このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

永代の京
〜京都市/北区編〜

今宮神社
いまみやじんじゃ

昔から疫神を祀り、疫病を祓う為に御霊会が行われてきたお社。此処での御霊会の始まりは一條天皇の正暦5年6月27日の事で、紫野御霊会と呼ばれていました。でもももかの中で今宮神社といえば「やすらい祭り」と「あぶり餅」です。美味しいんですよね〜♪「やすらい祭り」は「太秦の牛祭」「鞍馬の火祭」と並ぶ京の三奇祭の一つ。何となく花びらがふわふわ散っているイメージがあるのですが、春のお祭りだからでしょうか。此処は大徳寺界隈を歩く時に良く立ち寄っています。境内には小さいけれど紫野大将軍社があって北方の守護をしています。
岩戸妙見宮圓成寺
いわどみょうめんぐうえんじょうじ 日蓮宗本願寺派 山号/清雲山 本尊/一塔両尊三宝尊 通称/鷹峯の妙見さん

桓武天皇が延暦13年に祀った四体の妙見大菩薩のうちの一つ。妙見宮の石室の中の岩戸妙見大菩薩石像は高さ2メートルで亀の上に乗り右手に破邪の剣を持ち左手に白蛇を握り光背に北斗七星を抱く。紋は北斗七星です。洛陽十二支妙見めぐりの12番(亥)で「鷹峯の岩戸妙見宮」と呼ばれています。承和6年、円行は平安京鎮守のために岩戸妙見を勧請し北山霊厳寺を創建しました。以後、3月3日と9月9日の御燈会には勅使の奉幣があるなど、栄えましたがいつしか廃れてしまいました。のちに霊夢を受けた江戸時代の寛永7年に日任上人が圓成寺を開き現在に至ります。境内は写真撮影は禁止となっています。だからこそ目に映ったそのままの光景を心に残す事ができるのかもしれません。初冬の寒々しい空気の中、緑の苔の上に赤い紅葉の名残が落ちていた光景は今でも忘れられません。また行きたいと思う場所です。毎月1日・15日は縁日の御開扉があります。
雲林院
うんりんいん、うりんいん 大徳寺塔頭 臨済宗 本尊/千手観音

淳和天皇は広大な離宮紫野院を造り度々此処に行幸したといいます。天長9年に雲林亭と改名し、仁明天皇皇子常康親王に伝えられました。親王が出家した後に僧正遍昭を招き寺とした時に雲林院となったといいます。平安時代には官寺として栄えていましたが鎌倉時代末期には衰退し、後醍醐朝に敷地は大灯国師が賜り、これが大徳寺の発祥となりました。かつては天台宗でしたが現在は臨済宗となり、大徳寺によって小さな観音堂が建てられているだけで当時の面影は微塵にも見出せません。さて、雲林院といえば謡曲『雲林院』でも知られ、歌枕でもあり、『大鏡』においては夏山繁樹とその妻、そして大宅世継の3人が出会った地。そしてももかは『源氏物語』所縁の地として一度は訪れたかった場所でもあります。観音堂は小さくても看板は立派(新しいから?)。しかしこの看板、内容に統一性が感じられないのだけど・・・(^^;)。大徳寺が近いのに観光客の姿もなくてひっそりしています。
櫻谷文庫
おうこくぶんこ 財団法人櫻谷文庫 国登録有形文化財(和館・洋館・画室) 木島櫻谷(18877−1938)

普段非公開。春秋に特別公開有。「大正の呉春」「最後の四条派」と呼ばれた日本画家木島櫻谷
(このしまおうこく)の遺作ほか、櫻谷が収集した絵画や書籍1万点以上を収蔵し、それらの整理研究ならびに美術、芸術、文化振興のために昭和15年に設立。和館・洋館・画室の3棟からなる櫻谷文庫は、大正期に建築されたものとして平成19年5月に国登録有形文化財に指定されました。和洋折衷の洋館が印象的。平成29年秋の特別公開にて、虎の絵を鑑賞することができました。
大田神社
おおたじんじゃ  上賀茂神社境外摂社(第三摂社)

上賀茂神社の境外摂社。古くは恩多神社とも呼ばれ、延喜式には「太田神社」と記されています。「大田ノ沢のカキツバタ」の名の如く杜若の名所として知られ、丁度葵祭の頃になると紫色の杜若の群落がが大田の沢に咲き乱れます。その鮮やかな事!この時期にはお店も出て活気があり、参拝者も多いですね。鳥居前に架かる石橋右側下の水面に蛇の枕と呼ばれている石があります。
御土居
おどい

北区には天正19年に豊臣秀吉により築かれた都市城壁、通称「御土居」の遺構が多く残っています。国史跡として保存しているもの、指定はされていないけれど確認出来うるもの、地下にあろうと考えられるもの、地名から推測されるものなど様々。良く知られているのは北野天満宮、市五郎稲荷などでしょうか。散策の折には是非チェック。
上賀茂神社(賀茂別雷神社)
かみがもじんじゃ (かもわけいかづちじんじゃ) 世界文化遺産

平安遷都以前には既に存在し、元は古代豪族賀茂氏の氏神として信仰され天武6年に現在の位置に社殿が造営されました。また平安京の鬼門としての存在も大きいですね。細殿の前にある一対の「立砂」は一種の神籬で、鬼門や裏門、玄関などに清めの砂を撒くのはこの立砂の信仰が起源なのだとか。因みに「立つ」とは神様が現れる事を意味します。上社と下社の区別がなされたのは8世紀くらいといわれ、それ以前はどちらも賀茂社と称していました。一の鳥居から二の鳥居までの空間は広々としていて、憩いの場所となっています。桜の季節は枝垂桜が綺麗なの〜♪また雨降りの翌日の晴れた早朝の煙立つ神々しさは何ともいえません。お薦め!5月15日の賀茂祭(葵祭)は京都三大祭の1つで、平安時代に「祭り」といえばこれの事だったそうです。欽明天皇の頃に凶作と飢饉に見舞われた為五穀豊穣を祈って行われた祭が始まり。葵の紋が所々に見られて可愛いですよ。9月9日には烏相撲も見られます。京都を代表するお社の一つですが、JR東海のCMでは平成19年春に初登場。このシリーズ初年は平成5年なので意外と遅い登場。
閑臥庵鎮宅霊符神本廟
かんがあん (ちんたくれいふしんほんびょう) 黄檗禅宗の尼寺 山号瑞芝山 本尊/(本尊)釈迦如来、(鎮宅堂)鎮宅霊符神 通称/珍宅さん

地下鉄鞍馬口から出雲路橋方面に歩いて数分のところにある鎮宅霊符神本廟。閑臥庵は後水尾天皇が貴船奥の院から勧請、千呆がこれを祀りました。
黄檗宗の寺院という事で何やら中国っぽい門構えをしています。その庭には後水尾天皇が歌に詠んだ曙桜があった為、曙寺という名でも知られていました。この桜は大正年間に枯死し今はありません。この本堂に祀られているのが霊符神の祠堂で、鎮宅霊符神像は安倍晴明の開眼といわれています。石炉に六芒星発見!これぞ晴明所縁の印??しかし、平成24年現在あるこの石炉は昔ももかが見たそれとは違って新しいのです。獅子狛犬の台座には日月星辰もあったりします。こちらにも五芒星が。寺宝には後水尾天皇所縁の品々が多いです。ももかは伊藤若冲の十二支印をついたお札が好きです。夜の雰囲気も素敵。
熊野神社衣笠分社
くまのじんじゃきぬがさぶんしゃ

住宅街にある近代的で変わった建物がそれです。コンクリート打放しという建築は、一時期流行りましたが、このお社が建ったのが昭和58年という事を考えてみると沿うような気もしないではないですね。天井のガラスに雲紋が施されているのが印象的でした。西大路七社巡りのお社として延命長寿を願う人達の崇敬を集めています。ご朱印にはやはり黒のヤタガラス♪
源光庵
げんこうあん 曹洞宗 山号/鷹峰山 本尊/釈迦如来

正式名は鷹峰山寶樹林源光庵。貞和2年、大徳寺の高僧である徹翁国師が隠居所として開き当時は復古堂と呼ばれていました。元禄7年、加賀大乗寺の卍山道白
(まんざんどうはく)が曹洞宗に改宗し再興。美しい造形美を見せている北山杉の参道の正面にはどっしりとした門。門の額には「復古禅林」とあり、源光庵の別名ともなっているのですが、此処には寺を改宗した道白の思いが感じられます。それを抜けると静かで落ち着きのある松が植えられています。ももか的にとても印象に残っている素敵な素敵な佇まいなのです。本堂には「迷いの窓」と「悟りの窓」があり、紅葉の時期には是非訪れたいところ。生から死までの悩みの世界を表しているのだといいます。天井は伏見桃山城の遺構で血天井。ところどころに人の足の形や指の跡が禍々しく染み込んでいます。ももかのおすすめ度120パーセント♪人少なの平日に訪れたいですね。平成26年秋JR東海のCMに登場。
玄武神社
げんぶじんじゃ 惟喬親王(844−897) 文徳天皇皇子

船岡山から徒歩10分位の住宅街にある惟喬親王を祀ったお社。元慶年間年間に親王の母方の末裔星野市正紀茂光が親王の御霊を慰め、王城北面の鎮護とこの地の守護神として創建。この折、紀名虎が蔵し親王が寵愛していた剣を御霊代として奉祀しました。「玄武」の名は王城北面の守護神からきています。昔は玄武の所縁の亀を境内で放育していた事から「亀宮」と呼ばれ、また親王の名から「惟喬社」とも呼ばれました。手水鉢には亀。小さなお社ですがとても美しいです。地元の方に大事にされているのですね。
光悦寺
こうえつじ 
日蓮宗 山号/大虚山 本尊/十界大曼荼羅

本阿弥光悦といえば作陶、書道、茶道に秀でた多彩多芸な人。元和元年、徳川家康によりこの地を拝領した事からここに移り住み、光悦没後に寺として改められました。「寺」の名を頂いているものの庭が有名な為かお寺という感じがしないというのが第一印象でしたが、御朱印はしっかり頂いております。境内には大正時代以降に建てられた7つの茶室があります。鳥の声、虫の羽音、風が葉を揺らす音。空山人を見ず、の人工の音のない空間を味わえる上に、その景観が良いんですよね。鷹峯三山(鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰)が素晴らしい。有名な光悦垣(またの名を臥牛垣)も必見。
敷地神社(わら天神宮)
しきちじんじゃ

わら天満宮、わら神社、はら帯の天神とも呼ばれます。元は北山天神丘にあり、北山の神として祀られていました。平安時代には天災の為、このお社に奉幣したとの記録が残っています。応永4年金閣寺造営の為に現在の地に遷されました。安産の神として信仰が篤いのです。小さなお社ですが、社殿が綺麗なんです。境内も美しく清められていて清々しい心持ちになります。さてこちらの名物はうぶ餅です。でもももかはまだ頂いた事がないんですよね〜。
地蔵院
じぞういん 浄土宗 山号/昆陽山 本尊/五劫思惟阿弥陀如来 通称/椿寺

神亀3年に聖武天皇の勅願により行基が摂津の昆陽池の畔に建立したのが始まり。平安時代に衣笠山の南に移転、その後焼失し足利義満によって再建。現在の地に移ったのは天正17年の事。通称となっている椿とは「五色八重散椿」に由来し、加藤清正が朝鮮出兵の折に蔚山城から持ち帰り豊臣秀吉に献上したもので、北野大茶会の縁からこのお寺に移したのだそうです。昭和58年に初代が枯れたものの、現在は二代目がその名を引き継いでいます。平成4年に韓国から要請があり、数本の孫木が海を渡りました。椿を楽しみたい方は春に行くべし。赤穂浪士を応援した天野屋利兵衛や夜半亭巴人のお墓があります。
常照寺
じょうしょうじ  日蓮宗 山号/寂光山 本尊/三寶像 通称/檀林の寺 吉野の寺

元和2年3月、本阿弥光悦の土地の寄進と子・光瑳の発願により、身延山久遠寺の日乾上人が創建した鷹峯檀林(学寮)の旧蹟。以来、松ヶ崎・求法院・東山・山科・鶏冠井と共に山城六檀林の一つとされてきました。常照講寺とも呼ばれ、文政期には200人もの僧が学んでいたといいます。「學室
(※旧字)」の扁額は光悦筆。常照寺といえば吉野太夫寄進の赤門で、これは寛永年間に2代目吉野太夫(松田徳子)所縁の遺構です。38歳で病没した太夫の墓や夫の豪商灰谷紹益(佐野重孝、本阿弥光悦の甥の子)との比翼塚もあります。
上善寺
じょうぜんじ
 浄土宗 山号/千松山 本尊/阿弥陀如来 京都六地蔵の一つ

正式名称は千松山遍照院。貞観5年天台密教の道場として千本今出川に創られたのが始まり。文明年間に再興、文禄3年この場所に移り、浄土宗に改められました。本尊は行基作といわれる阿弥陀仏坐像で、寛永11年に嵯峨今林蓮華清浄寺から移されたものです。こちらの地蔵尊は、小野篁さまが熱病を患い意識を失った折に出会った地蔵菩薩に請われて彫った六体の地蔵尊のうちの一つ。元々小幡の里に祀られていたのですが、保元年間に御菩薩池(深泥池)のほとりに移り、その後この寺に移されました。その為「深泥池地蔵」「鞍馬口地蔵」の呼称も。『都花月名所』に「庭中に紫藤玲瓏たり」とあって藤の名所として知られていました。門を抜けて目の前に飛び込んでくる黒松がとても立派なの。墓地の西側には元治元年の蛤御門の変の際に堺町御門で戦死した長州藩士の首塚があります。
正伝寺
しょうでんじ 臨済宗南禅寺派 山号/吉祥山 本尊/釈迦如来

正式名は吉祥山正伝護国禅寺で、鎌倉時代の創建。後に天台宗徒の迫害で堂宇が破却の憂き目にあうも弘安5年に現在の場所に再建。文明応仁の乱により復興、江戸時代に再建するも明治の廃仏毀釈により再び衰退。現在の姿になったのは昭和に入ってからです。最寄のバス停からは徒歩30分位でしょうか。歩いていくうちに住宅街が無くなって、山門に入ると鬱蒼とした林というか森が続きます。その静寂がまた恐ろしくて、人気がない不安と人がいたらどうしようという不安との葛藤の内にようやく視界が開けるという感じでした。つまりは1人では行かない方が良いのではないかと(^^;)。白壁の内側の獅子の児渡しの庭園は比叡山が借景となっています。忘れてはならないのが血天井。伏見城落城の折の自刃した人達の血が残る廊下の床板を天井板として使用し、その霊を弔う物です。鑑定の結果、人血に間違いないとの記録が残っています。平成8年秋のJR東海のCMに起用。この際には地元では「月の寺」として知られているこのお寺の別面を垣間見させてくれました♪
上品蓮台寺
じょうぼんれんだいじ 真言宗智山派 山号/蓮華金宝山 院号/九品三昧院 本尊/延命地蔵尊 通称/十二坊

船岡山の西側にあたり、葬送の地・蓮台野の墓守として建てられました。このお寺が面するのは蓮台野に続く千本通ですから、その位置が分かると思います。かつては千本通を挟んで塔頭が十二あった事から、「十二坊」とも呼ばれています。この辺りには妖怪土蜘蛛が棲んでいてそれを退治したのが源頼光。お寺の墓地には頼光のお墓という塚がありますが、この塚が土蜘蛛が潜伏していたものだという伝えがあります。因みに土蜘蛛塚は北野天満宮にもあります。国宝「絵因果経」を所蔵(京都国立博物館に寄託)。
神光院
じんこういん
 真言宗醍醐派 山号/放光山 本尊/弘法大師像(厄除け大師) 通称/西賀茂の弘法さん 京都三弘法の一つ

建保5年弘法大師により創建と伝えられています。上賀茂神社神主の賀茂(松下)能久が「霊光の照らした場所に寺を建立せよ」との神託を受け、この地に建てたのが始まりといわれており、寺名はここからきています。密教の道場として栄え、天保年間に堂宇を焼失するも復興。幕末の廃仏毀釈で廃寺となりましたが明治11年に再興。幕末の女流歌人・大田垣蓮月所縁のお寺でもあります。東寺・仁和寺と並んで「京都三弘法」の一つ。本堂の左手にはキウリ塚があります。病を胡瓜に封じ込めるキウリ加持も行われているそうです。境内は静かそのもの。
真如寺
しんにょじ 相国寺山外塔頭 臨済宗相国寺派 山号/萬年山 本尊/宝冠釈迦如来

鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)と並ぶ相国寺山外塔頭寺院の一つ。通常非公開。入口の参道は松と苔生した雰囲気が絶妙。大雄殿に続く参道には松の木が交差していて、山門のよう。これは自然にこの形になったのだとお寺の方に教えていただきました。ご本尊は宝冠釈迦如来です。光背がものすごく綺麗で感激!弘安9年安達泰盛の娘・如大尼(千代野)が無学祖元の塔所として正脈庵と呼ばれる庵を築いたのが始まりと言われています。暦応3年、高師直が庵を東側に移して寺院として整備し、真如寺と名づけられました。大雄殿の中に「高師直」の文字があって、心が踊りましたよ。室町時代は幕府の保護を受け延文3年には足利尊氏の葬儀を執り行うなど、十刹としても等持寺や臨川寺等と共に高位に位置づけられたお寺でしたが、寛正2年に焼失。応仁の乱を経て衰退してからは廃寺同様になってしまいました。後、明暦2年に後水尾上皇により再興し現在に至ります。第50回「京の冬の旅」で初公開。この時初めて師直さんの位牌を拝することができました♪贔屓像も可愛かったです。5月の「半僧坊大権現御開帳」には、厄除け肩たたきが行われ賑わうそうです。
大将軍神社(角社)
たいしょうぐんじんじゃ

西賀茂にあり、元はこの地の産土神でした。平安京の北西角に鎮座している事から「角社」「須実社」ともいい、北方を守護しています。創建の由来ははっきりしていませんが、平安遷都の際桓武天皇が京の四隅に祀った大将軍社のうちの一つとして考えて良いでしょう。住宅街の中にありますが、割と分かりやすかったです。実は北の大将軍社はもう一つあるのです。でも機会がないとなかなか行けそうもない場所なんですよね・・・。
大徳寺
だいとくじ 臨済宗大徳寺派大本山 山号/龍寶山 本尊/釈迦如来

正式名は大徳禅寺。鎌倉末期の元応元年に大澄国師が小庵を開いたのが始まりです。臨済宗のお寺で塔頭の多くが茶室を持ち俗に「大徳寺の茶面」といわれます。応仁・文明の乱で焼失の後、文明6年に一休和尚による再興がなされました。此処にある三門は金毛門(金毛閣)とも呼ばれ、楼上に千利休が自らの木像を置いた事が豊臣秀吉の怒りを買い、切腹に追い込まれたのは有名なお話です。


■■黄梅院■
おうばいいん 大徳寺塔頭 大徳寺南派 本尊/釈迦如来
非公開文化財。平成10年初夏JR東海のCMに登場。「昨夢軒」という武野紹鴎好みの素敵な名前の茶室があるのですが、「そこは四畳半の喫茶店でした」というフレーズで紹介されていましたよね♪小早川隆景や毛利さんのお墓もあります。本堂は織田信長の命を受けた豊臣秀吉建立のもの。

■■玉林院■
ぎょくりんいん 大徳寺塔頭 大徳寺北派 本尊/釈迦如来 
通常非公開。慶長8年創建。しかし元和7年頃火災により焼失し、片桐且元や豪商鴻池了瑛らにより再興。後、明治の廃仏毀釈の折に本堂東大廊下と庫裏が取り壊されますが、平成21年半解体工事が終了し廊下が元の形に再現されると共に屋根が桧皮に葺き替えられました。創建当初は正琳庵と称していましたが「琳」の字を「玉」と「林」に分けて玉林院に改めたといいます。鴻池家の祖が山中鹿之助の為、彼の位牌を祀る南明庵が建っています。螺鈿細工が素晴らしいの。茶室も素晴らしい。「すさ壁」をめぐらせた「蓑庵
さあん」はしっとりとした雰囲気。「霞床席かすみどこせき」は違い棚を霞に見立て、富士山の軸を置く。その趣向が素晴らしいです。障子の御所張りも良かったです。片桐且元、佐竹義宣、有馬豊氏、曲直瀬玉琳、山中鹿之助のお墓がありますが、檀家さん以外は入れないそうなので遠くから参拝しました。お庭から片桐家の墓石が見えるのです。

■■高桐院■こうとういん 大徳寺塔頭 大徳寺北派 本尊/釈迦如来
平成8年秋JR東海のCMに散紅葉が紹介されました。参拝客の中には「ほら、CMの」という言葉も何回か聞かれた程でこのCM効果がいかばかりであったかを知りました♪紅葉の敷石道はさすがに美しいのですが夏も青々としていて素敵♪此処は慶長16年に細川忠興が創建しました。松向軒の名の茶室があります。苔生した庭園が廊下の赤い敷物と建物の黒茶の色合いに程良く溶け込んで素晴らしいのです。大徳寺にある16の塔頭(非公開含む)の内ももかが訪れた中では、この庭が特にお気に入りです。また細川忠興(三斎)と正室で明智光秀の娘たまこと細川ガラシャ夫人のお墓もあります。この灯篭墓石は元々千利休秘蔵の天下一といわれた灯篭でした。利休は豊臣秀吉と忠興に請われ、利休はわざと裏面を欠き秀吉の要請を退けたのだそうです。利休割腹の際に忠興に贈られました。無双、欠灯篭ともいい、後に忠興自身がこれを更に欠いたとの記録が残っています。忠興さんてば几帳面だから〜(笑)。他に歌舞伎踊りの名手・名古屋山三郎(!)、出雲阿国のお墓もあります。


■■興臨院■
こうりんいん 大徳寺塔頭 大徳寺南派 本尊/釈迦如来
非公開文化財。太永年中に畠山義総によって創建され、以来畠山氏の菩提寺となりました。畠山氏が没落すると天正9年以後は前田家の菩提寺となりました。茶室や庭園があり、ゆったりと過ごせる雰囲気を持ち合わせています。茶室は涵虚亭(かんきょてい)、古田織部好み。


■■瑞峰院■
ずいほういん 大徳寺塔頭 大徳寺南派 本尊/大満国師像 
キリシタン大名として有名な大友宗麟が天文4年に創建。開祖は上杉謙信が長尾景虎さまと呼ばれし頃、禅の指導をした徹岫禅師です。おおっ。宗麟の名・瑞峯院殿瑞峯宗麟居士が寺号となっています。庭が有名で、方丈前の独坐庭、方丈裏の閑眠庭があります。特に閑眠庭はキリシタン大名で知られる宗麟所縁というのでしょうか、石の流れが十字に組まれているところが特長です。

■■聚光院■じゅこういん 大徳寺塔頭 大徳寺北派 本尊/釈迦如来
非公開文化財。永禄9年三好長慶の菩提を弔う為に創建。名は三好長慶の法名「聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門」からきています。三千家の墓所としても有名で元は船岡山にあった千利休の供養塔(墓)があります。方丈の襖絵は狩野永徳・松永。千利休自害の場ともいわれる閑隠席という茶室もあります。庭園は苔生した様子がとても綺麗です。

■■真珠庵■しんじゅあん 大徳寺塔頭 本尊/一休禅師像像
非公開文化財。永享年間に一休宗純禅師により創建。応仁の乱で焼失後、その意思を継いだ堺の豪商尾和宗臨や墨齋禅師などにより延徳3年に再興されました。この素敵な名称の由来は、中国北宋の高僧・楊岐方会の故事をひいています。方会が
楊岐山の破れ寺で座禅をしていた雪の降る夜、部屋の中に雪が舞い込んできました。その時に床に積もった雪が月の光に照らされて真珠のように輝いたのだそうです。雪月花を思わせる美しい話ですよね。曽我蛇足や長谷川等伯の襖絵もあります。村田珠光が作ったとされる七五三の庭は、予想していたよりも可憐で素朴。茶室としては金森宗和好みの庭玉軒がありますが、雪国出身の宗和ならではの工夫があったりします。他に修行の一つであった洗濯物を干していた竿などが当たり前のように存在しています。平成22年秋の特別公開を前に、日本画家高橋玄輝が描いた一休禅師の肖像画がアライグマに齧られるという珍事があり、その新聞記事と合わせての公開となりました。その初日、実はももかも拝観しています(笑)。

■■総見院■そうけんいん 大徳寺塔頭 大徳寺北派  本尊/織田信長坐像 
非公開文化財。織田信長の菩提寺で、本能寺の変の1年後の天正11年に豊臣秀吉が信長一周忌に間に合うように造らせたのがこのお寺です。境内庫裏にある侘助椿は日本最古のもので、樹齢約400年といわれ秀吉遺愛のものといわれています。織田信長夫妻のお墓もあります。松が至る所に植えられていました。確か大河ドラマ『信長』を製作する時に信長の正室濃姫の名前が帰蝶だったというのは、このお寺が明かしたんでしたよね。

■■大仙院■だいせんいん 大徳寺塔頭 大徳寺北派本庵 本尊/釈迦如来
永正6年創建。有名な透渡殿のある庭もこの時に造られました。この調和が美しいんですよね〜♪白壁と木の色と白砂利、石の色が。この透渡殿はお寺では「人生の壁」と呼ばれているそうです。千利休との繋がりの深いこの寺には鴨の河原から利休の首を持ち帰った三世古渓和尚という人もいました。また七世沢庵和尚は宮本武蔵に剣の極意を授けたのだとか。それが書院・拾雲軒です。平成11年冬のJR東海のCMに登場。

■■芳春院■ほうしゅんいん 大徳寺塔頭 大徳寺北派  本尊/釈迦如来 
非公開文化財。慶長13年に加賀前田藩の前田利家の正室・まつ(芳春院)が、玉室宗珀を開祖として建立。以後前田家の菩提寺となっています。長らく公開はされていませんでしたが平成14年度大河ドラマ『利家とまつ』にあやかって限定期間で公開。京都の四閣として有名な呑湖閣の造りが素敵でした♪以来、期間を設けて公開されるようになりました。

■■本坊■ほんぼう
非公開文化財。大灯国師が正和4年に創建。方丈は国宝で、襖絵には狩野探幽40歳の作品『四季花鳥図』が。此処の縁に座って庭を見たという事は国宝に座ってきたという事になるのよね。唐門は聚楽第から移されたものです。

■■龍源院■りょうげんいん 大徳寺塔頭 大徳寺南派本庵  本尊/釈迦如来
大徳寺の中で最も古いお寺で畠山義元、大友義長によって創建。明治維新によって住吉神社(現・大阪)にあった慈恩寺と大徳寺内にあった金竜院が合併しました。「竜の図」の襖絵や庭が有名。方丈前庭「一枝坦」では蓬莱山や亀島があって枯山水の美が凝縮〜♪白砂利とのコントラストが格別です。方丈北庭「竜吟庭」は杉苔が鬱蒼としていて海原を表現。白砂利の庭を見た後ではそれがまた素晴らしいのです。これがこの寺をして別名を「洛北の苔寺」と言わせる所以になっています。方丈東にある壷庭「東滴壷」は日本で最も小さな壷庭なのだとか。また紫式部御手植えといわれる山茶花もあります。鈴木松年画の僧形の狐さん(白蔵主)は修行中の身で、不思議な因縁でこのお寺にやってきたのだそうですよ。
建勲神社
たけいさおじんじゃ 通称/けんくんじんじゃ

明治天皇により創建された織田信長を祀るお社です。船岡山にお社が建てられた由来は、信長を悼んでこの地にお寺を建てようとした豊臣秀吉が果たせずに終わった事から。通称は「けんくん」と読みバス停も「けんくん神社前」ですが、正式には「たけいさお」といいます。境内には『敦盛』の碑があります。信長といえば「幸若舞」の「人間五十年〜」ですわよ♪でも此処の碑は「化天」ではなくて「下天」なのでした☆という事は出典は『信長公記』?夕暮れ時に訪れたのですが、烏の鳴き声がいやに物寂しかったのが印象的でしたね。でも喧騒から離れての別天地みたいでもありました。
天寧寺
てんねいじ 曹洞宗 山号/萬松山 本尊/釈迦如来 

「額縁門」「額縁の門」として知られるお寺。門を額縁に見立て、比叡山を借景にした風景が現れます。お天気が良い日に立ち寄るのがお勧めです。天正年間に楠木正成の八男であると伝えられる
傑堂能勝和尚が会津城下に創建。天正14年の伊達政宗が会津に侵入した天正の変の折、焼失。後に十世住職職祥山雲吉和尚と弟子元室光吉和尚(後の佛心圓融禅師)は焼け残った本尊や法宝などを収集し、京都寺町頭天台宗休憩法師松蔭坊の遺跡を継いで萬松山天寧寺を復興。京都との縁はこの時に始まります。天明8年の大火により焼失、のち再建。本尊は釈迦如来で仏師春日作と伝えられています。観音堂には後水尾天皇の「十一面観音菩薩」と東福門院の念持仏「薬師如来」を安置。皇室所縁故か、瓦には菊紋を見る事が出来ます。墓地には茶人金森宗和、剣道示現流(自源流)開祖といわれる善吉和尚のお墓があります。この辺りは観光客も殆どいなくて静か。
等持院
とうじいん 臨済宗天龍寺派 山号/萬年山 本尊/釈迦如来 足利尊氏(1305−1358)

暦応4年に室町将軍足利尊氏が天龍寺の夢窓国師に請い創建。これが北等持寺で尊氏の死後にその墓所とされ等持院と改名されました。後に室町幕府の近くにあった等持寺(暦応2年創建)もこの場所に移転し、足利将軍家代々の菩提所となりました。幾度かの火災の為に焼失しましたが再建もされ現在に至ります。現在の方丈は元和2年に妙心寺海福院から福島正則が移したもの。海福院に立ち寄った時にこのお話を聞きましたよ。面白い縁だと思いましたもの。庭園も素晴らしく四季折々の花が楽しめますが、借景庭園の悲しさか衣笠山麓の開発が進むとこの風景は変わっていく事が懸念されるようです。方丈の北東に延文3年に建てられた足利尊氏の石塔がある他、代々の将軍の遺髪塔などもあります。歴代将軍の木像が安置され、顔立ちを比べて見るのも楽しいですよ。家康の木像もあります。此処で注目したいのは建物全体に飛び交う足利家の紋「二ッ引両」でしょう。これでもかというくらいあるのです。

■■等持院墓地とうじいんぼち
マキノ省三先生が眠っておられるのは有名ですが、立命館側の墓地には坂本龍馬に影響を与えたという河田小龍先生が!真夏の京都で小龍先生に会った感動といったら♪他にも様々な方のお墓がありますよ。
二条天皇香隆寺御陵
にじょうてんのうこうりゅうじのみささぎ 第78代二条天皇(1143−1165、在位1158−1165) 後白河天皇皇子

後白河天皇と贈皇太后懿子(藤原経実の娘、源有仁の養女)との間の第1皇子で、生母が急死した為、幼い時に祖父・鳥羽天皇の皇后となった美福門院得子の養子となりました。名は守仁。平安末期の源平相争う時代に生まれ、皇位継承からは遠い僧籍にあったにも関わらず還俗し立太子、美福門院の皇女妹内親王を妃(中宮)に迎えます。父・後白河天皇の譲位を受けて即位したのは保元3年。「末の世の賢王」と呼ばれた程の賢帝であり、美貌でもあったといいます。院政を引かんとする後白河院とは対立をし、その関係は修復される事なく、若くして亡くなりました。住宅街の中にあって両脇に松の木が植えられた参道から御陵へと向かいます。二条院で崩御した天皇は香隆寺の北で荼毘にふされました。中世に山陵の所在が失われ、明治22年に現在の地に御陵が営まれました。
平野神社
ひらのじんじゃ

延暦13年平安遷都の際、桓武天皇の命により大和国から今木神・久度神・古開神・比賣神の四柱を勧請したのが始まり。比賣神とは桓武天皇の生母・高野新笠を示しています。今木神は「新しく来た=帰化人」の意味で高野新笠の遠祖百済国王聖明王の事とも。平安中期以後は22社中の5位に位置し、また源・平・高階・大枝・清原・中原・菅原・秋篠の8氏の祖神として崇められてきました。寛和元年以来桜の名所として有名で夜桜に至っては「平野の夜桜」と称される程です。ももかも春の平野さんに行ってみたいです(笑)。冬は寒桜が可憐に咲いておりました。
船岡山
ふなおかやま

清少納言曰く「岡は船岡」なのだそうで、その名の通り船の形をしている小山。平安京大極殿の真北に位置し、桓武天皇は平安遷都の際に京を守護する霊獣玄武の棲家にここを定めました。山頂には磐座があり神が祀られていました。応仁の乱には西軍の山名宗全の陣が敷かれたところでもあります。中腹には明治になって創建された建勲神社があります。静かな場所で喧騒を忘れてしまいそう。でも夕暮れ時はちょっと怖いかな。一度はここで寿ぎをして平安京を愛で桓武天皇になった気分に浸るのも楽しいですよ♪
深泥池
みぞろがいけ、みどろがいけ

雨水と地下水で出来た自然の池で、この名は池の底に積もった泥の深さから名付けられました。最大水深は約2メートルとの事ですが、泥炭層は10数メートルもの量で堆積しているそうです。その深さは約3メートルとも。池には浮島がプカプカと浮いていて一見その多さから浮島とは分からない程。歴史がありますものね。地下鉄の北山駅からも歩いて行ける距離にあり、思っていたよりも開けた場所に存在していました。深泥池というと鞍馬口にある上善寺の地蔵を連想します。元々この地蔵は池の北西に祀られていた事から深泥池地蔵の別名を持っているんですよね。また伝説というと節分行事の始まりともいわれる豆塚伝説もあって、現在も何かしら不思議が一杯の池のようです。京都料理に使われるジュンサイの群生地でもありますね。
鹿苑寺 (金閣寺)
ろくおんじ
 (きんかくじ)
 相国寺山外塔頭 臨済宗相国寺派別格本山 山号/北山(ほくざん) 本尊/観音菩薩 京の三閣の一つ 世界文化遺産

金閣寺は正式名称鹿苑寺といい、応永4年に足利三代将軍義満が造った山荘北山殿が始まり。義満の法号・鹿苑院殿からその名がつけられています。有名な舎利殿(金閣)は三層の楼閣構造となっていて昭和25年に同寺の一僧により焼失、同30年に再建され同62年に金箔の張替えと天井画・義満像を復元しました。池に写るその姿には圧倒されるものが。この庭については義満よりもずっと前から此処に存在していました。それというのも藤原定家の『明月記』で彼が絶賛している文が出てくるからなんですよ。鎌倉時代には既にこの庭があった訳ですが、それを義満の時代に踏襲したのか、変化したのか、それとも復元したのかは分かっていません。個人的には晴れた秋の紅葉の頃がおすすめですが、修学旅行生や観光客も多く、なるべくならそれとぶつからないようにしたいもの。そういえば野村萬斎さまが此処で狂言をなさった事がありましたよね。平成6年冬・平成15年冬のJR東海のCMに登場。

■■不動堂■ふどうどう 本尊/石不動明王
節分の日と大文字の送り火の日のみ一般公開される不動堂は、不動明王像を安置する石室の礼堂として建立されたといいます。寺内で最も古い建物といわれ、天正年間に宇喜多秀家により再建。石に彫られたお不動様は164センチ。薄暗い石室の中は神秘的な雰囲気ですよ。

■■方丈■ほうじょう
普段非公開。応仁の乱の影響はこの金閣寺にもありました。方丈は延宝6年に再建され、聖観世音菩薩を中心に梵天、帝釈天、開山夢想国師、中興文雅和尚、そして足利義満の像を祀っています。江戸時代に作庭されたといわれる庭園には御水尾天皇御手植えの侘介椿が。また、北にある見事な松は、京都三松の一つで「陸舟の松」と呼ばれ足利義満が植えたものといわれています。平成17年から2年半の間に創建以来はじめての解体修理が行なわれました。所々、古い木材を残しつつも後代に伝える為に新しく柱が整えられるなど、以前と少し変わっています。杉戸の絵はこの折、石踊達哉氏と森田りえ子氏により描かれました。
六請神社
ろくしょうじんじゃ

伊勢、岩清水、賀茂、松雄、稲荷、春日の六大神を祭神とする神社で、古くは「衣笠御霊」「衣笠岳御霊戸」とも呼ばれていたお社。等持院が創られてからはその鎮守社として境内にあったそうですが、明治以降現在の地に移されました。といっても等持院のすぐ側ですけれども。こじんまりとした神社です。



京大路をそぞろ歩き
一和(一文字屋和輔)いちわ (いちもんじやわすけ)

今宮神社の門を出て東にあるあぶり餅
のお店。長保2年の創業。ちょうど藤原道長の娘彰子が一条天皇の中宮となった年なのです。15本くらいのあぶり餅はお持ち帰りも出来ますが、やはり参拝した後一服かねて此処で食べちゃうのが美味しい♪白味噌の絶妙な味が何ともいえません。
神馬堂じんばどう

創業は明治初期という上賀茂神社の側にあるやきもち
が有名なお店。薄い餅皮に餡が包まれて、その餡の甘さが微妙に良いのです。焼きたてのホヤホヤも美味なの〜。大田神社に杜若を見に行った時にも境内に臨時売店が出来ていました。
マールブランシュ北山本店まーるぶらんしゅきたやまほんてん

植物園近く。
関西でモンブランの美味しい店といったら「マールブランシュ」でしょうか。マールブランシュとは17世紀に愛を語った哲学者からきた名前なのだとか。昭和57年に開店。お洒落な雰囲気のお店で早速頂いたのは北山店にしかないというメニューから。その名も
燃える氷山(ベイクドアラスカ)。さとうきびから作ったお酒でフランベして頂くのですが、目の前でお話を聞きながらフランベしていただけるの。照明まで落としてくれて「燃えてますね〜v v」とももかは大喜びでした。中身はアイスクリームで、これもお酒が入っていてほんのり良い感じ。でもお酒が苦手なももかにはちょっと強すぎてすっかり酔っ払ってしまい、復活するまでが大変でした(笑)。

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