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永代の京
〜京都市・南区編〜

綾戸國中神社
あやとくになかじんじゃ

向かって左が綾戸社、右が國中宮です。綾戸社は、元は大堰川(桂川)七瀬の祓神として大井社と言っていました。天暦9年に綾戸社に改称。現在の社号の額は後冷泉天皇の御宸筆と伝えられています。國中社は、素戔嗚尊が訓世(久世)の里がまだ湖水だった頃に降臨、地を平野とされその國の中心と思われる場所に「符」を遣わした事が由縁です。その「符」とは素戔嗚尊の愛馬「天幸駒」の頭を自ら彫刻したもので、新羅に渡海される前に形見として遣わしたといいます。こちらが國中社の御神体なのです。祇園祭には八坂神社から離れたこの綾戸國中神社も関わりがあり、「久世駒形稚児」の社参などの神事があるのですが、これは國中社は素戔嗚尊の荒御魂であり、八坂神社(祇園社)がその和御魂であって、「一体にして二神、二神にして一体で神秘の極みなり」とあり、7月17日の御神幸に久世駒形稚児の到着がなければ御神輿は社から一歩も動かすことはならず、滞りがあった時は障りがあるとされています。本来は蔵王の杜に社地があり、牛頭天皇社とも呼ばれていました。
戦国時代に綾戸社の境内に國中社が移され、以来二社が合祀されるに至り綾戸國中神社を称しています。昭和39年の東海道新幹線開通の折に東に移転。開通にあたり唯一、移転を余儀なくされた神社なのだそうです。その為か、新幹線高架を挟んで西側に社務所があります。平成26年現在は併設の薬局の方々(兼務の神職さん?)が授与品等を対応。平成26年午年限定の御朱印もこちらでいただきました。JR桂川駅が平成20年に開業、お社の最寄となった為、歩いても10分〜15分程度となりお詣りしやすくなりました。
宇賀神社
うがじんじゃ

宇賀之御魂神と天照皇太神を祀っています。藤原鎌足がこの地を遊猟している時に金印を見つけ、後に此処に京が遷され子孫が繁栄する事を予知してそれを埋めたと伝えられています。その跡が宇賀塚といってこのお社の始まりなのだとか。流石鎌足、先見の明はその生まれながらの勘にあるらしい(笑)。恐るべし!余り知られていないようなお社ですが、実に堂々とした風格があります。
吉祥院天満宮/吉祥天女社(吉祥院)
きっしょういんてんまんぐう/きっしょうてんにょしゃ

承平4年朱雀天皇の勅命により菅原道真誕生の地に建てられた最初の天満宮。所縁の産湯の井や胞衣塚があります。元々この辺りは平安京遷都時に菅原氏が拝領した地で当時は白井庄と呼ばれ、それ故に周囲には菅氏所縁の史跡が点在しています。天皇の覚えもめでたく栄えたといいますが、天正18年に豊臣秀吉の家臣と天満宮神領民との間に諍いがあった事が発端となって神領や八講料が没収されてしまい、以降衰退していったようです。因みに吉祥(院)とは吉祥天女からきています。菅原道真の祖父清公が遣唐使として渡航中に暴風の為転覆をしかけ、最澄と共に吉祥天女に祈ったところ海は平安になったといい、帰国の後自ら天女の像を刻んだのだとか。境内の吉祥天女社がそれで、幾多の戦乱の歴史の中焼失する事を恐れた人々は土中に埋めては掘り起こし現在まで伝えているのだそうです。大同3年の建立なので天満宮よりも古い歴史があります。吉祥院天満宮前の市バスは本数が多くありませんので、歩きましょう。今度ももかがお詣りする時は、JR西大路駅から歩きたいと思います。徒歩15分という事なのでその方が良いと思う・・・。
教王護国寺東寺)
きょうおうごこくじ (とうじ)  真言宗東寺葉(東寺真言宗)総本山 山号/八幡山 本尊/薬師如来

正式名称は教王護国寺または金光明四天王教王護国寺秘密伝法院、正式名別称を弥勒八幡山総持普賢院。
延暦13年平安遷都の際に国家鎮護の為、羅城門を挟んで朱雀大路の東に建てられました。その場所から「東寺」とも「左寺」「左大寺」とも呼ばれ、現在は「東寺」の名で知られています。弘法大師が別当に補せられてから真言密教の道場となり延暦寺と並んで顕密二教といわれました。何と国宝の数は73点。講堂の帝釈天像はその美しさから「日本一ハンサムな仏像」の異名があります♪毎月21日に開かれる「弘法さん」という骨董市では掘り出し物があるかも。「弘法さん」には一度行った事があるんですが、本当に賑やかなんですよね。平成7年冬・平成12年冬・平成19年初夏のJR東海のCMに登場。宝物殿の兜跋毘沙門天立像はその美しさと腰の捻りがなんとも優艶で勇ましく悩ましいです。ももかのイチオシ。また東寺を囲む白壁の東南角は「猫の曲がり」と呼ばれています。築地の留蓋として置かれていた白虎像の顔が猫に見えたからとも、捨て猫置き場だったとも諸説あります。新田義貞と足利尊氏が対峙した逸話なども残り、京都を代表するお寺ですね。

■■小子房■
こしぼう
普段非公開。真言宗最高の秘儀行事であり、平安時代から宮中で行われた「後七日御修法」の儀式を執り行う為に使われています。昭和9年弘法大師千百年遠忌にあたり再建されたもの。庭は7代目小川治兵衛、内部六間の襖絵は堂本印象が描いています。国宝の蓮華門は不開門でもあります。公開時には牡丹の間・瓜の間・枇杷の間・鷲の間・雛鶏の間、そして勅使の間と見ていきます。後宇多天皇が好きだったという瓜(西瓜)は、丸みを帯びて美味しそう。勅使門を潜って初めて目にする鷲の間の鷲は宮本武蔵のそれを模しているとも。襖の取っ手は鈷を組み合わせた意匠で、こちらも堂本印象デザインのもの。勅使の間は色鮮やかな襖絵が描かれていますが、此処を使うのは1月のほんの僅かな期間だけなのだとか。

■■五重塔■ごじゅうのとう
京では唯一の高さを誇り、55メートル。普段は非公開です。元慶7年の竣工から焼失と再建を繰り返し、現在の塔は寛永21年再建の五代目にあたります。初層内部は心柱を大日如来に見立て、周囲の須弥壇上に阿シュク如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の金剛界四仏と八大菩薩を安置。この心柱は、彩色がずれています。その理由は重さにより心柱が屋根をつきあげてしまい、それを直す為に元禄5年に一尺五寸を切り下げた為。須弥壇下から見る(普段は見られません)と、切り取られた部分の生々しさと、深く沈み込んでいる彩色部分がよく分かります。四方の柱には寺院では欠かせない竜が描かれています。剥落が多いとはいえ、内部の豪華さと神秘的なこと♪

■■観智院■かんちいん 東寺塔頭(別格本山) 真言宗勧学院 本尊/五大虚空蔵菩薩
東寺第一の塔頭で普段は非公開。弘文4年に建てられました。本尊の五大虚空蔵菩薩像は唐からの請来像で、青龍寺の本尊だったといわれています。何といっても感動したのはその石庭「五大の庭」ですね。青砂は海原を表し、弘法さんの渡航の形を描いたもの。白砂による枯山水が多い京都の庭にあってこの砂の青さが忘れられません。客殿は文禄の大地震で倒壊し、慶長10年の再建です。そして床の間には隠棲中の宮本武蔵が描いたとされる「鷲の図」と「竹林図」があります。仏殿の縁は竹林を表した珍しい板敷なのでこちらも注目したいところ。足の裏の感覚がちょっと違って感じられますよ。
鎌達稲荷神社
けんたついなりじんじゃ

和銅年間に鎮座。社殿は元和6年再築、嘉永3年改築、安永4年に新社造立との記録が残っています。荒神様、奇跡の神様、勝負運を招く神様として信仰され、元は安倍晴明の子孫・土御門家の邸宅にあったものです。そういえばJR線を越えて北上すれば土御門家の土地なのでした。小さいお社ですが、整然と整備されています。
恋塚浄禅寺 鳥羽地蔵)
こいづかじょうぜんじ 浄土宗西山禅林寺派 山号/恵光山 本尊/阿弥陀如来 六地蔵巡りの一つ

またの名を恋塚、鳥羽地蔵。
小野篁さまが彫った六体の地蔵尊の内の一体を安置していて、京都六地蔵巡りの一つでもあります。『源平盛衰記』などでも知られる袈裟御前と遠藤盛遠(後の文覚)との悲恋物語からこの別名があるのですが、宝篋印塔の各部分を寄せ集めた恋塚も見る事が出来ます。袈裟御前の菩提を弔う為、文覚上人が創建したと伝えられますが詳しい事は分かっていません。江戸中期に焼失、天保年間に再建。そういえばこの鳥羽には「赤池」という地名が残る場所があります。実はここは袈裟の首を斬った盛遠の刀を洗ったところからきているのだそうですよ。ひっそりとしていましたが、綺麗に整備されていました。
西寺址
さいじあと

平安京表門である羅城門を挟んで東西に建てられた西側のお寺で、西寺とも西大寺とも呼ばれていました。東寺が真言密教の道場として発展していったのに対してこちらは鎮護国家の寺として歴史を歩んできましたが、徐々に勢力を失い天福元年に五重の塔が焼失。その後再建される事はありませんでした。弘法大師の師である勧操や弘法大師と神泉苑で雨乞いを競った守敏僧都などは此処の出身です。唐橋西寺公園の真ん中に丘があってそこに「史跡西寺址」の碑が建っています。また、西寺の遺構として東福寺の殿鐘楼(現在は収蔵庫に収蔵)には銅鐘が伝わっています。
西福寺
さいふくじ 浄土宗 

普段非公開。平安初期、空海により創建されたと伝えられます。空海自作といわれる安産石薬師如来があります。
綜藝種智院蹟 (綜藝種智院跡 天長五年空海大僧都草創)
しゅげいちいんあと

西福寺に昭和3年に建立された碑がありますが、実際には九条弘道小学校附近にあったとされています。天長5年12月15日に空海が藤原三守の左京九条にあった二町におよぶ地所と五間の屋敷を譲り受け、庶民の子弟が学ぶ為の私学校を設立しました。これが綜藝種智院です。綜藝とは各種の学芸を綜合するという意味で、真言密教の経典である大日経の「初めには阿闍梨、衆芸を兼ね綜(す)ぶ」と大般若経の「一切種智を以て一切法を知る」からきています。天長5年末から空海没後に売却される承和12年までの約20年程の間に存在していたと考えられていますが、廃絶の理由は分かっていません。明治14年、この校名とその精神にもとづき釈雲照により「総黌」が東寺の境内に設立され、真言僧を育成する教育機関として「綜芸種智院」が再興。後に伏見区に移転するも現在に至ります。
城興寺
じょうこうじ 真言宗泉涌寺派 山号/瑞寶山 本尊/千手観音

成興寺ともいいます。藤原道長の孫・藤原信長は藤原氏の持つ広大な地に彼の邸宅九条殿(九条堂、九条院)を構えました。三代後の関白藤原忠実がこの地を伝領、永久元年城興寺を建立しました。寺領は平安時代末期には後白河天皇の皇子高倉宮以仁王に伝えられていましたが、治承3年平家によって取り上げられていた事から、これが後の以仁王の令旨の原因の一つとされているそうです。寺は以仁王の子・真性が受け継ぎましたが、後に比叡山不動院の管理下におかれていたといいます。現在は真言宗泉涌寺派の小さなお寺です。本尊千手観世音菩薩は、慈覚大師円仁が承和五年、遣唐使の一員として入唐した時に無事の帰朝を念じて船中で造作した観音様。小指御籤・写仏写経なども出来るお寺としても知られています。境内の薬院社は施薬院に由来し施薬院稲荷として崇敬されてきたもの。文久2年焼失後再建されますが、辻堂廃止令により明治11年城興寺陀枳尼天堂に合祀。
11月3日の御火焚き祭には護摩の残り火を歩く火渡りも行われます。
平重衡受戒之地碑
たいらのしげひらじゅかいのちひ

京都駅八条口から歩いてすぐの公益社南ブライトホールの植え込みの中にある石碑は、平成23年建立。割と新しいのです。平重衡は清盛の5男で二位殿平時子を母に持ち、源平合戦の際に、南都の興福寺や東大寺を焼き討ちした事で知られています。石碑は藤原家成卿の八条堀川邸内の御堂があったとする場所にあり、一の谷の戦いで生け捕りとなった重衡が京を引き回された後に此処で法然上人に戒(浄土教の至極)を授けられたと伝えられます。重衡はまもなく南都へ送られ佛を焼いた罪で佛徒の手により命を絶たれる事となるのですが・・・。
伏見稲荷大社御旅所
ふしみいなりたいしゃおたびしょ

イオンモールKYOTO近くにあり、京都駅八条口からも徒歩10分程度。伏見稲荷社の御旅所は油小路七条と八条坊門猪熊の2箇所にありましたが、豊臣秀吉が一つに合わせてこの地に移したといいます。境内は割と広くて、鳥居正面奥には田中社・上社・中社・下社・四之大神の5基の神輿が入る奉安殿があります。存在感というか重圧を感じますよ。実は東寺の鎮守社でもあり、平安初期の古き昔から大きな関わりがありました。東寺の五重塔を作る際に、稲荷山の大木を伐採。これが稲荷神の怒りをかい、嵯峨天皇は病に陥ってしまいます。その非を詫びて朝廷は伏見稲荷社に神階を贈ったのだとか。
矢取地蔵尊
やとりじぞうそん 本尊/矢取地蔵

羅城門遺址のすぐ側にあるお地蔵さん。東寺は弘法大師に、そして西寺は守敏僧都に渡ったのですが、2人は日頃から仲が悪かったのだそうです。ある時守僧都が空海を妬んで矢を射ったところ、地蔵尊が身代わりとなったのだとか。これが由来で矢負地蔵の別名の如く背に傷があるそうですよ。因みに唐橋平垣町にあるに西寺門前には「守敏塚」の碑があるそうです。地蔵堂は明治18年唐橋村(八条村)の人々により建立。昭和初期の九条通拡張工事の折に出てきた地蔵を周囲に鎮座。
羅城門遺址
じょうもんいし

平安京の入口・羅城門は京と異界とを分け、内裏まで開いていたという実在の門。平安京の正門にあたる二階建ての巨大楼閣門で、造営中に視察に来た桓武天皇が「門を1尺切り詰めよ」という注文をしたのに対し威容を損なうとして大工が5寸しか縮ませなかった為、弘仁7年8月16日に大風により倒壊。再建後、天元3年7月9日にやはり暴風雨により倒壊し、その後は礎石を残すのみで再建される事はありませんでした。恐れ多くも藤原道長は法成寺を造る時にこの礎石も使ったという記録が藤原実資の『小右記』に残っています。一般には「らせいもん」「らいせいもん」と呼ばれ、後に「らいしょうもん」「らしょうもん」と呼ばれていたようです。鬼の棲みかとしても知られ、都良香は漢詩を口ずさんでいたところに鬼の感嘆の声を聞き、源博雅は紛失した御所の琵琶の名器「玄象」を鬼から返して貰ったという話が残っています。説話によっては舞台は羅城門ではなく朱雀門というものもありますけど。芥川龍之介著『羅城門』も『今昔物語集』を元に此処を舞台として書かれていますよね。東寺の近く、唐橋児童公園内に明治28年に建てられた碑があります。実際はこの碑の位置よりも南にありました。
六孫王神社
ろくそんおうじんじゃ 源経基(生年不詳−961?)

清和源氏の祖である源経基を祀ったお社。古くは六ノ宮権現、『今昔物語集』では六の宮とあります。清和天皇の第6皇子の貞純親王を父に右大臣源能有女を母に持った経基は、天皇から見れば六男の孫という事から「六孫王」の名があります。臣籍降下して源氏を名乗り鎮守府将軍にもなりました。源経基の邸宅のあったところといわれ、臨終に臨み「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と遺言し、経基の死後、嫡男の満仲が社殿を造営したといいます。御神紋は牡丹。経基は牡丹を愛し邸宅に植えた牡丹は嵯峨まで続く程であったとか。神様のお使いは神竜池の鯉で、太鼓橋を渡ると良縁が結ばれるといわれています。春に訪れた時は桜が満開で素晴らしかったですよ。

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