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永代の京
〜京都市/西京区編〜

櫟谷宗像神社
いちだにむなかたじんじゃ 松尾大社境外摂社

渡月橋の側にあり、松尾大社の末社七社の一つで現在も境外摂社。櫟谷神(奥津島姫命)と宗像神(市杵島姫命)の二神を祀っています。古くは俗に嵐山弁天社と称し、奈良時代大宝年間から鎮座。『延喜式』にも名が記される古社です。平安時代の葛野には鋳銭所があり、新しい鋳銭は必ずこのお社に奉納せられたといい、来福徳財宝の神として知られています。また河海の女神であるところから火難の守護神ともされています。縁結びの神としても人気が高く、参道には幟が立っています。朱塗りの鳥居を潜り、境内から見る桂川の眺めは格別です。
大枝神社
おおえじんじゃ


元は沓掛村の産土神で、大江(大枝)氏がご奉仕してきたのですが、はっきりした事は分かりません。高美計神をお祀りしています。鳥居がやけに新しくてちょっと裏を覗いたら梅原猛氏の名前が!こんなところにもいらしていたのですね。
大原野神社
おおはらのじんじゃ

長岡遷都にあたり延暦3年に創建。桓武天皇皇后藤原乙牟漏の意により、藤原氏の社として氏神春日社の分霊を祀った事に始まります。後、左大臣藤原冬嗣を祖父とする文徳天皇によって嘉祥3年に社殿が造られました。その名は地名から取られ、王城鎮護の社として崇敬を受けました。平安時代には二十二社に列しています。氏神に持つ藤原一族の信仰は厚く、それ故に様々な古記録にこの社の事が書き留められています。二条后と呼ばれた清和天皇皇后高子は、まだ御息所であった時に供奉する在原業平から「大原や小塩の山もけふこそは 神代のことも思い出づらめ」の歌を贈られたといい、授与品の手拭にもその歌が染め抜かれています。ロマンスですね。一条天皇の中宮となった彰子も、その父左大臣道長や紫式部と共に行啓されたといい、その行列の様は目を見張るばかりだったのだとか。そんな大原野神社も、藤原氏の衰微と応仁の乱の余波により、祭事は途絶え社殿は荒廃していったといいます。明治4年官幣中社。現在は別表神社となっています。神使は鹿。神鹿が巻物を銜えたおみくじが可愛いですよ。女性の守り神。境内の鯉沢の池は、奈良の猿沢池を模したもの。また、歌枕に詠まれ清和天皇産湯の清水「瀬和井」があります。紅葉も見事。
かぐや姫竹御殿
かぐやひめたけごてん 

竹の名産地として知られる松尾の地は、『竹取物語』の発祥の地ともいわれるのだとか。竹工名人・長野清助が27年の歳月を費やして作った竹の金閣寺が特徴的でした。そしてあちらもこちらも見事な竹の細工が一杯です。かぐや姫を赫耶姫と書くのは何だか万葉っぽいのですが、こちらにある赫耶姫の姿は十二単に桧扇姿。折鶴祈願が有名なのだそうで、沢山の折鶴がありました。
上桂御霊神社
かみかつらごりょうじんじゃ 伊予親王(783?−807) 桓武天皇皇子

上桂の人々が太田神を祀り、五穀豊穣を祈願したのが始まり。平安時代以降御霊信仰が盛んになるに従い疫病除けの神徳によって各地に御霊神社が創られたのですが、このお社も伊予親王を合祀し御霊神社を名乗ったようです。伊予親王は桓武天皇の皇子で平城天皇の異母弟。桓武天皇鍾愛の親王でしたが、罪を被せられ母・藤原吉子と共に毒を仰いで自殺し、その怨霊は京を駆け巡り平城天皇を恐れさせました。京都観光地図もこの上桂の辺りは省略しているので余り知られていなかったのですが、最近はネットでの検索も出来るのでお参りされる方も以前に比べて増えているようですね。朱塗りの鳥居が殊の外美しく落ち着いた雰囲気に整備されたお社です。
願徳寺
がんとくじ 天台宗 山号/仏華林山 院号/宝菩提院 本尊/如意輪観世音

白鳳8年に持統天皇の勅願により現在の向日市寺戸に創建。名の由来は徳のある願いによって建てられた事からきており、近年、現地ではその遺構である瓦や湯屋が見つかっています。当時は薬師如来を本尊に迎えた大寺院でした。この薬師如来は貞観六年清和天皇の勅により広隆寺別当道昌が広隆寺に移し現在に至ります。平安中期に一時衰退し、平教盛の子である小川法印忠快により中興。小川忠快は東山三条の宝菩提院にいましたが、この時宝菩提院と共に願徳寺に移りました。平安〜鎌倉時代にかけては天台密教の秘法を行い穴太流や西山派を生み出した密教の大寺院であったこのお寺も、応仁の乱や織田信長の兵火などにより諸堂は灰燼に帰し、江戸時代に徳川家康の庇護を受けるも、昔日の面影を再び現す事はありませんでした。明治の廃仏毀釈を受け、更に昭和時代になると一層荒廃が進み、昭和37年になると現在の本尊である如意輪観音半跏像や諸仏は同じ天台宗である勝持寺に移されます。大原野の地に本堂と庫裏が再建されたのは昭和48年のこと。本堂はコンクリートで造られました。そして本尊がようやくこの寺に戻ったのは平成8年12月のことでした。榧の一木から彫り出された本尊は国宝。はっきりとした目鼻立ちや躍動感がある衣の様が素晴らしく、うっとりとしてしまいます。重文の薬師瑠璃如来も素敵です。「京都で一番小さな拝観寺院」とはいえ、ほの暗い小さなお堂の中でお話を伺いながら、充実した時をいただきました。
首塚大明神
くびづかだいみょうじん

京都市と亀岡市を結ぶ老ノ坂をちょっと(どころじゃないけど)山の中に入った場所にあります。祭事を執り行うのは亀岡市篠町王子の氏子の方々。一條天皇の御世に京を荒らしまわった酒呑童子は遂に源頼光達に滅ぼされ、その首を運んでいる途中、急に首が重くなって動かなくなったといいます。その為此処に埋めたのだとか、この地で首から火を噴いて京へ飛び去ったのだとか。鬱蒼とした山の中、木の根が地面を這ってそこにお社が構えています。道から外れているので静かな事!タクシーの運転手さんでも余りお客さんで此処に来る人はいないようだといっていました。「そうだろうなー」と突っ込みを入れたくなるような山の中です。その方、観光専門だったのでこの場所を知っていたんですが、他の運転手さんだったら知らないかもよとも(参拝当時は)。酒呑童子所縁の「大江山」は大江町に通じるものがありますが、老ノ坂の方が京にも近く、有力だなと思うのです。だって老ノ坂を下ると「大枝」ですよ。因みにこちらは渡来人所縁の地なので、目の色髪の色が変わった人がいてもおかしくないと思うの。
華厳寺 (鈴虫寺)
けごんじ 臨済宗永源寺派 山号/妙徳山 本尊/大日如来 通称/鈴虫寺

享保8年の創建。初めは華厳宗だったのですが後に改宗、現在は臨済宗のお寺です。本堂で飼われている鈴虫は一年中その鳴き声を響かせ、それがこの名の由来となっています。80段の石段を上った先、山門の手前に幸福地蔵が待っています。草鞋を履いたこのお地蔵様は願い事を叶える為に枕元まで歩いてくるのだとか。黄色いお守りは大人気で、日曜祝日には老若男女問わず沢山の人達が列を作って本堂への順番を待っています。実はこのお守りは受付を受けないと頂けないもの。此処に立ち寄る時には十分な時間の余裕を持ってコースを組まれる事をお薦め致します。
光仁天皇夫人贈太皇太后天高智之子姫尊大枝陵 (桓武天皇御母高野新笠大枝陵) 
こうにんてんのうふじんぞうたいこたいごうあまたかしらすひのひめのみことおおえのみささぎ
高野新笠(?−790) 光仁天皇夫人、のち贈太皇太后。桓武天皇生母


高野新笠は光仁天皇の皇太夫人で桓武天皇、早良親王(贈崇道天皇)、能登内親王の生母。両親は百済系の渡来人で父は和乙継、母は土師真妹。後に高野朝臣姓を賜う事になりますが、この姓である「高野」は称徳天皇の高野御陵に由来するともいわれています。普通は天皇に関わる名を避けるのですが、こうして用いられるところに桓武天皇の目に煌めく何かがあるのですよ(笑)。どうやら河内国交野の百済王家のあるところが出身地のようです。光仁天皇が白壁王と呼ばれていた天平初年頃に結婚したと考えられ、息子の桓武天皇即位に伴い皇太夫人となりました。しかし娘の能登内親王は既に亡く、早良親王も実の兄桓武天皇によって淡路配流の直後に亡くなり、孫の五百枝王も連座して伊予に配流(後、帰京)となり新笠の晩年は寂しいものでした。長岡京遷都から数年後に亡くなりますが、その時に皇太后の位を贈られました。道から山上に「桓武天皇御母御陵参道」参道が伸びています。タクシーの運転手さんは快く送り出してくれましたが、「僕は行った事があるので待ってます」と御辞退。綺麗に整備された参道でしたが坂道はきつい〜。疲れる〜。でも嵯峨さんのとこに比べればまだマシでした(^^;)。
金蔵寺
こんぞうじ 天台宗 山号/西岩倉山 本尊/十一面千手千顔観音菩薩

西山の山懐にある金蔵寺は、養老2年元正天皇の勅願により山主向日明神と開祖隆豊禅師が小塩山の中腹の創建した古いお寺。『金蔵寺略縁起』によれば、豊前国求菩提山で聖観音が隆豊の夢枕に立ち、京の西方小塩山山腹の浄地に一宇を建立せよという託宣を受けたといいます。その後神亀5年に聖武天皇から「金蔵寺」の勅額を賜りました。神亀6年天皇の命により、各地の霊山に「華厳・普門品」など経典を書写して埋めた際の山の一つとされています。平安京造営の際には京の四方に経文納めた時の西の岩倉となりました。故に山号はこれが由来しています。当初は法相宗と三輪宗のお寺でしたが衰退し、天台宗に改宗。一時は49もの院があったといいますが後に荒廃し、徳川5代将軍綱吉の母桂昌院によって再興されました。江戸時代中に本堂他が焼失、後再建。境内奥に鎮座する愛宕大権現堂の防火勝軍地蔵愛宕大権現は、火除けの守護仏として愛宕神社にあったものが神仏分離令によりこちらに移されたもの。長峰から3キロの細く薄暗い山道(車道)を行きますが、タクシーでも難易度が高く部分的にガードレールもありません。対向車が来た時は道を譲り合わなければいけませんが、空き地もある訳でもなく立ち往生する事も。とにかく大変です。東海自然歩道の方は産の滝(岩蔵の滝)や『秋の夜長物語』で知られる美少年の墓を見る事が出来るようです。秋は紅葉が見事!錦秋ってこの事を言うのねという感じでした♪因みに金蔵寺から小塩山の頂上までは徒歩40分。此処に淳和天皇御陵があるのでした。鬼と化さないようにという遺言から山頂に散骨されているのです。小塩山は昭和62年3月に京都府歴史自然環境保全地域に指定されました。
冴野の沼
さえののぬま

古来より大原野の歌枕となっている沼で、佐江野沼とも書かれます。勝持寺の境内にあります。「小塩山松風寒し 大原や 冴野の沼の さえまさるらん」(中務)
三鈷寺(往生院本山、西山往生院)
さんこじ
浄土宗西山宗本山 山号/ 本尊/如法仏眼曼荼羅

承保元年源算上人が草庵を結び北尾往生院と号したのが始まり。二祖観性法橋が自ら浄布を織り、これに佛眼曼荼羅を画いて本尊としました。応保2年の事です。三祖は慈円(慈鎮和尚)、次いで
證空善恵国師(証空、善恵房、證空国師、鑑智国師、西山上人)が伝燈。応保元年、三鈷寺と名を改めました。この名は背後の山が三鈷杵に似ている事に由来するとか。浄土宗西山派根本道場として多くの寺領を有していましたが、応仁の乱の影響はこの寺にも及び荒廃。昭和26年四宗兼学(天台、真言、律、浄土)の西山宗本山として独立、現在に至っています。江戸時代の「都名所図会」には「二大仏七城俯瞰の地」と記されていますが、その「俯瞰」たるや「まさに」なんですよ。私は阿智坂口からの悪路ともいえる山道を15分くらい登ってお寺に着きましたが、その時の達成感と清々しさ、それから京都を一望とするその「俯瞰」。素晴らしかったですよ。実は善峯寺北門からは歩いて1分くらいなんですけど。訪れたその日は證空善恵国師767年の命日。国師の木像とお墓にもお参りさせていただきました。仏縁です。客殿はとても見晴らしが良くて、紅葉がまさに見頃。2本の銀杏も今を盛りに黄色く色づいていて綺麗でした。帰りは登ってきた道をまた降りるという事になりましたが、熊は出ないというので10分くらいで下山できたかなと思います。お猿は出るかも!との事でした。
地蔵院(竹の寺)
じぞういん
臨済宗天龍寺派 山号/衣笠山 本尊/地蔵菩薩  通称/竹の寺、谷の地蔵 

竹の寺で知られる地蔵院はまたの名を谷の地蔵といいます。名の由来は松尾谷にある事から。この地は元々衣笠大臣と呼ばれた藤原家良の山荘のあった場所でした。貞治6年に管領細川頼之が夢窓国師の高弟である宗鏡禅師を招いたのがこのお寺の始まりです。宗鏡禅師は夢窓国師を開山とし、自らは第二世となりました。始め広大な寺領を持っていたこのお寺も応仁・文明の乱で焼失。細川家と皇室の援助により復興を果たしました。明治に竜済寺と延慶寺の2寺を合併。またこの寺では一休禅師が幼少の頃を過ごしたのだとか。細川家所縁の寺という事で嬉しいももか(笑)。入口は鬱蒼とした竹林の中に長い道が一本。これがまた凄い。見渡せば竹林、上を見れば空にすらっと竹が伸びて葉が空を蔽い尽くすようなそんな空間なんです。同じ竹林でも嵯峨野とは違いますね。また苔生した庭が何ともいえなかったです。鳥の羽ばたきの音が遠くに聞こえて静寂の程が知れるといった感がありましたね。
地蔵寺 (桂地蔵)
じぞうじ 浄土宗 山号/久遠山 本尊/桂地蔵尊  通称/桂地蔵 京都六地蔵の一つ

小野篁さまが一度息絶えて冥府へ赴き、生身の地蔵尊を拝して後に蘇り、一木より刻み作った6体の地蔵尊の内の一体をお祀りしています。元は木幡の地に安置されていたのですが
平清盛が疫病や悪霊の侵入を防ぐ為に六体を現在の六ヶ所(徳林庵・大善寺・浄禅寺・上善寺・源光寺・桂の地蔵寺)に分け置いたと伝えられています。入口の碑には「京洛六地蔵巡り」の文字が。この地蔵尊は一木の最下部をもって刻まれた事から姉井菩薩とも呼ばれているのだとか。現在は尼寺です。盆には華やかなこのお寺も普段の日はひっそりとしています。近年、本堂が新しくなりそれに伴い境内も整備されました。昔のひっそりとした姿も好きでしたよ。
下桂御霊神社
しもかつらごりょうじんじゃ 橘逸勢(782?−842) 橘奈良麻呂の孫

貞観18年4月18日に創建。平安時代三筆として嵯峨天皇・弘法大師と共に三筆として称せられたタチバナさんこと橘逸勢を祀っています。タチバナさんは橘奈良麻呂の孫にあたり、その生年は分かっていませんが唐に渡った文化人でした。帰国後様々な官職を歴任しますが、謀反の疑いをかけられ、承和9年伊豆大嶋配流の途中に亡くなりました。桂離宮にも近いですね。「御霊神社発祥之記録」と書かれた看板には「中桂御霊神社」の文字が。これは江戸時代にこの辺一体であった下桂村が下桂村と中桂村と分離しているのでその名残のようです。割と庶民的なお社です。
十輪寺
じゅうりんじ 天台宗 山号/小塩山 本尊/延命地蔵菩薩 通称/なりひら寺

創建不詳。嘉祥3年文徳天皇皇后藤原明子(染殿后)が安産を祈願し、後の清和天皇となる皇子を授かった事から文徳天皇勅願所となりました。後に藤原北家(花山院家)が帰依、同家の菩提寺となります。応仁の乱により衰退するも、寛文年間に花山院定好によって再建。鳳輦の形を模した緩やかな屋根が特徴の本堂は寛延3年に再建されたものです。在原業平隠棲の寺とされ、境内裏には業平の墓(宝篋印)塔があります。また、塩竃の故事から裏山には塩竃の跡や飛地境内には汐汲池があります。この塩竃、ごつくて何とも言えない炉なんですよ。業平は難波の海水を運ばせ塩を焼いたといいますが、そういえば源融も河原院で塩を焼いていますよね。融は奥州塩竃の浦を模したとか。業平は平城天皇の皇孫、融は嵯峨天皇の皇子。両者は、皇位からは近くて遠い微妙なところに居た風流人でもありました。本尊は腹帯地蔵とも呼ばれる秘仏で毎年8月23日の1日のみ御開帳されます。紅葉の時期に訪れましたが、静かで綺麗で言葉にならない感動でした。椿も綺麗でしたよ。今度は春の桜に会いたいものです。
勝持寺
しょうじじ 天台宗 山号/小塩山 院号/大原院 本尊/薬師如来 通称/花の寺

白鳳8年天武天皇の勅願により神変大菩薩役行者が創建し、延暦10年に伝教大師が桓武天皇の勅を奉じて堂塔伽藍を再建。薬師瑠璃光如来を一刀三礼をもって刻み本尊としたと伝えます。承和5年仁明天皇の勅により塔頭四十九院を建立。しかし応仁の乱の折に仁王門を除く全ての諸堂が焼失してしてしまい、再建されています。本尊の薬師如来は瑠璃光殿(収蔵庫)に安置。庫裏は平成23年に新しくなりました。西山で「花の寺」との名を馳せる勝持寺は、西行桜を始めとする数種類約100本程の桜が有名です。鳥羽院北面の武士であった佐藤義清は、この寺で出家し名を円位(のち西行)と改め庵を結び、一株の桜を植えて吟愛していた事から、その桜を西行桜と呼ぶようになったとか。秋の紅葉も綺麗でした。歌枕となった「瀬和井せがいの泉」(大原野神社にもあり)・「冴野の沼(佐江野沼)」は共に境内にあります。
浄住寺
じょうじゅうじ 黄檗宗 山号/葉室山 本尊/釈迦牟尼仏 京都洛西観音霊場第三十番

普段非公開。元は嵯峨天皇の勅願寺で、常住寺といいました。弘長元年に公卿葉室定嗣が中興。奈良西大寺の叡尊を開山として迎え、この時に浄住寺と改められました。以来葉室家の菩提寺となります。のち応仁の乱後に衰退し、元禄2年に鉄牛禅師が復興しました。元々律宗だったこの寺も再興にあたり黄檗宗に改められたといいます。現在の本堂は黄檗宗の様式を見る事が出来、とても興味深いものです。境内の観音堂は、洛西観音霊場(洛西三十三観音霊場)の一つとなっています。またこの風情のある長い参道が何ともいえません。石段の石を踏みしめた人跡さえない、という静寂もありまして。ももかが訪れた時は初秋。早めの萩が零れるように咲いて、そこだけが華やかでした。心洗われる空間でした。方丈内の武者隠しに注目。秋には参道を紅葉が彩ります。
正法寺
しょうぼうじ 真言宗東寺派 山号/法寿山 本尊/三面千手観音 通称/西山のお大師さん

天平勝宝年間の創建。本尊の聖観音は、弘仁年間に弘法大師が42歳の厄除けの為に彫刻したものと伝えます。大原野神社のすぐ側にあり、応仁の乱の折に焼失。しかし元和元年、恵雲・徴円により再興されました。西国薬師霊場・洛西観音霊場・京都六大黒天の札所にもなっています。大黒様は走っているんですよ。故に走り大黒といわれています。本尊の三面千手観音は260センチの大きさ。流れるような光背も見事です。朱い遍照塔は平成22年に建立されたもの。晴れた日には遠くの眺望が素晴らしい借景庭園は必見。別名鳥獣の庭とも。紅葉時期に訪れるも、拝観者が少なくゆったりとした時を過ごせました。どちらかといえば春の桜の名所としての顔が知られているのかもしれません。
瀬和井
せがい、せわい

京都市左京区大原、または西京区大原野にあったという井戸。「せがい・せがゐ・せわい」ともいい、古来歌枕ともなっています。大原野神社境内には清和天皇産湯の清水と伝えられる瀬和井が、また勝持寺の境内にも瀬和井の泉があります。
月読神社
つきよみじんじゃ 松尾大社境内摂社

松尾大社の摂社で松尾さんからも歩いてすぐの場所に鎮座。『延喜式』では名神大社の一つに数えられています。この名の通り月読尊を祀り、元々このお社にあったご神像は松尾さんの宝物殿に。『日本書紀』によれば顕宗朝3年2月の条に阿閉臣事代が任那に勅命を奉じて遣わされるにあたり、月神がある人に憑依し託宣を下したといいます。事代はこれを奏上。朝廷はこれを受けて山背国葛野郡歌荒樔田の地(現在の桂川左岸の月読とも、右岸の桂上野の月読塚ともいわれています)を奉じ、月神の末裔とする壱岐の押見宿禰がお社を造営したと伝えています。境内社には御舟社、聖徳太子社があります。またここにある月延石は神功皇后所縁のものです。山際のしっとりとした情感が伺える地にあって、観光客はまず訪れないであろう小さなお社なのですが歴史は古いのですね。月を名に頂くという事でいつか立ち寄りたいと思いつつ、ようやく参拝が果たせて嬉しかったですね。
葉室御霊神社
はむろごりょうじんじゃ

古く平安の頃からこの地に荘園を持っていた葉室家の祖霊(御霊)を鎮守として建立。葉室氏は藤原顕隆を祖とする家で、北家の流れをくみます。現在の社殿は元禄2年の建立で昭和56年に修理されたもの。国挟槌尊(月霊)もお祀りしています。また本殿右側には宝亀2年に学徳兼備の10名を選び十禅師の称号を与えられた僧侶を祀る十禅師社も鎮座。神仏混合の頃が忍ばれますね。葉室家の管理下という事で施錠されて、遠くから参拝する事しか出来ませんが高台のぐいっと登った坂道の一番上に、鬱蒼としたそれでいてみずみずしい緑の木々を配してそこに鎮座。その落ち着いた様と朱色の鳥居前の開けた参道の整然としたところが固く閉ざされた物特有の神秘性を生んでいるようです。実のところ行くのにはちょっと大変でした。道が分かりにくくて。もう一回立ち寄ろうと思っても行き着けるかどうか(^^;)。
法輪寺
ほうりんじ 真言宗五智教団 山号/智福山 本尊/虚空蔵菩薩 通称/嵯峨の虚空蔵さん 日本三大虚空蔵の一つ 京都十三仏の一つ

和銅6年創建の日本随一の虚空蔵菩薩の霊場で、嵯峨の虚空蔵さんとして知られています。『今昔物語集』『枕草子』『平家物語』に登場し、また京都で「十三参り」(知恵もらい)の寺といえば此処。十三参りとは旧暦の3月13日(新暦4月13日)前後の一ヶ月くらいの間(秋もあり)に数え年13歳になった子供達がこのお寺に詣でる行事のこと。(昔でいえば元服し)大人になった事への感謝とこれから先の万物の福徳と知恵を授かる為に。この時、授かった知恵を返さないよう子供達は渡月橋を渡る時に決して振り向いてはいけないのです。舞台があって、此処からは眼下に渡月橋が見え、市内が一望できるのですがお月見も最高なのです。境内には電気電波の祖神として電電宮が祀られています。平成20年の嵐山花灯路のイベントで訪れた時は大型プロジェクターで投影された画像がお寺や山々をいろんな色で染めて、実に不思議な世界がそこにありました。
松尾大社
まつのおたいしゃ

大宝元年松尾山大杉谷の磐座の神霊を勧請したのが始まり。背後の松尾山の磐座には参拝も出来ます。秦氏が奉仕していたお社で平安遷都後は賀茂神社と共に王城鎮護の神となり、賀茂の厳神・松尾の猛霊として東西並び称せられてきました。一條天皇の行幸以来、歴代天皇の行幸も多く中世以後はお酒の神様として信仰されています。「上古の庭」の作庭期はそんなに古いものではありませんが、丹波笹の植え込みの中に宙に向かって2つの石が中心に立つという作りで、神山を表しています。「亀の井」の水は酒造りの際に加えるとお酒が腐らないといわれる湧き水。亀の形が可愛いのです♪そして毎月朔日早朝にはにはこの水を使って作られる「おついたち亀楽粥」を頂く事が出来ます。お庭も亀の甲羅を意識して造られたようでとっても変わっていました。鳥居には脇勧請と呼ばれる榊の小枝がぶら下がっているのが特徴です。お抹茶についてきたお饅頭は酒蒸しで、いかにもお酒の神様のお社にふさわしい物でした♪松尾大社には、大宮(おおみや)・四社(よんしゃ)・衣手(ころもで)・三宮(さんのみや)・宗像(むなかた)・櫟谷(いちだに)・月読(つきよみ)という松尾七社と呼ばれる摂社があります。
善峯寺
よしみねでら 善峰観音宗(天台宗系単立) 山号/西山 本尊/十一面千手観世音(秘仏本尊/安居院仁弘法師作、脇本尊/開山源算作)

長元2年源算上人により創建。同7年、後一条天皇より鎮護国家の勅願所と定められ、寺号「良峯寺」を下賜されました。源算上人が作ったという十一面千手観音は長らくの間このお寺の本尊でしたが、長久3年後朱雀天皇の勅命により洛東鷲尾寺の千手観音(安居院仁弘法師作)が遷され本尊となり、元々の観音像は脇本尊となりました。建久3年後鳥羽天皇より「善峯寺」の宸額が下賜された事から字を「善峯寺」と改称。皇室の崇敬も篤く、また青蓮院を始めとする多くの法親王が入山された事から「西山門跡」とも呼ばれ、一時は僧坊52にも及ぶ程の勢いでしたが、応仁の乱により大半の僧坊が焼失。後に五代将軍徳川綱吉の母桂昌院により再興されました。その為、桂昌院に因む寺宝も伝えられ境内の樹齢300年といわれる枝垂れ桜も桂昌院所縁とか。日本一といわれる樹齢600年の五葉松「遊龍松」は見事なことこの上なし。金閣寺の「陸舟の松」、宝泉院「五葉の松」とともに「京都の三松」です。とはいえ、虫害により平成6年に10メートルほど伐採されています。その頃の姿、見たかったなぁ。こちらのお寺は山門も美しく感動していましたが、紅葉も見事、展望も見事で、何度でも訪れたいお寺の一つとなりました。お寺の方も親切でしたよ。上り下りの約40分という試練に耐えつつ、美しいものを見て感じて得たものは沢山でした。もう少し体力をつけてまた行きます。


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