このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

永代の京
〜京都市・中京区編〜

在原業平邸址碑
ありわらのなりひらていあとひ 在原業平(
825〜880) 平城天皇皇孫、桓武天皇孫

平安時代初期の貴公子・業平さんの左京四坊三町にあったと伝えられる屋敷跡。『伊勢物語』の主人公といわれ、父を平城天皇皇子阿保親王、母を桓武天皇皇女伊都内親王に持つ皇族のお坊ちゃまでありながら、臣籍降下し色好みと歌人としての人生を歩む事になったのはやはり薬子の変で祖父・平城天皇が失脚したのが絡んでいたのかもしれません。
維新史跡池田屋騒動之址碑
いしんしせきいけだやそうどうのあとひ


三条大橋にも割と近い場所に碑が建っています。初めて行った時はパチンコ屋でした。平成21年以来、居酒屋『池田屋』として営業中。幕末でも有名な元治元年の池田屋事変はこの場所で起こりました。池田屋事変で明治維新は2年遅れたともいいます。新撰組に襲撃され、命を落とした長州藩士は7名。23名が捕らえられました。四国屋から取って返して走ってきた土方さん、血を吐く沖田さん、一生懸命密偵をしていた山崎さんといろんな人間模様が此処にはあるのでした♪
市五郎大明神社/史蹟御土居碑(西ノ京御土居)
いちごろうだいみょうじんじゃ/しせきおどいひ (にしのきょうおどい)


西大路御池駅から東北の方角を見ると、小高い丘の上に鳥居が沢山あります。御土居の旧跡に創られたお社です。御土居の看板や碑はありますが、神社の由緒書などはありません。ちょっと不思議空間。
永福寺 (蛸薬師堂)
えいふくじ (たこやくしどう) 浄土宗西山深草派 山号/浄瑠璃山林秀院 本尊/薬師如来 通称/蛸薬師

正式名な浄瑠璃山林秀院永福寺。夜にはとても華やかな様子が伺えます。平安時代末期の養和元年に室町の地にいた富者・林秀は比叡山根本中堂の薬師如来に深く帰依していましたが、老年となり参詣もままならぬ事を嘆き仏前で薬師如来像を祈願したそうです。その夜夢枕に薬師如来がたち、その言葉通り指示された場所を掘ると石の尊像を得る事が出来たのだといいます。この像を安置したのが今のお寺の前身で、元は二条室町にありました。蛸薬師の「蛸」は「沢(たく)」の訛りなのだとか。二条室町通には沢があった事から沢薬師(または水上薬師)と称していたのだそうです。これが転じたとも、また、老いた母の為に僧の身も顧みず蛸を探したというお話もあって、いつの頃からか蛸薬師という名で知られるようになりました。新京極に移ったのは豊臣秀吉の時代です。なで蛸がリアル。
鬼殿址
おにどのあと

鬼殿とは三条中納言と呼ばれた藤原朝成の屋敷跡の事。藤原伊尹との争いから朝成は生霊となってしまったというお話は『故事談』『大鏡』『十訓抄』でも有名ですよね。三条東洞院東北辺説では現在の中京郵便局の辺り。ももかとしては「茶人珠光織田信雄加藤清正紀州藩邸古墳碑」(西洞院三条)の辺り説を取りたいですわ〜。折角この地で彼を偲んだのですから(^^;)。
桂小五郎像
かつらこごろうぞう 木戸孝允(1833〜1877)

京都ホテルの河原町通側にあるおっとこまえ〜な桂さんの銅像。ここは元々長州藩邸があった場所で、彼の業績を顕彰し平成7年3月に建立。作者は京都出身の彫刻家・江里敏明氏で、萩城址の毛利元就公像や晋作広場の高杉晋作立志像も彼の作品です。余談ですが同じく萩の中央公園に久坂玄瑞没後150年を記念して建立される玄瑞像(平成27年)も手がけていらっしゃるのだとか。西郷隆盛・大久保利通と共に維新三傑の一人と称される桂さんの別名は「逃げの小五郎」。ここで「眠りの小五郎」を連想してはいけません(笑)。等身大の大きさなので車窓からでも確認出来ます。因みに木戸姓は慶応2年、第二次長州征伐前に長州藩主毛利敬親から賜ったもの。
木戸孝充旧跡碑/旧宅
きどたかよしきゅうせきひ/きゅうたく 木戸孝允(1833〜1877)
*「木戸孝允旧跡碑」(大正9年建立・石長前、大正9年建立・石長菊松園前)、ほか「木戸孝允邸址碑」(大正5年建立・京都市職員会館かもがわ内)

旅館石長菊松園の玄関前植え込みの中に碑があります。木戸さんとは桂小五郎さんの事で、明治時代に鴨川畔の近衛家邸を買い取り、京都においての別邸としたのが此処でした。彼がこの屋敷で亡くなりますが、その直前に京都に滞在していた明治天皇がお見舞いに訪れています。旅館には桂さんの遺品も伝わっているのだとか。機会があったら泊まってみたいものです。
行願寺 (一条革堂)
ぎょうがんじ (いちじょうこうどう) 天台宗延暦寺派 山号/霊ゆう山 本尊/千手観音 通称/革堂


西国三十三所十九番目の札所、洛陽三十三所の札所。また京都七福神の一つ寿老人を祀るお寺でもあります。寛弘元年に行円上人が創建。元は一条にあり、天正年間に寺町に移転、宝永年間中にこの場所に移りました。「一条」の名は此処からきているのですね。行円上人は鹿の皮衣を纏っていた事から「皮聖」と呼ばれ、それが別称の「革堂」の所以なのです。此処にある円山応挙作の幽霊絵馬は有名なのですが、ももかは怖くて見た事がありません。いつ行っても境内は賑やかです。
光勝寺極楽院 (空也堂)
こうしょうじごくらくいん (くうやどう) 天台宗 山号/紫雲山 本尊/空也上人 通称/空也堂

梅原猛さん著『京都発見』で少し空也の事が触れられているのですが、そこから何時かは立ち寄ってみたいと思っていたお堂です。門前には「くうやどう」と書かれた味わいのある碑が建っています。空也堂、正式名称は紫雲山光勝寺極楽院空也堂。その名の通り空也上人が天慶元年に創建。元は鞍馬にありましたが移転しました。此処には平将門が朝廷軍に大敗し、一族郎党が京に送られ極刑を言い渡された折に空也が現れ村上天皇に減刑の嘆願をしたという伝えが残っています。嘆願は聞き入れられ、残党は念仏道場に入った後に空也に帰依し、京の街を有髪のまま念仏を称えて死者を回向したといいます。これが「空也僧」の起源なのだとか。また京に疫病が蔓延し、空也は観音菩薩を作って洛中をまわり、観音に供したお茶を振舞ったといいます。村上天皇もその徳にあやかってお茶を服すようになり、これは「王服茶(天皇が服されるお茶)」と呼ばれました。現在では転じて「大福茶」などと呼ばれ京都では元旦の日には欠かさず飲まれているそうです。屋根瓦も古い年月の重みで変形したような小さなお堂です。
廣誠院
こうせいいん 臨済宗 山号/保水院 本尊/観世音菩薩

公開文化財。この辺りにあった長州藩邸跡には、明治初期勧業場が作られました。そこに伊集院兼常が屋敷を建てたのは明治25年の事です。現存する書院・茶室・広間などはこの時に作られたもの。屋敷は同29年に近江出身の下郷傳平に、そして同35年に廣瀬満正の所有となり、昭和7年に庫裏や仏堂が建てられ、同27年に臨済宗の寺院となりました。町中にこんなに素晴らしい物があったのか・・流石京都!というのが訪れた最初の感想でした。趣味人の粋でありながら嫌味ではない手の込んだ物があちらこちらに見受けられます。書院の軒の見事さ。夏には蛍も楽しめそうな涼しげな風情。秋は紅葉。実際に見てもとても美しゅうございました。襖には森狙仙の猿がさりげなく。茶室も素晴らしい。池泉回遊式庭園は七代目植治です。また行きたいです♪
御所八幡宮
ごしょはちまんぐう

御池通に面して鎮座。御池八幡・三条坊門八幡・虫八幡・等持寺八幡・高倉八幡などの別名があります。同じ中京区の御所八幡町は元々このお社があったところ。第二次大戦中にこの地に移転した為、地名だけがあちらに残っているのです。名前の由来は後宇多天皇が御所内に勧請したからとも、足利尊氏が邸内に勧請した事からとも。
此附近徳川時代金座遣址碑/此附近徳川時代銀座遣址碑
このふきんとくがわじだいきんざいしひ/このふきんとくがわじだいぎんざいしひ

江戸時代の金貨・銀貨の鋳造所跡。慶長年間に作られますが寛政の改革以降京都での金銀貨幣の鋳造は行なわれなくなります。明治元年に廃止。徳川家康が関ヶ原の戦いの翌年に伏見に作った鋳造所の前身ですが、その名残が「銀座町」「両替町」の地名。両替町通の名も此処に因みます。東京の銀座よりも伏見の銀座が古いのです。
西光寺  (寅薬師)
さいこうじ  浄土宗西山深草派 山号/北亀山 本尊/阿弥陀如来 通称/寅薬師

正式名称は西光寺。新京極通に面していますが、注意しなければ通り過ぎてしまいそうです。本尊は阿弥陀如来。寅薬師の名は堂内に鎮座している寅薬師如来に由来しています。像は弘法大師の作と伝えられ、 成就したのが寅の日、 寅の刻にあたることから寅薬師と呼ばれます。歴代天皇 の信仰を集めていましたが、 開山の傅慶法印が弘安三年に朝廷から寅薬師如来像を下賜され、伽藍を建立しました。後、現在の場所に移転。寅薬師は京都十二薬師の第11番にもなっています。いろいろと面白いお話を聞く事が出来、また行きたいなぁと思うお寺です。また此処には廃寺となった清帯寺の本尊だった腹帯地蔵(洛陽四十八願所第34番)もあります。
坂本竜馬中岡慎太郎遭難之地碑
さかもとりょうまなかおかしんたろうそうなんのちひ 坂本龍馬(1836−1867) 中岡慎太郎(1838−1867)

河原町通と蛸薬師通の西南にある碑。幕末の当時、近江屋という醤油屋があり竜馬と慎太郎は此処に住んでいたのです。慶応3年に見廻組によって襲撃を受けた竜馬は此処で絶命し、深手を負った慎太郎も翌日亡くなりました。彼等がその夜軍鶏鍋をつつこうとしていたのは有名な話ですね。
佐久間象山先生遭難之碑/大村益次郎郷遭難之碑
さくましょうざんせんせいそうなんのひ/おおむらますじろうきょうそうなんのひ 佐久間象山(1811−1869) 大村益次郎(1825−1869)

高瀬川の畔にあります。長野県県歌『信野国』
にも「象山(ぞうざん)佐久間先生も皆此の国の人にして文武の誉れたぐいなく♪」と歌われる佐久間象山。でもももかはその実態を良く知らなかったのです(笑)。その人を知ったのは某ドラマでした。信州松代藩士であり勤王志士の一人で開国・公武合体を掲げていた象山は、元治元年山階宮邸から上大阪町の自宅に帰る途中暗殺されました。墓は妙心寺塔頭の一つ大法院にあります。初めてこの碑を見た時は驚きました。暗殺された人だったなんて知らなかったので・・・。大村益次郎は長州藩士で、出世魚ともいえるくらい名を変えた人です。とにかく才気溢れる人物で、明治維新では新政府側の中で近代兵制の樹立に才能を発揮しましたが明治2年の京都出張中に襲撃されました。でも斬られてから風呂場に入って一人で手当てをしたのだとか。そしてその翌日病院で亡くなったのでした。司馬遼太郎氏の『花神』の主人公ですよね。因みに地元の信州では「ぞうざん」という事が多いので、「しょうざん」は慣れないです(ももか的に)。
醒ヶ井
さめがい
 
京都三名水の一つ

京菓子でも有名な「亀屋良長」(創業享和3年)の店先にあります。染井、御香水と並ぶ京都三名水の一つで茶匠村田珠光が好んだという左女牛井(さめぐい)は、元は源氏堀川邸にあったといいます。昭和37年の阪急地下鉄工事の影響で枯渇しましたが、平成3年亀屋良長の社屋新築の折にこれを掘り直し「醒ヶ井(さめがい)」と名付けて復活させたそうです。毎月7月の第1日曜日には水祭も開催し、一般にも開放されているそうです。この京菓子屋さんの銘菓にも「醒ヶ井」というものがありますので是非ご賞味を♪
下御霊神社 (御霊社)
もごりょうじんじゃ  伊予親王(783?−807) 桓武天皇皇子、贈一品。 藤原吉子(?−807) 桓武天皇夫人、藤原是公の娘、贈従二位

大同2年平城天皇の異母弟伊予親王とその母藤原吉子は謀反の罪を被せられ、冠位剥奪・幽閉の身となりました。母子は毒を仰ぎ自殺。その後祟りを恐れた平城天皇は彼等の御霊を慰める為に、承和6年にこのお社を建てたのです。上御霊神社の南にあった事から下御霊神社と呼ばれ、この他に崇道天皇(早良親王)・吉備真備・藤原広嗣・橘逸勢・文屋宮田麿・火雷天神を加え八所御霊が祀られています。もともと出雲路にありましたが新町出水の西を経て天正18年に此処に移りました。現在の京都御苑の東南角にあり境内摂社の五座相殿社には大将軍八神も祀られています。また相殿には信仰が篤かった霊元天皇を祀り、猿田彦神社の相殿には中御門家に祀られていた柿本歌聖(つまり人麻呂)の名を見る事が出来ます。初めて行った時はタクシーの運転手さんも場所を知らず、見つけるのに一苦労しました。「何処で知ったの?」なんていわれて(笑)。今では市役所の辺りから寺町を北上してぷらぷらする時に立ち寄ったりします。
正覚寺 (赤門)
しょうがくじ 浄土宗知恩院派 山号/成等山 本尊/阿弥陀如来 通称/赤門さん

裏寺町にあり地元では「赤門さん」と呼ばれるお寺です。その名の通り入口には赤い門。でも少し変わっているのはこのお寺、ビルの中にあるのでした。永禄2年貞譽上人により創建。当時は堀川丸太町にありましたが、天正19年に豊臣秀吉によって現在の裏寺町通に移転。江戸時代に正覚寺の帰属を巡って知恩院と誓願寺が争った事があり、知恩院末となりました。元和元年伏見城から赤門を移転、「赤門さん」と呼ばれる所以です。焼失と再建を繰り返しますが、昭和40年に再び焼失。本尊はその時に失われてしまいましたが、胎内に納められていた仏様は無事でした。その後仮本堂が建てられ、他寺より阿弥陀如来像を迎え本尊として安置。「赤門ビル」と呼ばれる現在の5階建てビルが建てられたのは平成元年の事でした。将来、昔と同じように平地にお寺が再建される事を見据えて、5階にある本堂を作っている柱などは立派な木材を使っていて、また移築が出来るように設計されています。しかし、様々な理由で本来の赤門(平成2年に宇治市莵道の正法寺に移築)を元の場所に移すのは難しいのだとか。仮本堂だった時は狭かったそうですが、現在の本堂は檀家さんが集うには十分な広さがあります。現在の本尊の前には、かつての本尊の中に納められていた胎内仏が安置されています。とても綺麗なんですよ。1階の弁天堂には開運出世の白蛇辨財天が祀られています。
神泉苑
しんせんえん


平安京造営時に設けられた禁苑(お庭)で、池の中から常に清泉が湧出する事からこの名があり、大内裏の南に隣接するように存在していました。その元になったのは周の文王が造った霊囿。当時は広大な面積を持ち、門は6つもあったといいます。延暦10年の桓武天皇行幸以来、歴代の天皇が此処を訪れ、また宗教的な場ともなりました。貞観5年には崇道天皇ほか非業の死を遂げた6人の霊座を設けて御霊会が行われました。悪霊が流行したその6年後には民衆が祇園の御輿を担いで神泉苑に赴き、疫病退散の神事を行ったといい、これが祇園祭の始まりといわれています。今の神泉苑は中世の荒廃と徳川家康による二条城造営の為その大半が失われ,慶長12年の再興のもの。因みに「御池」の地名は神泉苑からきています。弘法大師が天竺の竜王を勧請して雨を請うた話は『今昔物語集』にも詳しいですね。法成就池の中島には善女竜王が祀られています。また日本で唯一の「恵方社」があって新年になるとその年の恵方(良い方角)に社殿の向きをかえます。地下鉄東西線が開業し最寄駅が出来た事から以前よりも訪れる人が多くなっているようです。公式HPには「あひる日記」が。平成27年春、善女竜王社の改修工事に伴い、55年ぶりに池の水を抜き水底を公開。
朱雀門址碑 (此附近平安京大内裏朱雀門址)
すざくもんあとひ 


大内裏南面の二階建ての正門。宮城十二門には氏の名を付ける慣わしがありましたが朱雀門だけは例外でした。でも弘仁9年以前は「大伴門」と呼ばれていたようです。内裏の炎上と共に再建を繰り返してきましたが建保5年暴風雨により転倒。その後再建はされませんでした。門前には耳敏川という御溝水が流れ、毎年6月と12月の晦日には百官が集まり、大祓が行われたのだそうです。小野篁さまと藤原高藤が百鬼夜行にあったのが此処なら源博雅が鬼から「葉二」という笛を貰ったのも此処ですね♪現在は小さな碑が立っています。
角倉了以別邸址碑/がんこ高瀬川二条苑/高瀬川源流庭園
すみのくらりょういべっていあとひ/がんこたかせがわにじょうえん/たかせがわげんりゅうていえん  角倉了以(1554−1614)

角倉了以の別邸は、後に山縣有朋の別荘第二無鄰庵となり、第三代日本銀行総裁川田小一郎の別邸、阿部市太郎などの所有を経て、がんこ高瀬川二条苑となっているとの事。お食事をしながら所縁の庭を眺める事が出来ます。
酢屋/坂本龍馬寓居址碑
すや/さかもとりょうまぐうきょあとひ 坂本龍馬(1836−1867)


享保6年から続く材木商で、現在は十代目。坂本龍馬は海援隊の本部を此処に置き、現在「ギャラリー龍馬」として使用している部屋に投宿していました。長らく行ってみたい場所としてリストアップしていたものの、なかなか行けなかったのですが、行ってみてびっくり。この界隈何年も往来しているにも関わらず、一つ路地を入っただけのところに寄っていなかったとは!・・・という近さですよ?(笑)。この通り、今は龍馬通りというのですね。
誓願寺
せいがんじ 浄土宗西山深草派総本山 山号/深草山 本尊/阿弥陀如来

天智天皇の6年に創建。元は奈良にありましたが、鎌倉時代初期に一条小川に移転し、天正19年に現在の地に移りました。新京極通は衰退する京都の町を復興させる為の一環として明治に作られましたが、この為誓願寺は6500坪を有していた境内の内、4800余坪の土地を没収されてしまうのです。賑やかな新京極の町とはうってかわって、本堂や境内は静かです。ご本尊の阿弥陀如来像は大迫力!光背に圧倒されてしまいます。洛陽三十三観音霊場・洛陽六阿弥陀霊場・新西国三十三観音霊場・円光大師法然上人二十五霊場・鑑知国師西山上人十六霊場・慈摂大師真盛上人二十五霊場などの札所にもなっており、信仰篤いお寺です。謡曲「誓願寺」の舞台でもあり、境内には「扇塚」や「迷子のみちしるべ」があります。また、墓地には前田利家の娘で豊臣秀吉の側室になった摩阿姫(加賀殿)ほか、著名な人のお墓があります。
誠心院
せいしんいん 真言宗泉涌寺派 山号/華嶽山 本尊/阿弥陀如来 通称/和泉式部寺

和泉式部所縁のお寺で別名を和泉式部寺ともいい、また誠心院の名は彼女の法名からきています。和泉式部が娘に先立たれたのを機に出家し、藤原道長が与えた庵がこの寺の前身なのだそう。後、秀吉による寺々の京外移転に伴い、現在の地に移されました。境内には圧倒される大きさの和泉式部供養塔があります。高さにして4メートル。正和3年といいますから、鎌倉時代の末期の頃の建立ですね。平成13年に改修工事が施され、以前は門の内からしか見る事が出来なかったのですが現在は新京極通からも昼夜問わず参拝が出来るようになっています。夜はライトアップされていて妖しくも不思議な空間となっているんですよ。
染殿院
そめどのいん 時宗四条派大本山金蓮寺塔頭 山号/錦綾山 本尊/地蔵菩薩(秘仏) 通称/そめどのの地蔵 洛陽四十八願所地蔵第三十六番

大同3年創建。元は真言宗でしたが、どの寺社にも属さず時の権力者によって護られてきましたが、嘉慶2年室町将軍足利義満により時宗大本山金蓮寺(大正末に鷹ケ峯に移転)に寄進し、現在はその末寺となっています。開祖の弘法大師は、入唐帰朝後にこのお寺に居留し、『十住心論』を著した事から十住心院と称しました。御本尊である木像地蔵菩薩は秘仏で通常は非公開。50年に一度その御姿を拝す事が出来るそうですが、次の御開帳日は未定。新京極の七不思議の一つのお地蔵さんなのです。四条通と新京極通に面しながらもやや奥まったところに堂宇がある為か、その喧騒を感じさせません。元治元年に建立されたお堂は、煤で黒くなっていて更に落ち着いた雰囲気を醸し出しています。長らく子供を授からなかった文徳天皇女御藤原明子がこの地蔵堂に篭り17日の願をかけたところ満願の日に懐妊の兆候があり、後の清和天皇を産むに至ったとか。明子は里屋敷を染殿第(後の清和院)としていた為染殿后と呼ばれていましたが、これにあやかって地蔵堂も染殿地蔵と呼ばれるようになり安産祈願の寺として有名になりました。永延元年、東大寺沙門奝然
ちょうねんが入唐帰朝の際に、現在清凉寺に安置されている釈迦如来(三国伝来の釈迦如来)を持ち帰りました。奝然は自らも身丈三尺余の釈迦如来を造り、染殿院に奉納。この事から「四条京極の釈迦堂」とも呼ばれるようになったといいます。
大学寮址碑(此附近大学寮址)
だいがくりょうあとひ 

大学寮は式部省に属し、大学頭を長官とする官吏養成機関。学生は13歳から15歳までの五位以上の子弟から選ばれ、在学期間は9年。此処では紀伝・明経・明法・音書・算等の諸学を学んでいました。『源氏物語』では源氏の子・夕霧が学んでいます。小野篁さまも大学の出身。『篁物語』では身分が低い大学生の
篁さまの姿を垣間見る事が出来ます。大正4年建立の石碑は二条城近くにあります。
高瀬川
たかせがわ


高瀬川は慶長16年に方広寺の大仏再建に使用する資材を運ぶ為に、商人・角倉了以が開いた運河。その全長は約10キロ。此処を運行する舟を高瀬舟といいます。そういえば森鴎外の『高瀬舟』は江戸時代の『翁草』を原案として書かれたものでしたよね。当時、港の役割を果たした船溜所(船入)のうち三条にある「一之船入」のみが面影を現在に伝えています。四条辺りでは繁華街を流れる川と化してますが桜のライトアップがとっても綺麗♪9月23日には舟祭りがあります。
高瀬川一之船入碑
たかせがわいちのふないりひ

昭和9年、国の名勝天然記念物に指定。碑は京都市役所の北側の高瀬川の畔に建ち、昭和10年に建てられています。この辺りの川の中に荷を積んだ船が置かれています。京都らしい光景です。
高瀬川角倉氏邸址碑
たかせがわすみのくらていあとひ 角倉了以(1554−
1614)

慶長16年、二条より鴨川の水を引き伏見に達する高瀬川を開削し,京都伏見間の水運を開通させた角倉了以。その邸宅跡に大正5年に建立された碑。日本銀行京都支店の高瀬川寄りにあります。
高松神明社/此附近高松殿址碑
たかまつしんめいしゃ/このふきんたかまつどのあとひ

左大臣源高明の屋敷・高松殿の旧跡で鎮守社と言われています。高松殿の造営と共に伊勢より天照皇神を勧進して創建されたと推測されますが具体的な年代は分かっていません。源高明は安和の変で失脚し太宰権帥として九州へ左遷され彼の地で没しました。この政変により藤原氏は政権を掌握し摂関政治を磐石な物にした訳です。高松殿は小一条院敦明親王の御所ともなり、2度の焼失を経て平安時代末期には白河天皇の内裏(高松内裏)となり、保元の乱の舞台となりました。平治の乱の際にこの御所は焼失しましたが、鎮守社であるお社はこの地に残りました。しかし応仁の乱では本殿を始めとして多くの貴重な書文までもが焼失、以降京都の大火にも焼失と再建を繰り返し幕末には蛤御門の変の際にも類焼しています。小さなお社ですが大変な歴史を歩んでいますよね。しかし再建を繰り返すという事は、それだけの信仰と力を持っているという現れのような。境内には真田幸村所縁の知恵の地蔵尊があります。ももかも知恵がつくようにとお願いしました♪こちらでは大雨で1人旅で訪れたという事もあってか社務所でいろんなお話を伺う事が出来ました♪楽しかったですね。
武市半平太寓居址碑
たけちはんぺいたぐうきょあとひ 武市瑞山(1829−1865)

此処は武市半平太が万延から文久2年にかけての上洛の折に泊まっていた料亭「丹虎」のあった場所。半平太といえば司馬遼太郎氏の『人斬り以蔵』を思い浮かべてしまいます。坂本竜馬とも同郷ですが、土佐では彼の身分の方が上でした。土佐勤王党を組織し家老・吉田東洋を斬ってからは藩の実権を手に入れますが文久3年に藩の内情から投獄。蟄居の後慶応元年に切腹を命ぜられました。号は瑞山。幕末に散った若き花の1つですね。アニメの『お〜い竜馬』の中の彼はなかなかりりしかったですよ♪意外な事に以蔵も表の方に多く顔を出す作品でしたが。大河『龍馬伝』でもお馴染み。
武信稲荷神社
たけのぶいなりじんじゃ 藤原武信(不詳)

藤原良相によって藤原氏の学問所勧学院と医療施設延命院の守護社として貞観元年に創建。のち藤原武信の厚い信仰によりこの名になりました。境内には「勝駒」「福駒」の札が多く見受けられます。これがまたインパクトあるんですよ。豊臣秀吉もこのお札を持ち朝鮮出兵に挑んだとも。鬱蒼とした境内にある榎は平重盛が厳島神社から持ってきたものと伝えられています。幕末に坂本竜馬が幹に字を刻んだり勤皇の志士平野国臣らが処刑されるのを子供たちが登って見ていたという歴史の生き証人なのです。
橘逸勢邸宅址碑
たちばなのはやなりていたくあとひ 橘逸勢(?〜842) 橘奈良麻呂の孫 別名を橘秀才、三筆の一人

本当に狭い小路の一角に忘れ去られたように碑が建っています。歴史ある碑というよりはその辺の石のように周囲には溶け込んでいるんですよね。それが微笑ましいというか・・(笑)。この屋敷ははい(虫篇に支と書く)松殿と呼ばれました。橘逸勢ことタチバナさんは橘諸兄の曾孫にあたり嵯峨天皇皇后の嘉智子さんの従兄。嵯峨天皇や空海と並んで三筆と呼ばれた程の達筆な方で、遣唐使に随行し彼の地では橘秀才と称された橘氏の中でもホープ的存在でした。しかし承和9年の承和の変で政治生命を奪われ罪人として伊豆国に流罪に。途中の遠江国で没した事からタチバナさんの霊は怨霊となり京の都を震撼させました。文徳天皇は即位するとすぐにタチバナさんを復位させ正五位下を追贈、彼を京に葬らせたといいます。タチバナさんを祀ったお社といえば上御霊神社、下御霊神社・下桂御霊神社。今はありませんが屋敷の西・姉小路押熊には彼を祀ったお社があったといいます。
茶人珠光織田信雄加藤清正紀州藩邸古蹟碑
ちゃじんじゅこうおだのぶかつかとうきよまさきしゅうはんていこせきひ 村田珠光(1422〜1630)、織田信雄(1558〜1630)、加藤清正(1562〜1611)

染物屋の馬場染工業さんの店先に碑が建っています。この店奥に茶人に愛飲されてきた柳の水(柳の井)があり、店先にもそのお水が気軽に頂ける事からこの碑が建てられているのでしょうか。この地には織田信長の子・信雄が住み、後に加藤清正の京都の別邸となりました。そして
貞享年間以降は徳川紀州藩の藩邸がありました。
長州藩邸址碑
ちょうしゅうはんていあとひ

京都ホテル前に碑が建てられています。尊王攘夷の拠点となり、蛤御門の変に際しては京を焼いた元になったところですね。その被害は811の町、4300戸余の民家、多数の死傷者でした。長州様、何て事を。後、この跡地には勧業場が作られ、現在はホテル、そして幕末ファンの集う場所ともなっています。
長仙院
ちょうせんいん 誓願寺塔頭 浄土宗西山深草派 本尊/阿弥陀如来

門を入ると新京極の七不思議の一つである未開紅という梅が枝を伸ばしています。此処には明治10年に廃寺となり移された清円寺の本尊・弥陀三尊と延喜帝第四之王子道観親王、妙法院少将法印権大僧都、そして安倍晴明の木像が安置されています。壇の上に乗った三体は、その位の高さから位置が分かるのですが、他の像は台の上に乗っているのに比べ妙法院少将法印権大僧都像は直置き。台もあったのでしょうに、欠損してしまったのでしょうね。屋内の鐘は知る人ぞ知る朝鮮鐘で、京都は元より国内でも数が余りないようです。これは太平洋戦争の折に供出され戻ってきたものでもあります。天人の姿が微笑ましいんですよ〜。先日お邪魔したところ、鐘を研究している方とお話する機会がありました。余談ですが、『津々浦々「お化け」生息マップ』
(技術評論社 2005.8月発行)では当サイトが提供しました長仙院所有の晴明さん像の写真があります。ご覧くださいね♪
頂法寺 (六角堂)
ちょうほうじ (ろっかくどう) 天台宗 山号/紫雲山 本尊/如意輪観音(秘仏) 通称/六角堂

正式名称は頂法寺。
西国三十三所霊場第十八番札所。寺伝によれば用明2年に聖徳太子が創建したという太子所縁の古いお寺。本尊は太子の護持仏といわれる如意輪観世音菩薩。太子が幼少の頃のこと。淡路の海で水浴をしている時に隋から流れついたといわれます。平成20年から21年にかけて実に136年ぶりの御本尊さまの御開帳がありました。御丈一寸八分(約5.5センチ)の御本尊様は御前立さまの奥で神々しく金色に輝いていましたが本当に小さいのです。お寺の解説書によれば、御前立さまを作られた仏師もその姿を拝んだ事はなかったであろう事が、両者のお姿の違いから推測されるといいます。現在の建物は明治5年のもので、太子堂はもっと新しくて平成年間に建てられました。平安京造営の折六角堂が道の真ん中になる為、木尊に祈ったところ、北に16メートル程動いたのだといいます。この時の名残が「へそ石」。そんな事からこの石が平安京の中心と信じられてきました。またこの六角堂の建物は太子鎮魂の御霊社とする人もいます。華道発祥の地として知られ「池坊」のビルもすぐ裏手になります。その為か華道を学んでいる人が良く訪れているようですね。とにかく鳩が一杯です。白い物を持っていると餌をくれると勘違いするらしく、白い袋を持っていたももかはヒッチコックの映画のような有様に(笑)。道を挟んだところの鐘は堀尾氏の寄進によるもの。堀尾さんというと山内一豊のお友達の一人(『功名ヶ辻』参照)。
土佐藩邸跡碑
とさはんていあとひ

江戸時代初期から明治4年まであったという土佐藩邸。高瀬川沿いの旧立誠小学校辺りから河原町にかけてが藩邸でした。幕末の土佐藩の方々も此処で過ごしていたのですね。
坂本龍馬所縁の近江屋も酢屋も割と近い場所なのです。
中山神社
なかやまじんじゃ

延暦13年桓武天皇の勅により建立されたと伝えられています。祭神は素戔鳴尊、そして朝夕内裏の門を守護するという櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)。別名を岩上(石上)神社といい、「いわがみ」「いそがみ」などと呼ばれていました。鳥居には「岩上宮」の額があります。嵯峨天皇の後院冷泉院(上皇御所)の鎮守社となりますが、何度かの火災の後、冷泉院は次第に荒廃していきます。冷泉院の「泉」は元々「然」でしたが、火を表す文字が使われている事から「泉」に変えたのは良く知られているところ。それだけ火事が続いたという事なんですね。健保2年、冷泉院と共に焼失。慶長7年に二条城造営の為に現在の地に移転。天明8年に焼失し、後再建。江戸期には「乳汁漏出」の絵馬が掲げられ、母乳・子育ての神様として女性の信仰を集めていたそうです。この神社名は鎌倉時代、『山槐記』を記した事で知られる内大臣中山忠親邸の跡にあたることに由来し、鳥居前には「中山内府威蹟地」の碑が建っています。こじんまりとしたお社で、綺麗に整備されています。
南蛮寺跡碑 (此付近南蛮寺跡)
なんばんじあとひ (このふきんなんばんじあと)

当初は現在の碑のある場所から北側の姥柳町の地に創建されたらしいです。現在は昭和45年建立の碑とその歴史が書かれた看板が住宅街の片隅にあるといった感じです。織田信長が政権を掌握しつつある中で吉利支丹と伴天連はその保護を受けて全盛期を迎えました。京都での布教は永禄2年から本格化し、同4年にはこの付近に礼拝堂が建てられたといいます。しかし本能寺の変での信長の死を経て、次の覇者・豊臣秀吉が天正15年に宣教師追放令を発し吉利支丹に弾圧を加えるようになりました。このお寺も禁教令から数年で破却され以後復興されていません。
錦天満宮
にしきてんまんぐう

元は河原院跡にありました。六条道場紫苔山河原院歓喜光寺と号していたのですが、神仏分離によって
歓喜光寺は法国寺と併合され、天満宮はこの地に残りました。末社には源融を祀った塩竈社や崇徳天皇を祀った事比良神社があります。境内には名水の「錦の水」が湧き出ています。夕方以降に訪れると提灯の明かりが実に鮮やかなんですよ。昭和10年に建てられた鳥居は、両脇の建物にその先がめり込んでいます。驚き。鳥居といえば境内の日乃出稲荷明神の鳥居は珍しいもので、奴禰鳥居(稲荷奴禰鳥居)といいます。
西町奉行所跡碑・東町奉行所跡碑
にしまちぶぎょうしょあとひ・ひがしまちぶぎょうしょあとひ

二条城近くに碑が建っています。東町碑は神泉苑の北西、西町碑は千本通の角近くにあります。京都町奉行の歴史は慶長5年から始まりますが、実際に機能が果たせるようになったのは寛文8年といわれています。江戸町奉行同様、東西両奉行制となっていて編月交代で京の町の治安を見守っていました。慶応3年に廃止。二条城周辺の散策の折にはちょっと覗いてみるのも面白いかも。
二条城
にじょうじょう

慶長7年5月着工、翌3月に落成した徳川将軍上洛の際に宿館として建てられたお城。当初は二条新御所、新屋敷などと呼ばれていました。慶応3年の最後の将軍・徳川慶喜による大政奉還の議は二の丸御殿大広間で決められたのだといいます。此処には将軍と大名の人形があり、在りし日の姿を垣間見る事が出来ます。以後朝廷の所轄となり様々に利用されました。明治17年には所轄が宮内庁に移り二条離宮と改められました。一般に公開されたのは昭和14年。この時より二条城は京都市に下げ渡されています。二条城といえば鴬張り!キュウキュウと鳴く廊下が有名ですよね♪平成15年には開城400年にあたり、期間限定の夜の特別拝観の催しがありました。ももかが行った時は春。夜桜が綺麗でしたが夜のお城ってやはり不気味・・・。平成15年春のJR東海のCMに起用。
日本近代医学発祥之地碑
にほんきんだいいがくはっしょうのちひ

日本で初めて人体解剖を行ったのが六角獄舎で、その跡地に建てられている碑。再生施設の敷地内に同様の碑がありますが、どうやら同じ頃に建てられたようです。
悲田院址碑
ひだいんあとひ

河原町の某銀行の一角にあります。悲田院とは平安遷都の折、東西二箇所に設けられ孤児や貧しい人々などを収容した施設の事です。初めは東姉小路の北にあり、寛仁元年には鴨川の氾濫で多大な被害を被っています。後に衰退し、寺となっていたが更に衰え、正保2年に泉涌寺の境内に移されたのだそうです。多くの人が行き交うこの地にはこんな歴史もあったのです。
本能寺
ほんのうじ 法華宗本門流大本山 本尊/十界大曼荼羅

本堂の裏手には織田信長廟があり、また「本能寺の変」の戦死者の供養塔もあります。勿論、森蘭丸の名も。応永22年に創建され当初は本応寺といいました。始めは仏光寺通にありましたが移転を重ね、六角大宮に移った時に現在の名に改称。天正10年の「本能寺の変」に遭い焼失。天正17年に豊臣秀吉の都市計画によってこの地に移転再興されました。
本堂は昭和3年に建てられたものです。本能寺の表記は、度重なる火災に罹ってきた歴史から、能の右側の「ヒヒ」(火)と重なるを忌み、火難から去る意を込めて「去」と書くのが慣わし。国宝の「本能寺切」は藤原行成の筆といわれ、鳳凰文の雲母刷のある4枚の唐紙に、菅原道真・小野篁・紀長谷雄の文書を記したもの。
本能寺址碑 (此付近本能寺址)
ほんのうじあとひ (このふきんほんのうじあと) 織田信長(1534−1582)、明智光秀(1528?−1582)

応永22年に油小路通仏光寺の辺りに創建、その後移転し大宮通蛸薬師上がる西にあり天文5年に焼失。その後この地に再建されました。当初は本応寺と呼ばれていたのだとか。天正10年の当時は寺の四方に堀を掘り土居を築いた様子が城郭を思わせた程だったそうです。織田信長は備中高松攻略に向けて同5月29日に宿泊。本能寺の変は6月2日の事でした。変により寺は焼失し、信長も此処で絶命したといいますがその遺体の行方は分かっていません。後に信長の三男信孝により再建されましたが程なく秀吉によって寺町御池に移転しています。現在発掘作業が進んでいますが、塀の片隅にある碑が此処がその歴史の舞台だった事を現しています。本能寺といえば大河ドラマ『信長』のルイス・フロイスの「あの方らしい。髪の毛1本残さぬとは」を思い出してしまいます♪ほんと、何処に行ったんでしょうね〜お屋形様は。
御金神社
みかねじんじゃ


御祭神は金山毘古神・天照大神・月読神。金属類を護る神様をお祀りするお社は国内で唯一此処だけです。昔は民家にあって密かに祀られていたそうですが明治16年に今の名を附して社殿が建立されました。金神様(こんじんさま)として親しまれています。最近では資産運用の神としても人気が高く、知る人ぞ知る名所ともなっています。路地の中にいきなり金色に輝く鳥居、ご神紋は「金」。絵馬は銀杏。社殿裏側の銀杏は樹齢200年以上の大樹で近年そこに龍の顔が見られるようになりました。ありがたや。平成23・24年節分の夜の神事に参加。直会では御神酒を頂きました。
御手洗井
みてあらいい

読み方が分からなかったのですが地元京都新聞によれば「みてあらいい」。祇園祭の7月15日(宵々山)から24日(還幸祭)の間のみ開く井戸で、その開放は織田信長によるものです。元は祇園社御旅所の社務藤井助正の屋敷地で庭前に牛頭天王社を建て毎朝この霊水を奉供した、とあります。御旅所は別地へ移転しましたが、名水だけは残り、都人に親しまれてきたのです。この期間、普段閉まっている木門が開かれ井戸は青竹や塩で清められています。15日の井戸開きには注連縄を新調し粽や飛魚の干物もお供えされるとか。敷地は塩で清められているんですよ。宵山の暑くて喧騒の最中、此処だけは別天地のように爽やかでした。
壬生寺
ぶでら 律宗大本山 本尊/延命地蔵菩薩 通称/壬生地蔵

古くは地蔵院、宝幢三昧寺、心浄光院などと呼ばれ、正暦2年の創建。当時は小三井寺と呼ばれました。また平安京の裏鬼門を護るお寺でもあります。南西の鬼門にあたる壬生の地は、鬼や妖怪が横行する異界だったのです。壬生寺には新撰組局長・芹沢鴨らのお墓や近藤勇の遺髪塔などがあります。境内は新撰組の兵法調練場にも使われ、大砲の訓練も行われたのだとか。注目すべきは社務所で購入できる幕末番付表!これは必見ですよ。ふふふ。新撰組ファンがメッセージを書き込んでいるノートを詰めたノートケース(?)があったのですが、あれはどうなったのでしょう。現在壬生塚へ行く手前に売店などが出来た上に志納として100円がかかるという具合に当時とは様変わりをしてしまっています。
そうそう壬生狂言も有名。壬生界隈の節分の賑わいが楽しくて、ここ何年か毎年お詣りさせていただいております。節分狂言も面白いですよ。平成26年より壬生狂言ゆかりの期日限定の御朱印が授与されるようになりました。
明治天皇行幸所木戸邸碑
めいじてんのうぎょうこうしょきどていひ 木戸孝允(1833〜1877)

明治政府の高官として出世街道を歩いていった桂さん(木戸孝充ともいふ)は、近衛邸を買い取って京都別邸として屋敷を構えました。明治10年5月に危篤に陥った桂さんを京都滞在中の明治天皇が見舞いました。そして同月、木戸さんは世を去るのです。昭和18年に建物は京都市に寄贈されました。京都市職員厚生会「職員会館かもがわ」に隣接する形で屋敷の一部が残っています。ただし現在非公開。
八木邸 (新撰組屯所跡)
やぎてい (しんせんぐみとんしょあと)

芹沢鴨や近藤勇らが宿舎として使用していた壬生郷士・八木さんのお宅。家紋の三木瓜は戦国守護大名朝倉家の所縁のしるし。織田信長によって滅ぼされた朝倉家の人々は京都亀岡の八木の地に逃れました。八木の名の由来でもあり、後にこの壬生に移り住んだのです。京都における著名な郷士の中でも八木家は筆頭格だったのは此処に理由がありました。元々は非公開でしたが、現在は嬉しい事に一般公開をしています。邸内は改装されていますが、長屋門は当時のまま。内部の芹沢さん一派を暗殺した時の刀傷が生々しかったです。入口には「新撰組遺蹟」の碑が。
新撰組ファン必見の地!
八坂神社御旅所御供社 (祇園又旅所)
やさかじんじゃおたびしょ
ごくうしゃ (ぎおんまたたびしょ) 通称/又旅所(またたびさん)

かつて大きな規模を誇った神泉苑の南方に位置。三条通商店街の中にあります。
町の名「御供(おんとも)」はこのお社に由来していて、四条京極にある御旅所に対し、又旅所ともいわれます。この地は古くから祭りの行列を点検する場所を意味する列見の辻と呼ばれていました。祇園祭の折神泉苑での拝礼を終えた御神輿はこのお社に移動。その際に青竹に囲まれた結界の中にオハケ(水辺を表す芝生に神の依り代である三本の御幣)が立てられます。この水辺って勿論神泉苑を指すのでしょうけれども、ちょっと南の壬生も「水生(水辺)」を語源とする説もある事を思うと、この辺りが水と関わりの深い事を推測させられますね。
矢田寺 (矢田地蔵)
やたでら 西山浄土宗 山号/金剛山 本尊/地蔵菩薩 通称/矢田地蔵尊

平安時代に大和郡山の矢田寺別院として建てられ、初めは下京区矢田町にあったのですが、天正年間に移転。地蔵尊は満慶(満米)上人が冥途で出会った地蔵尊を写したものなのだとか。火炎の光背を持っているのが珍しいのです。六道珍皇寺の「迎え鐘」に対してこちらは「送り鐘」があります。節分にいただく甘酒が美味しい♪
柳の井 (柳の水)
やなぎのい (やなぎのみず)

「京の黒染屋」こと馬場染工業さんの店の奥にある井戸。名の由来はこの井戸の傍らに柳を植えて日を遮っていたからだといわれています。古来茶人にも親しまれ、現在でも多くの人がこの水を汲みにみえるのだとか。以前は荒れていた井戸も近年に立派に改修。平成13年建立の歴史を書いた碑も立派です。お店の方からこの水の由来とかを伺いましたが、とても親切に教えてくださいました♪お水も頂きましたわ♪因みにこの水を使った染物の色は同じ黒でもちょっと違うのだそうです。
山脇東洋観臓之地碑
やまわきとうようかんぞうのちひ 山脇東洋(1705〜1762)

六角獄舎跡にある碑。山脇東洋は宝暦4年に京都所司代の許可を得、この六角獄舎において日本で始めての人体解屍観臓を行ないました。その5年後に『臓志』を発表。昭和51年に東洋の偉業と検体となった屈嘉の霊を慰める為に碑が建てられました。
横井小楠殉節地碑
よこいしょうなんじゅんせつちひ 横井小楠(1809〜1869)

横井小楠は肥後熊本藩士で、幕末は越前の松平慶永の元で働きました。その活躍は大河ドラマ『徳川慶喜』でもチラリ。明治時代には太政官の重鎮として活躍をしていましたが、明治2年正月5日、下御霊神社の近くで暗殺されたのです。ともすれば見落としてしまいそうな碑があります。
冷然院跡碑
れいぜいいんあとひ

二条城の北東角のお堀のところに昭和45年建立の碑が建っています。嵯峨天皇の後院で弘仁7年に嵯峨天皇の行幸の記録が残っています。歴代天皇の後院や里内裏となった他、仮御所としても使用されました。平安時代には焼失する事が重なった為、火を意味する「然」の字を忌んで水を意味する「泉」を当て「冷泉院」と改めました。寛弘8年に冷泉上皇が崩御して後は荒廃しましたが、後冷泉天皇の里内裏として使われました。後の天喜3年に破却され一条院の造営に当てられたようです。『源氏物語』では冷泉院の御所として登場。この冷泉院を描いたものに五島美術館蔵の『源氏物語絵巻』の「鈴虫の巻」があり、当時の様子を伺う事が出来ます。清少納言曰く「家は冷泉院、朱雀院、東三条院」との事。「冷泉院」の文字の謎(笑)に興味があったりするのでずっと行きたくてたまらなかった場所でもあります。ただの碑だという事は分かっていましたけど(^^;)。
六角獄舎跡 (三条新地牢屋敷跡)/勤皇志士平野國臣外数十名終演焉之跡碑
ろっかくごくしゃあと (さんじょうしんちろうやしきあと)/きんのうししひらのくにおみほかすうじゅうめいしゅうえんのあとひ 平野國臣(1828〜64)

江戸時代の正式名は三条新地牢屋敷。元々平安京早期からあった獄舎でした。右獄は早くに廃れてしまいますが、左獄は残り、これが六角獄舎へとなっていきます。移転を繰り返し宝永5年の大火により焼失。小川通から二転した後、現在の六角通に落ち着きました。以降地名から六角牢、六角獄などと呼ばれました。幕末には多くの勤皇の志士が此処に投獄されました。平野國臣もその一人です。元治元年7月、禁門の変が起こりその大火は京の町を襲いました。この混乱に乗じて囚人の脱獄などを危惧した役人達は町奉行の命により平野國臣ら30数人を斬首したのです。大火は獄舎には及ばず、明治時代には監獄署になっていたとも。現在は再生保護施設となっていますが、ここには首洗い井戸の遺構が残っています。



京大路をそぞろ歩き
一保堂茶舗京都本店/嘉木いっぽどうちゃほきょうとほんてん/かぼく

寺町にある宇治茶専門店。創建は享保2年で、近江の渡辺伊兵衛が寺町にお茶や茶器・陶器などを扱う店として拓いた「近江屋」が始まり。弘化3年に山階宮から「茶一つを保つ」ようにと「一保堂」の屋号を賜りました。幕末の蛤御門の変で店舗を焼失し、現在の地に移転。風格のある建物がとても素敵なのです♪ここの大福茶を元旦に頂きたいなとずっと思っているのです。ちなみに一保堂の大福茶は玄米茶なのです。店内にはこの店の宇治茶を味わえる「嘉木」という喫茶店もあります。抹茶、煎茶、ほうじ茶などを店員さんにアドバイスを受けながら自分で煎れて楽しめ、お菓子付でリーズナブルなお値段なんですよ。
御菓子司「亀廣永」おかしつかさかめひろなが

京都文化博物館から高倉通を下っていく道に面したお店です。伏見醍醐の釜師だった初代・亀屋源助により文化元年に創業。江戸時代は二条城や御所にも菓子を納めていたそうです。こちらは「したたり」という黒蜜の味の羊羹みたいなゼリーみたいな一品が有名です。祇園祭の菊水鉾に献上するお菓子です。陽に透かすと赤黒くてきらきらしていて綺麗なんですよ。この名前、勿論『菊慈童』からきているのは周知の通り♪『菊慈童』・・・ご存知ですよね?
築地つきじ

京都老舗カフェの一つで昭和9年創業。名前は俳優を志していた創業者が、日本初の新劇専門劇場「築地小劇場」に因んでつけたのだそうです。ここで「ホット」といえば
ウィンナコーヒーの事。というのも、京都で初めてウインナコーヒーを出したお店なのですよ。洒落たアンティーク調度品に囲まれた店内ではクラシックが流れています。賑やかな四条河原町の路地の一角にあって心休まる空間です。
百足屋本店むかでやほんてん

四条西洞院通を北上したところにあるおばんざいのお店。店名の由来は旧通名によるのか町名によるのか、はたまた縁起を担いでいるのか。明治中期の骨格を生かして復元された京町屋の建物は、土間や階段箪笥はあえて残していて、良き昔を髣髴とさせてくれます。
村上開新堂むらかみかいしんどう

明治37年創業。ももかにとってはイコールオレンジゼリーのお店。これは蜜柑をくりぬいたところにゼリーを流し込んであるお菓子です。実はこれ名物の好事福盧(こうずふくろ。11月から3月の限定。紀州みかん使用)が作られない期間に販売されているもの。但し、遠方ゆえにまだ食した事なし。京都で最古の洋菓子店というだけあって薄暗くて本当に古いお店なんですが、これまた古そうなガラスケースにきゅん♪ときます(笑)。そして堅めに焼かれたロシアケーキも美味しいの。
六曜社珈琲店ろくようしゃこーひーてん

河原町三条にあり、1階と地下店に分かれた人気の
珈琲店。手作りドーナツが有名ですよね。但し水曜日はドーナツ、お休みなのです。地下店は18時からバーになります。

HOME 京華万里 永代の京






















このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください