このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

永代の京
〜京都市/左京区編〜

安楽寺
あんらくじ 浄土宗 山号/住蓮山 本尊/阿弥陀如来

普段非公開。哲学の道にあり、鎌倉時代初めに法然上人の弟子にあたる住蓮房・安楽房が結んだ鹿ケ谷草庵が始まりとされています。当時、法然上人の説く浄土宗はまだ新興宗教として弾圧されていたのですが、信仰者は少なくありませんでした。その中には後鳥羽上皇の寵愛を受けていた松虫姫・鈴虫姫もいて彼女達は遂に出家してしまいます。これに激怒した上皇は後に建永の法難と呼ばれる専修念仏教団の弾圧を決行し、住蓮房・安楽房らは打ち首、法然上人とその弟子・親鸞上人を流罪に処しました。この法難から鹿ケ谷草庵は衰退しますが、流刑地から帰京した法然上人が彼等の菩提を弔う為に一宇を建立して住蓮山安楽寺と号したのです。後に荒廃を繰り返しますが延宝9年に仏堂が再建されました。このお寺には「中風まじない鹿ケ谷カボチャ供養」なるものがあって京野菜の一つである鹿ケ谷カボチャを参詣者に振舞っています。春の花見・秋の紅葉の頃に特別公開を行います。平成18年夏のJR東海のCMで紹介。秋は門前の紅葉がとても綺麗です。
出雲路橋 (出雲路鞍馬口碑)
いずもじばし (いずもじくらまぐち)

左京区と北区の境の賀茂川に渡された橋で碑が立っています。主要街道の出入口「京の七口」の一つ「鞍馬口(出雲路口、艮口とも)」にあたり、この辺りは古い昔に出雲からやってきた人達が集落を作っていた事から出雲路の地名があります。現在の橋は昭和58年に架けられたもの。
一乗寺下り松
いちじょうじさがりまつ 宮本武蔵(1584?−1645)

元々は「一条下り松」だったものが「一乗寺下り松」と呼ばれるようになったとの説もあります。
実はこの地、京都と近江を結ぶ街道沿いで昔から軍事的にも重要な場所なのです。此処では楠木正成と足利尊氏が戦い、宮本武蔵と吉岡清十郎一門が決闘しています。また、平敦盛の北の方が敦盛の遺児をこの松の木の下に捨て置いたところ法然上人がそれを拾い、養育して僧にしたという伝説も。地名にもその名は残り、現在は3代目の松が枝を伸ばしています。決闘の当時の松は近くの八大神社に古木として祀られています。大河ドラマ『武蔵〜MUSASHI〜』や井上雄彦『バガボンド』でも御馴染み。
一燈寺 葉山観音)
いっとうじ (はやまかんのん 臨済宗 山号/本尊/三面馬頭観世音菩薩

後水尾天皇の第8皇女である朱宮光子内親王(元瑤禅尼)が開き、葉山観音として知られていますが正式には一燈寺といいます。幕末の頃には梅田雲浜が一時隠れ住んでいたところでもあります。本尊は馬頭観音で毎月17日と18日に開扉され地元の方に信仰されています。
観音堂側の林宮寺宮墓に光子内親王は眠っています。光子内親王といえば修学院離宮の中御茶屋に父天皇が作った朱宮御所がありますよね。平成25年11月に訪れた時は、土砂崩れの為に境内への立ち入りは禁止となっていました。早い復旧を願います。
岩倉具視幽棲旧宅鄰雲軒
いわくらともみゆうせいきゅうたくりんうんけん 岩倉具視(1825−1883)

岩倉の地に、維新の十傑の一人・岩倉具視が文久2年に追放の憂き目に遭い隠棲した場所があります。それがこちら。大工藤吉の古家を譲り受けて蟄居生活を送った訳ですが一貴族の身の上としてはこれ程侘しい生活はなかったのでは。それでも明治維新に向けての密談は此処でもなされていたようですね。岩倉さんってば抜け目無いですね。今の建物は増築され当時よりは大きくなっていて、貴族の若様が我が身を嘆きながら暮らしたとは思えないです。庶民派のももかには十分過ぎる大きさ。
梅田雲濱旧蹟
うめだうんぴんきゅうせき 石碑 梅田雲浜(1815−1859)

葉山観音近くにあって大正12年の建立された碑。幕末の儒学者で小浜藩士の梅田雲浜は、
上京して藩塾である望楠軒の講師となっていましたが、嘉永3年にはこの地に住んでいました。後に攘夷を唱え、それが理由で安政の大獄の際に捕らえられ獄中で亡くなりました。気を止めていなければ本当に見過ごしてしまいそう。
永観堂禅林寺
えいかんどうぜんりんじ 浄土宗西山禅林寺派総本山 山号/聖衆来迎山(しょうじゅらいごうざん) 本尊/阿弥陀如来

古くから「紅葉の永観堂」と呼ばれ人気があるお寺です。正式名は無量寿院禅林寺。夜間拝観のライトアップは幻想的です。圧巻とはこの事をいうのかな。開門前からかなり並びますけれども来た甲斐があったと思うほどの美しさなんですよ。此処には御朱印を忘れて取りに戻った事があります(笑)。お寺の人の対応の良さに感動した覚えがあります♪斉衡2年の創建。後に清和天皇から禅林寺の号を賜り、承暦年間に永観律師が浄土念仏を唱えて寺を中興した事から永観堂と呼ばれるようになりました。応仁の乱などの兵火を免れる事が出来ず、この寺も灰燼に帰してしまいましたが後に再興されました。顧如来の「永観、遅し」の故事は有名で、本当に見返っているお姿は珍しく、また光り輝いて優美です。
圓光寺 
えんこうじ
 臨済宗南禅寺派 山号/瑞巌山 本尊/千手観音

慶長6年に伏見に建立。後に相国寺山内を経て寛文7年に現在の地に移転。元は国内教学の発展の為に開かれた学校としての機能を持っていました。沢山の書物が出版され、その名残として木活字が保存されています。入口の門を抜けて初めて目にしたのは水琴窟。この水を頂いてカラコロと響く様子がとても可愛らしいのです。また、圧倒されたのは外観から見て小さなお寺だと思っていたのに素晴らしいお庭が広がっていた事ですね。この枝の伸び具合が良いのだわ〜♪祇王寺と同じくこちらも散り紅葉が楽しめそうでした。その後、紅葉の時期に訪れましたが余りの美しさにうっとり。散り紅葉というより敷紅葉という言葉を使っていますが、良かったですよ♪この裏山には徳川家康を祀った東照宮や村岡たかのお墓があります。
圓通寺
えんつうじ 臨済宗妙心寺派 山号/大悲山 本尊/聖観音

江戸時代初期、後水尾天皇によって幡枝の地に造営された幡枝離宮が前身。その為幡枝小御所、幡枝茶園とも呼ばれていました。開基は文英尼公で、後水尾天皇の典侍新広義門院(霊元天皇生母)は姪にあたります。後水尾上皇からは勅額を賜ったり、霊元天皇の勅願所となった関係から皇室との関係は深くて寺紋は菊。とにかくこのお寺の素晴らしいところは比叡山を借景としたお庭です。実は東の山を借景にするという庭の作りは珍しいもので、比叡山とこのお寺に何らかの関係があるのではと思われてなりません。よくよく見ると比叡山の真西に建てられているのです。その更に西側に正伝寺があり、誠に興味深いものです。従来庭園の撮影は認められていませんでしたが、この地の開発が進みお庭の風貌が昔のまま見られるのもあと僅かという事で今は撮影は許可されています。木立と苔生した庭、そして遠くに比叡の山。本当に本当に素敵です。朝10時の開門ですが、ももかが出かけた時には既に5人程のお客さんが。閑静なところなのに、人がっ!という感じでした。京都バス「円通寺道」から徒歩10分くらいですが、詳しい地図を持っていった方が無難。観光地ではないですからね〜、あの辺り。
大豊神社
おおとよじんじゃ

古くは椿ヶ峰を御神体としていたともいい、創建は仁和3年。宇多天皇の病気平癒を祈願し、この辺りの産土神と共に医薬神である少彦名命を祀っていました。ももかがこのお社に参拝したのは摂社を守る神の使いがちょっと珍しいからなのでした。まず大黒社には野火に遭った大黒様を助けたという神話から狛鼠、日吉社には日吉大社の使いで謡曲の『三番叟』を踊る猿、愛宕社には防火の神様である愛宕社の使いの鳶。とても可愛いのですよ〜♪狛鼠は学問を表す巻物と長寿を表す水玉(お酒)を持ってます。
岡崎神社
おかざきじんじゃ

延暦13年平安遷都の折、京の東方に王城鎮護の為に祀られたお社。方除けの神様でもあります。「東天王」ともいい、現在でも「天王さん」の呼称を持っています。ここの神様のお使いはウサギさん。手水舎には可愛い子授け兎がいるんですよ♪戦時中に供出されながらく手水舎の青銅の兎の姿はなかったのですが、平成11年に黒御影石製で再登場!お座りして上をつんと向いているウサギさんはとってもぷりてぃなのです。また平成22年10月に新たに狛兎も登場しました。「平成23年卯歳一月吉日」の日付を刻まれているのは卯年に合わせての奉納の為です。招き兎もいますよ。
御辰稲荷神社
おたついなりじんじゃ

宝永2年5月、新大典侍新崇賢門院により創建。新崇賢門院は櫛笥隆賀の娘で慶子(後に賀子
よしこ)といい、東山天皇に入内しました。子供には中御門天皇、閑院宮家を創設した直仁親王などがいます。ある夜新崇賢門院が見た夢の中に白い狐が立ち、禁裏の辰の方角の森に自分を祀れと告げたといいます。辰とは方角をあらわしているのですね。江戸時代には「辰」が達成の「達」に通じるという事で人々の信仰が篤かったそうですよ。境内の幸福石大明神は京の秘石で、霊験新たかです。因みに「京の風流きつねは、お琴の上手なお辰の白きつねと、碁の好きな宗旦きつね」なのだそうです。宗旦狐は、相国寺にいますよね。
賀茂御祖神社  (下鴨神社)
かものみおやじんじゃ (しもがもじんじゃ) 

下鴨神社の名で知られ京都で最も古いお社の一つ。『鴨社造営記』によれば紀元前にまで遡るのだとか。上社である上賀茂神社と共に王城鎮護のお社として信仰されてきました。西殿に賀茂建角身命を東殿に玉依姫を祀っていて、御神紋は双葉葵。御朱印にも葵紋をいただけます。また十二支を祀った言社があるんですよ。
因みに下鴨神社から上賀茂神社までは徒歩で小一時間といったところ。ももかは体力がなかったので途中で市バスで移動しました。みたらし川の輪橋(反り橋)の傍の梅は尾形光琳の紅梅白梅図屏風』にその姿をとどめた花なのだとか。平成19年春のJR東海のCMに登場。世界文化遺産。

■■本殿/神服殿/大炊殿おおいどの/賀茂斎院御所御車舎おくるまや/御井みい葵の庭(カリンの庭)
特別公開をされる事もあります。本殿拝観は感動。神秘的な空間です。狛獅子ちゃんの彩色が綺麗。神服殿は、平安時代から天皇の御座所がありその部屋は昔から「開けずの間」と呼ばれ平常の使用を禁じられていたのだそう。本殿横の唐門を抜けると、三井社があります。そのまた西側が賀茂斎院の旧蹟。こちらは神様の台所として竃や俎板といった、神饌を作るにあたって欠かせないものがあるほか、お供えなどの複製品も展示されています。牛車もあって平安時代にタイムスリップ♪ももかが見学した平成21年春には、前年の大河ドラマ『篤姫』にちなみ葵文様と蒔絵が美しい駕籠もありました。また、各寺社で配布している宝船図も見る事が出来、とても興味深かったです。

■■相生社■いおいしゃ
京都の七不思議「連理の賢木」があり、縁結びの社として親しまれているお社です。

■■鴨河合坐小社宅神社 (河合神社)■
かものかわあいにますおこそやけのじんじゃ (かわいじんじゃ)
下鴨神社の摂社で、糺の森の中に鎮座し玉依姫をお祀りしています鴨長明はこのお社の神職を務める家に生まれています。でもドロップアウトして『方丈記』を書いちゃったのよね・・・。此処には彼の方丈が復元されていて特別公開時に見学が出来ます。

■■糺の森 (河合の森)ただすのもり
小さな森でほととぎすの名所でもあります。実は下鴨神社の境内地。「糺す」は「正す」で、賀茂建角身命が民の争い事を聞きただしたところだといわれています。元は右京区にあったのがこの地に移ったとも。南北朝の騒乱や応仁の乱では戦場にもなっているんですよ。『人倫訓蒙図彙』によれば筵を敷き座を設けての「太平記読み」がいた事が記されています。太平記読みとは近世から始まった大道芸の一つで、その名の通り『太平記』などの軍記物を朗読し講釈する職業をいいます。国指定史跡。
北白川石仏 (子安観世音)
きたしらかわせきぶつ

吉田山近くの今出川通から白川通に入る辻に安置されている石仏。別名を「子安観世音(観音)」「北白川弥勒仏」ともいい、他にも多くの名前を持っているのがこの仏様の特徴でもあります。鎌倉時代中期には安置されていたようですが、豊臣秀吉もこの仏様を気に入り聚楽第に置かれた事もあったのだとか。しかし仏様は毎晩白川に帰りたがりうめき声をあげるので、元の場所に戻されたのだとか。あれ・・・秀吉ってこういうパターンが多くないですか?信州の善光寺阿弥陀如来も秀吉によって京都に迎えられましたけど、阿弥陀様も帰りたいって言ってましたし。北白川の女性が花を御所に届けた事から始まったという白川女達は、この仏様にお花を供え行商に向かいました。現在、白川女の数は少なくなり都も様変わりしましたが仏様は北白川の地をを見守って下さっています。
京都大学総合博物館
きょうどたいがくそうごうはくぶつかん

京都大学に付属する博物館。明治30年に京都大学が開校し、学術標本を収蔵・管理するための施設として大正3年には「陳列館」としての最初の建物が竣工されました。現在の建物は「京都大学総合博物館」として平成13年6月に開館したもの。『マリア十五玄義図の研究』(平成25年)の特別展の時に立ち寄りましたが、時間がなくて常設展を見ていないのです。今度はこちらも鑑賞したいです。
京都府立植物園
きょうとふりつしょくぶつえん

大正13年に開園し昭和21年に閉園。そしてそれから十数年後の昭和36年に再びその門扉が開かれたこの植物園は、広大は敷地を持っています。10時の開園を僅かに過ぎただけというのに写真を撮る人、写生をする人、散策を楽しむ人・・とそれぞれの楽しみ方を持った人が多く来園していました。一日いても飽きないような、そんな場所ですね。春には桜が綺麗でしょうし、ももかが立ち寄った時は秋薔薇が満開で、写真を取り捲りました(笑)。園内のドーム形の温室は一見ミニチュア・キュー・ガーデン(というのも大袈裟だけど)のよう。別料金ですが、熱帯から砂漠までのいろんな植物に会う事が出来ます。

■■半木神社 (半木の宮)なからぎじんじゃ 賀茂神社境外末社
植物園にもお社があるなんて、本当に京都というところは寺社が多いところなのだなとガイドブックを読んだ時に思いましたが、お社よりも後に植物園ができたとの事。半木とは「なからぎ」と読み、賀茂神社の末社なのです。元々は流木と書いて植物園の北西隅にありましたが、洪水で流されその字を嫌って半の字をあてたのだとか。本当に小さな小さな神社です。
銀閣寺
ぎんかくじ 相国寺山外塔頭 臨済宗相国寺派 山号/東山 本尊/釈迦如来

正式名称は東山慈照寺で相国寺の塔頭寺院。室町幕府8代将軍足利義政が祖父の3代将軍義満の北山殿金閣に倣って創った山荘東山殿が始まりといわれていますが、庭園は西方寺(苔寺)の様式を踏襲。因みに金閣・銀閣の名は江戸時代になってからの通称。文明14年に建立され、義政の法号に因んで慈照寺と名づけられました。メインの銀閣は金閣寺の舎利殿と西芳寺の瑠璃殿を踏襲し、本来は観音殿と呼ばれていました。また元々は銀箔を貼るつもりだったともいわれ、応仁の乱の経済状態では果たせなかったのだとか。これには別説もありますけどね。でも白砂洲に輝く月明かりの夜も十分綺麗よ♪観光客が多くていつも賑やかですが、そうはいっても風貌が損なわれてはいないのが良いですね。垣根として張り巡らされている椿と築山が好きです。この築山、砂と水のみで作られておりまして、月に一度補修されているとの事。作業は日昼になされるとの事ですから、見てみたいですね。応仁の乱がらみでいうと、御池に畠山・山名・細川・大内と名づけられた石があります。『花の乱』で御所様(義政)は薪割り中に薪の一本を彼等に模して割っているという回がありましたが、こういうところから着想を得たとかいいませんよね?平成6年冬・平成17年秋のJR東海のCMに登場。「散歩のついでにでも、気軽にお立ち寄りください。 足利義政」・・・うんうん、立ち寄っちゃうよ、私〜♪

■■東求堂■とうぐどう
足利義政の持仏堂で、特別公開の時のみ拝観が出来ます。袈裟形の手水鉢、与謝蕪村の叭叭鳥と酔っ払った仙人達の襖絵、池大雅の釣り糸を垂らす人物の絵。そして北側四畳半の同仁斎と呼ばれた部屋は、草庵茶室の源流である四畳半の間取りの始まりでもあったのだとか。障子をほんの少し開くと、庭の景色が掛け軸のように見えてきます。住宅事情や寒暖から、こういうところから茶室に掛け軸を置くようになったのではとのお話ですが、本当にそうかもしれないですよね。しかし、袈裟形手水鉢を見るとチャールズ・マッキントッシュの意匠を連想してしまいます・・・。あれ、ジャポニスム?

■■弄清亭 (泉殿)ろうせいてい
こちらは東求堂の特別公開の時のみ拝観が出来ます。お寺の拝観料とは別に東求堂のみなら1000円、この弄清亭を含めてなら2000円(今は値下げしてるかも)が必要になりますので、時間がたっぷりある方はじっくり見たいものです。でも特別公開の時って観光シーズンで観光客も多いので高い割にはゆっくり見ていられないのが実情なんですよね。さて、こちらでは奥田元宋画伯の緑の襖絵「流水無限」「薫園清韻」と朱の襖絵「湖畔秋耀」を見る事が出来ます。元は香を聞く為に造られたもので、義政の風雅な多趣味な様子が伺いしれます。天井に一箇所ある四角い間仕切りは香もお茶も関係ないとの事ですが、もしかして屋根裏修理の為にあんなところに出来たのかしらと思ってしまいました。襖の取っ手は足利家の家紋である二ッ引両がくっきり。「流水無限」は画伯の人生を表しているとの事でしたが、下流の山桜は恐らくご夫人で人形作家の小由女さんとの出会いなんだわ〜と思い、「
湖畔秋耀」では朝日が上がっている様子を表しているとの事でしたが、その陽の向きから西方浄土への憧れなのね〜と勝手に思ってしまったり。拝観時間ギリギリに入室したので、急ぎ足の説明を聞き、急ぎ足で部屋を行ったりきたり。お金の割にはじっくりと出来なかったのが残念でした。また行こっ。
熊野神社/八ツ橋発祥地
くまのじんじゃ/やつはしはっしょうち 石碑

弘仁2年に紀州熊野大神を勧請したのに始まると伝えられています。 嘉承年間に増譽僧正は聖護院を建立し、当社を鎮守神とし、別当を置いて管理しました。本殿は下鴨神社から移築されたもの。街中にあり、元はもう少し広かったのですが大正2年と昭和2年の市電軌道敷設に伴い、社地が狭まったのだそうです。新熊野・熊野若王子と共に京都の洛中熊野三山の一つ。御朱印にも烏が飛んでいます。それからもう一つ、衣笠にも熊野神社の分社があります。節分の日には八ツ橋とお茶を頂きました。雨降りで寒かったところに暖かな接待が嬉しかったです♪京都銘菓として有名な「八ツ橋」は元禄2年に聖護院の森の黒谷参道で販売されたのが始まりといわれ、熊野神社の境内には碑が建っています。
熊野若王子神社
くまのにゃくおうじじんじゃ 京都三熊野の一つ 

永暦元年に後白河法皇が熊野権現を永観堂の守護神として勧請し祈願所とした正東山若王子の鎮守社でしたが、明治時代の廃仏毀釈によりこのお社のみが残ったといいます。「若王子」には熊野の新宮の意味があるそうです。京都三熊野の一つで、足利尊氏や義政がこの地で花を愛でた事も知られています。梛はこのお社のご神木。様々な苦労をなぎ払う意を持つお守りが売っています。境内でゆっくりお茶を頂いていたらお財布を忘れそうになった事がありました。危なかったあ。大黒様も必見です。ちなみに「熊野」とは「隠国
こもりく」から転じた名称で、黄泉の国と考えられていたのだそうです。
鞍馬寺
らまでら 鞍馬弘教総本山 山号/鞍馬山 本尊/尊天

平安京北方の守りの鞍馬山は海底火山の隆起によって生まれたといいます。宝亀元年この山に鑑禎上人が毘沙門天を祀ったのが鞍馬寺の始まりです。後、元々観音を祀る寺を建てたいと考えていた造東寺長官藤原伊勢人が霊夢によって鞍馬の地の毘沙門天を知り、延暦15年に堂塔伽藍を建立し千手観音を合わせて祀りました。寛平年間以降は真言宗に、後に天台宗に復し長く青蓮院の下にありましたが、昭和22年鞍馬弘教が開かれその総本山となりました。本尊は寺では「尊天」と称し、毘沙門天王、千手観世音菩薩、護法魔王尊の三身一体であるといいます。いずれも秘仏なので、普段は御前立ちの魔王尊に手を合わす事になります。寺は度々の火災で焼失し、建物は割と新しいようです。ももかは本殿金堂の天蓋が好きですよ。狛虎も必見。寅年の平成22年にももかは2度訪れました。源義経は牛若・遮那王と呼ばれた少年時代にこのお寺に預けられていた事から、義経所縁のお寺としても知られていて、所縁の物が各所に点在(笑)。この森を義経は駆け回ったのだと思うと、何だか不思議な感じがします。木の根道などは特に。そういえばケーブルカーは「牛若号Ⅲ」ですね。ケーブルカーを使うと境内までは短時間で行かれますが、一度は「近うて遠きもの」として『枕草子』に記されている九十九折の道も体験しましょう。急な坂道ですが15分くらいあれば登る事が出来ます。心のモヤモヤも吹き飛びそうな坂道です。そうそう鞍馬の大天狗・僧正坊は天狗の中の天狗で、最高位なんですよ。寺紋は菊を横にみた意匠。『鞍馬天狗』の倉田典膳様もこの紋。
栗栖野瓦窯跡
くるすのがようあと 石碑

京都バス円通寺道のバス停から円通寺に向かう途中に窯跡があります。幡枝を中心とする平安時代からある官営の窯で、『延喜式』の「来栖野瓦屋」とされています。
光明寺京都本坊瑠璃光院
こうみょうじきょうとほんぼうるりこういん 浄土真宗東本願寺派 山号/無量寿山 本尊/阿弥陀如来

通常非公開。叡山電鉄の東北の終点・八瀬比叡山口からすぐ。無量寿山光明寺が八瀬の地に京都本坊として創建。本尊は阿弥陀如来立像で、室町時代に描かれた阿弥陀三尊来迎図と共に光明寺の所蔵のものが移っています。書院は京数寄屋造りの名人と称された中村外二、庭は佐野藤右衛門一統の作庭と伝えられています。近年になり春秋に特別公開をするようになりましたが、隠れた名所として最近は知名度もあがり、秋の紅葉が見事な事も知れ渡ってももかが訪れた11月下旬などは物凄い観光客でした。ももかは庭の苔の素晴らしさに感動♪瑠璃色に輝く浄土の世界ってまさにこの事でしょうか。碧とモミジの対比は自然ならではの美しさです♪雨の日に訪れると尚良いかもしれません。貸切ならば更に良いだろうに・・・(願望)。三条実美公命名の「喜鶴亭」、「瑠璃の庭」「臥龍の庭」「山露路の庭」など、風雅に満ち溢れたものを鑑賞出来ます。また、八瀬といえば釜風呂。こちらも見学出来ます。しかし平成26年8月、京都を襲った豪雨により八瀬裏山の土砂が崩落、それは瑠璃光院の建物床下にも達してしまいました。同年秋の特別公開再開に際し、瑠璃光院は「・・(略)・・ほぼ元の美しい景観に戻す事が出来ましたが、裏山の「土砂予防措置工事」の完成が早急には見込めず、来年の夏に再び台風や豪雨に見舞われた場合、今年以上の被害が出る崩落が懸念され、歴史的建物や庭園の景観が失われる恐れがあります。・・・(略)・・今秋に限って特別公開に踏み切った次第です」と寄せています。
此付近白河院址(法勝寺跡)
このふきんしらかわいんあと(ほっしょうじあと) 石碑 白河天皇(1053−1129) 藤原師実(1042−1101)

白河院は元々は摂政藤原良房の別荘で、代々藤原北家の氏長者によって受け継がれてきました。「白河第」「白河別業」「白河殿」ともいい、歴代天皇や女院の行幸・御幸もあり、桜の名所だったそうです。後、藤原師実によって白河天皇に献上されました。承保2年に白河天皇は「国王の氏寺」と呼称された法勝寺を建立します。東は岡崎道より300メートル東、西は岡崎道、南は現在の動物園の南、北は冷泉通より50メートル南に囲まれた広大な寺域には多くの諸堂が立ち並び、池の中島には高さ80メートルにも及ぶ八角九重塔が建てられたといいます。しかし文治元年の大地震により九重塔以外の諸堂の多くが倒壊。残る諸堂も康永元年の火災により焼失してしまいました。後、僅かながら再建と焼失を繰り返し室町時代末には廃寺となったといいます。昭和14年石碑建立。
後水尾天皇皇女昭子内親王墓
ごみずのおてんのうこうじょあきこないしんのうのはか 昭子内親王(1625−1651) 後水尾天皇皇女 明正天皇同母妹

哲学の道を歩いていくと、光雲寺の辺りに見下ろすような白壁に囲まれた御墓があり、そこに皇女が眠っています。瓦に菊と葵の紋を見るのは、後水尾天皇と将軍徳川秀忠の娘で中宮の和子(東福門院)との間に生まれた姫宮だからでしょう。同母姉には明正天皇(興子内親王)がいます。尚、昭子内親王については系譜が他の後水尾天皇皇女と混同され、陵墓名についても変更があったりして不明なところもあるようです。『日本人名大辞典』(講談社)によれば女三宮、法名を妙荘厳院覚海竜宗、関白近衛尚嗣に降嫁し光明心院宮と号す。寛永2年9月13日生慶安4年5月15日没。
金戒光明寺
こんかいこうみょうじ 浄土宗 山号/紫雲山 本尊/阿弥陀如来 通称/くろたにさん

時代劇のロケ地としてもお馴染み。寺名の由来は比叡山の修行を終えた法然上人が此の地で草庵を結び、念仏をされた時、紫雲が山全体にたなびき光明が辺りを照らした事によります。上人没後に「紫雲山光明寺」となり、「金戒」の字は後光厳天皇から賜りました。浄土宗最初のお寺。御影堂(大殿)は焼失と再建を繰り返し現在のものは昭和19年再建のもの。この中には江戸時代に作られた吉備真備像が!意外なところで真備さんにお会いできました。実は彼が唐から持ち帰った吉備観音も安置。平成18年作庭の「紫雲の庭」には「幼少時代・美作の国」「修行時代・比叡山延暦寺」「浄土開宗・寺門興隆」が描かれています。境内には熊谷直実の鎧かけの松(2代目。高さ6・5メートル、幹回り1・95メートル。平成25年10月に枯死し惜しまれつつ伐採)がありましたよ。平成26年3月25日、鎧かけの松は樹齢約30年の新木に代替わりしました。京都の重要文化財の三重塔といえば清水寺、子安の塔、そしてこちらの文殊塔。また大和阿部文殊、丹後天橋立の切戸文殊とともに日本三文殊の一つに数えられているそうです。幕末には京都守護職の会津藩主松平容保の本陣が置かれたのは周知の通り。粟田口にも近く、京における徳川の砦(二条城・知恩院・金戒光明寺)の一つであり、三門から見る京都の町並みは素晴らしいものです。黒谷古地図によれば大坂城まで見えたのだとか。また広い寺域の為、会津藩士一千名が入る事が可能でした。当時の図にほぼ沿って作られているという会津様が近藤局長を迎えたお部屋もあります。金箔が美しい襖が実に質素で雅です。こんな部屋で会津様は「新撰組」の名をお与えになられたかと思うと、幕末熱沸騰!JR東海平成22年秋CMでその紅葉の美しさを紹介。墓地には数多くの著名な人々が眠っています。その中には平成23年の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」にも合わせ、観光客激増でした。平成26年秋、初の夜間拝観が行われました。鏡のように冷たく暗い池に映った美しい紅葉!圧倒されるほどのひと時でした。また拝観者も少なく、本当にこれが京都の秋の夜?という贅沢。


■■三門■
さんもん
普段非公開。万延元年建立。桜上正面に後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額があります。三門への階段は急勾配ですが、上ってみると意外にたやすく上階へ行かれました。山門(三門)に釈迦三尊像が安置されるのは珍しいのだとか。夜間拝観の折に外観がライトアップされましたが、これも白と黒の明暗が光に映えて素晴らしかったです。

■■西翁院■

いおういん 金戒光明寺塔頭 山号/ 本尊/阿弥陀如来 通称/よどみのてら
普段は非公開。天正12年明蓮社光誉上人を開祖として藤堂家御用達の呉服商藤村源兵衛が創建。寺名は源兵衛の法名「西翁院宗徳居士」に因みます。茶室の「紫雲庵(反古庵)」は別名を「淀看席(澱看席)よどみのせき
」といい、重要文化財。源兵衛の孫である藤村庸軒は「千宗旦四天王の一人」として名高い茶人で、この茶室を造りました。その名は遠く淀や山崎まで遠望できるところから来ているのだとか。また、東大文字などの山もビルの隙間からではあるものの見ることができ、当時は京のまちを一望する佳き立地にある事が分かります。茶室は宗貞囲(道安囲)という珍しい造りをしています。平成29年「第51回京の冬の旅」で拝観。

■■西雲院/紫雲石■
さいうんいん 金戒光明寺塔頭 山号/紫雲山 本尊/阿弥陀如来 通称/しうんせき
元和2年宗厳により創建された塔頭。境内には法然上人が腰かけ念仏を唱えたという「紫雲石」がありますが、この石を護るために創建されたと伝えられています。同墓地には会津藩殉難者が埋葬されていて、幕末ファンのノートも置かれています。新撰組の密偵も果たし、会津の為に尽力した会津小鉄(本名は上阪仙吉)のお墓もあります。毎月6月には会津松平家当主を迎え法要が営まれているそうですよ。また、傀儡塚という人形遣いの方の供養塔があります。人差し指に丸い玉を乗せているという斬新なもので、薄暗い墓地の中で異彩を放っています。昭和63年建立。
金福寺
こんぷくじ 臨済宗南禅寺派 山号/仏日山(ぶつにちざん) 本尊/聖観音 
松尾芭蕉(1644−1694) 村山たか(1809−1876) 与謝蕪村(
1716−1784)

貞観6年に建てられ、長く荒廃していたのを貞享年間に鉄舟和尚が禅寺として再興。この鉄舟和尚を訪ね松尾芭蕉の訪れが度々あった事から、後丘の庵は芭蕉庵と呼ばれるようになったのだとか。後に荒廃しましたが芭蕉を敬愛していた与謝野無村により再興されています。また井伊直弼の所縁の村山たかが天誅組によって三条河原で晒し者になった後に助けられ、その後余生を送った寺としても知られています。山の緑に埋もれてしまいそうな一角。住宅街のほんの間に、小さな入口。そこには静寂と清楚とが重ね合わさった空間がありました。与謝野無村のお墓に詣で、「あなたの句集、筆写致しました」と思わず報告(笑)。そう、ももかの学生時代の夏の課題の一つは『与謝野無村句集』全文筆写だったのですよ(^^;)。
鷺森神社
さぎのもりじんじゃ

貞観年間に創建されたと伝えられ始め赤山禅院付近に祀られていましたが、応仁の乱により焼失。その後修学院離宮の山林中へ移転し、離宮造営にあたり元禄2年に現在の地に移りました。お社の祭事に赤山禅院がちょこっと関わってくるのはこの名残なのでしょうね。この名の由来は神さまの使いの鷺がこの森に群集していたからなのだとか。そして勿論の事こちらの絵馬は白鷺♪春の桜や秋の紅葉が楽しめるという隠れた穴場的存在のようです。秋の色とりどりのモミジがとても綺麗。
詩仙堂丈山寺凹凸か
しせんどうじょうざんじおうとつか 曹洞宗 山号/六六山 本尊/馬郎婦観音(めろうふ) 石川丈山(1583−1672)

正式名は「詩仙堂丈山寺凹凸か」。「か」は(穴+果)の字を当てます(ももかのパソコンでは変換不可)。大坂夏の陣において先駆けをし軍規違反を問われた石川丈山が、文人として晩年を過ごした草庵で寛永18年の創建。この名の由来は中国の詩家36人の肖像を狩野探幽に描かせ、この肖像画を掲げた「詩仙の間」に由来します。しっとりとした小有洞という門を潜り、薄暗い参道を歩いた先の老梅関を越えるとそこが境内。赤い敷物に座り、庭園を見て一息。枯山水も素晴らしいです。紅葉は見事ですよ。観光客も多いですけども(^^)。時折鹿おどしの音も響いて風流な一時を楽しめます。平成9年夏・平成18年秋のJR東海のCMで紹介されました。
実相院門跡
じっそういんもんぜき 天台宗寺門派 山号/岩倉山 本尊/不動明王 別称/岩倉御殿,i岩倉門跡

寛喜元年に紫野上野町に創建されたのですが五辻通小川を経て現在の地には応永18年に移転されました。山深い岩倉の地にありながら兵火を免れる事が出来ず焼失を繰り返し、寛永18年にようやく室町15代将軍足利義昭の孫にあたる義尊僧正が皇室と徳川3代将軍家光の援助を受けて再興しました。後西天皇の子・義延親王が入った事から門跡寺院としての歴史が始まります。だから此処は菊の御紋♪因みに明治時代に皇室による入室制度は廃止されました。様々な宝物の中でももかが目を引いたのは「忍」と書かれた後水尾天皇の宸翰です。確かにこの御方は忍びに忍んだ方でありました(笑)。「一仏八僧の庭」も素晴らしいですよ。遠くに比叡の山々が見えて。参拝客も少なくて日頃の喧騒を忘れそうなくらいです。
正本店 (順正書院)
じゅんせいほんてん (じゅんせいしょいん)

南禅寺門前にある「順正」は湯豆腐を頂けるお店というイメージの方が濃いのですが、天保10年に蘭学者新宮凉庭が学問所として開かれたものを前身としています。「順正」とは「逆ならず邪ならざる」という意味。『花洛名勝図絵』にも紹介されたその庭はゆったりとしていて木々や苔の緑が清々しく感じられます。
聖護院門跡/聖護院旧仮皇居
しょうごいんもんぜき/しょうごいんかりこうきょ 本山修験宗総本山 山号/なし 本尊/不動明王


拝観は予約制。天台宗門派の門跡寺院で、修験宗大本山も兼ねています。山伏のお寺なんですね。寺紋は菊に法螺貝。元は常光寺といい岩倉長谷にありました。寛治年間に聖護院と改めこの地に移転。応仁の乱の折に焼失し再び長谷に戻りました。その後移転・焼失を繰り返し現在の地に戻ったのは延宝4年の事です。後白河天皇皇子静恵法親王が入寺してのち、宮門跡となりました。そのような縁もあり数々の大火の際の仮御所にもなっています。昔は鬱蒼とした森が広がっており、森御殿の別称があります。節分の日には法螺貝を下げた山伏の姿が見られます。この日にはお不動さんの御開帳もあり甘酒もいただけます。

■■積善院準提堂■せきぜんいんじゅんていどう 
聖護院門跡塔頭 本尊/不動明王 通称/凖提堂 五大力さん 栴ノ坊(なぎのぼう)
聖護院の塔頭。鎌倉時代創建の積善院と江戸時代創建の準提堂が明治初年に合併、大正3年に現在地に移転しました。聖護院が地方山伏に対して行う事務を代行してきたお寺であり、本山派山伏の筆頭寺院にあたります。本尊は京都では数少ないという準提尊の一つにあたる準提観世音。旧積善院の本尊である不動明王(重文)も鎮座。秘仏の五大力尊像の御開帳は2月23日。また境内には崇徳上皇の怨念を鎮める崇徳院地蔵(人食い地蔵)が祀られています。こちらには赤い首輪を付けた猫ちゃんがいて節分の度に立ち寄っては猫ちゃんに会っています。

■■お俊伝兵衛供養塔(恋情塚)■ おしゅいんでんべえくようとう(れんじょうづか)
積善院準提堂境内にある供養塔で昭和27年秋に建立。五輪石塔で高さは五尺五寸。元文3年、釜座三条の呉服商井筒屋伝兵衛と先斗町の遊女お俊が聖護院の森で心中。この話を元に浄瑠璃作家の近松半二は『近頃河原逹引』を書き、また歌舞伎では『身替りお俊』の演目で上演されています。
浄土院 (大文字寺)
じょうどじ (だいもんじ) 浄土宗知恩院派 山号/清泰山 本尊/阿弥陀如来 通称/大文字寺

銀閣寺の山門近くにあり、大文字の送り火で知られるお精霊送りのお寺。大文字の送り火の起源は多数あってどれが本当なのか定かではないのですが、そのうちの一つにこのお寺が関わっているものがあります。それというのも此処が火災に見舞われた折、本尊である阿弥陀如来が光を放ちながら如意ヶ嶽に飛び去り、後に京に疫病が流行った時に嵯峨天皇が弘法大師に命じて山麓に人を表す大の字型の祭壇をもって厄除平癒を祈願。これが後に送り火になっていったというものです。また此処は丹後局の住居跡でもあります。丹後局は名を高階栄子といい平業房の妻でした。平清盛排斥に失敗し流刑となった彼は、流罪地で殺されてしまいます。そして丹後局は後白河天皇の寵愛を受けるようになり覲子内親王(宣陽門院)を産んだのです。
境内に平成5年に制作された友永詔三氏作の十二単をお召しになられた姫君の人形があります。何も分からないまま境内に入った時には驚きました。何故ここにお姫様が?!(^^;)。因みに神護寺三存像という画が彼のお寺にはあるのですが、元は三体の人物のみではなかったそうですね。そして残る2体は後白河さんと平業房なのです。
白河南殿跡
しらかわなんでん(みなみどの)あと 石碑

元は六勝寺の一つ法勝寺の大僧正覚円の房舎であったものを白河上皇の院の御所として改めたもので、白河泉殿・白河御所と呼ばれました。創建は嘉保2年頃と云われています。後に北殿が造られ、対応するように南殿若しくは南本御所と呼ばれるようになりました。永久2年に阿弥陀堂、大治5年に三重塔が建立。阿弥陀堂は蓮華蔵院の前身です。岡崎の疎水沿いの熊野橋西詰に昭和51年建てられた石碑があります。岡崎周辺は平安時代後期の史跡が点在し、それに伴い石碑も多いので古き良き昔を訪ね歩くのもお勧め。
白雲稲荷神社
しらくもいなりじんじゃ

松ヶ崎大黒天へ行く途中に、鳥居が見られますがそこがお稲荷さんです。新宮神社を「西の宮さん」というのに対してこちらは「東の宮さん」と呼ばれています。稲荷尊、鬼子母神、牛の宮を祀ります。鬱蒼とした境内、苔生した石段に歴史を感じます。
新宮神社
しんぐうじんじゃ

松ヶ崎一帯の産土神で、元々は大比叡大明神と称していましたが、徳治2年松ヶ崎村の日蓮宗改宗の際に、熊野新宮より伊邪那岐命・伊邪那美命二神を勧請し新宮大明神と改めたのだそうです。以降妙泉寺の鎮守社として寺僧が祭祀を行っていました。明治の廃仏毀釈の際に白髪神社と改称、同20年に新宮神社と復しました。白雲稲荷神社が「東の宮さん」と呼ばれるのに対し、こちらは「西の宮さん」と呼ばれているそうです。高台にあり、平成14年再建の石段はピカピカでとても綺麗でした。
心光寺
しんこうじ 浄土宗 山号/法城山 本尊 /阿弥陀如来 

正式名称は法城山晴明堂心光寺。今の松原橋の辺りの鴨川の中洲に法城寺というお寺がありました。昔から鴨川の氾濫には悩まされていたといいますが、安倍晴明はこの洪水をたちまちにして治めたといわれています。水去りて土と成るの意味を持ったこのお寺は彼が造り、また死後彼は此処に葬られ墓は晴明塚といわれていたのだとか。後に心光寺と名を変え、五条から移転。塚も同時に移されたといいますが、現在ではその形跡はありません。狩野永徳の『洛中洛外図屏風』に川の中州が描かれていますのでそれで当時を思い浮かべることが出来ます。法城寺時代のものは散逸が多くて、こちらに残っているのは阿弥陀様と地蔵菩薩様のみ。この阿弥陀様(立像)はご本尊の阿弥陀様(座像)の斜め前にいらっしゃいました。その光背の色合いが何ともいえなくて、うねうねとした模様は水のうねりとそれに対する人々の祈りを思わせるものがありました。大変綺麗な状態で、大切に伝えられてきたのだという事が分かります。また煤の為に黒くなったお顔を見せている地蔵様には人々の祈りと年月を感じさせていました。また訪ねる事が出来ると良いのだけれど(*^^*)
新正極楽寺 (真如堂)
しんしょうごくらくじ (しんにょどう) 天台宗 山号/鈴聲山(れいしょうざん) 本尊/阿弥陀如来

正式名称は新正極楽寺。永観2年延暦寺常行堂にあった阿弥陀如来像を神楽岡の東三条院の宮(一條天皇実母藤原詮子の女院離宮)に移して一宇の堂を営んだのが始まり。応仁の乱で荒廃し、その後何度か移転。元禄6年に現在の場所に移りました。此処から東北の地の元真如堂は女院離宮跡といわれています。日本三大如来の1つとされる本尊の阿弥陀如来立像はまたの名を「頭振りの阿弥陀」「うなずきの阿弥陀」ともいいます。「涅槃の庭」もあります。此処には安倍晴明が閻魔大王に頂いて蘇生したという秘印と「晴明蘇生の図」、晴明の持念仏と伝えられる不動明王像があります。むむっ、興味深いですね〜♪また春日局の父で明智光秀と共に命を落とした斎藤利三のお墓や向井去来、海北友松のお墓などがあります。境内の鎌倉地蔵は玉藻前伝説の殺生石の遺構。桜・紅葉の名所。三井家によって寄進された涅槃図(公開日指定あり)が素晴らしかったです。今度はお十夜に行ってみたいな。平成14年秋のJR東海のCMに登場。

■■新長谷観音堂 (新長谷寺)
しんはせかんのんどう 天台宗 本尊/十一面観音 

藤原魚名の曾孫高房の子・山蔭が幼児だった頃、乳母が誤って海に落としてしまった事があったそうです。その時に助けてくれたのが大亀でした。実はこの亀、高房が太宰府に赴任する時に淀川の畔の穂積の橋のところで捕らえられていたものを、着物と交換に放してもらった亀だったのです。高房や山蔭は長谷観音への信仰が篤く、後に山蔭が長じて播磨守になった際は亀の為に亀井寺というお寺を建てたそうです。また、京にも寺を建てたいと考えた山蔭は、自らの邸宅があった地に新長谷寺を建立。後、東三条女院により再興。明治時代、真如堂境内に移転しました。洛陽三十三所観音霊場の5番札所。
路閣 (疎水アーチ)
いろかく

琶湖から灌漑用水や飲料水の確保、水力による運輸や電力の発達を起こすというのが琵琶湖疎水の始まりです。それは琵琶湖から京都市内を経て宇治川に続く全長約20キロの道で、明治18年着工、約5年の歳月を経て完成しました。南禅寺境内にたつアーチ型の水路閣は全長93.17メートル、幅4.06メートル、水路幅2.42メートルの規模を持っています。階段を登ると実際に水が流れているのが分かります。アーチ下のこの辺り、良くドラマで使われるのよね。
須賀神社/交通神社
すがじんじゃ/こうつうじんじゃ

貞観11年に播磨国広峯から遷座したお社で聖護院一帯の産土神。古くは西天王社と称し、平安神宮の蒼龍桜の辺りの西天王塚と呼ばれるところにありました。対して東天王社は岡崎神社がこれにあたります。後、元弘二年に兵火を避けて吉田神楽岡に遷り、慶安元年に吉田大元宮西下へ社殿を造営しました。現在の地に遷ったのは大正十三年の事です。遷座40周年にあたる昭和39年には御祭神五柱のうち三神を分祀し、この時に交通神社が建てられました。神幸祭を「角豆祭
ささげまつり」といい、角豆をお供えします。また、節分の日の懸想文売りの姿は必見です。懸想文は恋文に因んだお札で、人に知られないようにこっそりと箪笥などに入れておくと着物が増え美しくなり良縁に恵まれるというもの。多くの女性が境内を歩く二人の懸想文売りにこれを求めている風景が京都の風物詩となっているのです。
崇道神社
すどうじんじゃ

平安時代初期に皇位を巡って非業の死を遂げた早良親王を祀っています。解説文の「怨念を残しつつ憤死させられた」にはすっごく力が篭っているような気が。早良親王は桓武天皇の同母弟で後に「崇道天皇」の名を贈られました。古くは「出雲高野神社」といい、上高野の産土神として存在していたようです。名が改まったのは御霊会が始った貞観5年以降。京の東北鬼門にあたり、裏山には小野妹子の子・毛人のお墓もあります。お社の名は「崇道」ですが額は「崇導」。ももかは後者を好んで使っています。早良親王のみを祀った神社は珍しいとの事。皇室関係なので完全なる菊紋です。鳥居を抜けて鬱蒼とした参道を歩いて行くと社殿が見えてきます。普段は無人ですし雨の日に行くとはちょっと怖いですよ(笑)。それでも平成22年に訪れた時は旗まで立っていて驚きました。
山禅院
せきざんぜんいん 天台宗 山号/ 本尊/赤山明神(泰山府君)

延暦寺の別院で天台宗の鎮守である赤山明神を祀っています。慈覚大師の意思をつぎ弟子の安慧により仁和4年に創建されました。末社には西宮夷社、春日社、十禅師社、住吉社、平野社、賀茂社、新羅社、松尾社の顔ぶれが。京都御所の東北、表鬼門にあたりその本堂の屋根には御所の方向を向いた御幣を持つ猿の姿を見る事が出来ます。京都御所の東北のカケである猿ヶ辻、そして幸神社、この赤山禅院、比叡山。御所の鬼門はこうして1本の線につながっています。この線は大津側に抜け、日吉大社へと繋がっているのです。また赤山明神は天にあっては福禄寿、地にあっては泰山府君と呼ばれています。その為、ここは都七福神の1つでもあります。それに因んだ手描きの福禄寿おみくじがあります。これがすご〜く可愛いの♪紅葉の頃の雲母坂はとても綺麗です。

■■金神社
赤山禅院の境内にある小さな小さな神社で鬼門・方位除けの神様をお祀りしています。
宗諄女王御墓
そうじゅんじょおうはか 宗諄女王(1817−1890) 伏見宮貞敬親王の娘 万志宮

哲学の道沿いにあります。秋には白壁から零れ落ちるような紅葉が誠に見事なのです。宗諄女王は伏見宮第19代貞敬親王と関白一条輝良の娘・輝子の間に生まれた第10王女で、幼名を万志宮といいました。父・貞敬親王は天皇候補として名が挙がった事もあるそうです。文政2年に光格天皇の養女となり、後に霊鑑寺に入って得度し宮門跡五世となりました。法名は宗諄。江戸末期から明治までを生きた宮様です。
疎水インクライン
そすいいんくらいん

琵琶湖疎水工事の時に使用されたのがこのインクラインです。その地名をとって蹴上インクラインとも呼ばれます。長さ582メートル、高低さ36メートルの疎水間を上下した傾斜鉄道で、
大津から来た船は蹴上からこのインクラインを利用し台車に乗って運ばれ、疎水に浮かんだ後に鴨川から宇治へそして大阪へと向かったのです。山で船が台車に乗っているという光景・・予想もつきません(笑)。後に廃止されましたが昭和52年に復元、昭和58年に京都市の史跡に、また平成8年に国の史跡に指定。春には桜のアーチが出来て綺麗です。
大雲寺
だいうん天台寺門宗(天台證門宗) 山号/紫雲山 本尊/十一面観音

天禄2年日野文範により建立。園城寺(三井寺)の別院で山門・寺門の争いには寺門派の中心ともなったといいます。創建時には広大な敷地を持っていましたが、山門との対立の中で荒廃。平安時代中頃には既にその様子が『小佑記』に記されています。長い事衰退していましたが寛永10年に再興。本尊の十一面観音は行基作と伝えられ、元々内裏にあったものが藤原時平に渡り、更にその妻明子によって大雲寺に移したといいます。再興以降本尊は秘仏とされてきましたが、元禄3年に一般公開を果たします。岩倉散策の折にちょっと立ち寄るのも良いのかも。『源氏物語』では北山に篭った源氏の「北山のなにがしの寺」は此処ともいわれています。岩倉の地は昔からそういうところだったようで、今でも病院などがあったりします。
宝ヶ池/宝ヶ池公園
たからがいけ/たからがいけこうえん

江戸時代中期に灌漑用水池として造られたのがこの宝ヶ池。地下鉄の国際会館駅を降りると市内の喧騒が嘘のような世界が広がってきます。公園は池を中心に周囲をぐるりと囲んでいるのですが、一人でとぼとぼと歩いていると余りの人気のなさに心細くなってしまう程です。駅前にはタクシーが待っているのでタクシーを貸し切って近くのお寺などを周るのも良いかも。京都国際会館から寝子ガ岳の裾を走り、宝池トンネルをくぐり、市バス宝ヶ池公園前の停留所の辺りにくるとようやく池と売店と散策を楽しむ人の車を見つける事が出来たといった感じでした。
狸谷不動院
たぬきだにふどういん  真言宗 院号/不動院 山号/狸谷山 本尊/不動明王

正式には大本山一乗寺狸谷山不動院。この本尊の不動明王は咜怒鬼(タヌキ)不動明王と呼ばれ平安京の東北隅の鬼門を護る為に祀られたもの。建長年間に洞窟に安置されました。坂道また坂道をひたすら上ったその先には、鬱蒼とした森の中に続く250段の階段があり、それを上り詰めるとようやく視界が開けてきます。ここから厄坂と書かれた階段を上っていくとようやく本堂に到達。ここから見る京都の町並みは格別です。地元では「タヌキダニの不動さん」として親しまれています。自分を見つめなおしたい方には是非訪れて頂きたいところですね。でも体力勝負?!ももかはかなりの筋肉痛に悩まされました。煩悩も吹き飛ぶ感動がそこに!
哲学の道
てつがくのみち

その昔、哲学者西田幾太郎や田辺元らが思案に耽りながら歩いたのでこの名がついたのだとか。ドイツの「Denken Straase(考える道)」に因んでつけられました。途中に「人は人吾はわれ也とにかくに吾行く道を吾行くなり」の碑が。つまり「君は君の道を行け私は私の道を行く」って事よね〜(ウソウソ)。平成9年春のJR東海のCMに登場。
春の桜の時期がやはりお薦めです。人混みが苦手という人は早朝散策が良いのではないのでしょうか。全長2キロというのは長い道のように思っていたのですが、実際に行ってみると歩けてしまいます。秋は桜葉が紅葉している時期、つまりモミジより早く赤くなるので11月上旬がお薦めです。
南禅寺
なんぜんじ 臨済宗南禅寺派大本山 山号/瑞龍山(ずいりゅうざん) 本尊/釈迦如来 京都五山および鎌倉五山の別格上位

正式名は瑞竜山太平興国南禅寺。亀山天皇が造った離宮禅林寺殿がその始まりで、禅寺として改められたのは正応4年の事。亀山天皇は正応年間に妖怪の出現に悩まされていましたが、それを遠ざけた大明国師に深く帰依したのだといいます。初めは竜安山禅林禅寺といいましたが正安年間に南禅寺と呼ばれるようになりました。此処の方丈庭園は好きなお庭の一つなのですが、改修工事の時に立ち寄った時は「・・・」っていう感じでした。何しろ音が凄い上に方丈は木が組まれていて本当に工事中そのもの。庭を見てゆっくり浸る〜なんて感じではありませんでした(^^;)。寛永5年に藤堂高虎が大坂夏の陣による戦没者を慰める為に建立したという三門は石川五右衛門が「絶景かな」と賞賛したとかしないとか。ももかも結構上っているのですが、確かに展望は見事です。南禅寺は紅葉の名所ですので是非深秋に立ち寄ってみてください♪平成7年秋のJR東海のCMに登場し、以来紅葉の色づいた三門を背景に写真を撮るというのがももかの憧れになりました。平成20年春バージョンは、南禅寺にこんなに桜があったのか?!という美しさ。夜はかなり妖しかったけど。

■■光雲寺/南禅寺禅センター■ううんじ/なんぜんじぜんせんたー 南禅寺境外塔頭 山号/霊芝山 本尊/釈迦如来 別称/南禅寺北ノ坊
普段非公開。南禅寺から北に歩いて15分くらいの場所にあります。元々は摂津国天王寺にあり弘安三年南禅寺に先立って創建されました。その後戦乱によって荒廃してしまいますが明暦三年に英中禅師によって再興されます。更に英中禅師に帰依された後水尾天皇と東福門院により、南禅寺の北ノ坊(現在地)に移転しました。故に後水尾天皇・明正天皇・東福門院所縁の寺物や葵紋の寺物を見る事が出来るのです。現在は当時よりもかなり規模が小さくなっていて、仏殿と鐘楼が残っているくらいですが、こじんまりとしたところもなかなか風情があります。御本尊の釈迦如来の光背は素晴らしい曲線を描いているんですよ〜。植治の庭も素敵です。清正が持ってきたという瑪瑙の手水鉢も珍しいですよね。硝子も歪んでいるところが良いです。こちらではお茶と満月の阿闍梨餅を頂きました。お寺の方とお話していたところ、奥から安政二年の朱印状が出てきたといって見せていただきました。墨の色も鮮やかに、とても100年以上前のものとは思えない物を拝見できて嬉しゅうございました。そこにはさりげなく後水尾天皇の書があったりしてv 申し込みをすれば座禅や法話体験が出来るそうですよ。

■■金地院こんちいん 南禅寺塔頭 臨済宗南禅寺派 本尊/地蔵菩薩 金地院崇伝(以心崇伝)(1569−1633) 
応永年間に大業和尚が足利義持の帰依を受けて創建。このお寺に所縁のある人物といえば金地院崇伝でしょう。彼は徳川家康の近くにあってその威勢は衰える事無く、寺大名、黒衣の宰相(素敵なネーミングvv)とまで呼ばれたのです。庭がとても美しくて他の観光スポットを見合わせようと考えてしまう雨の日や曇りの日に訪れてみたいもの。明智門は明智光秀が母の菩提を弔う為に大徳寺に建立したものを移転。光秀の母といえば壮絶な最期を遂げた御方であり、本能寺の変の一原因ともいわれていますね。


■■真乗院しんじょういん 南禅寺塔頭 臨済宗南禅寺派 山名宗全(1404−1473)  
応仁の乱の西軍大将である山名宗全の墓所があります。永享8年に当の宗全が宗全と戦死者の霊を弔う為に建立しました。
ももかは大河ドラマ『花の乱』放映の年に竜安寺に東軍大将細川勝元に会いに行き、次いで此処に山名宗全に会いにやってきたのでした。勿論、応仁の乱の発祥地ともいえる御霊の森(上御霊神社)にもちゃんと立ち寄りましたよ♪つまりはかなりのミーハーだったという事です(笑)。因みに宗全の屋敷址は彼が陣を張った西陣にあります。

■■聴松院ちょうしょういん 南禅寺塔頭 臨済宗南禅寺派 本尊/摩利支天 
南禅寺の塔頭で建武3年の創建。「京南禅寺聴松院ゆどうふ」の看板を掲げ南禅寺界隈の湯豆腐の名店の1つでしたが、平成に至り惜しまれながらも閉店しました。庭園は見事で『都林泉名勝図絵』にも紹介されています。緑の木々、池、白い砂。敷物の赤が映えてしっとりとした空間を作っているのが素敵。書院からこれを鑑賞しながら食べる湯豆腐は絶品でしたが、本当に残念です。湯豆腐は江戸時代中期の門前の番所で旅人に豆腐の煮売りをしていたのが始まりなのだとか。こんな所にも歴史があるのですね。現在は猪が迎えてくれる摩利支天堂のみ拝観が出来ます。

■■天授庵てんじゅあん 南禅寺塔頭 臨済宗南禅寺派
亀山天皇が深く帰依していた大明国師無関普門禅師を祀る南禅寺の開山塔で暦応3年に建立されました。しかし文安4年の大火、応仁の乱の兵火により荒廃。現在の建物は慶長7年に細川幽斎の助けを得て玄圃霊三和尚が再興したものです。菱形の石畳が印象的。夜間拝観もお薦めです。庭の遠くに配置された青竹と紅葉や庭とのコントラストが素晴らしいのです。

■■南禅院なんぜんいん 南禅寺塔頭 臨済宗南禅寺派 
南禅寺発祥の地で亀山天皇が造営した離宮禅林寺殿の上の宮遺跡にあたります。元禄16年の再建です。平成13年夏のJR東海のCMに新緑が見事な南禅院として紹介。夢想国師が造ったとされる庭園は天竜寺と並んで鎌倉時代の京都の双璧作といわれているのだとか。水路閣の近くなので余り目立たないのですが、是非立ち寄りたいところですね。
野仏庵
のぼとけあん 

湯豆腐で有名な「順正」の創立者上田堪庵が設立。西園寺公望所縁の茶室である陶庵席や門、上田秋成所縁の雨月席があります。上田秋成の『雨月物語』、好きなんですよ。そんな訳でかなり感激したももかはいろんなお話を伺いました。また降魔不動明王座像も入口にあります。こちらでは入館時にお茶を頂けます。その名の通り野仏が一杯。
八神社
はちじんじゃ

銀閣寺の鎮守社。八という文字に八所御霊を連想したのですが御霊をお祀りするお社ではなく、古くは八所大明神十禅師大明神といい、高皇産霊尊他七神を祀っているそうです。嘉永6年に浄土寺村一村が全焼し古文書が焼失している為に詳しい歴史は分かりませんが、創建は大同年間と伝えられますから、平安初期になりますね。『諸社根元記』に依れば延喜905年に鎮座したとあります。社史によれば古くからこの辺りの産土神として祀られていたお社に、延喜5年に神祇官で奉斎されていた神々が祀られる事となった・・とあります。後に文明16年に八神殿は吉田神楽岡(現・吉田神社大元宮)に遷されていますが、引き続きこちらの地でも八神殿をお祀りしているのだとか。平成19年鎮座1200年を迎えました(社史)。祭礼で使われる剣鉾は有名なのだそうですが、通常はひっそりとしたところなので見た事はありません。平成24年の秋季例祭では実に52ぶりに巨大な御神輿が復活しました。次の年、ちょうどお祭りの日にお参りした時は雨降りの中準備をしていて御神輿はビニールがかかっていました。因みに大文字山にはこの鳥居前を折れてから登っていくのです。
八大神社
はちだいじんじゃ

永仁2年に勧請され祇園八坂神社と同じ素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神をお祀りしています。古来から北祇園、北天王と称され都の東北表鬼門にも位置。宮本武蔵と吉岡一門が決闘をした当時のいわゆる「下り松」の古木が保存してあります。またももかがとてもびっくりしたのはこちらには赤山明神と大将軍社がお祀りされている事。赤山明神についてはお聞きしなかったのですけど、大将軍社は以前にこの辺りにあったものがなくなってしまった為にこちらに移されているのだとか。目にうろこ状態でした〜(^^;)。平成18年に境内社の改修が行われました。
東本願寺岡崎別院 (洛東岡崎御坊親鸞聖人御草庵遺蹟
ひがしほんがんじおかざきべついん (らくとうおかざきごぼう
東本願寺(真宗本病)別院 真宗大谷派 本尊/阿弥陀如来 

真宗大谷派の東本願寺(真宗本廟)別院。親鸞が建永2年2月流罪となり越後に赴く際にこの草庵の鏡池に姿を映したといわれている池が境内にある親鸞姿見の池です。池というより八角形の井戸みたいな大きさです。また親鸞手植えといわれるのが紅梅の八房の梅です。以来「親鸞屋敷」と呼ばれていた旧跡地に寺院を建立したのは享和元年。東本願寺20世達如上人によります。岡崎御坊と呼ばれていましたが明治9年に現在の岡崎別院に改称しました。申し出ればご案内もしていただけるようです。秋はひっそりとした境内に大銀杏がはらはらと葉を落としていました。
百萬遍知恩寺
ひゃくまんべんちおんじ  浄土宗大本山(浄土宗京都四ヵ本山の一) 山号/長徳山 院号/功徳院 本尊/釈迦如来

法然上人が開いたと伝えられ、前身は烏丸今出川にあった賀茂社の神宮寺で、「賀茂のかわら屋」「今出川釈迦堂」「加茂禅坊」などといいました。現在も「加茂禅坊」の文字を印に見る事が出来ます。境内の加茂社はその名残なんですね。後、法然の弟子の源智上人が住持となり、浄土専修念仏の道場として功徳院知恩寺を称します。「知恩」とは法然上人の恩を知る、の意。「百萬遍」とは後醍醐天皇から賜った号で、元弘元年に第八世空圓上人が疫病を封じる為に七日七夜を期した百萬遍念仏を行った事に由来します。足利三代将軍義満が相国寺を創建するにあたり移転。後に堀川中立売、広小路などを経て現在の地に移ったのは、寛文元年の御所の火災の類焼によってからです。本堂の大きな念珠が印象的でしたよ。境内には日本に三基しかない阿弥陀経石があります。法然上人の御廟には珍しい「念」を模った念字門が。
平安神宮
へいあんじんぐう

平安京に所縁ある桓武天皇と孝明天皇が祀られています。明治28年に平安遷都1000年を記念して建てられました。平安朝には白河院を始め六勝寺や貴族の邸宅のあった場所でしたが、応仁の乱で焼失。明治時代に入るまでの長い間、田園地帯のままでした。社殿は大内裏の正庁である朝堂院の形式を凡そ3分の2の大きさに縮小したもの。昭和51年炎上。現在の建物は昭和53年に再建されたものですが、その大きさと朱塗りの社殿・白砂利のコントラストの美しさに圧倒されてしまいます。神苑の紅枝垂桜はお勧めです。この桜を平成16年春のJR東海のCMで紹介。続いて平成18年春のCMでも神苑が登場しています。作庭は「植治」こと小川治兵衛。現在に西神苑・中神苑は神宮と同時期に作られましたが、東神苑はその後に作られました。山縣有朋の無鄰庵のお庭を造っていた植治に、有朋出征の報が届き作業は中断。こちらはその間、有朋の推挙も受けて作庭する事になったのです。神苑は西・中・東を約20年の歳月をかけて作られた訳ですね。中神苑の沢渡り石は、臥龍橋と名付けられていますが、これは元々三条大橋と五条大橋の橋脚なんですよ。京都薪能も行われます。
法然院
ほうねんいん 
浄土宗 寺号/萬無教寺(ばんぶきょうじ) 山号/善気山 院号/法念院 本尊/阿弥陀如来 別名/本山獅子谷法然院

正式名称は善気山法然院萬無教寺。法然上人はこの辺りで専修念仏を説いたのだとされています。このお寺は延宝9年に法然所縁の鹿ケ谷に建立されました。伽藍は普段は非公開で、年二回のみ公開。ももかは大雨の秋の公開に訪れたのですが、鬱陶しい雨もここでは風情あるものとして見る事が出来ました。本堂には外陣と内陣を分ける結界が張られ、奥のご本尊前の須弥壇には二十五菩薩を象徴する25の生花が放射状に散華しているのです。この時は秋だけに菊。薄ぼんやりとした建物の中に光る壇上の花。春だったら椿なのでしょうね。方丈を説明付で案内され、ツワブキが綺麗な庭園を見ながら、善気水で湧かしたお茶を頂きました。至福の時です。公開日以外でも境内には立ち寄る事が出来、春には水面を描いた白砂壇の上に零れ落ちた椿が綺麗でした♪平成11年秋のJR東海のCMにも登場。この紅葉の赤は記憶鮮明♪
境内南には著名人のお墓があります。ももかの馴染み深い方は谷崎潤一郎氏かな〜。学生の時に色々と読んだ記憶があります。『卍』とか『刺青』とか『痴人の愛』とか・・・。
本願寺北山別院
ほんがんじきたやまべついん 
西本願寺別院 浄土真宗西本願寺派 本尊/阿弥陀如来

浄土真宗本願寺派の京都4別院の一つ。もともとは天台宗に属し養源院といいましたが、延宝6年に至り本願寺に属し北山養源寺と称しました。天和3年木仏御本尊と親鸞聖人、蓮如上人の絵像を安置。後に山科別院への支援の為に本堂を山科に移転し、規模は縮小され、明和2年に再興。江戸時代の火災や度重なる動乱により堂宇全体が完成に至ったのは明治に入ってからとの事です。親鸞が29歳の時に万人の救われる道を訪ねようと聖徳太子所縁の六角堂に百日間の参篭をした折、この北山の地で湧き出でる水で喉を潤したという話があります。これが「御聖水」であり、聖徳太子が童の姿となって親鸞を励ましたという伝説は「影向石」としてこのそばに立っています。何だか神秘的でしたよ。
松ヶ崎大黒天妙円寺
まつがさきだいこくてんみょうえんじ 日蓮宗 山号/松崎山 本尊/久遠実成本師釈迦牟尼仏・大黒天 通称/松ヶ崎の大黒さま 都七福神の一つ

元和2年創建。日蓮宗の日英上人が、寺を建立するにあたり法華経の守護神として大黒天を別堂に祀ったのが始まりです。松崎山妙円寺が正式名称ですが、「松ヶ崎の大黒様」の方が馴染み深いです。また、昭和44年の火災で無事だった事から「火中出現火伏守護の大黒様」とも呼ばれているのだとか。本尊は伝教大師作といわれ、開運招福のありがたい大黒様。都七福神の第一番。小高い場所にあって石段もキツイですが、その分ご利益ありますよ。境内には撫で大黒さんがいらっしゃいます。なでなで。松ヶ崎まで来ると送り火の「法」もよく見えますね。「法」の火床は境内奥から登って行く事が出来るようです。
曼殊院門跡
まんしゅいんもんぜき 天台宗/ 本尊/阿弥陀如来

伝教大師の創建で比叡山西塔北谷にあり東尾坊いいましたが、天仁年間に名を改め曼殊院と称しました。現在の地に移ったのは明暦2年。桂宮智仁親王の子、良尚法親王により建物や庭園が整えられました。枯山水の庭と枝ぶりの良い五葉松、霧島ツツジがとても綺麗。別名は
竹ノ内門跡、小さな桂離宮。以前、特別公開でのみ拝観をしていた上之間は、現在通常拝観が可能となっています。平成18年秋のJR東海のCMに登場。平成25年を以て本尊弥陀如来坐像(平安時代)、不動明王木像はこのお寺での公開は最後となるそうです。長らく住まったお寺から離れたくないだろうな、博物館などに寄託されたら信仰というよりは美術品としての仏様になってしまうなと思いつつ、じっくりと堂宇を見ておりますと、修繕が必要なくらいになっている天井とか、そういうものに気づきました。後の世に伝える事も課題なんですよね。またお会いする日まで。
満足稲荷神社
まんぞくいなりじんじゃ 豊臣秀吉(1536若しくは1537−1598)

あの太閤さんをも満足させその名を戴いた有難いお社。東大路通を二条から三条に下った辺りに鎮座しています。文禄年間に豊臣秀吉によって伏見桃山城内に勧請され、元禄六年に徳川五代将軍綱吉により現在の地に移されました。境内には樹齢四百年ものモチの木があります。また岩神さんと呼ばれる石があり、撫でると頭が良くなり痛い所を治してくれるのだとか。という事でももかも撫で撫でしてきましたv
三宅八幡神社
みやけはちまんじんじゃ 小野妹子(生没年不詳、飛鳥時代)

小野妹子が遣隋使として隋に赴く途中の筑紫で病に倒れました。その時に祈願したのが宇佐八幡宮。彼は後にこの高野の地に移り住み八幡宮を勧請しました。「三宅」の名は南朝の忠臣である備後三郎三宅高徳がこの地に住み崇敬したことから来ています。応仁の乱の際に焼失し、後復興。現在の社殿は明治時代のものです。「虫八幡」とも呼ばれて子供の癇の虫除けにご利益があるのだとか。此処では鳩が神様のお使い。その為、狛鳩があります。鳩餅も有名♪平成20年絵馬展示資料館開館。こちらはまだ未踏。
妙満寺
みょうまんじ 顕本法華宗総本山 山号/妙頭山 本尊/三宝尊

康応元年日什上人によって開かれました。日什上人は元々天台宗徒で、比叡山三千の学頭にまで上り詰めた人物。しかし故郷会津で日蓮聖人の教えに触れて日蓮宗へ改宗したのでした。創建当時は六条坊門室町にありましたが、さ幾度かの兵火で焼失を繰り返し、天正11年にその後寺町二条に移転。更に昭和43年の大遷堂により岩倉の地に移り現在に至ります。喧騒とした寺町から静かな岩倉に遷ったのは英断といって良いでしょう。しかし此処も開発の波が押し寄せています。何て綺麗なんだろう〜v vそれがこの門を潜った時の一番の感想でした。本坊の「雪の庭」は松本貞徳の作庭。比叡の山を借景にした冠雪の景色が美しく、これが名の所以となっています。京都に雪が降ると、この「雪の庭」に雪が積もった姿をみたいという雅な方もいるようですね。また此処には安珍清姫伝説の鐘があるのです。紀州道成寺は大宝元年の建立。そして安珍・清姫の物語は、それから230年後の延長6年8月の出来事です。蛇に身を変えた清姫が、鐘の中に隠れていた安珍を焼き殺してしまった後のこと。正平14年に道成寺には再鋳された鐘が寄進され鐘供養が営まれました。その席に一人の白拍子が現れ蛇身に姿を変え、呪力で鐘を落下させるという事柄がありました。以降悪病災疫が横行した為、鐘は山林にうち捨てられる事になってしまいます。200年後の天正年間に豊臣秀吉の家来仙石権兵衛がこの鐘を拾い、京都に持ち帰り妙満寺に納めたのです。これが妙満寺と鐘との出会いでした。先年、この鐘は道成寺に里帰りしたそうです。高さ約105センチ、直径約63センチと歌舞伎などで見る鐘よりもずっと小さな物ですが、昔の人は小柄だった筈なので入るのは可能ではないでしょうか。境内の仏舎利大塔も必見。正行院、法光院、成就院、大慈院の四院の塔頭があります。
弥勒院/幸せ地蔵尊
みろくいん/しあわせじぞうそん 本山修験宗 山号/祥雲山 本尊/大日如来

哲学の道の銀閣寺〜法然院への途中にある弥勒院にはお地蔵さんを祀るお堂が門を開いています。ぶらりと立ち寄り、幸せを祈る事が出来るお地蔵さんです。室町筋の呉服商が戦時中に弥勒院に預けて以来本堂にあったものですが、昭和56年の台風で土塀が倒れ、それを機に地蔵堂が新たに建てられてこちらに安置されています。子供を抱いている姿から子安地蔵とも呼ばれています。弥勒院は元々、聖護院門跡に属し、現在の聖護院の近くにありました。昭和初期に現在の地に移転。近くでは冷やし飴なども売っていたりして、その光景は微笑ましいもの。桜の時期がやっぱりベストですね。
宗忠神社
むねただじんじゃ 黒住宗忠(1780−1850)

文久2年、吉田神社から寺地を譲渡を受け、吉田山の丘陵地に創建。祭神は黒住教教祖の黒住宗忠。宗忠は幕末の嘉永3年に没し、暗翳年に朝廷から「宗忠大明神」の神号を与えられました。桜の時期は穏やかで良い感じです。神楽岡散策の折に立ち寄りたいですね。境内には「神井」という名水が湧いています。珍しい宗忠鳥居や、備前焼の狛犬(逆立ち)も見どころです。また、生きた狛犬・コロちゃんにも会えます。
無鄰庵
むりんあん 
山縣有朋(1838−1922)

狂介こと山縣有朋の別邸。かつて彼が長州に建てた隣家がなく静かな庵。それが無鄰庵の名の由来となっています。始めは木屋町二条にありましたが、この地にこの名前で再び作られました。山縣、実は作庭を欧州で見聞しています。そして此処に携わった人物で忘れてはならないのが植治こと小川治兵衛。近代的日本庭園の第一人者ですね。山縣自ら設計し、植治の手による作庭は東山を借景にし、琵琶湖から引かれた疎水の水を取り入れたもの。芝生のお庭にさらさらと流れる小川。心が落ち着きます。
世に「無鄰庵会議」と呼ばれる日露戦争開戦が決められた洋館は明治31年に建てられたもの。小さいけれど内部はかなりお洒落です。
山住神社
やまずみじんじゃ

桓武天皇は平安遷都の折、王城鎮護の為に東西南北の山に地切経を埋めたといい、此処は北岩倉にあたるといわれています。境内には社殿はなく磐座そのものがご神体となっています。鳥居を抜けると鬱蒼とした空間。岩に木の根が巻きついて何だか不思議。岩倉方面に来る観光客も立ち寄る人は少ないでしょう・・・だって此処で写真を撮ってたももかを怪訝そうに見てたもの。でも最近のガイドブックには石座神社と共に名前が載るようになりました。
由岐神社
ゆきじんじゃ

天慶3年、鞍馬寺が御所から鎮守社として勧請。御遷宮の時、京の鴨川に生えていた葦で松明を作り道々には篝火を焚き神道具を先頭に行列の長さ10町という一大儀式により御勧請されたのが、「鞍馬の火祭」の由来なのだそうです。平安京の北方の鎮めといわれ、祭神は大己貴命と少彦名命。国家の大事には靫(ゆぎ)を奉納。この靫を架けるという同じような事が五条天満宮でも行われていたのだそうです。本殿と拝殿は慶長12年建立のもの。大杉社に祀られている杉の木は樹齢800年の京都指定天然記念物。九十九折の道の入口近くにあるお社。かなり急な割拝殿を上っていきます。鞍馬に来たというj実感でテンションも上がります。
陽成天皇神楽岡東御陵
ようぜいてんのうかぐらおかのひがしのみささぎ 第57代陽成天皇(868−949) 在位(876−884) 清和天皇第一皇子

清和天皇と藤原長良の娘皇太夫人藤原高子の第1皇子。名を貞明といいます。母親の藤原高子は在原業平との恋が『伊勢物語』に描かれています。そう、「鬼ひとくち」のお話。幼い頃は父である清和上皇と摂政で伯父の藤原基経の後見を受けていましたが、上皇崩御後は元々対立していた基経との仲が更に険悪となり退位に追い込まれてしまいます。陽成天皇は「狂気の天皇」とも「物狂帝」とも呼ばれました。清涼殿で天皇の乳兄弟・源益が謎の死を遂げた時も犯人と噂されました。この事は『尊卑分脉』『玉葉』にも記されていますが、これが退位の一原因でもあるようです。天皇は天暦3年に崩御し、岡崎にあった円覚寺に移された後にこの神楽岡に葬られました。しかしその所在はいつしか失われ、後にこの地と定められました。真如堂にも近いですね。日当たりが良い場所にあります。
吉田泉殿之跡
よしだいずみどののあと 石碑

百万遍の交差点の辺りにあったのが西園寺公経の別荘である吉田泉殿。地名も吉田泉殿町(よしだいずみどのちょう)といい、碑は「御菓子司 かぎや」さんの前にあります。藤原定家の『名月記』にもその造営の事が触れられている箇所もあり、贅を極めたものだったようです。歴史の流れの中荒廃し、いつしか吉田神社の社領になるなど、変貌していきました。西園寺公経は西園寺家の祖といわれ、その子孫には天皇や鎌倉将軍の顔ぶれを見る事が出来ます。
吉田山荘 Cafe真古館
よしださんそう かふぇしんこかん

吉田山の麓に建てられた旧伏見宮家の別邸・吉田山荘。昭和7年の和洋風な築造で、平成24年に登録有形文化財建造物に指定。玄関の壁に嵌め込まれたステンドグラスは日本製で、当時のままの趣を保っています。よく見るとこのデザインは銅鏡を模しており、しかも伏見宮家の「フシミ」が隠されているという・・・素敵です。その敷地内にある真古館は、カフェになっています。元々は一階が車庫(?)だったとか。二階は運転手さん方のお部屋だったと伺いました。階段の手すりや天井の漆喰とむき出しの梁との調和が見事で、さりげなくアール・デコ様式のテーブルランプが置かれていてお洒落です。私はお福もちと伊万里焼きのカップで出していただいたカフェオレでほっこり♪あと、オリジナル菓子であるこうもりビスケットも注文。蝙蝠好きの人にはたまりません。とても可愛いのです。
吉田神社
よしだじんじゃ
 吉田兼倶(1435−1511)

吉田山西麓に鎮座し、鬼門を守護しています。実は京の中でも最も魔界的な方位だったらしいです。貞観元年藤原山陰が春日大社から四神を勧請し平安京の鎮守神として祀ったのが始まり。注意すべき点は藤原氏の氏神に過ぎない四神を王城鎮護の神として祀ったところですね。この頃から藤原氏はその平安時代の反映の基礎を固めつつあったのです。応仁・文明の乱により衰退したものの祠官吉田兼倶が吉田流神道を興し大元宮を中心とした斎場所を創って復興
兼倶は「神祇官領長上」を名乗って天神地祇八百万神と式内社3112座、その他の神々・・・つまり全国六十余州の神々を勧請したので、「吉田神社に一度参詣すれば日本中の全ての神社に参詣したのと同じご利益がある」とされ信仰を集めました。斎場所大元宮は八角形をした珍しい建物として知られています。『鴨川ホルモー』では此処で怪しげな踊りを奉納。2月の節分会の賑わいには、更に都人への憧れ度が増しました(笑)。2月3日の火炉祭は、曲折があったものの平成29年に3年ぶりに復活し、再び節分の夜の吉田山に炎が上がりました。因みに翌日4日はそれまでの2日間とは変わって屋台も撤収しており山は烏とゴミの山。同日開催の節分後日祭は参拝者もまばらで厳かな神事が執り行われるのでした。
霊鑑寺門跡 
れいかんじもんぜき 臨済宗南禅寺派 山号/円城山 本尊/如意輪観音
別称/谷の御所、鹿ケ谷比丘尼御所、西の宝鑑寺など 尼門跡寺院
 宗澄女王(1639−1678)

通常非公開ですが、春と秋に特別公開されます。「谷の御所」「鹿ヶ谷比丘尼御所」、また「西の宝鏡寺」などとも呼ばれている尼門跡寺院です。承応三年後水尾天皇の第11皇女宗澄女王(多利宮、宋澄宮)を開祖として創建されました。元々は現在よりも南に位置していましたが、貞享年間に後西院御所の建物を移築するにあたり、諸堂が現在の地に移されました。これが幸いして、江戸時代における大火や幕末の騒乱などを経て建物が伝えられる事になった訳です。名の由来は、荒廃していた如意寺の如意法輪観音像(本尊)と霊鏡を併せて祀ったことからきているそうです。書院の襖絵も状態が良いです。春の椿、秋の紅葉も見事。どちらも地面に散り落ちている姿も見応えがありますよ。池水は枯れているようですがその分苔も綺麗でした。樹齢三百年と言われる日光椿は天然記念物。

■■妙見堂■みょうけんどう
境内から離れた場所に、洛陽十二妙見の卯の「鹿ケ谷の妙見さん」として親しまれている妙見堂があります。
冷泉天皇桜本御陵
れいぜいてんのうさくらもとのみささぎ 第63代冷泉天皇(950−1011) 在位(967−969) 村上天皇第二皇子

村上天皇と藤原師輔の娘中宮藤原安子の第2皇子。名を憲平といいます。生後3ヶ月で立太子となり、父帝崩御により即位。冷泉天皇が精神を病んでいた事は周知の通りで、藤原元方や皇位を継げないまま亡くなった兄親王の怨霊ともいわれていました。この為、摂政関白が必要となり、藤原氏の権力が増すという事になっていったのです。冷泉天皇はその病から譲位し、寛弘8年に崩御しますが病は生涯治る事がなかったのだそうです。天皇は桜本寺北方に葬られました。小野の地と伝えられていましたが、明治時代に現在の北塚と呼ばれていた現在の神楽岡の陵地に定められました。疎水を隔てたところに火葬塚もあります。
蓮華寺
れんげじ 天台宗 山号/帰命山 本尊/釈迦如来

元は浄土宗の寺として現在の京都駅付近に創建されましたが、次第に荒廃していきました。現在の地に移ったのは寛文2年。加賀前田家の家老・今枝近義によります。今は天台宗のお寺です。上高野まで行くと観光客も余り見受ける事が出来ないのですが、その静寂がまた良い効果を与えているような気がします。ももかは雨の日に訪ねたのですけれど、その庭の薄く煙った様子、苔の緑や木々のしっとりとした落ち着きが本当に素晴らしかったんですよね。あの光景は忘れられません。秋も素敵ですが、最近あの穴場的な雰囲気がなくなりました。ももか一押しのお寺です。



京大路でそぞろ歩き
NOANOAノアノア

市バス「銀閣寺道」からもすぐの
パスタとピッツァの美味しいお店。昭和45年開業でその前身は橋本関雪が外国から持ち帰ったコレクションを展示する為に建てた洋館・白沙村荘なのだとか。店の名前はポ−ル・ゴーギャンのタヒチ旅行記の現題『    Voyage a Tahiti NOANOA』から。タヒチの言葉で「楽しい」という意味。

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