このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

永代の京
〜京都市/上京区編〜

出雲路幸神社
いずもじさいのかみのやしろ

主祭神は猿田彦神で延暦13年に平安京の鬼門除守護神として創建されました。丁度京都御苑の東北隅、御所の猿ヶ辻の延長線にもあたります。出雲路道祖神(いづもじのさいのかみ)とも呼ばれていました。焼失を繰り返し、現在の建物は天明8年の大火以後のもの。本殿の東側には烏帽子を被って御幣を肩にした日吉山王の神使である猿の木像があり、境内の東北隅には猿田彦神石があります。この石は「御石さん(おせきさん)」と呼ばれ、拝むと幸せが訪れますが触ると祟りがあるそうです。門前に「王城鬼門除出雲路幸神社」の碑。絵馬も多く奉納されています。閑静な住宅街の中にあります。
櫟谷七野神社(紫野斎院址)
いちいだにななのじんじゃ (むらさきのさいいんあと)

細い住宅街の中、袋小路と思しき道の傍らにその入口はあります。元はかなり広い境内を持つお社だったようですが、現在その一部は駐車場などになっています。別名は春日さん。その由来は文徳天皇皇后藤原明子が春日明神に祈願して清和天皇を産み落とし、その御礼に貞観元年にこの地に春日明神を勧請したとも。他にも様々な説があって定かではありません。この「七野」も、春日明神の他に伊勢・八幡・賀茂・松尾・平野・稲荷の6神を祀るところからとの説、内野・北野・平野・神明野・紫野・蓮台野・上野の七野の惣社からとの説、大内義興による七野の氏神を合祀したからとの説があって分かっていません。謎に満ちたお社なのですね。因みに「櫟谷」も何処からその名が来たのか分からないようです。それが示す通り、主祭神の他に沢山の神様をお祀りしているのが特徴的。斎院の禊は有栖川にて行われ、この近くを流れていました。中世に荒廃、豊臣秀吉によって再興。この社殿がある石垣に注目なのです。いろんな家紋が見つかりますよ♪また宇多天皇皇后藤原温子がこのお社に参拝して寵愛の復活を果たした事から縁結び・浮気封じの神様として信仰されているそうです。境内には賀茂斎院跡の看板や顕彰碑もあります。合祀されている神様の中に賀茂社がありますし、賀茂斎院(紫野斎院)がこの地にあったという事は賀茂神社とはやはり何らかの関係があったのかもしれないですよね。ただ、此処は謎に満ちたお社なので深くは考えない方が良いのかも(^^;)。
一条戻橋
いちじょうもどりばし

「戻橋」といえばこちら。陰陽師・安倍晴明さんの奥方は彼が使う式神を怖がったので式神をこの橋の下に隠し、使う時に呼んだのだとか。延喜18年文章博士三善清行が亡くなり、息子の浄蔵は熊野参詣の途中でその知らせを聞きます。急ぎ京に帰った浄蔵は丁度この橋の上で父親の葬列と出会いました。浄蔵は柩に縋りつき嘆き悲しみ神仏に祈ったところ、何と清行は生き返った・・・!これが「戻橋」の所以といわれています。渡辺綱が鬼に出会ったのもこの橋。『源氏物語』には「ゆくはかへるの橋」として書かれ、和泉式部も歌に詠んでいます。また橋占が行われていた形跡もあります。豊臣秀吉が千利休の首を晒したのも此処なのだとか。小さな割には歴史的に要注意の史跡なのです。『都名所図会』には在りし日の戻橋の姿が描かれています。因みに市バス停留所名も「戻橋」。現在の戻橋は近年の改修後のものでぴっかぴか☆以前の面影は微塵にも伺えません。勿論ももかの知っている戻橋は平安のそれとは違いますけど(笑)。旧戻橋の欄干は晴明神社にあり、平成15年度の改修に伴い式神ちゃんをオプションにつけたミニ・戻橋がモニュメントとして境内に置いてあります。因みにこの橋がかかる堀川は平安時代までは西京の西堀川に対し東堀川と呼ばれていました。
岩上神社(岩神、岩神祠)
いわがみじんじゃ

千切屋の寮の裏庭に約1.7メートルもあろうかという赤茶けた大きな岩がお祀りされているのですが、これが岩神。授乳の神として信仰されてきました。地元では岩神さんと呼ばれていて、元々二条通猪熊附近の冷泉院の鎮守社にあったといいます。慶長7年徳川家康による二条城築城の際に岩上通六角下る(現在は中山神社が鎮座)に遷される事になったものの、岩が大きすぎて動かせなかった為に岩だけがこの地に残ったといいます。後に後水尾天皇の女御中和門院の御所に運ばれ池辺に据えられましたが、怪奇現象が頻繁に起こった為に寛永7年に僧・雲乗院が申し受けて現在の地に祀ったのだとか。江戸時代には度重なる大火事によってこの岩を祀っていた有乳山岩神寺は衰退。大正6年当時此処は芝居小屋跡地だったといいますが、この地を所有していた会社により改めて祀られるようになりました。屋根もあり、花もあり、整備もされていて一見して不思議な空間となっています。
引接寺(千本閻魔堂)
いんじょうじ (せんぼんえんまどう)  高野山真言宗 山号/光明山 院号/歓喜院 本尊/閻魔法王 通称/千本えんま堂

小野篁さまが六道珍皇寺の他に利用したといわれるもう1つの冥府の入口で、葬送の地・蓮台野にあります。篁さまが船岡山麓に自ら刻んだ閻魔大王の像を祀り「閻魔堂」と名づけたのが始まりといわれています。篁さまってば手先起用〜♪その後寛仁元年に「引接寺」と命名されました。こちらには小野篁像があります。12月23日は篁様の命日で「篁さんの餅つき」という行事があるのです。何でも菓子の神様と化しているらしいですよ。此処も初めて訪れた時とは随分と雰囲気が変わりました。境内には紫式部を供養する為に建てられた至徳三年の銘がある十重石塔もあります。千本ゑんま堂狂言は壬生、嵯峨とならぶ京都三大狂言の1つで、有言狂言なのが特徴。節分の夜には念仏狂言があります。平成28年の演目は「えんま庁」と「土ぐも」でした。面白かったですよ。
雨宝院 (西陣聖天宮)
うほういん (にしじんしょうてんぐう) 高野山真言宗 山号/北向山 本尊/大聖歓喜天 通称/西陣の聖天さん

弘仁12年、空海が嵯峨天皇の病平癒を祈り、象頭人身六臂の大聖歓喜天を安置した事が始まり。東寺と共に皇城鎮護として栄えた大伽藍でした。歓喜天(聖天)を祀ることから「西陣聖天」の名で親しまれ、額などに「日本最古(初)大歓喜天」の文字を見る事が出来ます。始めは千本五辻まで広がった境内地を有するも、応仁の乱により荒廃。かつての大伽藍の影はありません。現在の地に雨宝院の名で再興されたのはそれから約100年後の天平年間の事でした。雨宝院の名はその本尊脇侍の雨宝童子からきているのだそうです。真言宗の寺として始まるも一時禅宗に改宗、この地に移った頃に再び真言宗となりました。神仏融合が顕著に見られる境内には鳥居もあります。そしてなんといっても有名なのは空を覆うばかりに枝を広げている「時雨の松」と春を寿ぐ「歓喜桜」でしょう。普段余り参拝者に出会わない境内も、桜の開花時期は賑やか。お花祭りの4月8日には咲き誇る桜の下で甘茶をいただきました♪また、染殿井そめどのいは、桜井さくらい・安居井あぐい・千代野井ちよのい・鹿子井かのこいと共に、西陣五水の一つ。2月3日は節分星祭として年に一度の御開帳があり、夜8時まで開扉しています。この日だけの授与品もあるんですよ。こちらで頂いた宝船図は宝物です。
裏千家今日庵
うらせんけこんにちあん

「不審庵」を3男・江岑宗左に譲った三世宗旦(千利休の孫)は隠居所をその北裏に作りました。これが「今日庵」で、後に4男の仙叟宗室が譲り受けました。裏千家の名は此処からきています。表門の薄茶というかベージュの壁と植木が微妙なコントラストを表しています。現在の家元は15代目宗室。内部は非公開。閑静な場所に立地しています。
宴松原碑 
えんのまつばら(うたげのまつばら)ひ


大内裏の西側で朝堂院の北にあった広い松林を古くは宴の松原(縁の松原)と言いました。何故にこのような松林がこの場所にあったのかは今後の研究が待たれるところですが、代替わりにより建物を作り変えていたという昔の様式を慮ればそれ故の建築資材置き場だったという説も捨てがたいもの。その広さ故に貴族の社交場でありそれが「宴」の名が残る所以だったと思われます。平安時代には鬼が出没するところとして知られ、『三代実録』仁和3年8月17日条には松の下で女君が鬼に殺されたという話を載せています。七番町にある宴松原碑は平成15年に建立されたもの。おどろおどろしい歴史とは裏腹に真新しい石碑が何ともいえないのです。どうして今までなかったのかが不思議ですよね。
尾形光琳屋敷址碑 
おがたこうりんやしきあとひ 尾形光琳(
1658−1716)

上御霊神社と同じ上御霊町に碑が建っています。何となく京の裏露地といった感じの道にありますね。尾形光琳といえば静岡のMOA美術館にある『紅白梅図屏風』などを思い浮かべてしまいます。光琳は呉服商雁金屋宗謙の次男として生まれ、若かりし頃より兄・藤三郎と共に遊興に耽っていました(笑)。そんな豪勢な生活の為にとうとう兄は廃嫡。その兄に代わって家督を継いだ頃、家の身代はかなり傾いていました。そこで広大な屋敷を売り払い、この場所へ移ったのです。その後の光琳は日本を代表する絵師となるのですが・・・。彼の没後この屋敷は売却され天明8年の大火の際に焼失してしまいました。「琳派」の名は光琳から来ていますが、後世のものであることは周知の通り。
小野相公墓
おのしょうこうはか 小野篁(802−853)

北大路通と堀川通が交差する信号機を下ったところが小野篁さまの墓所。彼のお墓が此処にあるのは葬送の地・蓮台野だからともいいます。小野篁さまといえばももかの永遠の人(笑)。嵯峨朝の官僚であり文化人でもある人です。いつも綺麗に整備されていて本当に頭が下がります。有難う御座います♪
表千家不審庵
おもてせんけふしんあん

天正19年の千利休の切腹後、豊臣秀吉に再興を許された次男の少庵は大徳寺からこの場所にこの茶室を移しました。利休の号である「不審庵」は
、三世宗旦(千利休の孫)の3男・江岑宗左が襲名し、表流の祖となりました。櫓のようなそんな表門には重厚さが漂います。現在の家元は14代宗左。内部は非公開。「今日庵」もすぐ側です。
首途八幡宮
かどではちまんぐう

寿永年間に源九郎義経が宇佐八幡宮の神霊を勧請したのが始まりです。元の名を「内野八幡宮」といいます。この地に金売吉次が屋敷を構えていて此処から奥州に旅立ったのだとか。「首途(かどで)」は出発の意味で、この由緒から首途八幡宮と呼ばれるようになったという事です。祭神は応神天皇ですが一説には桃園天皇とも。御所の東北鬼門に位置しているところから皇城鎮護の社として知られ、桃園親王の旧跡でもあります。創建以来度々の兵火に遭い、天明の災害の際は社殿や宝物類が悉く灰燼に帰したと伝えられています。桃の木が多く、春には知る人ぞ知る名所ですね。近くに大きな公園がある為か空が開いた感じで明るい雰囲気。社殿に続く石段が特徴的です。平成17年1月には大河ドラマ『義経』の影響か、「首途鳩サブレ」が名物として登場しました♪(現在は販売していないようです)最近のガイドブックでは取り上げられる事が多くなってきました。八幡社といえばお使いは鳩。手水舎にもちゃんと鳩がいます。
上出雲寺址
かみいずもじあと

延暦年間に創建されたという出雲寺は現在の上御霊竪町・馬場町・相国寺門前町にかけ、金堂や講堂を始めとする諸堂を有した大きなお寺でした。出雲氏の氏寺ともいわれ、延喜式七官大寺の一つとされています。上出雲寺と下出雲寺と分かれ、下出雲寺は後に下御霊神社の修法堂となったようです。出雲寺は境内に上御霊神社が創られた、とあるので御霊社の方が数年にしろ後代という事が分かります。御霊社の創建によりお寺は上御霊社の修法堂となり御霊寺とも呼ばれましたが、一時隆盛をみるものの平安末期には廃れてしまいます。遺構は上御霊社に僅かに残る瓦など。
紙屋川
かみやがわ

元は平安京の2つの堀川の一つ西堀川で、鷹ヶ峰から右京の西堀川小路を御室川まで真っ直ぐに流れていました。現在は流路を変えています。平安時代はこの川で禁裏で使われる紙を漉いた事からこの名前があります。これは紙屋紙、薄墨紙と呼ばれ、反古紙を漉いた紙でした。今でいうと再生紙ってところでしょうか。確かに反古紙だと墨の色が残って薄い灰色の紙になりますね。余り大きな川でもなくて、こんな歴史があるなんて事は知らない人が多いみたいです。ももかにとってもただの川にしか見えません(笑)
賀茂斎院跡碑(賀茂斎院跡顕彰碑)
かもさいいんあとひ  (かもさいいんあとけんしょうひ)

櫟谷七野神社の境内に平成13年秋に建てられた碑があります。この地は賀茂斎王が賀茂神社に奉仕する為に身を清め過ごしたという斎院(御所)。紫野という地名から紫野斎院とも呼ばれました。初代賀茂斎院は嵯峨天皇皇女有智子内親王で、そもそも嵯峨天皇と平城上皇の二都朝廷状態の折に山城の勢力を維持する為、この地の産土神・賀茂社に皇女を奉ったというのが賀茂斎王制度の始まりらしいです。賀茂の祭(葵祭)では斎王はここから両賀茂社へと向かいました。記録に残る最後の斎王は第35代の後鳥羽天皇皇女礼子内親王で、財政と戦乱の中で廃絶に至った斎院はその後廬山寺に施入され、応仁・文明の乱後に荒廃はなはだしくいつしかその存在も定かではなくなっていったといいます。立派な看板の他に立派な説明書まであって素晴らしかったです。
賀陽宮墓(後西天皇皇女賀陽宮墓)
かものみやのはか  (ごさいてんのうこうじょかやのみやのはか) 賀陽宮(1666−1675) 清閑寺共子(?−1695)

報恩寺にあります。墓域には二つの墓石があり、右が賀陽宮、左が宮の御生母の藤原(清閑寺)共綱の娘の典侍共子です。賀陽宮は後西天皇の第七皇女で寛文6年正月16日に生まれ、延宝3年5月24日に逝去。桂徳院宮と号しました。父親の後西天皇は、先帝後光明天皇の崩御が余りにも急で東宮で実弟の識仁親王が幼すぎるとの理由で、中継ぎとして天皇位についた方。承応3年即位、識仁親王が霊元天皇として10歳になった寛文3年に譲位。在位は8年余り。この為、後西天皇の子女は多かったものの、皇位は霊元天皇系統に続きました。賀陽宮の兄弟は第二皇子有栖川宮幸仁親王・第二皇女正源院宮を始め三男八女。
北野天満宮
きたのてんまんぐう

政争によって九州大宰府に流された菅原道真が彼の地で亡くなったのは延喜3年の事でした。最初に道真の怨霊が現れたのは延暦寺第十三世座主の法性房尊意の持仏堂。その後、怨霊は京を跋扈し彼を讒訴した人達が不慮の死を遂げたり雷が落ちたりという異変が続きました。天慶5年、天暦元年と続いて神託があり現在の地に道真を祀ったお社が建てられました。それが此処。北野天神、北野神社とも呼ばれ、『北野天神縁起絵巻』は有名。道真といえば「梅」という事で梅園があり、初春に参拝すると芳しい香が漂ってきます。
平成の大修理が行われ、ももかは普段と違う天神さんにもお参りしました。シリーズが始まって16年目、平成21年初春のJR東海のCMに初登場。秋の御土居は紅葉の名所。色とりどりのモミジが川沿いに植え込まれています。また、25日は「天神さん」の縁日で骨董や地元の特産、屋台などが立ち並び多くの人で賑わっています。その店の数も半端ないですよ。見ていくだけでも時間たっぷりいります。節分には狂言や上七軒歌舞会の舞などの催し物があってとても賑やかです。
北野廃寺跡碑
きたのはいじあとひ

北野白梅町の交差点近くにある昭和52年建立の碑。北野廃寺とは飛鳥時代から平安時代中期の京都盆地最古の寺院跡で、太秦から東、この交差点の辺りにあったとされ、広隆寺の前身の蜂岡寺ともいわれています。出土した瓦の飛鳥時代軒丸瓦は、京都では唯一の出土であり、高句麗系と百済系の2種類である事が知られています。
北野東向観音寺
きたのひがしむかいかんのんじ 真言宗泉涌寺派準別格本山 山号/朝日山 本尊/十一面観音菩薩

桓武天皇の勅を奉じた藤原小黒麿らは王城鎮護を願って朝日寺を建立。これが前身となっています。 菅原道真が幼い頃勉学に励んだ地とされ、応和元年に筑紫の観世音寺から本尊となる十一面観音を請来し安置しました。十一面観音は道真が作ったと伝えられ現在は秘仏として25年に一度御開帳を行っています。 応長元年に無人如導宗師が中興し律宗に改宗。この時に筑紫・観世音寺に模して観世音寺と改称。また、天満宮御本地仏、北野神宮寺、奥之院とも呼ばれていたようです。室町時代には南北両朝の天皇や足利尊氏の帰依をうけ、北野天満宮の神宮寺として栄えました。応仁の乱などで焼失、後に再建。江戸時代に観音寺と称し現在に至ります。名の謂れは御堂が東向きであるところから。境内には菅原道真の母・伴氏の廟塔(伴氏廟。通称北野の忌み明け塔)があります。元々伴氏社の辺りにあったものですが廃仏毀釈の折にこちらに移されたとか。その側に土蜘蛛灯篭(土蜘蛛塚)があります。元は一条七本松の辺りにあったものですが、明治時代に塚が取り壊され、この塚を持ち帰った家が次々に不幸に合った為に祟りを恐れて大正13年に観音寺に納められたといいます。土蜘蛛塚は移された石灯篭の火袋だとか。祠に納められています。
京都御苑
きょうとぎょえん

御所を中心に宮家・公家屋敷が立ち並ぶ一角。しかし明治2年の東京遷都後は御所は空殿となり公家達は天皇に続いて東京に転居していった為、衰退していきました。後に冷泉家を除く全ての公家屋敷が取り払われた他、道路の改良、植樹などもあって現在の形に完成したのは大正時代です。当初は公園と呼ばれる事が多かったのですが、御所の附属苑地を表す意味で「御苑」と名付けられたのは明治11年10月の事。因みに他の名称候補としては「上苑」「内苑」「禁苑」「宮苑」などがあげられていたのだとか。京都の庭ともいうべき京都御苑は市民の憩いの場でもあります。東西約700メートル、南北約1300メートルという広大な敷地面積を持っていて、本当にゆったり出来ます。歩いても歩いても先が遠い、そんな感じです。ももか的には秋に色づく大銀杏を楽しんだり、ちょっと早い春の梅の薫りを楽しんだり、早朝の散策に訪れたいですね。

■■縣井■あがたい
一条家の屋敷があったところに残る名水。この近くには縣宮があり、地方官吏に任命されたいと願う人々が縣井で身を清め、参内したのだとか。また昭憲皇太后の産湯に使われたとの伝説もあります。屋根付の井戸が林の中にあるという風情。残念ながら常用は出来ないようですね。

■■厳島神社■いつくしまじんじゃ 祭神/宗像三女神、祇園女御 京都三珍鳥居の一つ
平清盛が安芸国の厳島神社を摂津国莵原郡兵庫築島に一社を設けてこれを勧請。これに清盛の母と伝えられる祇園女御も合祀されました。後に九条家の拾翠池の嶋中に移転鎮座し、九条家の鎮守となりました。天明8年の京都大火の折、この辺りは悉く焼失してしまった為に、この地に移ってきた由来などは伝えられていません。破風形の鳥居は形が珍しく京都三珍鳥居の一つ。


■■旧桂宮邸跡碑■
きゅうかつらのみやていあとひ
今出川御門から入るとすぐに目にする事が出来ます。桂宮家は伏見宮家、閑院宮、有栖川宮家と並ぶ四親王家の一つ。正親町天皇の第1皇子誠仁親王の第6王子智仁親王が、天正17年に八条宮家を創設したのが前身で、後に常磐井宮・京極宮とも称されました。文化7年桂宮と改称。明治14年、第11代淑子内親王の没後廃絶しました。桂宮邸は安永元年や嘉永7年に御所が炎上した際は仮御所としての役目を果たした他、仁孝天皇の皇女で孝明天皇の異母妹にあたる和宮親子内親王が徳川14代将軍家茂に嫁ぐ前に住んでいた地でもあります。明治26年から翌年にかけて二条城にこの桂宮邸の御殿を本丸御殿として移築されています。

■■建礼門院前大通り■けんれいもんいんおおどおり
京都御苑を代表する大きな通りで、御所の建礼門院から南へと伸びています。葵祭や時代祭などにも使われています。)明治16年大内保存事業により設けられ、大正3年に大正天皇の大正天皇の即位大礼を行うための改良工事により、現在の規模に拡幅されました。とにかく広く大きく長い(^^;)。砂利道なので歩くのには時間がかかりますが、早朝のお散歩には最高です。

■■近衛邸跡碑■このえていあとひ
五摂家の一つ近衛家の邸宅跡。春は「しかるに花の名高きは まず初花を急ぐなる 近衛殿の糸桜」と愛でられた糸桜が見事です。この糸桜は花の御所にあったといいます。因みに奈良の西大寺の愛染堂は近衛邸の政所御殿を宝暦12年(一説に明和4年)に移築したもの。また平成7年に愛知の西尾城(西尾市立歴史公園)に数奇屋棟と茶室が移築されています。

■■祐井さちのい
旧中山邸内にあり、門近くにある碑が立っています。明治天皇は祐宮(さちのみや)と呼ばれていた頃、中山邸で4歳まで養育されていました。2歳の時、干天により井戸が枯渇。新たに掘られた折にその名を採って祐井と名付けられたそうです。

■■拾翠亭(九条邸宅跡)しゅうすいてい(くじょうていたくあと)
五摂家の一つである九条家は、元々京都の南東部九条陶化坊の一帯に屋敷を持っていましたが豊臣秀吉の時代に至り御所の南へと移転しました。この拾翠亭はその九条家の別邸として安永年間の頃に建てられたものです。宝永5年の京都大火の際、この辺り一帯も火に包まれました。防火対策の一環として、幕府は火除池を通りに設けましたが、この防火用水を拝領して池を中心とした庭園を造ったのだそうです。「捨翠」の名は緑の草花を拾い集めるという意味があり、また「翠」にはこの池に多く飛来した川蝉に由来しているともいいます。その後明治天皇を始め公家達も東京へと転居。公家屋敷が取り払われる中で、九条家の遺構としてこの捨翠亭のみが残りました。この建物に面している池はその邸宅の名から九条池と呼ばれますが、形から勾玉池とも呼ばれています。この中央に渡された高倉橋は明治時代に架けられたもの。公開日の制限はありますが、建物から見る池の様子はとても素晴らしいですよ。

■■白雲神社■
しらくもじんじゃ 祭神/市杵島姫命(妙弁財天)
京都御苑の片隅にある小さな神社で元は妙音天といいました。別名を「御所の弁天さん」といいます。秋の銀杏が見事なの。薄暗い御苑の中で、ぱっと視界に黄色が現れたという感じ。かわらけで御神酒を頂き、ほろ酔い気分に♪此処は西園寺家の屋敷址とされています。

■■蛤御門■はまぐりごもん
この御苑の西側に元治元年に長州兵と会津・薩摩藩兵との間に起こった「蛤御門の変(禁門の変)」の舞台・蛤御門があります。この戦いは一日で終わったものの戦火は3日に渡って燃え続け大きな被害を出しました。蛤御門の元の名は新在家御門といい、現在の門より北側にありました。普段閉ざされていたこの門が天明8年の大火により開いたので「焼けて口あく蛤」に例えて蛤御門と呼ばれるようになったともいいますが、本当はもっと古い頃からそう呼ばれていたようです。

■■宗像神社■むなかたじんじゃ 祭神/宗像三女神、天石戸開神、倉稲魂神
延暦14年、桓武天皇の命により九州の宗像神社を藤原冬嗣が皇居鎮護の神として祀ったのが始まりです。現在も紫宸殿の南西の鬼門を護るお社ですね。昔は
小一条院と呼ばれ清和天皇がこの地で生まれたとも、花山天皇御世には内裏がここに一時移され花山院殿と称したともいいます。境内社に金刀比羅宮がありましたが、ここで注目したいのは合祀されている方の名。それは御所の歴史の中で一番怖れられていた御霊である崇徳天皇なのです。これには驚きでした。また京都観光神社というお社があって、道案内の神様の猿田彦神が祀られているのですがこれは京都の観光事業に深く関わっているようです。ここで可愛い猫ちゃんをみかけ、しばし遊んでしまったももかなのでした。紅葉も綺麗ですよ。アオバヅクが訪れる事で知られています。
京都慶應義塾跡碑
きょうとけいおうぎじゅくあとひ

昭和7年京都慶應倶楽部によって建てられたもの。京都府庁正門の保安室側にあります。慶応義塾の分校・京都慶應義塾は、明治7年に京都府中学校(現在の洛北高校)内に設置されました。当時の槇村正直京都府参事の求めに福沢諭吉が応じたもので、分校への入塾者は東京三田の本校へ移る事が可能とされていましたが、同年9月に廃止されました。石碑には「独立自尊」と、「その存続は約一年でしかなかったが、文化発達の歴史上、これを湮滅に帰せしむるに忍びず」碑を建てたとあります。
京都御所
きょうとごしょ

北朝の光厳天皇が里内裏だった土御門東洞院を皇居と定めて以来、元弘元年から明治天皇の明治維新までの約530年間の皇居。焼失もあり安政2年に再興されたものが現在見る事の出来る京都御所です。普段の参観は予約制ですが、年に2回一般公開が出来ます。ももかは秋に訪れましたが凄い人!この時期地下鉄も人が多いようです。紫宸殿、清涼殿の落ち着いて雅やかな美しさに平安時代の昔にトリップしてしまいます。一般公開時に売っている各名店のお土産の和菓子も美味しいです。因みに「御苑の菊」は絶品でした♪

■■猿ヶ辻■さるがつじ
御所の東北の鬼門。御所の築地塀の東北角は塀が内側に折れ曲がっているのですが、此処が「猿ヶ辻」と呼ばれる場所です。別名「つくばいの辻」。その屋根裏には烏帽子を被り御幣を担いだ猿が1匹います。この猿は御所の鬼門を護る為に日吉山王神社から使わされたのですが、夜な夜な逃げ出しては通行人にいたずらをしたので金網を張って閉じ込めています。またこの猿ヶ辻前は文久3年に尊皇攘夷を掲げていた姉小路公知が刺客に襲われ翌日命を落とした「猿ヶ辻の変」も起こっています。
京都市考古資料館
きょうとしこうこしりょうかん

応仁の乱の西陣の本陣跡にあり、建物の前には碑が建っています。この大正期のレトロな建物は本野精吾の設計による旧西陣織会館で、この内部を改装し考古資料館として再出発。羅城門の縮小模型図や京都市内で発掘された土器などが展示されています。西陣織会館も近くにあります。
京都守護職上屋敷跡 (京都守護職屋敷址碑)
きょうとしゅごしょくかみやしきあと (きょうとしゅごしょくやしきあとひ) 松平容保(1836−1893)

京都守護職とは幕末の文久2年に京の治安維持の為に作られた幕府の役職で、会津藩主松平容保が就任しました。始めは黒谷の金戒光明寺にありましたが、現在の地に移転。その上屋敷は慶応元年に完成し、現在の府庁の敷地を全て含めてしまう程の広大なものだったといいます。その権限は京都所司代・京都奉行所の上位に位置していました。しかし大政奉還・王政復古の大号令により旧来の役職が廃されるに伴い、この役職も6年余りで廃止となります。その後、跡地に建てられたのが京都府庁です。石碑は京都府庁正門附近に昭和7年に建てられ、幕末ファンの隠れた聖地の一つ。京都府庁旧本館中庭には、容保の名を取った容保桜という一本の桜があります。これは桜守として知られる造園家・第16代佐野藤右衛門が、第14代当主松平保久氏と京都會津会会長森田嘉一氏の了解を得て平成22年に命名したもの。山桜の亜種で大島桜の特徴を併せ持つ珍しい桜なのだとか。
京都府庁旧本館
きょうとふちょうきゅうほんかん

京都府庁旧本館は明治37年12月に京都府技師松室重光らの設計によって竣工され、昭和46年まで京都府庁の本館として使用されていました。ネオルネサンス様式、煉瓦造二階建で、屋根は天然スレート葺きになっていて、外装は擬石モルタル塗です。京都府庁は元々二条城が使われていましたが、新築移転したのです。創建当時の姿をとどめる現役の官公庁建物としては最古の物で、平成16年に国の重要文化財に指定。現在も執務室や会議室として使用されています。旧知事室は明治38年から昭和46年10月までの67年間、第10代大森鐘一から第34〜40代蛭川虎三の24人の知事が執務を取った場所です。正庁は旧本館の正面に位置し、折上小組格天井が広がりを演出しています。庭には明治天皇行幸所京都府廳碑・京都守護職屋敷址碑・京都慶應義塾跡碑もあります。京都守護職上屋敷跡であった事に由来し、守護職松平容保の名を取った容保桜も植えられています。京都御所の一般公開に合わせ、春秋に一般公開が行われます。明治の粋を見る事が出来ます。洋風階段や古めかしい歪んだガラス窓、赤い絨毯の廊下など、そんな所にもぐっときます(笑)。ドラマや映画などで使用される事もあり、NHKドラマ『坂の上の雲』では、陸軍参謀本部や海軍本省のロケが行われました。因みに京都府の木は北山杉、花は枝垂れ桜・嵯峨菊・撫子、鳥はオオミズナキドリ。
京都ブライトンホテル(安倍晴明屋敷跡)
きょうとぶらいとんほてる  (あべのせいめいやしきあと)

京都ブライトンホテルの南側駐車場の辺りが安倍晴明の屋敷跡だといわれています。陰陽師ブームに乗って絶好調♪「Seimei」と「Hiromasa」というカクテルもあります(笑)。実は宿泊ではなくてアトリウムにある「わだつみ WAVE」という作品を見る為に立ち寄ったのでした。これは平成5年のガラス彫刻コンペティションのグランプリの作品で、北海道で3年の歳月を経て作られたものです。柔和な勾玉を思わせる(ももかは勝手に思うのですが)淡い緑色が素敵なのですよ〜♪こちらに立ち寄ったら是非ご覧下さいませ♪
慶光天皇廬山寺陵
けいこうてんのうろざんじのみささぎ 慶光天皇、慶光院(1733−1794)

廬山寺には江戸時代の皇族の陵墓が多く見られます。慶光天皇とは中御門天皇の猶子となった閑院宮典仁親王の事です。実父は東山天皇皇子閑院宮直仁親王、母は女房の讃岐、養母は関白近衛基熙の娘・脩子。妃(御息所)は中御門天皇第5皇女成子内親王。光格天皇の実父にあたりますが、天皇は典仁親王に太上天皇の尊号を贈る事が出来ませんでした。彼に慶光天皇の諡号と太上天皇の尊号が贈られたのは明治17年になってからでした。古今伝授伝承者で和歌の名手。
華光寺
げこうじ 日蓮宗妙顕寺派 山号/蓮金山 本尊/十界曼荼羅 通称/出水の毘沙門さま

天正11年妙顕寺の12世日堯上人が創建で、「出水の毘沙門さん」として親しまれているお寺。「出水(でみず)」は湧き水に由来するといわれる地名で、毘沙門天は本堂右側に安置されている木像の事で鞍馬寺の毘沙門天像と同木同作といわれています。また平安後期の作といわれ豊臣秀吉が伏見桃山城から寄進したと伝えられています。開運・厄除け・家運降昌の毘沙門様として信仰されているのです。御本尊は十界曼荼羅。「時雨松」(伝・秀吉手植え)「五色椿」らは出水七不思議のとして知られていましたが現在は枯死しその後が植えられています。また鬼平こと火付盗賊改め長谷川平蔵の父の葬儀が行われたことでも名高いですね。境内は小さいながらも美しく、さりげなく長椅子が置かれ水音を聞きながらゆっくりとした時を過ごせました。
光照院門跡(常盤御所)
こうしょういんもんぜき (ときわごしょ) 浄土宗 山号/佛日山 本尊/釈迦如来 尼門跡寺院 常盤御所

通常非公開。延文元年、後伏見天皇皇女進子内親王が泉涌寺の無人如導により得度して自本覚尼となり、室町一条に天台・禅・律・浄土の四宗兼学道場として創建。応仁の乱で焼失し、後に持明院仙洞御所跡地に再建されます。名を安楽光院と改めましたが、後に光照院に復しました。以来、代々皇女が尼門跡となります。江戸時代にはしばしば火災に遭い、再建を繰り返しました。しかし寛政元年に復興。光格天皇より常盤御所の名を賜りました。明治5年、浄土宗に改宗。書院は旧桂宮御殿の一部を移築したものです。庭園の歴代門跡お手植えの樹齢五百年の五葉松が立派。また華道常盤未生流の家元でもあります。
護王神社
ごおうじんじゃ 和気清麻呂(733−799) 和気広虫(730−799)

国家鎮護の社。元は高雄神護寺の小祠に祀られていたのですが、孝明天皇から「護王大明神」の神号を受けました。現在の地に移ったのは明治19年。祭神は平安遷都の功労者・和気清麻呂とその姉の和気広虫(法均尼)。そして藤原百川、路豊永です。『日本後記』に清麻呂と猪の話が出ていて、それ故かこのお社の霊獣は猪。いのししグッズが沢山あって亥年生まれの人にお薦めです。因みに明治時代の十円札には清麻呂に因んだいのししが!平成に入り改修工事が行われ、清麻呂公千二百祭があった平成10年には清麻呂像が境内に、平成18年には烏丸通に面した鳥居前に「平成の霊猪」こと狛猪が建てられました。初めて参拝した時よりも猪パワーが増しております。また、足腰が弱い方にはご利益あり。平成23年の節分に参加。福豆沢山ゲットしました。
護浄院(清荒神)
ごじょういん (きよしこうじん) 天台宗 山号/なし 本尊/清三宝大荒神 通称/荒神さん 

正式名は常施無畏寺(じょうせむいじ)といい、「荒神さん」として親しまれています。お寺にして鳥居があるところが古めかしくて良いんですよ。荒神さんは火の守護神として知られています。本尊の清三宝大荒神は後小松天皇の勅願により、僧乗厳が摂津国勝尾山にあったものを醒ヶ井高辻の地に勧請したのが始まりといわれています。これを作ったのが光仁天皇の子・開成皇子。系図では余りお見かけしない皇子サマです。慶長5年に御所の守護として現在の地に移され常施無畏寺の号を賜り、後陽成天皇が自ら刻んだという如来荒神尊七体を合わせ祀りました。そして元禄10年護浄院の院号を賜ります。尊天堂に祀られる福徳恵比寿神は京都七福神の1つ。節分の日は火の用心や厄除けの札を求める人で賑わっています。ごった返す境内でお茶を頂きましたよ。
後花園天皇火葬塚
ごはなぞのてんのうかそうづか 第102代後花園天皇(1419−1471、在位1428−1464)

第102代後花園天皇は名を彦仁といい、崇光天皇の孫・貞成親王(後崇光院)と敷政門院源(庭田)幸子との間に生まれました。南北朝を統一した後小松上皇によって後嗣に指名され、即位。しかしその在位中は後南朝の発起や将軍足利義政による恐怖政治など身辺に絶えず緊張が走っていたような状態が続いたともいいます。皇統を北朝に伝えた人物ではありますが、彼の生きた時代は戦国時代の始まり。天皇とはいえ大変だった事でしょう。退位後に応仁の乱が勃発。御所から室町殿に住まう生活が続く中で崩御。葬礼は泉涌寺で行われるのが慣わしでしたが敵軍に占領されていた為に白雲の聖寿寺で執り行われ、柩は悲田院に送り荼毘にふしたといいます。悲田院も応仁の乱後に荒廃し現在はありませんが、この火葬塚のあった近くです。始め後文徳院を贈られ、後に後花園院と追号。堀川通に面して分かりやすい場所です。
御霊神社(上御霊神社)
ごりょうじんじゃ (かみごりょうじんしゃ)

延暦19年に早良親王の霊を慰める為に創建。崇道天皇(早良親王)・井上内親王・他戸親王・伊予親王・藤原吉子・橘逸勢・文室宮田麿・吉備真備・火雷神を祀った事から八所御霊、八所御霊大明神とも呼ばれます。正式名は御霊神社ですが、下御霊神社に対応して上御霊神社ともいいます。実は応仁の乱は此処、「御霊の森」から、つまり境内に陣を敷いた畠山政長と畠山義就の戦いから火蓋が落とされたのでした。門前には「応仁の乱勃発地」の碑
があります。お社の南には、鴨川から御所に水を流したという御用水の遺構が、僅かながら残っています。気にもとめられないようなところですが、江戸時代にはここに沢山の杜若が咲いていたのです。そして何と。この杜若の集落は尾形光琳の『燕子花図』のモデルになったという説があるのでした。門前にある水田玉雲堂の「唐板せんべい」は名物♪東京に京が移るまで怨霊の祟りを恐れていた天皇家では皇子が生まれると上御霊神社へ参詣するという慣わしがありました(凄い・・)。その折に購入していたのがこのお菓子なのです。静かなお社ですが、最近は平安京を語る上で注目される史跡の1つとして目にする事が多くなりました。知る人ぞ知るといった時代が懐かしい・・。節分の夜は甘酒などの接待がありとても賑やか。
猿田彦神社
さるたひこじんじゃ

地下鉄鞍馬口駅から上御霊神社への道に面して建っています。桓武天皇は猿田彦神の託宣によって平安遷都を決意したのだとか。延暦12年の造営で、始めは広大な境内を持ったお社でしたが次第に縮小。寛永5年に現在の地に移されました。皇居造営にあたってはこのお社の土をもって地鎮神事を執り行っていたそうです。現在は本当に小さなお社。
三時知恩寺門跡 (入江御所)
さんじちおんじもんぜき (いりえごしょ) 浄土宗知恩寺派 山号/なし 本尊阿弥陀如来 尼門跡寺院 入江御所

通常非公開。北朝の後光厳天皇の皇女見子内親王(入江内親王)は、俊仍しゅんじょう(月輪大師)が宋から請来した善導大師像を伏見に庵を結んで祀りました。この像は宮中にあって夜に光を放ったという不思議な像なのです。高さ109センチの像は解体修理を終え、平成23年に公開される運びとなりました。長らく自作とされてきましたが、墨書から文禄5年に大仏師大蔵卿法印という京都の仏師が作ったものと判明。黒かった像も今は400年前の姿を取り戻しています。後、応永年間に北朝崇光天皇の一条西洞院にあった入江御所を賜り寺とします。その後、足利3代将軍義満の娘覚窓性善尼を開山とし、知恩寺と称しました。称光天皇皇女了山尼公の入寺後は六時勤行の道場となりました。了山尼公は茶会を良くし、千利休も度々訪れた事があったのだとか。三時の名は、後柏原天皇が宮中で毎日六回行われる六時の念仏のうち昼間の三時をこの寺に付託された事から。正親町天皇の御世に現在の地に移転。宝永・天明の大火で焼失し、現在の建物は桃園天皇皇女恭礼門院の旧殿を賜り再建されたものです。絹本着色近衛予楽院は重要文化財。円山応挙の襖絵や狩野永納の屏風などもありますが、扇面に描かれた源氏物語を散らした襖絵が素敵でした。小さいものの雨の日のお庭はしっとりと美しかったですよ。そして何よりドアストッパーのかも子(鴨)が可愛かったです♪
慈受院門跡(薄雲御所)
じじゅいんもんぜき (うすぐもごしょ) 臨済宗 山号/広徳山 本尊/釈迦如来 尼五山第二位の通玄寺の三子院の一つ

通常非公開。薄雲御所、烏丸御所、竹之御所などと呼ばれる尼門跡寺院です。薄雲御所の名は称光天皇より賜り、烏丸は恐らく地名から来ていると思われます。竹之御所は開基の名から来ています。このお寺は正長元年、足利四代将軍義持の正室日野栄子(慈受院浄賢竹庭尼大禅師)が義持の遺言により天皇家の菩提を弔う為に高倉中御門に建立されたものです。応仁文明の乱により焼失、後に移転を繰り返し現在に至ります。大正8年、同じく比丘尼御所の一つであった総持院を併合して、この地に慈受院として再興されました。入った途端、尼寺の優しさが生花と焚かれた香の薫りから感じられました。日本最古といわれる江戸時代に描かれた『大職冠絵巻』は状態も良くとても綺麗でしたよ。光明皇后の御髪で作られた光明真言髪織が実に生々しかったのですが、因幡薬師にも小督ちゃんの同じものがあったりするんですよね。境内の毘沙門天は日本三体随一といわれます。
石像寺
しゃくぞうじ 浄土宗知恩寺末 山号/家隆山 本尊/阿弥陀如来 通称/釘抜き地蔵

弘仁10年に創建。正式名称は家隆山光明遍照院石像寺。造(花崗岩)の阿弥陀が名の由来です。元々は百萬辺知恩寺に属し、中世に真言宗から浄土宗に改めたようです。その後衰退、慶長19年に西蓮社巌誉上人が中興。享保15年の西陣焼けの折に類焼。北野其院の建物を移築し本堂としました。門前には巨大な釘と釘抜き。地蔵堂の石造の地蔵菩薩は弘法大師が唐より帰ってきた折に積んできた石を刻み造ったとされています。始めは苦抜地蔵と呼ばれていました。弘治2年に油小路上長者町の辺りに住んでいた大商人・紀国道林が両手の痛みを訴え、この地蔵に願をかけて祈ったところ満願の夕にお告げがありました。この痛みは病気ではなく前世において人を怨み、その時に作った人形の両手に8寸の釘を打ち抜き呪った事が今自分に返って来ているのだと。そのお告げから目が醒めると両手の痛みは消え去り、急ぎお寺に引き返すと地蔵尊の前に朱に染まった2本の8寸釘があったといいます。これが釘抜地蔵と呼ばれる所以です。釘抜の良く見れば何となくリアルな絵馬が沢山で、信仰の篤い事を伺わせていました。節分はとても賑やか!昆布茶の接待があります。夜になると昼間ほどの混雑もなく、静かな境内がなんとも印象的なのでした。
出世稲荷神社跡地/出世稲荷跡碑
しゅっせいなりじんじゃあとち/しゅっせいなりあとひ

現在の市バス千本旧二条のバス停のある場所(京都市上京区千本通竹屋町下る)は、平安京大内裏朝堂院の正門の応天門があったところです。碑などは建っていませんが伴善男が源信を陥れようとした「応天門の変」の舞台でもあります。出世稲荷神社は豊臣秀吉の創建で元は聚楽第にあって朝廷から出世社の号を賜ったのが始まりです。後の寛文3年に千本二条に
社殿を建立。平成24年6月に諸事情により境内地を売却しこの地を去るまで、人々を見守ってきました。跡地にはマンションが建てられています。初めて御朱印を貰った日の事とか、バスの車窓から当たり前のように見ていた鳥居とか、節分の日の境内でイワシが売られていた事とか。旅人であるももかでも、此処の思い出はそれなりにあります。かつて「出世稲荷前」と呼ばれていたバス停も名前を変えました。現在は大原に移転。平成26年頃、「出世稲荷跡」碑が建立されました。大原の地に移転後、平成27年には境内の整備もほぼ終わり、翌年には節分祭も復活したそう。
聚楽第跡
じゅらくだいあと

天正14年に豊臣秀吉によって建てられ、後に関白秀次が居所としましたが秀次が失脚自害に及ぶに至り破却された聚楽第。その歴史は僅か9年と言われています。広大な土地だった事が推測され、「聚楽第址」を示す石碑は何箇所かに建てられています。
相国寺
しょうこくじ 臨済宗相国寺派大本山 山号/萬年山 本尊/釈迦如来 京都五山の第二位

足利義満が明徳3年に夢想国師を開山として創建しました。正式名は萬年相国承天禅寺
(まんねんしょうこくじょうてんぜんじ)上京区の中では最も広い境内地を持つお寺で、鹿苑寺(金閣)や慈照寺(銀閣)はこの山外塔頭にあたります。法堂の狩野光信作「蟠龍図」は圧巻!その大きさとその眼光の鋭さ。生き生きとした筆遣いに溜息が漏れるほどです。手を叩くと龍がからころと雷が鳴るように鳴くのです。この法堂には本当に感動いたしました(^^)。「能は600年前からブームです」・・・このフレーズでJR東海平成9年夏のCMに法堂が紹介されました。

■■慈照院■じしょういん 相国寺山内塔頭 本尊/十一面観音菩薩 足利義政の塔所影堂
普段は非公開。相国寺の塔頭の中でも格式の高いお寺なのだそうです。相国寺の北門を抜けて西に数分歩いたところにあります。室町時代に相国寺第十三世在中中淹の塔所として創建。元は大徳院といっていましたが、
延徳2年八代将軍足利義政の塔所影堂となり、その法号をとって慈照院と改めます。こちらには御所様の木像があるのでございますよ!!(御所様=義政公)「余に今少しの才覚があったならば、そなたと手を携え、三代義満公にも劣らぬ立派な 治世をなしたであろう・・・」そんな御所様のお声が聞こえてまいります。江戸時代、第七世の仏性本源国師と桂宮智仁親王・智忠親王は親交が深く、現存する書院棲碧軒は桂宮が建立し下賜したもの。仏性本源国師と千利休との合作である茶室頤神室(いしんしつ)は「宗旦好みの席」とも呼ばれています。その掛け軸には狐さん!宗旦狐です。持仏堂の布袋さんの首は利休の首とすげ替えられるようになっいるそうです。その利休の首、ちょっと見たかった・・。比叡山を借景とした(今は余り見えない)庭園にある樹齢300年の陸船松は見事。同じ名を持つ鹿苑寺の「陸舟の松」(樹齢600年)に続いて欲しいですね。「第47回京の冬の旅非公開文化財特別公開」にて拝観。

■■相国寺本山墓地■
しょうこくじほんざんぼち
足利義政墓
足利歴代将軍の位牌所は相国寺塔頭であり、8代将軍であった義政も同様です。彼の位牌所・焼香を行う為の香火所は塔頭の慈照院にあり、墓も同所より移されたものです。

伊藤若冲墓
伊藤若冲は、曽我蕭白・長沢芦雪と共に奇想の画家として知られています。相国寺とは馴染みがある若冲が明和3年に『釈迦三尊像』『植物綵絵(宮内庁三の丸尚蔵館)を寄進した折、自らの寿蔵(生前墓)を建立する事を思い立った事から相国寺にもお墓があるのでした。因みに墓石に彫られた
「斗米菴」という号は、米一斗と絵を交換した事から。

桜塚/藤原頼長首塚
藤原頼長といえば悪左府様の事。元は東竹屋町にあり、同地にあった絹絲紡績株式会社の工場拡張工事に伴い明治40年に相国寺に移りました。大河ドラマ『平清盛』で一躍時の人(?)となった頼長公。塚には花も手向けられておりました。

藤原定家墓
応仁の乱後の永正7年頃、冷泉家の旧宅地が定家の墓所と共に塔頭の普廣院に寄進された事により、定家の墓が相国寺に移ったそうです。第八世清叔寿泉は冷泉家の出。冷泉家が定家の末である事もこれによるのでしょう。

■■瑞春院■ずいしゅんいん 相国寺山内塔頭 本尊阿弥陀三尊仏
普段は非公開。足利義満が雪村友梅禅師の法嗣太清宗渭を相国寺に迎請する為、禅室として雲頂院を創設したのが始まり。その後焼失を繰り返し現在に至ります。瑞春院の名は併合した瑞春軒から来ています。水上勉の『雁の寺』の由来となった襖絵が方丈に残っていますが、彼が「雁」だと思っていたのは隣部屋の孔雀の間の孔雀(今尾景年筆)だったと言われています。「雁」(上田萬秋筆)は住職が住まう部屋に描かれていましたので、雛僧たる者が立ち入る事は出来なかったと推測されるからです。何といっても庭。うねうねと地面を這う松の自然美。心地良い水音をたてながら池に入り込む川。雲頂庭(南庭)の名を持つ枯山水庭園と雲泉庭(北庭)の名を持つ村岡正氏作庭の池泉式庭園が印象に残りました。またこちらの水琴窟は六本木ヒルズに音を伝えているそうです。

■■宗旦稲荷社■そうたんいなりしゃ
江戸時代の始めに、相国寺境内の藪の中に棲んでいた白狐(通称・宗旦狐)を祀ったお社。白狐は、茶人・千宗旦に姿を変じ寺の雲水に混じって禅を組んだり、時には和尚と碁を打つなどした事もあったそうです。また、宗旦に化けた狐は茶にもたけ、時折催される茶席に宗旦と偽って茶を点て菓子を食い荒らしていったとか。そのお点前は見事なものだったそうですよ。何時しか狐である事がばれてしまうのですが、寺の人達は追う事もしなかったといいます。宗旦狐の最期は諸説あります。どうやら幕末との事ですので長生きだった事は間違いないでしょう。というのは、宗旦と偽ってばれた時点で既に古狐だったのですから。寺の人達は、長いこと寺に尽くしてくれた狐に感謝し、境内に祠を建てて僧堂の守護神として祀ったのです。

■■大光明寺■だいこうみょうじ 相国寺山内塔頭 山号/梵王山 本尊/普賢菩薩 
通常非公開。暦応2年、左大臣西園寺公衡の長女である後伏見天皇皇后広義門院寧子が、天皇の菩提を弔う為に夢窓国師を開山として伏見桃山の伏見離宮の傍に草庵を建てたのが始まり。大光明寺の名は広義門院の法号によるもの。広義院は持明院系の光厳天皇・光明天皇の生母であると共に、女性であり皇室の出自なく治天の君であった稀有な人です。後に広義門院の孫にあたる伏見宮栄仁親王が此処に葬られると、以来伏見宮家の菩提所となり歴代の御位牌が奉られるようになりました。文禄3年再建、更に慶長19年徳川家康により相国寺塔頭として再興。相国寺山内に移ったのは元和元年のこと。天明の大火で焼失し明治初年には廃絶の憂き目を見ていましたが、明治36年に塔頭の心華院と常徳院(廃寺)の二院と合併し、心華院の寺域伽藍を改め大光明寺として再興されました。 本尊は普賢菩薩。京都十三佛の一つで、創建当時に奉安されたといい、その優美な姿にうっとりとしてしまいます。破れた光背も美しいのです。特別公開時にお参りさせていただきましたが、その時に出陳されていた足利義尚の和漢朗詠の書は優美で美しく、教養が高かった両親・足利義政と日野富子の血を受け継いでいるのだなと思いました。

■■長得院■
ちょうとくいん 相国寺山内塔頭 本尊/釈迦如来 
普段は非公開。創建は応永年間中頃と伝えられ、開祖は仏慧正続国師。室町五代将軍足利義量の菩提寺となり、その法号「
長得院殿鞏山道基」みこの名がつきました。方丈は天明の大火後の天保5年に再建。この方丈には幕末画壇の岸派に属する岸連山(岸徳)の筆による水墨障壁画が描かれています。第50回「京の冬の旅」特別公開にて拝観。襖絵の虎ちゃんと、苔のお庭がとても印象的でした。

■■養源院■ようげんいん 相国寺山内塔頭 本尊/薬師如来 
普段は非公開。開祖の曇仲道芳は出世を望まず終生黒衣で通し禅室「養源軒」を建て隠棲したといいます。この養源軒を弟子の横川景三が相国寺内に移し再建しました。現在の地に移ったのは弘化2年のこと。幕末の鳥羽伏見の戦いで負傷した薩摩藩士の野戦病院となった経緯から、柱には藩士たちが付けた刀傷が深く刻まれています。そして此処に外科医として招かれたのが英国人医師のウィリアム・ウィリスと通訳のアーネスト・サトウだったのでした。
秘仏である毘沙門天像は、170センチもある鎌倉時代の慶派仏師の作と伝えられ、その若々しくも美しい姿に魅了されてしまいました。その存在は長年知られていなかったそうですが、江戸時代に奈良屋与兵衛なる人の夢枕に毘沙門天が現れ「我が像を修復して人々に参拝せしめよ」との託宣があり像が発見されたという経緯が記録に残されているのだそうです。第50回「京の冬の旅」の特別公開にて拝観。毘沙門天、本当に美しかったですv
清浄華院
しょうじょうけいん 浄土宗大本山 山号/なし 本尊/法然上人 別称/学問所、浄華院 浄土宗七本山の一つ

普段非公開。貞観2年に清和天皇の勅願によって天台宗の慈覚大師が禁裏内道場として創建。寺名は「清らかな蓮の花の如く清浄な修行道場」の意から。後白河天皇が法然上人源空を住持とした事から、浄土宗に改めました。その後、お寺は移転を繰り返し、応仁の乱で荒廃。しかし乱後は復興を遂げ、『洛中洛外図屏風』には在りし日の寺の姿を見る事が出来ます。御所の東の地に移ったのは天正18年の事。皇室との関わりは深く、墓地にも東山天皇生母敬松門院や桃園天皇生母開明門院を始めとして歴代天皇の皇子皇女も眠っています。阿弥陀堂となっている建物は旧竹林院(旧阿弥陀堂は平成に取り壊し、竹林院を改築し阿弥陀堂とした)で、松平容保が逗留していたそうです。その期間中に新撰組の近藤勇が呼び出されたという記録が残っているのだとか。八百年大遠忌記念事業に合わせ、平成22〜23年の間に改築・再建された建物があります。また、平成23年11月には140年ぶりに鎮守山王権現浄華稲荷明神御火焚祭が執り行われました。様々な宝物の中でも一番は泣不動絵巻。晴明さんの姿を見る事が出来るんですよ。歴史も深いですし、見るべきものが沢山のお寺なんですよね。紅葉も綺麗なの。そしてももかは公式ブログのゆるさが好きです。
浄福寺
じょうふくじ 浄土宗 山号/恵照山 本尊/阿弥陀如来 通称/赤門、赤門寺

通常非公開。延暦年間興福寺の僧賢憬が唐から請来した釈迦如来像を安置する寺として建てたと伝えられていますが、寛平8年に宇多天皇生母班子女王の創建ともいわれています。創建当時は天台宗として京都二十五大寺の一つでした。しかし大永5年後柏原天皇から念仏三昧堂の勅号を賜った事により浄土宗を兼ね、後に知恩院に属しました。その後火災により移転を余儀なくされるも、元和元年に現在の地に移りました。赤門の寺として知られていますが、天明8年の天明の大火の折はちょうどこの赤門の前で止まったのだそうです。伝え聞くところによると、鞍馬から舞い降りてきた天狗がこの門の上で巨大な団扇を仰ぎ火を消したのだとか。それ故、門のすぐ側には天狗を祀るお堂(護法大権現)があるのです。また赤門は聚楽第の一部だという説もあります。幕末には薩摩藩士の仮宿となり、柱には刀傷が残っています。別名に村雲寺といわれるのは、鎌倉時代に火災の為に一条村雲に再建された事によります。本堂以下8棟は京都市指定有形文化財。中でも本堂は二つの建物を巧みに一つに見せるという珍しいもの。これ、実は最古の違法建築なんです。今でこそ笑い話のようになっていますが、徳川時代は秘密を守る為に何時もヒヤヒヤしていたんじゃないでしょうか。十王像十幅(土佐光信筆)と阿弥陀三尊二十五菩薩来迎図二幅は重要文化財。平成23年秋の初めての特別公開時にお参りさせていただきましたが、御住職直々の絵解きの楽しさと、「仏教マンガ部屋」等と書かれた親しみやすいプレート(手作り)と、近くにあった浄土双六が忘れられません。巨大な涅槃図もあるという事で、こちらの公開も楽しみです。方丈の山田文厚筆の鳴き竜は、ももかが訪れた折は湿気の為か鳴いてくれなかったので、今度は鳴いて欲しいものです。方丈の阿弥陀立像は元々は知恩院のもの。この光背がとても素敵でしたv
白峯神宮
しらみねじんぐう

明治元年に建てられた崇徳天皇・淳仁天皇(淡路廃帝)を祀ったお社。両天皇は政争に敗れ悲運にして配流、彼の地で亡くなっています。崇徳天皇崩御から約700年、幕末から明治維新の混乱の時期である慶応4年に天皇の霊を京に迎える為の宣命が出ました。これは新政権に祟りを及ぼすのを恐れて祀ったともいいます。淳仁天皇は明治6年に合祀。蹴鞠・和歌の宗家として知られる旧飛鳥井家の邸宅跡地でもある事からか境内末社には蹴鞠の神様をお祀りしています。サッカー選手の参拝もあるそうでサインもありました。流石!ちなみにももかはここに来ると「雨月物語」を思い出すのでありました。
水火天満宮
すいかてんまんぐう

延長元年6月23日に一条上る下り松に菅原道真の霊を祀ったのが始まりで、醍醐天皇の勅命により水火の社天満大神の神号を得、雨水雷火難消除の神として鎮座。日本初の水火天満宮として有名です。この地は道真の師・法性坊尊意僧正の屋敷跡なのだとか。歴代天皇の行幸も見られましたが天明8年の大火事により宝物書類などが焼失。堀川通の拡張工事に伴い昭和25年に此処に移転しました。道長の死後、平安京には落雷が続き祈祷の命を受けた尊意が御所に向かう途中に鴨川が増水。尊意は天に向かい神剣を翳して祈ると道真の霊が現れ、たちまち雷雨が止んだといいます。この時に道真が降りた石が現在境内に残る登天石です。堀川通を歩いていると必ず目に入ってくるこのお社。一度は立ち寄ってみてください。枝垂桜も綺麗。
菅原院天満宮
すがわらいんてんまんぐう 祭神/菅原道真、菅原
是善 菅原道真(845−903)、菅原是善(812−880) 菅公聖蹟二十五拝の第一番

烏丸通に面した小さなお社。菅原道真の誕生の地といわれ、道真と父の是善が祀られています。広大な地であった邸宅には、菅家の為に歓喜光寺を創設。これが六条道場に移転し、残された殿舎にこの一社を設けたといいます。今はこじんまりとしたお社ですが、初めて立ち寄った時よりは授受品も多くなり、参拝される方が増えているような気がいたします。元々の社殿は現在とは違った向きだったそうですよ。
その理由は・・・まあ色々とあるのですよ。蛤御門にも近いかな。道真産湯の井戸や天満宮御遺愛の燈籠一基が境内に残っています。菅公聖蹟二十五拝の第一番。
晴明神社
せいめいじんじゃ 安倍晴明(921ー1005)

近年の陰陽師ブームで遂にガイドブックにまでページを割かれるようになった晴明神社。京都の観光寺社の清水寺や二条城などと共に表紙にその名を連ねる日が来ようとは誰が予想していた事でしょう(笑)。あの昔の静けさは一体何処へ?陰陽道博士安倍晴明は平安京の鬼門にあたる東北角、つまりこの場所に邸を構え、歿後の寛弘4年に祀られました。古くは広大な社地を有していましたが、後に縮小し現在に至ります。境内には社紋である晴明桔梗紋と呼ばれる五芒星がいたるところに乱舞♪これは陰陽道の祈祷呪符の一つで万物の除災清浄を表しているのです。ギリシア語ではペンタグランマといい西洋では魔除けの印とされています。本殿は明治38年建立。山城名泉の一つといわれる晴明水は悪病難渋にご利益があり、千利休も茶事に使用したといいます。平成年間に一時枯渇するも、平成16年に復活。現在のものは、立春にその年の恵方に注ぎ口が向けられます。彼が式神を隠していたという戻橋も近くにあり、近年の改修工事で不要になった欄干が新しく生まれ変わった形で境内に置かれています。この地は千利休が聚楽屋敷を構え、茶事を催していたとされ、その碑も建てられています。また、境内末社の斎稲荷社も晴明さんとは大きな関わりを持っているのですよ。こちらへのご参拝もお忘れなく。晴明桔梗紋に因み新しく生まれ変わった境内には桔梗が植えられていてささやかな秋の風情を醸し出していました。桔梗紋といえば、一の鳥居の御神紋。平成19年11月に新たに加えられたものですが、神紋額がつけられるのは全国的にも珍しいのだとか。また、境内には天体を観測している晴明公像、神桃(厄除桃)、また新たなる四神門も増え、益々活気が満ちております。清明節には晴明饅頭という五芒星が書かれた茶饅頭を頂けますが、これは必見?しゃ、写真を撮っておくんだった〜。ももかは醍醐のお花見の帰りにおやつとして頂いてしまったのです。美味しかったですよ♪
千利休居士聚楽第屋敷趾碑
せんのりきゅうこじじゅらくだいやしきあとひ


平成16年建立の晴明神社に建つ碑。揮毫は利休十四世の武者小路千家家元・千宗守。『茶道要録』によると利休の聚楽屋敷は、霞屋町元誓願寺下る町にあったとされ、桃山の昔にはこの辺りだったとされています。
大極殿遺址碑
だいごくでんいしひ

平安京大内裏の中心を成す朝堂院の正殿。石碑は明治28年平安遷都千百年紀念祭に際して建てられたものですが、実際の位置は千本丸太町の交差点辺りとされています。大極殿は貞観18年4月・天喜6年2月・安元3年4月の3回炎上。それ以後は再建されませんでした。『大鏡』の藤原三兄弟の肝試しの話は有名。児童公園の中に碑が建っています。
大将軍八神社
たいしょうぐんはちじんじゃ

桓武天皇が王城鎮護の方位守護神として延暦13年に大内裏の西北角に勧請したと伝えられています。大将軍とは方位を司る陰陽道の神の事で、京に侵入してくる悪神や疫神を京の四隅で追い払うと考えられていました。始めは「大将軍堂」と称していましたが、後に「大将軍宮」「大将軍社」「大将軍八神宮」などと名前を変え、明治に至って「大将軍八神社」に。80体が重要文化財になっている木造大将軍神像は平安後期から鎌倉時代に渡る製作で、革甲に鎧を着けた武装姿の珍しいもの。現在は立体星曼荼羅様に安置されています。期間を設けて公開していますので機会があったらご覧ください。現在の建物は昭和元年のもの。商店街の中にある小さなお社です。注目すべきは御祭神に聖武天皇・桓武天皇の名がある事でしょうか。桓武天皇が祀られているお社はももかが確認している限り、この他に平安神宮しかないんですよ。こちらも陰陽師ブームで訪れる人が増えてきたようです。そういえばこのお社の前の大将軍商店街の別名が出来ていました。その名も「妖怪ストリート」・・(^^;)。
大聖寺(御寺御所)
だいしょうじ (おてらごしょ) 臨済宗相国寺派 山号/岳松山 本尊/釈迦如来 京都尼門跡第一位

通常非公開。足利3代将軍義満が室町第に無相円尼の為に岡松殿を建て、後に寺に改めました。無相円尼(日野宣子)は義満正室日野業子の叔母にあたります。また、大聖寺は無外如大を開祖とする景愛寺の伝統を受け継いでいます。これは一時大聖寺が尼五山の一つ景愛寺の塔頭となった事から。景愛寺は衰退しましたが、その伝統が大聖寺に受け継がれたのです。後円融天皇皇女の理栄宮の入寺より、御寺御所と呼ばれるようになりました。創建以来、兵火などで移転と再建を繰り返し、現在の地に戻ったのは元禄10年の事でした。この時、明正天皇の河原御殿の資材を移して造られたのが京都市指定文化財の枯山水の大聖寺庭園です。長らく歴代天皇の皇女が入寺していましたが、明治以降は旧華族が門跡を継承しているようです。本堂は昭和18年に東京青山御所より移築されたもの。神仏霊場の一つになっているので、御朱印をいただく事ができます。境内には平成7年に建てられた「花乃御所」の碑が♪同志社大学寒梅館の隣なので、写真を撮るに際しては煉瓦造りの建物がどうしても入ってきます。
大報恩寺
だいほうおんじ真言宗智山派 山号/瑞応山 本尊/釈迦如来 通称/千本釈迦堂

安貞元年に創建され、本堂は応仁・文明の乱には東西両陣営からも保護を受けた為戦火から免れたという京洛最古の建物。千手観音像は菅原道真が梅の古木に自刻したものといい、六観音像は滝口入道の姪・藤原以久女の奉納です。さて本堂造営の際に棟梁高次は柱の寸法を切り間違い悩んでいたところ、妻・おかめの一言で難を切り抜けました。この為無事に上棟式が執り行われる運びとなったのですが、女の提言によって棟梁の大任を果たし得たという世評があってはと、おかめは命を絶ってしまったのです。高次はおかめの名に因んだ覆面を扇御幣につけて飾りその冥福と大堂の完成を祈りました。おかめ御幣は現在でも上棟式に上げられ全国の大工さんの信仰を集めています。大きなおかめ像が境内にあるので、これも必見。ももかが初めて訪れた時は改修工事中で槌の音が凄くてゆっくりする余裕がありませんでした。その後訪れたのが大根焚きの12月8日。公道まではみ出た列に一時間並んで大根をいただきましたよ。大きなぶつ切り大根が3つとお揚げさん。寒い師走の風に吹かれながら参拝者と共に頂いて、ホクホク。平成23年には遅い紅葉を見ながら大根を頬張るという珍しい現象が見られたとか。
竹林寺
ちくりんじ 浄土宗西山禅林寺派 山号/五台山 院号/法泉院 本尊/阿弥陀如来 通称/赤門の竹林寺、赤竹

鮮やかな朱塗の門を持つ事から「赤門の竹林寺」「赤竹さん」という異名があります。弘安2年に後宇多天皇の勅願により顕意道教上人が創建しました。しかし幾たびもの火災により記録が焼失した為、詳しい歴史が分かっていません。明治初期の頃は無住だった時期もあり寺宝も散失してしまっているのが残念です。因みに現在はちゃんと管理されています。六角獄舎で処刑された平野國臣らが埋葬されたのは無住時代の明治10年。元治元年の禁門の変の折、京は火の海に包まれました。その火の手は六角獄舎にまで迫り、この機に乗じて逃亡する者を防ごうとした役人達は捕らえられていた約80人を処刑しました。生野の変で捕らえられた平野國臣、池田屋騒動で新撰組に捕縛された古高俊太郎、天誅組の水郡善之祐らがこれにあたります。結局のところ火は獄舎までは至らなかったのですが・・。後に西刑場址(現・円町)から姓名を朱書きした瓦片と共に白骨が発見され、37名がこの寺に葬られたのです。明治43年には境内に墓碑が建立されました。
百々橋礎石
どどばしそせき

百々
橋は寺之内通小川に架けられていた橋です。青い衣を纏った妖女が立っていた場所でもあり、応仁の乱の発端となった戦いの場所でもあり、また細川勝元さんの後継者争いの場所でもあります。昭和38年に解体された橋は現在洛西ニュータウンの竹林公園に移築されています。つまりは勝元さんウォッチャー(笑)のももかにはちょっと興味のある橋なんですよね。礎石のみとなったその場所には今はその地名の「小川」もなく、当時を窺い知る術もありません。
梨木神社
なしのきじんじゃ

明治18年に創建。菅原道真の生まれ変わりと崇められ今天神様と呼ばれた三條実萬(忠成公)と息子・実美を祀ります。実は三條邸はこのお社のすぐ西にあったのだそうです。境内の「染井水」は醒ヶ井、県井と並ぶ京都三名水の一つです。また此処は染殿皇后と呼ばれた藤原明子の里御所の跡とされています。萩の名所とも知られ、秋には萩が風情ありげに風に漂っています。ももかが訪れた時はちょっと遅かったけれど(笑)。現在、敷地内にマンションが出来、旧鳥居と社殿の間にそのマンションが存在する・・・という不思議な構図となっています。
名和長年公遺蹟/此附近名和長年戦死之地碑
なわながとしこういせき/このふきんなわながとしせんしのちひ 名和長年(生年不詳−1336)

名和長年は隠岐を出で給う帝(後醍醐天皇)を船上山に迎えた南朝方武将。大河ドラマ「太平記」の影響からか、憎めない田舎武士のイメージがありますが、その忠臣の心意気を最期まで全うした人物です。建武3年に九州から京へ攻め上ってきた足利尊氏らの軍勢をこの内野の戦いで迎え撃ち、戦死。その場所がこの辺りと言われています。名和児童公園の中にありますが、入口には鳥居、公園内には帝から賜った「帆掛け舟」の紋が石などに刻まれています。聚楽学区は長年の出身地鳥取県の名和町と友好を結んでいましたが聚楽学区の閉校、市町村合併による名和町の名称変更(現・大山町)などで交流は途絶えています。
鳴虎報恩寺
なきとらほうおんじ 浄土宗 山号/尭天山 本尊/阿弥陀三尊 通称/鳴虎

室町時代に一条高倉に開かれたといい、元は法園寺(または法音寺)の天台浄土兼学寺院でした。文亀元年に後柏原天皇より西蓮社慶譽上人一風明泉和尚に論旨を賜り浄土宗寺院となり堀川今出川の舟橋の地に再興。豊臣秀吉によって現在の地に移されたのは天正13年の事です。「鳴虎」の異名の由来は、秀吉との関わりからきています。後柏原天皇から下賜された中国の画人・四明陶■
しめいとういつ筆の「虎図」を秀吉が所望し聚楽第に持ち帰った夜、一晩中虎の鳴き声が聞こえ眠る事が出来ず、すぐに寺へと戻されたのだそうです。この虎の絵は寅年の正月三が日のみ公開されます。ももかは平成24年秋の 第48回京都非公開文化財特別公開で見る事が出来ました。絹本に描かれた虎の美しい事!この時は普段京都国立博物館に寄託している「厨子入千体地蔵菩薩像」(重文)も拝観する事が出来ました。寺での公開は初めてで、恐らく以降はないのではないかという小さくも緻密な千体佛には、日本人の手先の細かさと感受性の強さを見たような気がします。素晴らしかったですもん。元和9年、徳川家康・秀忠父子が参内の為に上洛した折、筑前の黒田長政も江戸より上洛し報恩寺を宿舎としました。しかし、持病が悪化し、報恩寺客殿にて亡くなりました。享保15年の大火及び天明8年の大火により焼失。客殿(方丈)には火難を免れた本尊を祀っていますが本堂や庫裏は遂に再建される事なく現在に至ります。境内ある平安時代に作られた梵鐘(重文)は、畠山持国が陣鐘に用いていたものとか。別名は勿撞(つかず)の鐘で、ある時お十夜の晩に鳴るか鳴らぬかで丁稚と織子が口論した結果、鐘が鳴らなかったので織子が狂い死にしたという話があるのです。それ以後、除夜の鐘以外は撞かなくなったそう。寺宝は素晴らしいものが伝わっています。
鵺神社/鵺池
ぬえじんじゃ/ぬえいけ 源頼政(1104−1180)

二条児童公園内の北、ほんの片隅にある小さなお社です。平成17年に改修が終わり、雰囲気が少し変わりました。鵺とは頭は猿、むくろは狸、尾は蛇、手足は虎の形という禍々しい鳥の事。この鵺退治で活躍するのがあの源頼政で、近衛朝の仁平年間・応保年間にその逸話が残っています。頼政というと以仁王の令旨を掲げて平家追討の兵を挙げた方ですが、鵺も退治しちゃうのですね。このお社のすぐ近くに遠目から見て馬蹄のように見える池がありますが、仁平年間の鵺退治の折、鵺を射殺した矢じりを洗った池だといわれています。立ち寄った時には猫がいてなかなか写真を撮らせてくれませんでした(笑)。退治された鵺の屍は京を引き回され淀川に流されました。これが流れ着いたのが下流の大阪の澤上江(現在の都島)。現在此処には「鵺塚」があるんですよ。因みに大阪市港湾局が昭和55年に作った大阪港紋章には鵺が図案化されています。crestは大阪市庁舎の「澪つくしの鐘楼」、supporterは両側に「鵺」(但し、胴は獅子)が配置され、escutcheonは難波の都の昔からこの港を往来していた「古代船」が描かれています。
福勝寺(ひょうたん寺)
ふくしょうじ 真言宗大通寺派 山号/竹林山 本尊/薬師如来 通称/ひょうたん寺、ひさご寺 

後西天皇が左近の桜を分け植えた事による「桜寺」(枯死、現在は二代目)、豊臣秀吉が武運を祈って千成瓢箪を奉じたことによる「瓢寺(ひさごでら)」などの通称があるのですが、現在は「ひょうたん寺」としての名が良く知られるところ。元々は河内国古市郡に創建され、正嘉年間に京都に移りました。毎年節分の日だけ「宝珠尊融通御守
ほうしゅそんゆうづうおんまもり」と呼ばれる瓢箪のお守りが頂ける事から、この日は参拝者が多くて賑やか!交通整理の方も出るくらいなんですよ。現在授与は予約制です。お茶を頂いたりでほんわか♪九条家から移築したという門は一見敷居が高そうに見えますがそんな事はありません。いろんなお話が伺えましたよ。墓地には古高俊太郎(涼岳院綺音正順居士)のお墓があります。
福長神社
ふくながじんじゃ

福井さく神と綱長井つながい神、稲荷神の三神を祀ります。別名福長稲荷。福井神と綱長井神は共に平安時代に神祇官西院に祀られていた座摩巫祭神(いかすりのみかんこのまつるかみ)五座のうちの二座で、屋敷内の井戸や泉の神、つまり水の神とされています。元は大宮と猪熊の間に別々に祀られていたものを、豊臣秀吉の聚楽第造営によりその域に入り、聚楽第廃止後現在の地に移されたといいます。天明の大火に焼失。現在は小さなお社となっています。
藤原時平屋敷跡
ふじわらときひらやしきあと 藤原時平(
871−909)

岩上神社の付近が藤原時平の屋敷跡といわれています。別に石碑が建っている訳でもないのですが、北野天満宮に参拝する方はこの辺を避けて通るのだとか。この辺りを歩く時には少し平安時代に想いを馳せてみたくなってきます。時平は関白太政大臣基経の長男で母は人康親王王女。本院大臣との別称を持ち、宇多・醍醐朝では菅原道真と共にその治世に力を尽くしました。しかし遂にライバル菅原道真を排斥。藤原氏の摂関政治を確立するのに成功します。39歳という若さでの死は道真の怨霊によるといわれ、彼の子供や血縁者にも短命の者が多かったといいます。藤原氏を語る上で忘れてはならない人物の時平は、笑い上戸としても有名でした。
宝鏡寺(百々御所)
ほうきょうじ (どどごしょ) 尼門跡寺院 臨済宗 山号/西山 本尊/聖観音菩薩 通称/人形寺、百々御所

「人形の寺」という通称を持つお寺として有名です。堀川通は良く歩く場所なのですが、ももかが此処を訪れたのは平成20年ですので最近の事。尼門跡寺院であり、「宝鏡」の名は本尊である聖観世音菩薩が由来。伊勢の二見ヶ浦で魚網にかかった菩薩像は膝の上に小さな手鏡を持った変わったお姿をしており、これを猟師が朝廷に献上。時の光厳天皇により宮中に安置され、応安年間に景愛寺に奉納。当時の住職第六世華林宮惠厳禅尼(光厳天皇皇女)は景愛寺子院であった福尼寺を堀川に移したのですが、この時宝鏡寺と改めました。後水尾天皇皇女久厳禅尼が入寺して以来、歴代皇女が門跡を勤めた事で知られています。和宮所縁のお寺でもあります。「人形の寺」の名の如く、古いお人形を何体も見る事が出来ます。日野富子にも所縁の為、此処には御台様の木像があるのです。驚きました〜。そういえば百々橋礎石はこのお寺のすぐ近くにあったのでした。
法成寺跡(従是東北法成寺址碑)
ほうじょうじあと (これよりとうほくほうじょうじあとひ)

鴨沂高等学校北側グラウンド南塀沿に大正4年建立された碑があります。寛仁2年藤原道長は自分の屋敷である土御門殿の東に祈願所として九体阿弥陀堂(無量寿院)を建立。平安京外の北東に位置していた事から北東院とも呼ばれました。後に
五大堂・金堂・十斉堂・三昧堂を造営。東大寺をしのぐほどの規模の大寺となり、法成寺と称します。道長が「御堂関白」と呼ばれたのはこの御堂=法成寺から来ています。そして道長はこの阿弥陀堂の中でその生涯を閉じたのでした。長久2年地震により鐘楼が倒壊、天喜6年に火災により金堂・講堂・阿弥陀堂が焼失。息子の藤原頼通により再建されますが、鎌倉時代に荒廃廃絶。吉田兼好の『徒然草』の時代、かろうじて阿弥陀堂のみが残っていたそうです。娘の一条天皇中宮上東門院彰子所縁の東北院のみが現存しています。こちらも焼失と再建を繰り返し元禄5年の大火の類焼により翌年現在の真如堂の北の地に再建されました。謡曲「東北」の舞台。この世の春を謳歌した道長も、その土御門邸も、お寺も、今はこんなになっちゃって・・・というのがももかの感想でした。
法輪寺
ほうりんじ 臨済宗妙心寺派 山号/大宝山 本尊/釈迦如来 通称/達磨寺、起上達磨寺

その通称の如く、至るところにだるまさんがいらっしゃるのが微笑ましい(^^)。御朱印には「不動」の文字がそれを物語っております。衆聖堂の天井も大きな達磨なのです。その数実に8000体余りとの事。また芙蓉の咲く時期は境内がとても美しいのでお薦めです。観光寺院ではないので静かですし。開基は両替商「伊勢屋」荒木氏で享保13年に創建。もともと妙心寺派の寺院は武家が開基となる事が多いので、この商人開基となると珍しい部類に入るそうですよ。
本法寺
ほんぽうじ 日蓮宗本山 山号/叡昌山 本尊/十界大曼荼羅 日蓮宗京都十六本山の一つ

永享8年日親上人によって創建。日親上人は将軍足利義教に『立正安国論』を献じ、それが為に数多の刑罰を受けた事で知られています。「冠鐺(なべかぶり)日親上人」の異名をとるのは焼鍋を頭に被せられた事からきています。東洞院綾小路に造られたこの寺も焼却されてしまいましたが、康正元年に後花園天皇より四条高倉に地を賜り本堂が再建されました。後、移転を繰り返し現在の地に至ったのは天正15年のことで、豊臣秀吉の帰依を受け繁栄しました。天明8年の大火で焼失、後再建。この寺を語る時、本阿弥光悦の存在も忘れてはなりません。日親上人と光悦の曽祖父清信とは足利義教により投獄された獄舎の中で知り合い、以来本阿弥家は本法寺との関わりを深くしていったのです。『三つ巴の庭』や京都三大涅槃図の一つ『仏涅槃図』(長谷川等伯筆)など見所も沢山♪
本隆寺
ほんりゅうじ 法華宗真門流総本山 山号/慧光無量山(慧光山) 本尊/十界曼荼羅 日蓮宗京都十六本山の一つ

正式名は慧光無量山本妙興隆寺えこうむりょうさんほんみょうこうりゅうじ。妙顕寺の日具の弟子であった日真は、本迹勝劣を強調して師と意見を異として長享2年に六角西洞院の草庵で本隆寺としました。翌年四条坊門に堂宇を構え、後柏原天皇等の庇護を受け京都法華二十一ヵ本山の一つとして栄えます。天文法華の乱で泉州堺に逃れるものの、天正12年に現在の地に再建。江戸時代は享保・天明の大火に遭いますが、明暦3年建立の本堂は焼け残り現在に至ります。この時より、本堂に安置されていた鬼子母神の霊験として「不焼寺(やけずのてら)」「火伏せの鬼子母神」と呼ばれるようになりました。本隆寺といえば夜泣止松が有名です。これは第5世日諦が幼児の養育を頼まれるも夜泣きが止まらず、題目を唱えながら松の木を廻ると夜泣きが止まった事によるものです。幼児を背負うお坊様・・・微笑ましいですね。この松の皮や葉を枕の下に敷くと子供の夜泣きが止まるのだそうです。この地は無外如大尼(安達泰盛の娘で金沢顕時の妻。千代野姫)の開いた景愛寺の旧地といわれます。無外如大尼が満月の夜に井戸で水を汲んでいたところ桶の底が抜けて月影が水と共に消えたので仏道に入ったという由緒のある千代野井があります。夏の百日紅が綺麗。普段も境内は静かでのんびり散策が出来ます。
妙蓮寺
みょうれんじ 本門法華宗大本山 山号/卯木山 本尊/十界曼荼羅

永仁2年日蓮上人によって創建。日像上人が遺命を果たす為鎌倉から上洛した折、五条西洞院の柳酒屋中興氏(柳屋仲興入道妙蓮法尼)の帰依を受け一宇を建立したのが始まりです。山号は柳の字を分けたもので、卯木山妙法蓮華寺または柳寺といいます。その後衰退するも応永年間に日慶上人により再興され妙蓮寺と改められました。天文5年天台宗との諍いにより堺に立ち退き、同11年に大宮西北小路に復興。天正15年に現在地に移転しました。天明8年の大火により僅かな建物を残して焼失、再建して現在に至ります。玄関・奥書院の襖絵は長谷川等伯やその息子達、一派のもの。特に鉾杉の襖絵は有名ですね。収蔵庫にはこれらが収められているのですが、その床に赤穂義士の遺髪塔の古墓石もあったりします。境内にある赤穂義士の遺髪塔の石が古くなったので新しいものになっているのですが、その前の物をこちらに保管しているのです。書院には幸野楳嶺の襖絵があり、銀箔を上手く使いこなした配置が良い感じ。特に秋の図は素晴らしいですよ。枯山水の十六羅漢の庭がこれまた良いのです。心癒される庭なんですもの。縁結びの御会式桜や妙蓮寺椿も有名です。
紫式部墓所
むらさきしきぶぼしょ 
紫式部(生没年不詳)

小野篁さまの墓所の隣が紫式部の墓といわれる円墳です。かつてはこの前に十三重の供養塔があったといいますが引接寺に天正の頃に移されたそうです。紫式部ファンの花が絶えず、一般の人でも気軽に詣でる事が出来ます。「紫式部顕彰碑」は文学博士角田文衛氏のもの。千本閻魔堂といい、この墓所といい、何故かこの二人は縁があるようですね。
村雨御所跡
むらさめごしょあと

碑は西陣織会館の入口に建っています。村雨御所は豊臣秀次の生母瑞竜院日秀が、秀次を追善する為に作られたお寺です。村雨とは地名で、宮家や摂関家から入寺がありました。日蓮宗唯一の尼門跡寺院で昭和38年に近江八幡市に移転しました。
室町幕府跡地(従是東北足利将軍室町第址碑)
むろまちばくふあとち (これよりとうほくあしかがしょうぐんむろまちだいあとひ)

京都御所から北西の上立売・今出川・烏丸・室町の各通りの交差するあたりが「花の御所」と呼ばれた室町幕府の跡地です。3代将軍義満が築き歴代将軍の御所となりますが、応仁の乱の折に焼失し現在は道の片隅に碑が建てられているのみとなっています。その規模は南は今出川・西は室町・北は上立売・東は烏丸の東西一町、南北二町の広大なもの。『洛中洛外図屏風』には当時の様子が描かれていますが、応仁の乱に焼失しました。NHK大河ドラマ『花の乱』はこの時代を舞台に描かれた作品ですが、とても面白かったんですよね。視聴率が悪かったという記録が残ってしまいましたが、ももかは大好きでした。ももか選・歴代大河ドラマランキング高し、ですよ?それ以来この「今出川」の辺りを通ると足利義視こと今出川殿のお姿を見、「将軍に据えてやろう」という細川勝元様のお声を思い起こしてしまうのです。
明治天皇行幸所京都府
めいじてんのうぎょうこうきょうとふちょう

明治天皇が明治20年に孝明天皇二十年祭の為に京都に滞在され、1月29日京都府庁に行幸されたものを記念して建てられた碑。昭和13年に建立され、正門脇にあって立派なものです。
山名宗全邸宅跡
やまなそうぜんていたくあと 山名宗全持豊(1404−1473)

宗全は室町時代の武将で、嘉吉の乱で勝利してからは幕府内でも大きな力を持つようになりました。名を持豊、後に出家して宗全と号し巷ではその赤ら顔から赤入道と呼ばれたそうです。娘を細川勝元の正室に、そして息子を養子にと管領細川家との繋がりは強かったものの、将軍家の後継者争いと勝元に実子(後の細川政元ね)が生まれた事による細川家の内紛で応仁の乱では完全に細川勝元と敵対。京を焼き尽くす11年に及ぶ内乱は両将の死で終わったともいいます。両将、まさか自分が京のまちをこんなにしてしまうとは思いもよらなかったでしょうに。面白い事に金閣寺・銀閣寺の御池には山名石・細川石・畠山石という石があるのです(赤名は何故ないのだろう。大内石は銀閣寺にあるのに・・)。此処に室町を彩った武家の皆様を垣間見る思いなのですよ♪この地は宗全の屋敷があったとされる場所。西陣の風情ある裏路地、家と家との間に竹で囲んで綺麗に整備された石碑に思わず目がいきます。ももかは『花の乱』の大ファンでしたから、宗全にはやはり色々な想いがあるんですよね。こんなに路地に溶け込んでいる石碑って滅多にないわ〜。何だか嬉しい♪そういえば祇園祭の頃には宗全の霊が蘇るという言い伝えもあるのだそうですよ。蘇った宗全、それはそれで怖い(笑)。柿など持っていたらもっと怖い。
祐正寺
ゆうしょうじ 浄土宗大本山百万遍知恩寺の末寺 本尊/娶妻結地蔵 通称/妻取地蔵

慶長7年に円誉雲白上人により、法然上人の念仏道場として創建。「妻取」の名の由来はその境内にある地蔵からきていて縁結びにご利益があるそうです。提灯には「娶妻結地蔵菩薩」の文字。「娶妻結」で「つまとり」と読みます。また京都洛陽四十八願所の第九番札所となっています。このお地蔵さんが白くて綺麗なのです。毎月5日は写経の日。ももかが立ち寄った日にも写経をする人の姿がありました。
立本寺
りゅうほんじ 日蓮宗本山(由諸寺院) 山号/具足山 本尊/十界曼荼羅 通称/北野の鬼子母神さま 
洛中二十一ヶ寺本山(現在は京都十六本山)の一つ、日蓮宗八本山の一つ、三具足山の一つ

正式には本山立本寺。京都の法華系本山十六ヶ寺のうち妙顕寺・妙覚寺・立本寺は三具足山と称されています。日蓮上人は暦応4年に四条櫛笥に妙顕寺を建てるも叡山僧兵によって破却され、明暦4年に「本寺を立てる」意味を込めて再建、これが名の由来となっています。以降も破却と再興、そして移転等を繰り返し現在の地に至ったのは宝永5年の事。仏様は勿論のこと天蓋が素晴らしく長い事この空間に取り残されたい気分になりました。お寺ですが紙垂にも注目を!ここの紙垂、他とは違った趣なのです。普段非公開の客殿庭園は市指定名勝。長い間手入れが行き届いていなかったので公開はしていなかったとか。整備後とはいえそこそこ苔生していて落ち着いたお庭でした。南庭の築山の上に若い松が植えられています。これは元々庭の中にあったもの。掘り起こされた跡がまだ残っていますが、この苔生した土を掘り起こせば何かが出てくるような気もします。ある筈の池がないものの、一部の敷石が出てきているのが興味深いのです。「治部少に過ぎたるもの」と言われた島左近のお墓は寺から小道を挟んだ墓地にあります。お寺の方々は皆親切で、ももかごときものに手を合わせ「よくおいでくださいました」と迎えて下さいました。こんなお寺、多くの寺院が立ち並ぶ京都でもそうはございません。
霊光殿天満宮
れいこうでんてんまんぐう

老松神といわれる菅原道真六世の孫、菅原定義によって創建。寛仁2年河内国若狭の霊蹟に菅原道真を祭神として鎮座。この地は道真左遷の時、一条の霊光が天から降ったことから霊光殿といわれました。その後、若江家が代々の祠官を勤め、応仁の乱の後、御神体を東寺に移しました。宝暦11年、現在の地に鎮座。寛永13年に若江家再興につくした徳川家康を合祀。明治5年に近衛家の旧鎮守社の社殿を拝領し、これを社殿としています。こちらの後宇多天皇御宸筆の扁額は素晴らしいのですよ。「天下無敵必勝利運」の文字。後宇多天皇の御世であった弘安4年といえば蒙古襲来なのですが、この時勅命により敵国降伏の祈祷を行ったところ、忽ち霊験あって賊船が悉く沈没したとの事。その時に寄付されたのがこの額なのです。天下無敵、必勝、利運。霊験あらたかなり。
廬山寺
ろざんじ 円浄宗本山(天台宗系)
 山号/日本廬山 本尊/阿弥陀如来 黒戸四箇院のうち現存する唯一の摂家門跡(準門跡)

正式名称は廬山天台講寺。天慶元年に船岡山に創建された時は与願金剛院といい、元亀2年にこの地に移りました。廬山天台講寺の名となったのは寛元3年の事。戦乱等により焼失を繰り返しますがその都度再建され現在に至ります。天正年間にこの地に移転。皇室直属の御黒戸四ヶ院の中で唯一残った摂家門跡です。境内には御土居の一部があります。紫式部の邸宅跡として大々的に取り上げられているのですが、それは御朱印にも及んでいます。パンフレットも「世界最古の文豪紫式部邸宅遺跡」と記されていたりして(笑)。京都七福神・毘沙門天のお寺でもあります。毘沙門天を祀るようになったのは明治元年の事でした。また謡曲『東北』の舞台は此処を謡ったとされます。節分の日の追儺式鬼法楽(通称・鬼踊り)は必見!そしてこちらの節分豆は「石のように硬い」(笑)紅白のお豆なのでした。



京大路をそぞろ歩き
粟餅処澤屋あわもちどころさわや

北野天満宮前の粟餅のお店。「とようけ茶屋」の並びにあります。現在の御当主・澤屋與惣兵衛さんは12代目を名のり、お店の歴史は300年以上。天和2年の創業とされるものの、それ以前の古書には既に山城名物としての記録があるのだそうです。こじんまりとしていて民芸調を感じさせる店内は落ち着きます。
大黒屋鎌餅本舗だいこくやかまもちほんぽ

寺町通今出川にあります。鎌の刃の形をした御鎌餅が有名で、餅皮の薄さといい、この程良い甘さ加減の餡といい、柔らかさといい、とにかく美味しい!!
出町ふたばでまちふたば

河原町通今出川にあるお店。出町ふたばといえば名代豆餅。決して格式ばった店ではないのですけれど、凄く活気があってお客さんが一杯。お餅のまったり感と塩気のきいて硬過ぎない豆が絶妙なのです。
水田玉雲堂みずたぎょくうんどう

上御霊神社門前にある文明2年創業のお店。文明2年といったら応仁の乱勃発から10年後という事で、まさに御霊の森で乱の真っ只中から商いをしているという事になるんですね。此処の名物は
唐板。もともとは厄除けのお菓子だったので古めかしくて飾り気のない素朴さ。噛めば噛むほど味わい深くなるような感じなのです。

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