このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

永代の京
〜宇治市編〜

神社
あがたじんじゃ

その創立の年代ははっきりしませんが、古くからこの辺りの守護神として存在していたらしく、『蜻蛉日記』では作者・右大将道綱の母が立ち寄ったというお話があります。平等院の鬼門に位置し、永承7年にはその建立に際し同院の総鎮守となりました。改築を繰り返し現在の社殿は昭和11年の造営によるもの。木花開耶姫が祀られていますが、一説には弓削道鏡、または藤原頼長の霊ともいわれているとか。境内にある県井戸は古くから歌枕として親しまれてきたものです。さて、このお社には6月5日から6日の未明にかけて行われる「暗夜の祭礼、暗夜の奇祭、暗闇祭」といわれる県祭があります。午前1時頃から始まる深夜の渡御は午前3時に神社本殿で神移しの秘儀が執行され、以降は一切の明かりが消されます。また幣殿への渡御に際しても沿道の明かりは全て消されるのです。まさに暗闇。ももかは「闇夜の祭」なんて呼んでますけどね〜。(と思ったらももかの地元の諏訪大社でも昔は夜中のお祭りをやっていた事が判明。死と再生なんですよ、これってば)境内は思っていたよりも小さくてそんな奇祭が執り行われるお社という気がしません。薙刀のようなものが社殿にあったのが印象的でした。
総角之古蹟
あげまきのこせき

『源氏物語』第四十七帖「総角」の碑で昭和45年の建立。宇治上神社から源氏物語ミュージアムへと続くさわらびの道にあります。

−−−「総角」の巻 

八の宮亡き後、薫は大君に想いを打ち明けるものの大君は妹の中君と薫の結婚を望んでいました。しかし薫の取り持ちで中君は匂宮と結ばれます。途絶えがちになった匂宮の訪れ。そして病気がちだった大君は薫に看取られながら亡くなるのでした。
「あげまきに長き契りをむすびこめおなじところによりもあはなむ」(薫)
東屋観音 (東屋之古蹟)
あづ(ず)まやかんのん

『源氏物語』第五十帖「東屋」。京阪宇治駅の近くにある鎌倉時代後期に造られた聖観音がその古蹟といわれています。

−−−「東屋」の巻

大君・中君の異母妹で常陸に下向していた浮舟が登場。二条院に身を寄せる事になった浮舟はふとした事から中君の夫君である
匂宮に言い寄られてしまいます。この出来事を心配した母親が浮舟を連れ出し三条の家に住まわせますが、それを知った薫は浮舟を宇治に迎えます。
「さしとむるむぐらやしげき東屋のあまりほどふる雨そそきかな」(薫)
宇治上神社
うじがみじんじゃ 世界文化遺産

応神天皇・仁徳天皇・応神皇太子莵道稚郎子を祀っています。元はこの辺りの産土神でした。境内は莵道稚郎子の桐原日桁宮と呼ばれた離宮跡とされ、宇治離宮八幡宮として宇治神社と二社一体で信仰されてきましたが明治初期に分離しました。その風貌は吉野の水分神社みたいだなと思うのはももかだけ?
治川
うじがわ

琵琶湖から巨椋池へと注ぐ流れのうち、下流を宇治川といいます。巨椋池は昭和年間に干拓され、現在は存在しませんが、地図で線路図を見るとその曲線部分からどの辺りが巨椋池にあたったのかが自ずと分かると思います。宇治川は流れが速く、なかなか橋を架ける事が叶わない川でした。それと共に歴史に残る多くの話も残っています。兄弟で皇位を争った莵道稚郎子と大山守。大山守は敗れこの川で命を落としました。『源氏物語』の浮舟はこの川に魅入られるように姿を消します。平安時代末期には平家追討を目論む源頼政が此処で一戦を行いました。上流の天ガ瀬ダムのお陰で水量の調節は可能になったとはいえ雨の翌日にはやはり轟々とした音に宇治川の流れの速さを感じてしまいます。
中州にある橘島は『源氏物語』で匂宮が浮舟を連れ出す際にも登場。また、『平家物語』では宇治川の先陣争いの舞台でもあります。
治川先陣之碑
うじがわせんじんのひ 佐々木高綱(1160−1214) 梶原景季(1162−1200)

昭和6年建立。宇治川の橘(中の島)に建つ碑。寿永3年、木曽義仲追討の命を受けた義経とそれを迎える木曽軍は宇治川で対峙しました。「いけづき」に騎乗する佐々木高綱と「するすみ」に騎乗する梶原景季の先陣争いは、『平家物語』でも有名な場面。激流の宇治川に飛び込み渡岸せしむ二人を偲ぶ事が出来ます。それぞれ源頼朝から二人に下賜された名馬で、「いけづき」は生き物を食らう程の猛々しい馬(生食)、池に映る月のような美しさ(・・・なんでしょうか、池月・生月と表記する場合もあります)の意。「するすみ」は駿河から来た磨った墨のように黒い馬、或いは摺った墨のように黒い馬という意。
宇治十帖モニュメント
うじじゅうじょうもにゅめんと

朝霧橋の近く、丁度宇治神社鳥居の正面にある匂宮と浮舟像。「浮舟」の巻で浮舟は訪ねて来た匂宮と共に宇治川を小舟で渡ります。こんな風に大々的に建てられては薫の立場がない?太陽の位置の関係上、写真を撮るなら午前中がおすすめ。
宇治神社
うじじんじゃ


莵道稚郎子を祀っているお社です。こちらの御朱印には歌が一首。「宇治川の岸の山吹散りにけり難波の花に春をゆづりて」とあります。山吹とは「山吹の瀬」を表し、現在には見られない宇治川付近の地名です。此処では山吹の花=宇治の宮に住んでいた稚郎子を示し難波の花=難波の宮に住んでいる大雀命(後の仁徳天皇)を示しています。そんな訳で大体の意味が分かるのではないかと思います。それ以来、ももかの中の宇治は満開の桜が連想されてしまうのです。此処の手水は兔〜♪可愛いです。
宇治橋
うじばし

大化2年に元興寺の僧道登が架けたものが史書に残る最も古い例です。勢田の唐橋・山崎橋と並ぶ日本三古橋の一つ。交通や軍事上の要所としてこの橋の位置は重要でした。現在の橋は平成8年の再建によるもの。つまりは莵道稚郎子と異母兄・大山守命が争った時代にはまだ橋が存在せず、「渡守」に混じって大山守を「舟に乗せ」彼を宇治川に落としたのでしょう。能の「鉄輪」の舞台でもあります。宇治の橋姫を祀る「三の間」(出っ張っているところ)は、豊臣秀吉が茶の水を汲んだとされ、現在でも茶祭りの水は此処から汲み上げられています。
応神天皇皇太子莵道稚郎子宇治墓
おうじんてんのうこうたいしうじのわきいらつこのみことうじはか 道稚郎子(生年不詳ー312) 応神天皇皇子・皇太子

応神天皇と日触使主女の宮主宅媛との間に生まれた皇子で他の兄達を退けて皇太子となりました。しかし父帝崩御の後、異母兄の大山守命が叛旗を翻しこれをもう1人の兄・大雀命と宇治川で討つ事になります。後にこの大雀命に皇位を譲りたいと願い自ら命を絶ちました。稚郎子のお墓は朝日山の経塚ともいわれていて、そこには稚郎子を模したといわれる観音像があります。現在の地は明治23年に陵墓として指定されました。ももかは莵道稚郎子って大雀命に暗殺されたと思っています。だから大雀命は簒奪者なのよ〜。そうでなくては何故大山守命を討ってまでして守り、「離宮」・・・つまり宮まで構えていた彼がどうして皇位をみすみす渡さなくてはならなかったのか分かりません。それに大雀命(仁徳天皇)って余りにも美しい伝説を残しすぎなんだもん。その「仁徳」の名も美しすぎるもん。柿本人麻呂は『万葉集』に一首残していますが人麻呂は事の真相を知っていたのでは、な〜んて思います。莵道稚郎子は宇治若郎子とも書きますが、こちらの方が好み♪『播磨風土記』には宇治天皇の名が。また紫式部は『源氏物語』の宇治の八の宮を準処としているらしいです。
彼方神社 (椎本之古蹟)
おちかたじんじゃ (しいがもとのこせき)

『源氏物語』第四十六帖帖「椎本」の古蹟。『延喜式神名帳』に「宇治彼方神社」の名があり、式内社としてかなり古い事が分かります。但し、その創建などは分かっていません。今は小さな祠しか見出せませんが、平安の昔にはもっと規模が大きかったと推測されます。「おちかた」とは「川の水が流れ落ちる方」という説がありますがはっきりしません。ももかは「こちかた」の変じたものかと思いました。初めは宗像神が祀られていたといい、現在は諏訪明神が祀られています。いずれも水を司る神さまで宇治川近くにあるこのお社建立の理由の一つともいえるのではないでしょうか。京阪宇治駅近くにあります。

−−−「椎本」の巻

八の宮が亡くなり、宇治には大君・中君が残されます。薫は遂に大君に恋心を打ち明けのですが・・。
「立ち寄らむ陰とたのみし椎が本むなしき床になりにけるかな」(薫)
興聖寺
こうしょうじ 曹洞宗 山号/仏徳山 本尊/釈迦三尊 

天福元年に創建され応仁の乱に焼失しましたが、慶安元年に伏見城の遺構をこの地に移築し再興しました。此処には伏見城落城の折に自刃した鳥居元忠達の血で染まった廊下の床を天井板として使用し、その霊を弔っています。天竺堂には、宇治十帖古跡の「手習の杜」に祀られていた「手習観音」が安置されています。秋の琴坂と紅葉は宇治十二景の一つ。ももかは春に訪れたので紅葉は見れませんでしたけど(笑)。
早蕨之古蹟
さわらびのこせき
『源氏物語』第四十八帖「早蕨」の碑。古くから転々とし現在の碑は昭和63年に建立され宇治神社近くにあります。

−−−「早蕨」の巻

大君亡き後、ようやく母・明石中宮の許しも出て匂宮は二条院に中君を迎えます。その喜びの中で、薫は失った大君の形見として中君に惹かれ中君は困惑するのでした。
「この春は誰にか見せむ亡き人の形見に摘める嶺の早蕨」(中君)
橋姫神社
はしひめじんじゃ

大化2年宇治橋架橋の際に僧道登が橋の守護神として瀬織津姫を勘請し三の間に祀ったのが始まりといいます。但し宇治橋の架橋時期については色々な説があるのでこの年と断言する事は出来ま
せん。明治3年洪水により橋が流失した為、現在の地に移転。現在の橋には名残でもあるかのように三の間が造られています。平安時代の事、夫が浮気している事を知った女がそれを怨んで貴船神社で丑の刻参りを行いました。ある日、女は貴船明神が宇治川に漬かれば生きながら鬼と化す事が出来るという託宣を得、鬼となります。鬼女は夫を殺そうとするのですが安倍晴明によって追い払われたのでした。この話は、宇治橋姫伝説や謡曲『金輪』でも知られたお話です。橋姫神社は悪縁を絶つ霊験あらたかな神さまとして信仰を集めています。また『源氏物語』第四十五帖(宇治十帖の第一帖でもある)「橋姫」の古蹟でもあります。

−−−「橋姫」の巻■

薫が八の宮の娘達を垣間見て恋心を抱く一方、弁を通してうすうす疑っていた自分の出生の秘密を知るのでした。
「橋姫の心を汲みて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れぬる」(薫)
平等院
びょうどういん 単立寺院 山号/朝日山 本尊/阿弥陀如来 世界文化遺産

世界文化遺産。元は源融の別荘跡で永承2年に藤原頼通が父・道長の別荘を改めてお寺にしました。鳳凰堂は天喜元年に建立された阿弥陀堂であり、創建当時の建物の中で唯一現存するものです。創建当時の広大な境内地を持っていましたがは建武3年の楠木正成と足利尊氏の戦の際に大半が焼失してしまいました。鳳凰堂の本尊である阿弥陀如来坐像、また天蓋、壁画、雲中供養菩薩像など堂内にはいにしえの時代に貴族達が夢見た極楽浄土を表す世界は、圧倒される美の重みというものを感じる事が出来ます。ももかは天蓋と雲中供養菩薩像が特に好きですね。平等院では平成の大修理の真っ只中で、いつもとは違った姿と違った入口というのが体験出来てらっきいでした。平成15年夏のJR東海のCMでは鳳凰堂と州浜が美しい姿で登場。このCMでは既に改修工事が済んだ様子が伺えました。また平成20年夏は藤棚の涼しげなCMが。観音堂の北角にある「扇の芝」は平家に敗れた源頼政の自刃の跡といわれています。謡曲『扇の芝』でも知られるところです。辞世の句は「埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける」。

■■最勝院■さいしょういん 平等院塔頭 天台宗寺門派聖護院末 本尊/不動明王
承応三年に京都東洞院六角勝仙院(住心院)の僧が平等院に移り、その住庵を最勝院と呼んだ事が始まり。本尊は不動明王で、本堂には役行者と共に本堂に祀られています。境内には源頼政のお墓があります。頼政といえば鵺退治ですが、『平家物語』で平宗盛に取り上げられてしまうお馬さんはこの鵺の霊が変じたものというお話があります。

■■浄土院■じょうどいん 平等院塔頭 浄土宗 本尊/阿弥陀如来
明応年間に平等院修復の為に創られたお寺といわれています。この額は「朝日山」。何となく
莵道稚郎子が葬られているとされている朝日山を連想して面白いなと思います。近くに朝日山も見えますし♪

■■養林庵書院■
ようりんあんしょいん 平等院塔頭浄土院客殿
慶長6年清誉加伝和尚により創建。伏見桃山城の遺構を移築したと伝えられています。元々は塔頭である浄土院の子院の一つでしたが、書院のみが残った現在は浄土院の客殿として使われています。庭園は細川三斎の作庭と伝えられていて、小さいながらも落ち着いた枯山水が特徴。秋には塀の外にある紅葉が彩りを添えてくれます。桃山時代の遺構という事で障壁画もその頃のもの。明治に描かれた山田文厚による茶室の襖の引き手は獅子香炉の形を採っていて、珍しくて可愛いのです。平成24年11月、書院に新たな襖絵が山口晃氏によって奉納されました。墨絵で描かれたその浄土への道は奥ゆかしいもの。今後、極彩色の浄土の世界がこの次の空間に繋がるとの事で、そちらも楽しみです。特別公開の折、山口さんとお話が出来て嬉しかったです。
放生院常光寺 (橋寺
ほうじょういんじょうこうじ (はしでら) 真言律宗 山号/雨宝山 本尊/地蔵菩薩

推古12年に聖徳太子の命を受けた秦河勝が創建したと伝えられています。大化2年に宇治川に宇治橋が架けられて以来、管理する役目を負って橋寺の名前に。境内にある「宇治橋断碑」は宇治橋を架ける上での由来を刻んだ碑で、日本最古の碑の1つです。
萬福寺
まんぷくじ 黄檗宗大本山 山号/黄檗山 本尊/釈迦如来

江戸時代の創建で臨済宗・曹洞宗と並ぶ黄檗宗の大本山です。元は臨済宗でしたが明治9年一宗として独立し黄檗宗となりました。一見して中国風の華やかな建物が特長で、総門からして「中華〜♪」という感じです。寺地は大変広くて時間をかけてゆっくり巡りたいもの。斎堂前にある魚板は木魚の原型で、この頭としっぽを結んだものが木魚という訳です。御朱印をお願いしたお寺の方がとても面白い方で色んなお話をして下さいました。お聞きするのを忘れてしまったのですが、美髭公と思しき像を見たのです。あの正体は・・?韋駄天像も素敵でした。人数が少ないと普茶料理が食べられないというのがちょっと残念。一度は頂いてみたいです。普通お寺とかでお茶を頂く時は抹茶なんですけど、此処は煎茶。これも変わっていて、かえって「らしい」感じがしました。平成12年夏のJR東海のCMに登場。
三室戸寺
みむろとじ 本山修験宗別格本山 山号/明星山 本尊/二臂千手観音(秘仏)

宝亀年間に岩淵から二臂千手観音が現れました。時の帝であった光仁天皇により御室を移してその観音を祀り御室戸寺としたのが始まりです。文明年間に再興、後に織田信長により焼失し衰退の途を辿ります。躑躅や紫陽花、蓮が美しく花の寺としても有名。秋の紅葉も見事です。平成21年、西国三十三箇所の本尊一斉開帳が行われ、こちらも大正14年以来84年ぶりの御開帳がありました。内々陣特別拝観にて小さな御本尊様を拝観。三室戸寺は兎所縁のお寺ですが、内陣の兎と牛にも結縁綱が繋がっていたのが印象深かったですよ。御加持も頂きました。阿弥陀堂は親鸞の父日野有範の墓と伝えられています。期間限定「観音様の足の裏を拝する会」もあります。跪座という珍しい姿の藤原時代(重文)の観音様。その足の裏は本当に可愛らしいのです。
夢浮橋之古蹟
ゆめのうきはしのこせき

『源氏物語』第五十四帖「夢浮橋」の古蹟。宇治橋の近くにあり現在の碑は昭和63年建立のもの。

−−−「夢浮橋」の巻

『源氏物語』の最終巻。薫は尼となっていた浮舟の所在を知り、還俗を促す手紙を浮舟の異父弟・小君に届けさせます。しかし浮舟は返事をせず、小君の話から薫は誰かが彼女を隠しているのではと疑う、というお話。未完ともいわれるよう
にぷつんと切れているような。でも出家に憧れながらまだ果たしえない薫と、出家を果たした浮舟の違いがこの巻を締めくくっています。



京大路をそぞろ歩き
宇治駿河屋 うじするがや

治橋近くの茶団子のお店。室町時代に京都伏見に「鶴屋」として饅頭屋を開いたことが始まり。江戸時代の徳川紀州藩に御菓子御用達司の折のこと、徳川5代将軍綱吉公の娘・鶴姫が紀州家に嫁がれました。同じ「鶴」の屋号を使用する事が恐れ多いとして鶴屋の名前を返上しようと申し出たところ、「駿河」の号を賜ったのだそうです。駿河とは徳川所縁の地ですね。お薦めは茶の
中村藤吉本店 なかむらとうきちほんてん

創業安政6年の茶問屋で
宇治茶のみを扱っているお店です。抹茶生チョコも人気ですね。大きくてどっしりとした○に十を描いた暖簾をくぐるとプンと鼻をくすぐる香ばしいお茶の香りが満ち満ちています。薄暗くも貫禄があるといった店内は古き良き昔の威風堂々とした姿がここにあるといった感じ。中庭には樹齢約200年ともいわれる大きな黒松があって枝ぶりもなかなかなのです。予約すれば元禄時代のお茶室瑞松庵でお抹茶も頂けるのだとか。


HOME 京華万里 永代の京




















このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください