このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

永代の京
〜京都市/下京区編〜

悪王子社/悪王子社之跡碑
あくおうじしゃ
/あくおうじしゃのあとひ


素戔嗚尊の荒御魂を祀る小さなお社。天延2年に東洞院通四条下る西側に建立されていましたが、豊臣秀吉の時代に烏丸五条に移転、この時にこの地を「元悪王子町」、移転地を「悪王子町」と称するようになりました。神仏習合の廃止により明治10年に悪王子社は八坂神社の境内に移されています。平成4年に「悪王子社之跡」の石碑が建てられましたが、平成10年4月に小さな祠が建てられ現在に至ります。まだ白木の美しさが残り、覆屋根までついています。地元の人たちに崇敬されているのが分かります。
朝日神明宮
あさひしんめいぐう

貞観年間に丹波国桑田郡穴生村に造営され、元亀3年に現在の地に移転。祭神は天照皇大神で、かつては広大な神域を領し「幸神の森」と称されていました。末社には竈神社、稲荷社、祓川社、恒情神社、人丸社、飛梅天神、八幡春日社、猿田彦社(幸神社)があったのですが、江戸時代の2回の火災により大半が焼失。現在は猿田彦社のみが現存しています。猿田彦社には二つ神石があり、恵比寿・大黒の石だとも猿田彦命・天鈿女命ともいわれていますが、詳細は不明。天からこの地に降ってきたのだとか。今はかつての面影もないくらいの小さなお社ですが綺麗に整備されています。昭和36年「朝日神明社」を改称、「朝日神明宮」となりました。
文子天満宮
あやこてんまんぐう


天神信仰発祥の神社。右大臣菅原道真が左大臣藤原時平の讒言を受けて大宰府に流され、彼の地で没した後には様々な異変が起こったといわれます。これは『北野天神絵巻』でも有名ですよね。道真の乳母であった多治比文子は彼の没後、自分の屋敷の庭に小祠を作り道真の霊を祀りました。その後天慶5年に道真の託宣が文子に降り、天暦元年6月9日に至って文子は道真がしばし遊んだ右近の馬場、つまり現在の北野の地に彼を祀ったといい、これが北野天満宮の始まりとされています。文子天満宮のご祭神は菅原道真ですが、その相殿には文子比売、伴氏(道真生母)、是善公(道真父君)が祀られています。京都駅からも割と近くひっそりとしていますが、絵馬の多さを見れば天神信仰の篤い事も分かるというもの。境内には文子の石像があります。洛中二十五天神の一つ。
粟嶋堂宗徳寺
あわしまどうそうとくじ 西山浄土宗 本尊/阿弥陀如来(宗徳寺) 通称/粟嶋堂、あわしまさん

正式名称は宗徳寺といい応永年間に創建。元は西山浄土宗のお寺でしたが、宝徳年間に南慶和尚が紀伊国淡島神を勧請し境内に粟嶋明神を祀りました。粟嶋(粟島)神、つまり淡島神は天照皇大神の第六姫神の事。ご婦人の病の神として広く信仰され現在に至ります。境内には与謝蕪村の句碑もありますが、これは蕪村が娘の病平癒を祈願した折に詠んだもの。明治の神仏分離により神社を廃し、名も粟嶋堂と改め粟嶋大明神の本地仏虚空菩薩を祀るお寺となりました。京都駅からも近く、新撰組の不動堂村屯所跡からもすぐという立地の為、最近では新撰組の影響で参詣者がちらほらと増えてきたとの談。新撰組に関する逸話や史跡はありませんが、もしかしたら隊士がぶらりと立ち寄った事もあるに違いありません。それにしても境内にあった人形の多さにはびっくりしました。
市比賣神社
いちひめじんじゃ

金光寺境内に鎮座。「市姫神社」とも書きます。延暦14年に桓武天皇の勅命により筑紫の宗像三神(北九州の玄海町・大島・沖ノ島に鎮座)を勧請し平安京の東西の市の守護神として藤原冬嗣(『京都坊目誌』では右大臣藤原継縄とある)が堀川七条に造営。その後天正19年に豊臣秀吉によって金光寺と共にこの地に移転しました。移転にあたって、皇室鎮護のお社として御所を望んで北向きに建てられたといい、神社としては大変珍しい様式をしているのだそうです。幕末に至るまでは21年毎に式年造営が営まれ花山院家と足利将軍家がこれに奉仕してきました。ご祭神が全て女性という事から女人守護のお社としてもよく知られています。小さな境内ながらに落ち着いた雰囲気。片隅に洛陽七名水の一つ天之真名井があります。こちらも堀川七条からの移転。皇室の産湯に使った水なのだそうで由緒正しいもの。ももかも頂きました♪
伊東甲子太郎外数名殉難之碑
いとうかしたろうほかすうめいじゅんなんのひ 伊東甲子太郎(1835−1867)

ももかが「カッシー」と呼んでいる伊東甲子太郎は新撰組の参謀でした。彼は常陸志筑藩出身で北辰一刀流の使い手で、国学、和歌にも精通するエリート。しかし元々勤王派であった為に近藤勇・土方歳三らと意見が合わず、後に新撰組を出る事に成功します(笑)。その折には孝明天皇の御陵衛士となりそれに従う者は15名。その中には近藤さんが送った密偵の斉藤一の姿もありました。伊東さんらが新撰組に奇襲されたのは後に「油小路の変」と呼ばれる事になる慶応3年11月18日。「己れ奸賦輩・・・」が彼の末期の一声でした。この碑は本光寺前、油小路の一角に伊東さんの祥月命日に当たる昭和46年11月18日に建立されました。今も油小路は余り人通りが多い道ではありません。それ故に何となく幕末の昔を想像させてくれるような気がします。
住神社
いなずみじんじゃ

元々梅小路の辺りは安倍晴明さんの子孫である土御門家の屋敷があった場所。屋敷の南部分は祭場となっており祭壇本宮権殿その他の諸建物があって代々天皇の御即位にあたって聖寿の長久を祈る天曹地府祭を行なっていたそうです。そして此処はその祖である晴明さんを祀る小さなお社です。社殿には「稲住大神」の提灯と三つ鱗の御神紋。稲住の名は明治以前に池がある広場で農家が稲束を積んでいた事からきていて、稲積が転じて稲住となったようです。因みに『山州名跡志』では「稲積社」とあってあり稲荷を祀っていると記されています。境内には木の根を御神体とした魔王尊があって、その方向が面白いと思ったのはももかだけでしょうか。住宅街を入ったところにありますが、導くものを感じたら一発で場所が分かると思いますよ。
因幡堂平等寺 (因幡薬師)
いなばどうびょうどうじ (いなばやくし) 真言宗智山派 山号/福聚山 本尊/薬師如来 通称/因幡薬師
 京都十二薬師の一つ 日本産如来の一つ

お堂の起こりは長徳3年に遡ります。因幡国賀留津(かるつ)の海面に光が現れるという事があり、それをいぶかしんだ国司橘行平が漁師に命じて潜らせたところ、身の丈五尺余り(165センチ位)の薬師如来を引き上げました。行平はこの浦に草堂を建て像を安置しました。像は長保5年4月8日の夜明けに京の橘行平邸に飛来し、これを祀ってお堂を建て因幡堂と名付けました。因幡薬師の名で知られ、狂言『因幡堂』の舞台。決して広いとはいえない境内ですが、今でも狂言が行なわれています。本尊の薬師如来は嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来と並んで日本三如来の一つに数えられ、清凉寺様式の釈迦如来、如意輪観音坐と共に収蔵庫に収められています。お寺の方に防災などの点で工夫してきた事などを伺いましたが、こうして守られてきたのですね。平等寺の名は高倉天皇の命名です。不明門(あけず)通の名は、この堂の南に住まった高倉天皇の五条院御所に遠慮して南門を開けなかった事に由来します。因幡堂縁起絵巻、漢織・呉織の像(これは綺麗でした!)、小督局所縁の品々があります。幕末では新撰組局長・芹沢鴨さんが虎に吼えられ、同じく隊士の湯沢さんがこちらの東塀で殺されています。湯沢さんというと・・ホラ、あの前髪の惣三郎騒動の人ですわ。節分の夜には節分万灯会が開かれます。境内に小さな灯篭が置かれ、厳かな雰囲気。そして先着限定で「招運七色−「ん」のつく7つの食べ物−」が頂けます。江戸期以降、節分に併せて「ん」が2つ付く7つの食品を食べその年の健康を願うという風習が始まりました。「ん」は「運」に通じるとの事。お寺では、
なんきん(南瓜)・ぎんなん・れんこん・いんげん・にんじん・きんかん・かんとん(さつまいも)を頂きました♪
梅ヶ枝手水鉢
うめがえちょうずばち

梅ヶ枝とは傾城(遊女)になった梶原影季の妻・千鳥の名です。源平合戦の折、宇治川の先陣争いで佐々木高綱に敗れた影季は源頼朝の不興を買ってしまいます。世を偲ぶ生活を送る事になった夫婦。影季は頼朝から拝領していた鎧を三百両のカタに質入れ、また千鳥は神崎の遊廓に入る事になってしまいます。影季は一の谷の出陣を願っていましたが手元不具合な状態でした。その時梅ヶ枝が無間の鐘に準えてお金の工面を祈り叩いたのがこの手水鉢。文楽や歌舞伎の「ひらがな盛衰記」でも有名な演目となり、仮名垣魯文のが洒落で作った「梅が枝の手水鉢」は明治時代に替え歌が出る程に流行したのだとか。「芹根水」の碑にも近い場所にあり、説明書もありますがそんなに有名な手水鉢だったとは(^^;)。
梅小路公園 朱雀の庭・いのちの森
うめこうじこうえん すざくのにわ・いのちのもり

平成7年に開園した都市公園。面積は約12.5ヘクタールで、緑化公園以外にも災害時の避難場所としての機能を兼ね備えています。「朱雀の庭」は平安建都1200年を記念して作られた池泉回遊式庭園です。秋には短期間ではあるものの「紅葉まつり」も開催されます。このライトアップもささやかで綺麗なんですよ♪
円光寺
えんこうじ 浄土真宗本願寺派

土御門家を称した安倍晴明の子孫は、応仁の戦乱を避けて若狭へ逃れました。3代を過ごした後、徳川家康の力によって慶長5年に帰京。この梅小路に江戸時代の末まで屋敷を構えていました。この屋敷跡にあるのが円光寺です。東西南北を表す十文字に彫られた溝と、その先にある丸い穴に象られる渾天儀(こんてんぎ)の台座は庭に残っています。一辺の長さは1・5メートル程。かなり大きなものです。一度この界隈を歩いた時には新幹線の時間が迫っていた為に辿り着けませんでしたがリベンジで到達〜♪でも事前連絡をしていた訳ではないので庭内に入るのは次の機会に持ち越しです。最近無断で入ってくる観光客が多くなってお寺の方も困惑しているようですとガイドブックにも書いてありましたし。観光寺院ではないので事前連絡を致しましょう。同じく天文台がある梅林寺も通り向かいです。
大政所御旅所旧跡
おおまんどころおたびしょきゅうせき

四条烏丸を少し南に下った場所に鎮座する祇園御霊会所縁のお社。赤い瑞垣が目印です。青い額には「八阪大神」とあります。現在、御旅所は四条京極にありますが、古くはこの大政所御旅所(高辻烏丸)と少将井御旅所(東洞院)の二箇所が御旅所でした。こちらには祇園会の御神輿の素盞嗚尊(牛頭天王)と八柱御子神(八王子)の二基の、そして少将井御旅所には妃神の奇稲田姫(婆利女)の一基の渡御があったといいます。円融天皇の御世、此処は秦助正の屋敷であり、御旅所になったのは天延二年の事。室町時代に騒乱の為焼失しました。四条に御旅所が移ったのは豊臣秀吉の命による天正19年です。後に人々はこの旧地に小祠を建て八坂大神を祀りました。7月16日には長刀鉾の神剣拝戴の儀式が行われています。普段門は閉まっていますが、祇園祭の時期は開いているので参拝が出来ます。
大原神社
おおはらじんじゃ

社伝によれば三和町から勧請してきたものでイザナミ大神を祀っています。三和町の大原神社とは運上米の上納を拒否した事から約250年もの間交流が途絶えていました。しかし鎮座1150年祭に際し交流が復活。祇園祭では綾傘鉾の会所となっているお社です。綾傘鉾は禁門の変の際に山鉾町一帯と共に焼失してしまいました。その後僅かに残った装飾品などを使ってお祭りをしていたのですが、現在は昔の資料を元に作られたもののようです。お社の中にはかつての囃方を乗せた綾傘鉾の姿が小さな形で残されています。
鉄輪井 (謡曲伝示鉄輪跡)
かなわい (ようきょくでんじかなわあと)

細い路地の入口に碑が立っていますがそこから中へ入ったところにあります。下京の女性が自分を離別した夫を恨み貴船神社へ牛の刻参りをすると、お告げがありました。頭に鉄輪を頂き川に身を預け鬼と化した女は、夫を取り殺そうとするものの陰陽師・安倍晴明によって調伏されてしまうというお話。これが謡曲などで知られる『鉄輪』です。また長唄にも歌われてきました。近世初期には金輪町・鉄輪町の俗称があったといいます。薄暗い路地の中には井戸がありこの水を汲むと縁切りの効果があるのだとか。昭和10年に命婦稲荷神社を再建するにあたり、周辺を整地したところ鉄輪が地中より発掘されました。稲荷社と合祀されていたらしい事も分かり、共に現在の地に祀られています。以前から場所は知っていたのですが怖くて行けず(何となく行ってはいけない感じがしていたので)、思い立って行ってみたというところであります。
菅大臣神社 (白梅殿址、菅大臣天満宮/菅家邸址 (天神御所跡)
かんだいじんじんじゃ(はくばいどのあと、かんだいじんてんまんぐう)/かんけていあと(てんじんごしょあと)

社殿は西向きに建てられ、入口の鳥居は南・西・北の三箇所にあります。祭神は菅原道真。道真の邸宅があった場所で誕生の地と伝えられ道真誕生水も境内にあります。邸宅は仏光寺通を挟んで南北二町、東西一町の広さで、お社は道真没後に創建されました。兵火により焼失と再建を繰り返しますが、治承元年の炎上については『平家物語』にも記述が。鎌倉時代には北と南にお社が分かれ、それぞれ紅梅殿社、天神御所または白梅殿社と呼ばれました。江戸前期までの祭神は菅原衍子。宇多天皇の女御となった道真の娘です。慶長19年再興、江戸時代に災禍に遭い再び焼失。現在の社殿は明治2年に下鴨神社の本殿を移したものです。境内には産湯の井や飛梅もあります。牛もいます。ご神紋はやはり梅です。
神田明神
かんだみょうじん

『京雀』
『拾遺都名所図会』にも載っている古いお社です。「膏薬図子」と呼ばれる小さな路地に祀られ、天慶の乱で平将門が討たれた後、都に晒された首を空也が葬った地だといわれています。それから首は東へと飛び、現在の首塚(東京丸の内)に落ち着いたのだとか。しかしこの地に災厄が続き、将門一族を処刑から救ったという空也上人に怨霊を鎮めてもらったといいます。昔は祠が民家の格子の中にありましたが、平成22年に一新し、美しく生まれ変わりました。その際、格子下にあった石も同じく移されました。赤い旗が目印です。すぐに分かりますよ♪
北菅大臣神社 (紅梅殿址)/菅家邸址
きたかんだいじんじんじゃ (こうばいどのあと)/かんけていあと

菅原道真の邸宅紅梅殿は仏光寺通(五条坊門小路)の北側にありました。名の由来は邸内にあった見事な紅梅から来ています。『十訓抄』によればこれが道真左遷の折、彼を追って太宰府まで飛んでいった梅なのだとか。祭神は道真の父・是善。菅家の名残にしては余りにも小さな小さな社殿で、見逃してしまいそうなところに立地。でも額には紛れもなく「紅梅殿」の文字がどどどんと彫り込まれています。それにしても紅梅殿って優美な名前ですよね。
京都市学校歴史博物館
きょうとしがっこうれきしはくぶつかん

平成10年開館。京都市内の学校に遺された歴史資料(教科書・文献資料・教材・教具等)約11000点と、卒業生などにより学校に寄贈された美術工芸品(絵画・書跡・陶磁器・染織等)約2000点(うち1500点は各学校で収蔵)を収集・保存し、展示。建物は平成4年に閉校した旧開智小学校を利用し、正門(高麗門)は明治8年に建築された旧成徳小学校の玄関車寄せを移築したもの。白川石が用いられた石塀は大正7年のものです。学生の時は当たり前に「そこにあった」から、宝物だって気が付かなかったりしているけれども、大人になって初めて良いものに囲まれていたんだと思ったりするんですよね。ももかは平成25年秋の開館15周年記念『近代京都画壇を育んだ人たち』に行きました。上村松園『楊貴妃』(
松柏美術館蔵)、村上華岳『裸婦 画稿』(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)、良かった♪200円なのに濃い内容で。常設展示室も、昔の机や教科書があって面白かったです。さりげなく山口華楊『凝視』(元 格致小学校蔵(洛央小学校蔵))が掛けられていたりして見応えがありました。
京都市立成徳尋常小学校跡
きょうとしりつせいとくじんじょうしょうがっこうあと

「松本宗悟邸跡碑」のすぐ側に碑が建っています。いわゆる番組小学校の中で、下京第九番組小学校は改称して成徳(せいとく)を名乗る事になります。子供達に完成された徳が備わりますようにという意味です。明治2年に開校、成徳尋常小学校としては明治9年からで、同時にこの碑の場所に校舎が移転しました。現在のやや南にある成徳中学校はこの前身。昭和6年に再び移転し、昭和22年の制度改正により成徳中学校となったのです。因みにナツヅタが絡み合う現校舎は昭和6年建築のもの。こちらも校舎としては古い部類となりますね。惜しむらくはこの成徳中学校も統廃合が進む中、平成19年に下京中学校として他の5中学が統合した新しい学び舎に変わろうとしているのです。
京都大神宮
きょうとだいじんぐう

明治6年7月に創建。神風講社として発展し、戦後になり「京都大神宮」と改称。社殿は一条家の書院を移築したもので、唐破風が見事な事で知られています。また、手水舎は伏見城にあったものと伝えられています。観光客なら一度は通るであろう新京極もそこ!という地に立地しているものの、余り気づかれず静かなお社です。ももかも平成24年になりようやくお参り出来ました。というより・・新京極とか四条通とか、入洛の度に歩いている場所なのに気づかず通り過ぎていたみたい。前々からお参りしたいとは思っていたのですが、昼間に繁華街を散策している事がないので行かれないままだったのです。
京都タワー
きょうとたわー

昭和36年京都中央郵便局跡地に建てられた高さ131メートル和蝋燭を形どった風観の建物。最上階は展望室となっています。祇園祭の山鉾巡行の朝に立ち寄りましたが、望遠鏡から烏丸・四条方面を眺めてみたところ、山鉾を見る事が出来たのですよ。夜も良いのですが、晴れた日の昼間がおすすめです。最近は催しによってライトアップの色が変わる日もあり、観光客にも好評。
源語伝説五条辺夕顔墳碑 (夕顔古跡)
げんごでんせつごじょうのあたりゆうがおのふん (ゆうがおこせき)

『源氏物語』に登場する光源氏が、見舞った乳母の「五条なる家」の近くで会った夕顔に因む伝説の地がこの辺りとされています。町名も夕顔町といい、墓は江戸時代にはあったとされ、昭和4年に建てられた碑もあります。
光縁寺
こうえんじ 知恩院末寺 浄土宗 山号/満月山 本尊/阿弥陀如来

天正18年に創建。天明8年の大火による焼失によって本堂は文化年間、山門は弘化3年に再建されたもの。実は第二次世界大戦の昭和20年8月16日に強制疎開の為に壊される予定だったのだとか。その前日に終戦となった為、難を逃れました。新撰組所縁のお寺とも知られていて、埋葬されている隊士は25名。その中には遊女・明里との悲恋で有名な山南敬介さんのお墓もあります。山南さんは脱走するも沖田さんによって連れ戻され「局中法度」による裁断で切腹しました。土方さんを「九尾の狐」といっていたとかいないとか・・(笑)。また過去帳に記された「沖田氏縁者」とされる女性のお墓は、沖田総司に何らかの関わりがあったのではないかともいわれています。壬生散策には是非立ち寄りたいものですね。本堂には彼等を慕う人々の交流ノートがあって思わず見入ってしまう筈。寺紋には葵が使われていますがその由来は明らかではありません。因みに「満月山普照院光縁寺」の名のようにこちらのご朱印は満月なのです。他の檀家さんのお墓もあるのでお参りのマナーは守って下さいね。
膏薬図子
こうやくのずし

「こうやくのずし」と読み、通りの名。図子は辻子とも書きます。空也は此処に道場を開きました。「空也供養の道場」が転じて「膏薬(こうやく)」となったという説があります。細い路地で、神田明神があります。
五條天神宮 (五条天神社)
ごじょうてんまんぐう

ビルや住宅に囲まれたところにあるお社で、厄除け祈願に参拝する人が多いそうです。延暦13年の平安遷都にあたり大和国宇陀郡から天神(あまのかみ、てんしん)を勧請したのが始まりだとされます。つまりはこの「天神」とはいわゆる天神様(菅原道真公)ではないんですね。祭神は大己貴命・少彦名命・天照大神。当初は最大の鎮守の森を持ったお社であり、「天使の宮」「天使社」といいましたが、後鳥羽天皇の御世に「五條天神宮」と改称。その後幾度かの災禍に遭い、元治元年の禁門の変ではこの辺り一帯と共に社殿も焼失。この時、様々な古文書が灰となりました。昔、お社の東には西洞院川が流れ、北側は五条大路(現・松原通)が清水寺まで延びていました。源義経が弁慶とあったとされる橋も、実はこの西洞院にかかる橋であったとか、鎮守の森の出来事だったとか。平成17年度大河ドラマの影響で此処にも「義経」の影が!『看聞御記』には流罪になった記録もあり。・・・いろいろと見逃せないものがありますね。実は日本最古の宝船の版画がこのお社に残っています。舟に稲を乗せたもので、今では節分祭の時に貰う事が出来るのです。
西念寺
さいねんじ 浄土宗西山禅林寺派 山号/報國山 本尊/阿弥陀如来

正徳年間に月空珠心大和尚により創建。元々この辺りは源融の河原院のあった地で、西念寺もこの跡地に建てられたといいます。本願寺領を設ける為現在の場所に移転。当時は三寺の末寺を有し広大な境内であったそうです。昭和18年の太平洋戦争の折、京都を戦火から守る為の政策により五条通を50m拡張。その際西念寺の伽藍は3日の内に取り壊され、墓地をも縮小され現在の寺域になったそうです。政府から渡されたお墨付きは紙切れになったとか云々。御本尊は湛慶の一派が作ったとされるもの。平成21年8月に所蔵する『仏涅槃図』が平安時代後期のものと判明、平成25年秋の『第49回京都非公開文化財特別公開』にて初めて一般にお披露目されました。縦172.5センチ横207.5センチという大型のもので麻耶夫人の飛来を描いていない珍しいもの。普段は毎年行われる涅槃会に本堂にかけて檀家さんと読経を行っているという涅槃図は、傷みが激しいものの色彩もところどころ残っています。戦時中は焼失を免れる為に古井戸につるして守ってきたとか。実は御本尊もそのようにして守ったのだそうで、当時の苦労が偲ばれます。この公開に於いても劣化を心配して近づいて見る場合は息がかからぬように注意を払って欲しいとの注意がありました。境内には千喜万悦天満宮が。
坂本龍馬 中岡慎太郎遭難地碑/近江屋跡
さかもとりょうま なかおかしんたろうそうなんのちひ/おうみやあと

河原町の一角に当たり前のようにありますが、平成22年の大河ドラマ「龍馬伝」放送を機になんだか目立ってる・・・。「京都攻略スポット」って何・・?龍馬は慶応2年1月の寺田屋事件の後も幕府から狙われ、海援隊の本部があった酢屋から醤油商の近江屋に移っていました。そして近江屋にいた坂本龍馬と中岡慎太郎が此処で暗殺されたのは慶応3年11月15日夜。大政奉還が成って一ヵ月後の事でした。現在の碑は近江屋の北隣にあたる場所に建っています。
ジェイアール京都伊勢丹百貨店 (ジェイアール西日本伊勢丹)
じぇいあーるきょうといせたんひゃっかてん

明治19年、小菅丹治が東京神田旅籠町に「伊勢屋丹治呉服店」を創ったのが始まり。関東大震災後に百貨店形式に変わり、昭和8年に新宿に現在の本店が出来ました。JR京都駅駅ビルがリニュアールオープンしたのに伴う平成9年9月にジェイアール京都伊勢丹百貨店も開店。東京資本の百貨店として関西に進出しました。吹き抜け式の長く続くエスカレーターは圧巻。電車待ちの時間など、立ち寄る事も多いところとなっています。併設の美術館「えき」KYOTOも心惹かれる企画展が一杯。
JR京都駅
じぇいあーるきょうとえき

明治10年2月5日開業。これにより神戸〜大阪〜京都間が開通しました。東山トンネル開通や新幹線開通、そして昭和62年の国鉄民営化を経て、平成9年にはリニュアールオープンを果たし、現在の高層ビルディングに生まれ変わりました。このガラス張りの四代目駅舎は平安京に巡らされた気を跳ね返してしまうのでは?と考える人もいるようですが、本当に跳ね返してしまいそう(笑)。いずれにせよ、ここでは「古都・京都」のイメージは伺えません。烏丸口から八条口の新幹線乗り場までが意外と遠いので、余裕を見て行動しましょう。ダッシュで10分はとてつもなく辛いものが(笑)。だって自由席乗り場方面ってエスカレーターがないんだもん!重い荷物を持って階段を駆け上がるのは本当に辛い。因みに0番線は日本一長いホーム。全長558mナリ。そしてこの地下には御土居の遺構があるとかないとか。
七条仏所跡
しちじょうぶっしあと

京都での「七条」の読み方は「ななじょう」とも「しちじょう」とも「ひちじょう」「ひっちょう」とも。これも好きなように読んでください。七条仏所、七条大仏と呼ばれ、平安時代に仏師が長きに渡り居住していた場所です。その顔ぶれの中には定朝を始めとして、「慶派」の運慶や湛慶、快慶の名も。豊臣秀吉の命により金光寺にこの土地を寄進するに至り四条烏丸に移転。しかし仏所は幕末の混乱期に火災に遭い衰退してしまいます。看板が立っていますよ。
島原住吉神社/大銀杏幸天満宮
しまばらすみよしじんじゃ/おおいちょう/さいわいてんまんぐう

元は島原中堂街の住吉屋太兵衛の屋敷で祀られていた住吉大明神を良縁の御利益があり参詣者が多かった為に享保17年に島原の西北に遷座し建立したのが始まり。南は道筋から北は島原北端にまでにも及ぶという広大な境内地を有し、以来島原の鎮守の神として鎮座。しかし神社株を持たない理由から、明治維新後の廃仏毀釈で廃され、御祭神は歌舞練場内に遷されてしまいます。明治36年に船井郡本梅村から無格稲荷社の社株を譲り受け再興しますが、境内地は元に帰す事はなくまた社名も稲荷神社とされました。現在の島原住吉神社と改称されたのは平成13年です。このお社の北側、道路に面した場所に大銀杏があります。元は住吉神社の境内にあったものなのですが、境内が再びこの場所まで拡大する事はなかった為に時に取り残されたようにここに枝を伸ばしています。しかし廃仏毀釈でお社が廃された後でもこの御神木としての銀杏は残され、現在は樹齢300年相応の巨木として歴史を伝えているのです。境内社の幸天満宮は揚屋町の会所にあった天神の祠を享保19年に遷座したもので、筑紫の大宰府天満宮に倣った鷽替神事が江戸時代を通じて行われていましたが、明治以降は途絶えてしまったのだとか。
島原大門
しまばらだいもん

島原は寛永18年に開設された日本初の公許花街で江戸吉原、大坂新町と並ぶ日本三廓の一つです。天正年間に二条柳馬場にあったものが慶長7年に六条三筋町の傾城町に移転、ついで朱雀野(しゅしゃかの)に移され島原の歴史が始まりました。正式名称は「西新屋敷」といい、堀と塀で囲まれた街でした。これが何故に「島原」の俗称になったのかというと、この移転の様が九州で起きた島原の乱を思わせたからなのだそう。一箇所だけの入口だった大門は始め東北角の物のみだったのですが後に西の大門も設けられました。この東辺の門は建築当初は冠木門だったと考えられています。移転や嘉永7年の大火による焼失などを経て、現存するこの大門は本格的な神社仏閣並の高麗門で慶応3年のもの。本柱上の屋根の他に後方の控柱上にも小屋根を乗せた姿は、風格があると同時に珍しいものです。また「出口柳(見返り柳)」「さらば垣」、その他用水手桶などが当時を忍ばせてくれます。島原の言葉の中には北へ行くことを「下る」、南へ行くことを「上る」という、一般とは逆のものもあったそうです。京都島原の花魁道中は4月21日で花魁は八文字という独特の歩き方をしました。因みに江戸吉原では正月と八朔(8月1日)が花魁道中と決まっていました。島原というと新撰組隊士にも馴染みの遊びどころですよね。
島原西門碑
しまばらにしもんひ

江戸時代の公許された花街、島原。当初入口は東北角の大門のみだったのですが、享保17年に至って西側中央部に西門が造られました。始め西側に門柱を建てただけの簡略な門だったのですが、天保13年に移転されたのがきっかけとなって構えも変わり、冠木門に切妻屋根、さらに大門同様の高麗門型となりました。しかし残念な事に昭和52年11月に交通事故により倒壊。門柱のみが復元されたものの平成10年4月再び倒壊の憂き目を見て、現在は碑が建立されています。
正行院
しょうぎょういん 浄土宗捨世派 通称/猿寺

天文7年創建。
またの名を猿寺といい、境内にはお猿の所縁の看板などを見る事が出来ます。昔、漁師が猿を狙い撃ちしようとしたところ、猿は合掌し首にかけていた袋を彼の元に投げたといいます。袋の中にあったのがこの寺の開基でもある円誉の南無阿阿弥陀仏の名号でした。漁師は殺生を悔い、円誉に弟子入りしたというお話が伝わっています。JR京都駅からすぐ。
渉成園(枳殻邸) 
しょうせいえん(きこくてい) 浄土真宗真宗大谷派真宗本廟飛地境内 国名勝

東本願寺から歩いて5分ほどの場所にあります。渉成園の名は陶淵明の『帰去来辞』より「園は日に渉りて以て趣を成す」からきています。枳殻はカラタチの事で、周囲にカラタチが植えられていた事から。寛永18年3代将軍徳川家光から東本願寺に寄進され、承応2年に石川丈山により池泉回遊式庭園として作庭。江戸時代には将軍の御成りもあったという由緒あるお庭です。かつては火難にも遭い、幕末の蛤御門の変の折には東本願寺共に全焼してしまいましたが、後に再建。広い敷地には四季折々の植物が植えられ、広大な印月池に鴨がぷかぷかと優雅に泳いでいる光景にほっと一息。この池の水は琵琶湖疏水から流れてきているものです。この辺りは源融の屋敷があった六条河原院の所縁の地とされています。この為、池の中島に源融の供養塔や、塩釜の手水鉢、塩釜の井戸などがあります。
上徳寺
じょうとくじ 浄土宗 山号/塩竈山(えんぞうざん) 本尊/阿弥陀如来 通称/世継地蔵

上徳寺は慶長8年に徳川家康によって建立されたお寺。家康の側室・阿茶局(上徳院)の開基でお墓もあります。山号を塩竃山と称するのは源融所縁の河原院に由来するとも。その遺構は墓地の傍に見られる窪んだ地形。これが河原院の池の名残なのだそう。このお寺があるのも塩竃町であり、なかなか興味深いものがありますよね。明治時代に永観堂の祖師堂を移築した本堂の中の阿弥陀さまはとても美しいんですよ。両隣の菩薩様方と御厨子の中で輝いているのです。勿論光背も素晴らしくて・・(うっとり)。ずっと傍にいたいと思いましたもの。柱も螺鈿となかなか見られないもの。境内の地蔵堂は世継さんとして親しまれています。明暦3年にこのお寺を深く信仰していた八幡の清水某が子供に恵まれるように念じお堂に篭ると、満願の夜に等身大の地蔵尊が現れました。彼は一子を失っていたので世継となる子供が欲しかったのです。地蔵尊は「我を石に刻み祈念すべし」と告げ、その通りにすると子供を得られたのだとか。後、享保年間に住職の夢の中に地蔵尊が現れ「我が欲する所の誓願は世に子なきものには子を授け、子孫相続し、その家の血縁絶えやらず、家運長久ならしめ、幸福薄きものには福を与うべし」と告げたのだそうです。孝明天皇の皇后中山慶子もこの地蔵尊への信仰が篤く後の明治天皇を産み落としたと言われています。実は中でお見かけした正座する人の像を「清水さん?」と思っていたのですが、お寺の方に伺ったところ、冠句、なのだそうです。冠句をやってる人の像というのか、唱導者・堀内雲鼓(句碑・墓が上徳寺にある)像なのか・・・。境内には徳林院という塔頭がありましたが、大正2年に大阪府に移転。
真如院
しんにょいん 本圀寺元塔頭 日蓮宗 本尊/阿弥陀如来

通常非公開。猪熊通界隈にある本圀寺の元塔頭寺院のうちの一つ。小さなこじんまりとしたお寺です。天文4年日映上人によって創建。翌年天文の法難により焼失し、後に再建されました。天明8年に再び焼失し寛政年間に再建、更に天保3年に新築、昭和9年に内部を改築しました。昭和24年に現在地に移転。庭園が特に有名です。永禄3年、足利13代将軍義輝が本圀寺で天下太平の祈願がなされた折、足利義昭も参詣し真如院を宿院としました。『山州名跡志』によれば、現在庭にある烏帽子石をこちらに運んだという記録が残っています。織田信長が上京し、将軍となった義昭の歓心を買うにあたり、彼は真如院に庭園を作る事を考えました。残念ながら作庭者の名は伝わっていませんが、当代一流の手によって作られたと考えられます。後に荒廃し、昭和36年に『都林泉名勝図会』を元に、当時よりも小さくなってしまった敷地の中に『京都坊目誌』にも記されている「瓜実灯籠」「烏帽子石」「呼子の手水鉢」を配置した枯山水の庭を復元したのは重森三玲です。復元といっても「三玲じゃ」という彼の主張が聞こえてくるんですよ。川を表す小判型の石がとても珍しくて面白いです。
親鸞聖人御入滅之地
しんらんしょうにんごにゅうめつのち

松原通に面し西洞院通の東、光圓寺の門前にひっそりと碑が建っています。浄土真宗を開いた親鸞聖人は弘長2年11月28日にこの地で入滅しました。
芹根水
せりねすい

芹根水の碑は安寧小学校の西塀の道沿いに「文房四神之碑」などと共にあります。宝暦年間に松下烏石によって建立され、その碑文も烏石の手によるものです。京の七名水の一つで、堀川と同水位だった事から松下烏石が井筒を寄進。堀川の水が入り込まないように配慮されていました。しかしいつしかその甲斐もなく堀川の水が流れ込むようになってしまいその用を成さぬようになってしまったのだそうです。碑がこの地に移されたのは昭和57年の事。因みに西七条の辺りは古代より芹の産地として有名で「七条の芹」と言われる程でしたが、最近は住宅事情の関係で栽培は京都の南に移っているのだとか。
千喜万悦天満宮
せんきまんえつてんまんぐう

創建は不詳。五条通に面した西念寺の境内にある小さなお社で菅原道真と彼の描いた「菅家繁盛の図」を祀っています。数で言い表せないような歓喜、というこのお目出度い名の由来は彼が右大臣に昇進した折の喜びから来ています。提灯は「千喜満悦天満宮」となっていますが、どちらにしても晴れやかな喜びを感じさせる名前ですよね。戦時中五条通の拡張で現在の地に移転。西念寺のお話では元々は個人でお祀りしていたお社でしたが、家の人が九州へ移る事となりお寺に迎えられたのだそうです。
大行寺
だいぎょうじ 真宗佛光寺派 山号/長谷山 院号/北ノ院 本尊/阿弥陀如来

創建は文政4年信暁僧都と伝えられ、佛光寺高倉の月見御殿跡にありましたが嘉永6年に現在の地に移りました。度々の火災で焼失し、現在の本堂は昭和4年の再建。本尊の阿弥陀如来は快慶作。
像の左足外側に『匠巧法眼快慶』の墨書銘があるのだそうですが、流石にそこまでは見られなかったです。公式HPに写真がありますのでこちらをどうぞ。仏足石は大行寺系瑞祥七相で、現在境内にあるものは安政3年に建立し火災の為に粉砕したものを昭和62年に復元されたものです。大行寺系は卍が指の裏に沢山。弘誓琴という水琴窟は面白い形。小さなお寺ですが檀家さん共々暖かい雰囲気で、特別公開の折は飴やお菓子、お茶を頂きました。佐竹所縁のお寺との事で寺紋は扇に月丸。本来ならば清和源氏なので両紋というところですが、五本骨月丸扇なのです。
松明殿稲荷神社
たいまつでんいなりじんじゃ

天暦2年創建で、始めは黒門通塩小路下ルにありましたが、七条東洞院などを経て、宝永8年に現在の七条大橋西詰に鎮座。伏見稲荷大社の境外末社で、田中社ともいいます。「たいまつ」の名の由来は天暦10年に勅により燎祭が行われた際に賜った「炬火殿」から。境内向かって右手には「木食正禅養阿」の銘のある井戸と手洗石があるのですが、大きいの。実はこちらには天智天皇木像と大友皇子木像があるのですよ。フフフ。
大丸百貨店
だいまるひゃっかてん

創業は享保2年で下村彦右衛門が呉服店大文字屋を伏見京橋で開業した事に始まります。「大丸」の商標はこの頃から使われていたのだとか。下村彦右衛門は福助人形伝説の一人とされ、頭が大きく背は低いという風貌にも関わらずお店は繁盛。貧民への施しも忘れなかったので彼に肖ろうとした京の人々は人形を作り毎日祈ったといいます。福助といえば歌舞伎の福助(それも助六姿の)を連想しましたが、京都で福助といえばお店の前にあるあの福助の事かな?確かに大きな頭をしてますね〜。その後大阪店を経て名古屋店を開店した時に「大丸屋」と改称。様々な店名の変革を経て現在に至ります。実は新撰組に浅黄色のだんだら隊服を誂えたのは大丸さんなのだそうですよ。明治43年に江戸店と京都店を統合し木造3階建てインドサラセン式の本社ビルを建てたのですが、その時に土足で入店出来るようにしたのです。そう、昔は百貨店に入るのにも下足を脱いでいたのですよ〜。呉服屋が前身だからそれが当たり前だったのね。大正11年には日本のデパート業界でも初めてという週休制を実地。何かと歴史あるお店ですが、ももかもお土産を買う時等に利用しています。
高島屋百貨店
たかしまやひゃっかてん

創業は天保2年で飯田新七が烏丸通に古着・木綿商を開業した事に始まります。その時の屋号が「高島屋」。1月10日が創業日だった事から現在もこの日は大創業祭が行われています。その後呉服商に転じ、明治31年には高島屋が出した業界初の野外広告は東海道線沿いに置かれました。以降その商業分野は呉服屋に留まらなくなった事から大正8年に現在の社名に変更。昭和21年に京都店は現在の場所に移転しました。包装紙に高島屋のシンボルマークである薔薇が取り入れられたのは昭和27年の事です。此処の店内の様子は個人的に好きなので、物産やブランド食器のコーナーでよく屯しています(^^;)。
丹波国亀山藩京屋敷跡碑/亀山稲荷神社
たんばのくにかめやまはんきょうやしきあとひ/かめやまいなりじんじゃ

この辺りは元は芸州広島藩四十二万石浅野氏の藩邸があり、享保15年頃に丹波篠山藩主片原松平信岑の屋敷が置かれました。信岑は後に丹波亀山藩五万石に転封となり、以降明治3年まで8代約120年間同藩の京屋敷として存在します。松原通に面したところにある碑は平成7年のもの。割と新しくて地元の方々によって建立されています。元は藩邸の鎮守社だったという亀山稲荷さんだけが同じ地に鎮座していらっしゃるのですが、此処にある碑は大正5年建立のもの。旧亀岡藩士族有志によります。え?亀岡藩って?亀山藩ではないの?実はですね、丹波亀山藩は伊勢亀山藩との混同を避ける為に明治2年に亀岡藩へ改称しているんですよね。これが現在の亀岡市の前身になる訳です。
長講堂 (法華長講弥陀三昧堂)
ちょうこうどう 西山浄土宗 本尊/阿弥陀三尊

普段非公開。後白河法皇が六条西洞院にあった六条殿に寿永2年頃に建立した持仏堂が始まりといわれています。文治4年六条殿と共に焼失するも同年再建。法皇は建久2年に所有する42か国89か所に及ぶ自己の荘園を長講堂に寄進、後に娘の宣陽門院(覲子内親王)に譲られる事となります。覲子内親王は法皇の寵姫であった丹後局(高階栄子)を母に持ち、父法皇から広大な領地を相続した人でもあります。後鳥羽天皇に娘の大姫の入内を画策していた源頼朝と政子が、建久6年に大姫を連れて上洛した時に会ってもいます。後に長講堂は持明院統の皇統が受け継ぎますが、その長い歴史の中で焼失と再建を繰り返し、また場所を変えて存続されていく事となります。現在の地に移転したのは天正16年。しかし幕末に再び火難に遭い、再建されています。大河ドラマ『平清盛』が放映された平成24年の『第46回京の冬の旅非公開文化財特別公開』にて初公開。重要文化財の後白河サマの像が素晴らしく美しかったのが印象に残っています。数が多かった御朱印(書置き)も印象深かったですよ。
天使突抜通 (東中筋通)
てんしつきぬけどおり (ひがしなかすじどおり)

五条天神宮は延暦13年に桓武天皇の命により建立された時、「天使の宮(天使社)」といいました。都の平安を守るために大和の国宇陀郡から天神(あまのかみ、てんしん)を迎えたというのが名の由来です。後、後鳥羽天皇の御世に「五条天神宮」と改名。洛中で最大の鎮守の森を持っていたといいますが、豊臣秀吉により鎮守の森を貫通して南北に道が作られました。五条通を挟み、西洞院通(旧西洞院大路)と油小路通(旧油小路)の間、北は仏光寺通(旧五条坊門小路)から、南は木津屋橋通(旧塩小路)までの道とされ、これが天使突抜の名の由来となっています。現在、町名表記として残るのは天使突抜1丁目〜4丁目。
道元禅師示寂地
どうげんぜんじじじゃくち 道元(1200−1253)

高辻通に面した曹洞宗開祖の道元禅師が生涯を閉じたとされる場所。昭和54年建立の立派な石碑が建っています。道元禅師は内大臣久我通親と藤原基房の娘則子の間に生まれますが、幼くして両親に死別し比叡山に入ります。建仁寺の栄西に禅を学び、後に入宋。帰国してからは深草に興聖寺(現在は宇治に移転)を建て晩年は越前の永平寺を創建しました。病気療養の為に上洛しつつもその一ヶ月後の建長5年8月に亡くなりました。この地は彼の俗弟子寛念の屋敷があったところで、彼は此処に滞在していたのです。
道祖神社
どうそじんじゃ


宇多天皇の後院であった亭子院の鎮守として鎮座したのが始まりのようです。祭神は猿田彦と天鈿女。交通安全と縁結びの神様です。JR京都駅からも近いので散策の始めに立ち寄るのも良いでしょう♪境内末社の書聖天満宮は菅原道真を祀り、洛陽天神二十五社の一つ。
新玉津嶋神社/北村季吟先生遺蹟碑
にいたまつじまじんじゃ/きたむらきぎんせんせいいせきひ 藤原俊成(1114−1204) 北村季吟(1625−1705)

「にいたまつじま」と読み、元々は藤原俊成邸にあった文治2年創建のお社。祭神は和歌の神・玉津嶋神こと衣通姫です。俊成は平忠度の師でしたが、平家の都落ちに際し、忠度が彼の屋敷を訪ね歌集を託した話は有名ですよね。となるとこの辺りが『青葉の笛』の舞台なのかもっ。さて鳥居左には昭和31年建立の「北村季吟先生遺蹟」の碑があります。季吟先生は国学者であり天和3年から江戸に下るまでの6年間、此処の祠官を勤めたからなのです。在京中、松尾芭蕉は此処を訪ね弟子入りしているんですよね。碑は昭和31年の建立。因みに「松原通」の名は応仁の乱後に植えられたこのお社の松並木によります。応仁の乱では新玉津嶋神社も焼失し、冷泉家(俊成の後)がこれを再建し現在に至ります。
匂天神社
においてんじんしゃ

ビルの一角の格子の奥深くに鎮座する街中の天神さま。由来は不明ですが、『都名所図会』には「匂天神社、東洞院之烏丸の間、高辻の北にあり」と記され、江戸時代中期には洛陽天満宮二十五社の十番札所一つであったといいます。この辺りを「匂天神町」と称するようになったのは明治2年のこと。明治6年廃社。
西本願寺
にしほんがんじ 浄土真宗本願寺派本山 山号/龍谷山 本尊/阿弥陀如来 通称/西本願寺 おにしさん 世界文化遺産

式名称は浄土真宗本願寺派本願寺、または本派本願寺。地元では「お西さん」と呼ばれています。御影堂に入ると荘厳なきりっとした空気がそこに広がります。無であり、有である。そんな感じですね。「寝転んではいけません」と書いてあったのですが、そのくらい広いんです。元は親鸞上人の木像を安置する為に造られた小堂が始まり。現在の地には天正19年に移りました。此処にある手水鉢はもともと羅城門にありまして、渡辺綱が鬼の腕を斬った後それを持ち帰り、暫くの間保存(笑)しておいた石櫃なのだそうです。夜毎に泣くので本願寺に寄付。別名を「白州水屋の手水鉢」ともいいます。因みに西本願寺は短い期間でしたが新撰組の屯所があったところでもあります。土方さんが見上げたかもしれない立派な銀杏があります。大火にも焼け残ったという銀杏です。
若一神社/平清盛公西八条殿跡
にゃくいちじんじゃ
/たいらのきよもりこうにしはちじょうどのあと


平家所縁のお社です。西大路通を通る時、車窓からいつも旗が見えていて立ち寄りたい〜っ!と思っていた場所でもあります。宝亀3年の事。威光上人が熊野詣での際、衆生を救う為に御分霊若一王子の御神体を笈に負って旅立ちました。森の古堂に一夜を明かしたところ、此処に鎮座するとのご神意があり、堂中に安置したのが始まりです。しかしその後異変があって御神体は土中に入ってしまいました。年月が流れ、平清盛は浅水の森と呼ばれていたこの地に西八条殿を造営しました。そして仁安元年の夏、熊野詣での際に土中に隠れている御神体を世に出すようにとのお告げを受けるのです。帰京後彼が見た物は邸内の東方築山からの夜光。清盛はお社を造り御神体を安置。こうしてお社は八条殿の鎮守となりました。そして開運出世を願ったところ翌年2月には太政大臣に任ぜられたのだそうです。境内にはと〜ってもりりしい清盛さんの像があります。清盛さんといえば法体ですが、やはり出世街道まっしぐら時代の彼はこの像の如くカッコイイのです。また神供水(じんぐすい)は名水として知られ、ももかが立ち寄った時も水を汲む人の数が途絶えませんでした。社前の大楠は清盛さんのお手植えなのだそうで、源氏による平家追討の際に八条殿が焼き討ちされた時も残り、以来伐採しようとしたり移し変えようとしたりすると必ず祟りがあったといいます。昭和8年にこの辺りの区画整理があり市電を走らせる計画がありました。しかし工事関係者が次々と亡くなったりと不可解な事柄も多かった為に境内及び楠は保存される事となり、その結果西大路通自体が楠を避けるように婉曲となったのです。
梅林寺
ばいりんじ 西山浄土宗 山号/清香山 本尊/大日如来

創建は戦国時代とも。陰陽師安倍晴明の子孫は土御門家を称するようになり、この梅小路付近に邸宅を構えるようになりました。此処は土御門家が慶長5年に若狭から京に帰ってきて以来の菩提寺であり、本堂の裏手の墓所には「安倍」姓24基を見る事が出来ます。また宝暦歴という暦を作成した陰陽頭・土御門泰邦もこちらに眠っていますが、本堂前庭にある寛延4年5月製の天球儀台石は彼の手によるもの。十文字に彫られた溝は東西南北を表し、1本だけが深く削られています。この台石の上に天球儀や渾天儀を置き天体観測をしていたといたのだとか。円光寺は山門を潜らないと見えないのですが、こちらは門からでも灯篭の下にあるそれを見る事が出来ます。天体観測の開始は貞享改暦時。泰邦がこの天球儀台石を作った頃の広さは約3000坪という規模だったそうです。しかしその土御門家もやがて衰退し、明治3年閏10月に土御門和丸が暦学御用の職を退くと、天文台(近くの信号機のところにあったそうです)も廃れていったようです。観光寺院ではない為、事前連絡をした方が良いですね。かつては旧梅小路村の人々による「じじばい講」という行事がありました。正月8日、大日堂に置かれた丸太を青竹で叩くものです。いわれは厄除けや豊作祈願、また梅小路村付近が大蛇に襲われた事から3メートルほどの丸太を大蛇に見立て打つようになったなど様々な説があり不明です。京都市登録無形民俗文化財ですが、高齢化により数年前に途絶え現在は行っていないとか。
繁昌神社 (繁昌の宮)
はんじょうじんじゃ

日本で唯一この名を頂き、悪縁を切り良縁を結び、名称でも推測される通り商売繁盛のお社。鳥居と同色の朱色の垣が印象的です。町の名前も繁昌町(これは豊臣秀吉命名)で、何か良い事がありそうな感じ♪またの名を班女社といって『宇治拾遺物語』巻三「長門前司女、葬送の時、本所にかえる事」の説話に出てくる班女塚がこの前身といわれています。また、お社の北西に石と祠があり、これが元々の鎮座地であったのではないかとされています。謡曲『班女』とは余り関わりはなさそうですが、調べていくとミステリアスな世界に入りそう。社殿によれば創建は清和天皇朝。此処の額束の文字は可愛くて好き♪
東鴻臚館跡碑
ひがしこうろかんあとひ

平安京の朱雀大路を挟んで東西2つの鴻臚館が設けられましたが、こちらはその一つの東の方。東寺・西寺の造営により、弘仁年間に七条通北に移りました。外国使節をもてなす役割を持っていましたが、主に渤海の使節がその対象となりました。渤海国は延長7年に滅亡し、使節も渡海する事もなくなった為にその存在意義を失い延喜20年に廃されました。島原の片隅に碑が建てられています。西の方は朱雀堂ノ口町。
東本願寺
ひがしほんがんじ 真宗本病 真宗大谷派本山 本尊/阿弥陀如来 通称/東本願寺 おひがしさん

正式名称は真宗大谷派本願寺、真宗本廟。昭和62年までは「本願寺」を称していました。地元では「お東さん」と呼ばれています。慶長7年に徳川家康が本願寺の勢力を二分する為に西本願寺から分かれ第12代教如上人が建立しました。焼失を繰り返し、現在の建物は明治28年のもの。大師堂(御影堂)は世界最大級の木造建築で、「千畳敷き」ともいわれる程。此処には鏡御影と呼ばれる親鸞聖人像を安置しています。阿弥陀堂への渡り廊下には信徒さんの髪で作られた「毛綱」があります。三門は知恩院・南禅寺と並ぶ京都三大門の一つ。
七条通り商店街
ひちじょうどおりしょうてんがい


始め「しちじょう」と読むのかと思っていましたが、手元のガイドブックには「HICHIJHO」とご丁寧に振ってあるので「ひちじょう」なのでしょう。昭和初期に開設された中央卸売市場界隈に軒を連ねる商店街。千本通から七本松通が七条千本繁栄会、七本松通から御前通が七条中央サービス会。京都駅からでもそうは遠くなく、活気に溢れた商店街です。ももかはこうした商店街には馴染みがないので(歴代のももか邸には近くに商店街はおろか生鮮を扱ったお店がなかった)お店の方の呼び込みの声や買い物かごを下げた方々が沢山いて驚くのと同時にとても興味深かったのでした。秋に訪れた時は、丹波産の極上松茸が売っていました♪地元だけあってやす〜い!魚もありました。(魚屋さんも見た事がないような気が)
火除天満宮
ひよけてんまんぐう

新京極近くにある小さな小さなお社。周囲の方々が大切に守っておられ管理が行き届いています。天満宮25社の第9番。社伝に曰く、天正7年一人の老神官が九州筑紫国大宰府より菅原道真の尊像を背負い天正5年頃に入洛した事に始まるとされています。当初は六条にあったようです。織田信長・信忠父子が本能寺の変で没すると、その菩提を弔う為に正親町天皇の勅命によって貞安上人が龍池山大雲院を建立しました。後に豊臣秀吉による都市計画の一環により多くの寺院が移転をしましたが、大雲院も同様に慶長2年寺町四条下るの地に移りました。火除天満宮が大雲院の鎮守社となった経緯ははっきりしませんが、同じく当地に鎮座したと記されています。天明8年の大火で大雲院は焼失し、このお社も難に遭った事は想像に難くありません。しかし、元治元年の蛤御門の変にはこの一帯だけが奇跡的に類焼せず、後も度々火難を免れたことから「火除け」の神として崇敬を集めているそうです。
日吉社
ひよししゃ 堀河天皇(1079−1107)

仏光寺通と室町通が交差する角にあるお社で、名の通り近江の日吉大社とは深い関係にあります。因みにこのお社が鎮座しているのは山王町なので、な〜るほ〜ど〜それで日吉なのね〜という感じなのです。周囲に溶け込んだ黒い壁が印象的で、扉が閉まっている事もあります。堀河天皇の御世に比叡山坂本の日吉大社の僧兵達は、朝廷に強訴する為に神輿を担ぎ、それを山王の森と呼ばれていたこの辺りに捨てて帰ったのだとか。でも町名の方が後に付けられたのですが。黒塗りの壁の内側にこじんまりとした境内があります。近江坂本の小比叡社(現在の日吉大社)の山王祭にはこのお社からも未之御供(ひつじのごく)を捧げる事になっています。祇園社(八坂神社)がこの祭礼を執り行った時期もありましたが、明治以降旧に復したそうです。
風俗博物館
ふうぞくはくぶつかん

井筒屋商店ビル5階にある小さな博物館で、平成10年4月にリニュアールオープン。以前は等身大の人形を使って縄文時代から近代までの服装の移り変わりを紹介していましたが、現在は『源氏物語』六條院「春の御殿」を4分の1の大きさで紹介。物語の登場人物の人形が様々な季節、様々な祭事によって活躍。中には実物大の部屋に几帳などの調度品などもあって、希望すれば十二単の試着も出来るというのですから素晴らしい♪ももかも着てみたいです〜(笑)。平安時代を愛する人達にとても人気がある場所というのも頷けますよ。現在日曜祝日が休館日となっています。
佛光
ぶっこうじ 真宗仏光寺派(本山) 山号/渋谷山(汁谷山) 本尊/阿弥陀如来

親鸞上人が越後流罪赦免の翌年である建暦二年山科の地に草庵を結んだのが前身といわれています。元応2年今比叡汁谷に移りましたが応仁の乱後に衰退。天正14年に豊臣秀吉が大仏を建立するにあたり、五条坊門の地に移りました。初めは真宗開闢の根本道場を意味する「興隆正法寺」と称していました。「佛光寺」の名は後醍醐天皇により賜ったものですが、それにはこんな話があります。お寺が繁栄するのを妬む者が、ある夜、本尊や宝物を盗み竹薮に投げ捨てられた事があったそうです。後醍醐天皇は夢の中で東南の方向から一筋の光が差し込むのをご覧になりただちに人を遣わしたところ本尊の阿弥陀如来が見つかったのでした。この事から「阿弥陀佛光寺−佛光寺」を称するようになったのです。後醍醐天皇って楠木正成の霊夢もご覧になられましたけれども、そういう能力をお持ちだったんですね。不思議。本尊阿弥陀如来立像と聖徳太子立像のほか、真宗七高僧像を安置。この七高僧像、とても珍しいのだとか。内部はかなり明るく金色めいています。厨子も輝いていました。綺麗!ピカピカ黒光りする床に目を奪われていると、段差があって足を踏み外しそうになりました。拝観の折にはご注意くださいね。
不動堂明王院
ふどうどうみょうおういん 西山浄土宗 本尊/霊石不動明王 通称/霊石不動

南不動堂町の道祖神社のすぐ横にあります。弘仁年間に弘法大師が東寺の東北の鬼門にあたるこの地に一体の不動尊を祀ったのが始まりです。たまたま大師は一基の不思議な霊石を発見。これに不動明王を彫刻し石棺に収め、地中の井戸深くに安置したと伝えられています。後に宇多天皇の後院である亭子院が造られると、勅命によりこの井戸を封じ、霊石不動明王と名付け堂宇を営み御念持仏としていたのだとか。因みに高野山波切不動尊、成田不動尊と併せて弘法大師作の三体不動尊といわれています。応仁の乱により焼失し、現在の建物は明和元年のもの。お堂の中を覗いてみると煤で真っ黒です。此処で護摩を焚いているんでしょうね。幕末の新撰組は本願寺から京都最後の屯所をこの不動堂村に移しています。当時はもっと寺域が広かったこの不動堂へ土方さんも訪れていたかもしれません。近年、この不動堂に「新選組幻の屯所」の提灯が!
弁慶と義経の像
べんけいとよしつねのぞう 武蔵坊弁慶(生年不詳ー1189) 源義経(1159−1189)

五条橋の傍の五条通の緑地帯に置かれている御所人形をかたどった石像。弁慶と義経の出会いは五条橋!余りにも子供っぽいのは御所人形風だからだったんですね〜。納得。因みに平安時代の五条橋はこの場所にはなく、松原橋の辺りというのが定説になっています。
本圀寺御題目石碑 (本圀寺東門跡)
ほんこくじおだいもくせきひ (ほんこくじひがしもんあと)


建長5年から昭和46年までの長きに渡りこの地にあった日蓮宗の総本山本
圀寺。元は本國寺と書きましたが、徳川光圀の帰依を受け名を改めました。江戸時代は朝鮮通信使の宿舎としても使われたそうで、案内板も建てられています。東門があった辺りの堀川警察署のすぐ側に昭和5年建立の石碑が建ち、流れるような法華題目が刻み込まれています。実は西門跡地にも題目碑があるのですよ。現在、お寺自体は山科に移りましたが旧塔頭と墓地はこの地に残っています。
松尾大社朱雀御旅所 (松尾總神社)
まつおたいしゃすざくおたびしょ

松尾大社の境外末社。御祭神は月読尊で、古来より松尾祭の還幸祭の道行きに際し、六基の神輿の御旅所とされて来ました。朱の鳥居がとっても綺麗。近くには活気溢れる商店街があります。
松尾大社西七条御旅所
まつおたいしゃにししちじょうおたびしょ

松尾大社の境外末社。御祭神は松尾大神で、こちらも松尾祭の還幸祭の道行きに際した神輿の御旅所。松尾旅所の中では最大であり中核を成す場所でもあります。創建は古くて平安時代末期の史料にはその名が記されており、元々は西七条に三ヶ所の御旅所があったといいますが、明治以降現在の形となりました。七条御前通に面していて普段はひっそりとしています。
松原京極商店街
まつばらきょうごくしょうてんがい

古くは五条大路、現在の松原通を烏丸通から更に西に歩いたところにある商店街。別名は四畳半通。京都の中でも古い商店街として知られ、かつては大盛況を誇っていたといいます。平成17年大河ドラマの影響を受けて、此処には義経と弁慶の黄色い旗がはためいていました。ほてほて散策するには良いかも。途中美味しいにおいがしてきたり。
松原道祖神社
まつばらどうそじんじゃ

平安遷都以前にこの地にあったとされる猿田彦命と天鈿女命を祀った古いお社。別名を首途の社といいます。松原通を下ったところに鎮座していますが、元はもう少し西側にあり、五条天神宮の向かいの辺りだったといわれます。五条天神宮とこのお社には男女別々にお参りをすると結ばれるのだとか。天明の大火や元治元年の禁門の変ではお社に伝わっていた古文書などが焼失。『今昔物語集』『宇治拾遺物語』に五条の道祖神、五条の斎としての記録があり、賽の神としての信仰が篤かった事が分かります。額のくるくるが可愛い。
松原橋
まつばらばし

「松原」の名はこの通りに沢山の松が植えられていた事に由来。松原通は鴨川を渡り清水寺に至ります。古くは五条橋があった場所に松原橋はあります。従って、弁慶と牛若丸のお話で有名な五条橋はこの橋の事とも言われています。現在はコンクリートの小さな形態をしています。
松本宗悟邸跡
まつもとそうごていあと 松本宗悟(生没年不詳)

室町通の片隅に碑が建っています。彼は室町時代に生き、十四屋宗伍の名で知られる茶人かつ歌人で数寄者。『山上宗二記』に評される彼は目利きではないし道具を持っていてもいい物なしの人。でも村田珠光の門下で、武野紹鴎に茶を教えたとされる人物です。活躍は天文年間とされています。
源融河原院址 (此附近源融河原院址)
みなもとのとおるかわらいんあと (このふきんみなもとのとおるかわらいんあと) 
源融(822−895) 嵯峨天皇皇子

五条大橋から高瀬川に沿った小さな歩道の一角にあります。榎の木の下に大正4年建立の古い碑が建っているのですがうっかりすると見落としてしまいそうな感じです。実際ももかは見落としてうろうろしておりました(笑)。融は嵯峨天皇と大原全子の間に生まれた第17皇子で、源姓を賜り後に河原左大臣とも呼ばれました。彼が住んだ河原院は豪勢を極め、陸奥の千賀の塩竈を移し塩を焼かせたという伝説は有名です。融没後はこの河原院も荒れ果て、魑魅魍魎が棲む妖しの屋敷となり果ててしまいました。後に籬の森と呼ばれその姿は明治初期まで見受ける事が出来ましたが、今はこの石碑がある僅かな老木がその名残を留めているに過ぎません。『江談抄』では融の亡霊の話が語られ、『源氏物語』には「なにがしの院」としてモデルとなったといわれています。
明王院不動寺
みょうおういんふどうじ 真言宗東寺派 山号/青蓮山 本尊/石造不動明王 通称/南岩倉、石不動、松原不動、北向き不動さん

桓武天皇が築いた四岩倉の1つで南岩倉として王城の南を守護。創建については奈良時代ともいわれていますが、桓武天皇の頃に築いたとすれば平安初期という事になるのかもしれません。いずれにせよ創建年代は不明。此処に祀られている弘法大師作の不動さんは明王院不動、松原不動とも呼ばれ、また北向きであるところから北向不動ともいわれています。京都って北向不動さんが多いですね。額に「南岩倉」の文字を見受けることが出来ます。
本居宣長修学地碑
もとおりのりながしゅうがくちひ 
本居宣長(1730−1801)

綾小路通の西、善長寺町。宣長は医学修業の為にこの地にあった儒医堀景山の家に身を寄せました。彼が京にやってきたのが宝暦2年の事。此処で5年間医学を学び、後に古典への関心を深めたのでした。在京時代の宣長は楽しかったらしいですよ。住宅密集地の中にぽつんと碑が立っています。
八坂神社四条御旅所/冠者殿社
やさかじんじゃしじょうおたびしょ/かんじゃでんしゃ

桃山時代までは、高辻烏丸と烏丸夷川通の2ヶ所にあったようですが豊臣秀吉が四条のこの地に移しました。祇園祭の神幸祭(7月17日)に八坂神社から出発した三基の御神輿はこの御旅所に移され、24日の還幸祭に町中を練り歩きながら神泉苑や三条御供社に立ち寄りつつ八坂神社へと移動します。東御殿と西御殿の間には普段京土産の「四条センター」がありますが、この期間には戸が外され御神輿が鎮座出来るように置かれなっているのです。

■■冠者殿社■かんじゃでんしゃ
八坂神社の境外摂社で、慶長年間にこの地に移されたといいます。天照大神と契約された時の素戔嗚尊の御気を祀りますが、俗説には土佐坊昌俊 をも祀るともいいます。堀川夜討ちの際、破れた土佐坊昌俊は忠義の為に偽るものの罪を問わぬようにという願をかけたのだとか。これが誓文誓いの信仰を生み、現在でも起請の神、誓文払いの神として知られています。祇園祭での無言詣りは有名ですよね。
蓮光寺
れんこうじ 浄土宗黒谷派  山号/負別山(ふべつざん、おいわけざん) 本尊/負別阿弥陀如来 長宗我部盛親(1539−1599)

明応元年、新町高辻に真盛上人が草庵を結び萱堂と称したのが始まりです。天正19年に現在の地に移り浄土宗に改宗、後に寺号を蓮光寺としました。京都四十八願寺の第35番。建物は蛤御門の変の折、焼失し明治29年に再建。以降本堂の改修、書院庫裏の再建が行われました。山号を負別山というのは、快慶作と伝えられる本尊阿弥陀如来の別名・負別如来からきています。快慶が東国の僧の求めに応じて阿弥陀如来を作った際、あまりの尊い出来映えに自ら護持したいという気持ちを止められず、僧の後を追いかけた後でその唐櫃を開くと一体の尊像が二つに分かれたという不思議な謂れを持っています。もう一体は仙台市泉区の阿弥陀堂にある阿弥陀如来(別名・笈分如来)です。境内には六条河原の刑場に祀られていたという地蔵尊があります。盗賊に襲われた篤志者の代わりに首を切られたといい、首切り地蔵・斬首地蔵などと呼ばれていました。鴨川の氾濫で埋もれていたそうですが、保元3年に平清盛の乗馬が突然動けなくなったので辺りを掘ってみると出てきたのがこのお地蔵さんだったそうです。この事から「駒止め地蔵」と呼ばれるようになりました。また、長宗我部盛親のお墓もあります。大坂夏の陣で敗れ六条河原の露と消えた盛親は土佐の武将。蓮光寺とも親交があった事からこの寺の連光上人が所司代板倉勝重に請い、首級をこの墓所に葬ったそうです。今でも花が絶えず、慕われている事が分かります。お寺には彼の遺品も伝えられています。彼に代わって土佐を統べ統地したのが山内一豊ですね。
与謝蕪村宅跡 (終焉の地
よさぶそんたくあと (しゅうえんのち)ひ 与謝蕪村(1716−1784)

仏光寺通に碑があります。真新しいのは平成10年建立ゆえなのですが、この碑の背後の建物が和風で京都らしくて流石蕪村先生の所縁やわぁ♪という感を抱いてしまったのはももかだけでしょうか。蕪村は俳人兼画家。安永3年に奥様が見つけた邸宅には猫の額の庭に緑が少々。家の前で路地は行き止まり、突き当たりに地蔵尊が一体鎮座していたといいます。路地は昭和36年まで存在し、地蔵尊も昭和22年までは此処にありました。此処で生涯を終えた蕪村は金福寺(左京区)に眠っています。墓石は素晴らしいです。
リーガロイヤルホテル京都/不動堂村屯所跡
りーがろいやるほてるきょうと/ふどうどうむらとんしょあと

現在のリーガロイヤルホテル京都の辺りが新撰組の不動堂村屯所のあったところといわれています。慶応3年6月15日に西本願寺にあった屯所は此処に移り、新撰組は12月14日に伏見奉行所へ移るまでの僅かの間を過ごしました。広さ1万平方メートルの屯所には30人が1度に入れた大風呂も設置。既に局長である近藤さんらは幕府直参になっていた為か、それは大名屋敷と比べても遜色ないものであったといいます。因みに建築並びに諸経費は西本願寺の負担でした。此処に碑が建てられたのは平成15年6月でした。
龍谷大学大宮学舎
りゅうこくだいがくおおみやがくしゃ

寛永16年西本願寺に設けられた「学寮」に始まる龍谷大学。西本願寺の敷地にあり、校名は本願寺の山号である「龍谷」に由来し大正11年から使われています。校章は明治39年に制定され、仏教のシンボルである三宝章と本願寺の紋所である菊くずしを組合わせたもの。大宮学舎(キャンパス)の特徴は何といっても明治12年に竣工された本館(国重文・元は講堂)、南北の教室棟である南黌・北黌(それぞれ国重文・元は寄宿舎)、正門(国重文、附帯・渡廊下、設計図2幅)、旧守衛所(国重文)といった歴史的建造物。この美しく白い洋館は、外観だけでも一見の価値があります。本当にうっとりとしてしまいます。



京大路でそぞろ歩き
手焼き京おかき 菱屋てやききょうおやきひしや

島原の古くてひっそりとした住宅街の中にあるお店。明治19年の創建当時は松原油小路にありましたが、移転し現在の地に。古めかしい店内がなんともいえません。ここのお薦めは何といっても「うすばね」です。一枚一枚丁寧に日にちをかけて作られたおかきで、ふわりとした口触りが名前通り。
フランソア喫茶室ふらんそあきっさしつ

昭和9年開業のイタリア・バロック調のレトロな喫茶店。戦時中、都茶房と名前を変えた事もありました。平成14年には国の登録無形文化財に指定されています。古くから著名人が通った場所としても知られ、とても素敵な空間。自家製のケーキに人気があります。珈琲はオリジナルカップでいただけます。


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