめでら 日蓮宗 山号/深草山 本尊/十界大曼荼羅 通称/櫻寺
「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」。上野峯雄が太政大臣藤原基経の死を悼み詠んだ歌が墨染の地名の由来となったとされます。このお寺にある墨染桜はそれから数えて4代目(縁起による。平成10年2月植樹)、境内の看板は「三代目」で、薄墨のような白い淡い花をつけるのだそうです。人臣初の摂政となった藤原良房が深草に寺を建立したのは貞観16年。当時は貞観寺と称し、菊の御紋を許されていました。しかし時代の流れと共に庇護を受けていた藤原氏の力が衰退するにつれこのお寺も荒廃。天正年間に日秀上人が再興し、法華宗の墨染桜寺ぼくせんおうじとなりました。後、この地に移転。現在は日蓮宗です。境内には墨染井という手洗い石がどんと置かれています。何だろうと思いましたが、明和5年に江戸役者の中村歌右衛門が寄進したものでした。桜寺の名の通り、春の桜は見事。妙教寺
みょうきょうじ 法華宗真門流 山号/大圓山 本尊/釈迦如来、多宝如来
寛永3年に大坂の豪商法華又左衛門貞清が淀城主松平定綱から淀古城の土地を拝領し創建。この辺りは鳥羽伏見の戦いの折に激戦地となったところ。「銃丸雨の 如くことごとくこの寺に集まる 障壁什器一としてあたらざるなし」と当時の住職が伝えた歴史の通り、本堂には壁を突き破り柱を割って貫通し更に板壁に当たった弾丸の痕跡と、その砲弾(仏式四斤山砲)が寺宝として残されています。拳骨大のゴツゴツとしたその砲弾の重い事!当時の住職さん(33歳)は慶応4年1月4日の、その体験を後世に残すべく板木に刻みました。末尾には「妙教寺日祥誌」と記されているその板木、何ともいえない気持ちになりました。ももかに見てもらう為に120年も前から守られてきたのかな・・なんて。境内には明治40年に建てられた榎本武揚揮毫の「戊辰之役東軍戦死者之碑」があります。榎本さんは翌年には亡くなっているので、これが最後の「自分に出来る事」だったのかも。榎本さんは五稜郭で土方さんと一緒に戦っていた方ですが、明治時代は初代逓信大臣にまでなっていて、郵便マークの「〒」を発案した人とも言われています。「龍馬とお龍、愛の旅路」像
「りょうまとおりょう、あいのたびじ」ぞう
その前年は大河ドラマ『龍馬伝』放映翌年の平成23年9月に建立された像。寺田屋とは川を挟んだ対岸に立っています。淀城跡
よどじょう
淀の地に城が出来たのは室町時代でした。「古淀城」「淀古城」と呼ばれ山城守護代が置かれていました。その後数々の文献に淀城の名が現れています。『兼見卿記』によれば山崎の戦いの折に明智光秀側の砦にもなっています。有名なものは豊臣秀吉による淀城築城でしょう。天正16年に側室茶々の為に建てられた城は納所付近であったとされています。茶々はこの事から淀殿(淀の方、淀之上様)と呼ばれるようになりました。僅か6年後の文禄3年、伏見城の築造が計画された事により破却。因みにその前年には淀殿が秀頼を産んでいます。
現在の淀城は徳川幕府により築城されたもの。元和9年、元々この地にあった伏見城を破却廃城し、淀藩淀城として築城を開始します。松平定綱により寛永3年に完成。天守は二条城の天守を移築。城は、本丸、二の丸、三の丸、そして西の丸らを2重3重の水堀で囲み、本丸には4隅に櫓を設けた5層の天守のほか帝鑑之間を持つなど、豪勢な城であったといいます。今は宇治川の流れが変わっており、かつて川であったところが住宅地になっているなどかつての淀城の姿は想像もつきませんが、古地図を見ると水掘と河川が城にどのように取り入れられていたのかが分かります。宝暦6年に天守閣を始め建物の大半が落雷によって焼失すると、以後再建する事はありませんでした。ももかの中での淀城は幕末の鳥羽伏見の戦いに登場します。鳥羽伏見の戦いで、押されるような形で旧幕府軍が敗走してきた中には新撰組の人達もいました。当時の淀藩主は老中として稲葉正那で江戸にありましたが、淀城は旧幕府軍に対して入城を拒み門を閉ざしてしまいます。実際は何人かは強引に入り込んでいたそうです。しかし、城下は炎上し、旧幕府軍は入城を諦め命かながら男山・八幡方面に撤退していきます。その、土方さんが入れなかったという淀城(跡)は僅かに本丸と堀が残っているにすぎませんが、そこに立った時、何ともいえない感がありましたよ。明治4年淀藩の廃藩に伴い、廃城。明治7年に石垣が解体され淀川河川改修に使用されました。現在は水系が変わっているので、水掘が巡らされていたという面影はありません。しかし、淀城跡を中心に幕末の史跡がここかしこに残っており、幕末に思いを馳せながらの散策が出来ます。與杼神社
よどじんじゃ
僧の千観内供が応和年間に肥前国佐賀郡河上村の與止日女神社から淀大明神を勧請した事に始まります。社史によれば『延喜式』第九巻山城国乙訓郡の中に、既に「與杼神社」の名がみえる事から応和年間以前に鎮座していたと考えられるようです。元々は、宮前橋付近の桂川右岸の川原になっているところで、水垂村と称していた昔は「大荒木の社」と呼ばれ淀姫大明神とも呼ばれていました。淀城跡地に移ったのは明治35年。桂川堤防敷の拡幅工事により移転を余儀なくされた事に依ります。本殿は国重要文化財でしたが昭和50年に未成年者達が打ち上げた花火により全焼し、後に再建されたもの。桃山時代に造られた拝殿は類焼を免れ国重要文化財として現在に至ります。気さくな宮司さんにいろいろとお話を伺えた上に、幕末史跡としての淀城周辺の資料や地図を頂き、参考に散策する事がが出来ました。何しろ、思い立って下車したものでしたから、地図も何も持っていなくて・・・(^^;)。有難うございました。
京大路をそぞろ歩き茶房竹聲ちゃぼうちくせい
墨染駅近く。明治12年創業の椿堂が、創業120年を記念して併設した茶店。名は頼山陽が詠んだ言葉「茶色竹聲(ちゃしょくちくせい)」からきています。ナチュラルでいてアンティーク調、和風でいて中華風という感じの店内。とても落ち着いています。古そうな柱時計にレトロ調なランプシェードが素敵。一人の時はカウンターでも良いかも。お茶の煎れ方はお店の方が教えてくれます。ももかは雲華(和束茶)を頂きました。練りきりの意匠は10月だったので薄♪美味しかったです。
HOME > 京華万里 > 永代の京
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |