このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

永代の京
〜京都市/右京区編〜

化野念仏寺
あだしのねんぶつじ  浄土宗  山号/華西山  院号/東漸院 本尊/阿弥陀如来

正式名は華西山東漸院念仏寺。寺の歴史は弘法大師が野ざらしになっていた遺骸を埋葬した事に始まります。化野は鳥辺野、蓮台野と並ぶ平安京の葬送の場所で、現在は念仏寺から祇王寺の北側程の範囲ですが、かつては二尊院までの広さがあったそうです。仇野、阿陀志野とも書き、「はかない、あてにならない」の意。初めは風葬でしたが後に土葬となりました。この寺にある石仏は何百年もの間にこの地に埋葬された人達のもので、明治時代にこのような釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ配置し安祀したそうです。「賽の河原」に模して「西院の河原」とも呼ばれています。地蔵盆の夕刻から行われる千灯供養は夏の風物詩で、その幻想的な世界は京都ならでは。
安倍晴明公嵯峨墓所
あべのせいめいさがぼしょ 安倍晴明(921−1005

長慶天皇陵のすぐ近く、住宅街の中に陰陽博士安倍晴明の墓所があります。元は天龍寺が管理していましたが、荒廃が激しかった為に晴明神社境内地となったのだとか。墓碑や玉垣には五芒星がくっきり☆魔界都市平安京ツアー(笑)の初期の頃からこの地を探し、東福寺だの色々と行っていたのですが、このところの晴明ブームで本は出る、地図には出るで10年目にしてようやく辿り着いたような場所(^^;)。晴明さんもあんまりメジャーになると何だか意気消沈しちゃうんですよね。ももか的には(笑)。墓所祭は命日にあたる9月26日でこの日は多くの人が訪れるそうです。
阿弥陀寺
あみだじ 浄土宗 山号/如意山 本尊/阿弥陀如来

正式名称は如意山神通院阿弥陀寺。住宅街の細い路地を入った場所にあり、寺門前には昭和51年に作られた仏足石や「京都文殊霊場」の木札、そして新しめな狛犬が座しています。こじんまりとした境内には「嵯峨野辺を終の栖処に標めおきて」の小謡嵯峨野の額がありました。昔は長岡京の粟生野光明寺や知恩院の僧侶が隠居して住持となったのだそう。本堂や喚鐘は正徳3年のもの。お寺の地蔵尊は鎌倉期とされ、以前の本尊といわれています。地蔵盆には国の重要無形民俗文化財の六斎念仏踊り(空也堂系六斎)が、嵯峨野六斎念仏保存会によって催されます。
今宮神社(花園今宮神社)
いまみやじんじゃ

法金剛院の近くに鎮座する御霊社。古くは「祗花園社」とも「花園社」とも呼ばれ、須戔鳴命を祀っています。長和4年の6月、京に疫病が流行し疫神の御託宣により創祀。筆まめな藤原実資による『小右記』にはその御霊会の様が記されています。一時衰退するも、再び疫病が流行した後冷泉天皇の御世に御託宣があり、「並岡の辺に社をつくらばしづまるべし」の意を受け永承7年に改めて創建。その後は法金剛院や仁和寺の鎮守社となっていました。花園の名は双ヶ岡東山麓の地の貴族の別荘地に多くの花木が植えられた事に由来するともいわれていますが定かではありません。御朱印には小さな勾玉が配されていますよ。
有智子内親王陵墓
うちこないしんのうのはか 有智子内親王(807−847) 嵯峨天皇皇女

落柿舎のすぐ側にあります。有智子内親王は嵯峨天皇と舎人親王系の交野女王の間に生まれた第8皇女。初の賀茂斎王でもあり、父親に似て漢詩をよくした事が『続日本後記』や『経国集』等に記されています。斎王を退いた後は嵯峨西荘に住み、承和14年に亡くなりました。嵯峨野散策の折には必ずといって良いほど目にするお墓です。この陵墓のある緋明神町の名の由来は、この陵墓から来ているといわれています。
梅宮大社
うめのみやたいしゃ 縣犬養橘三千代(665?−733)

県犬養橘三千代が一族の守護神として創建したお社。元々山城国相楽郡井手庄にあったものを、娘である光明皇后と牟漏女王がこれを祀り、更に平安初期、檀林皇后(橘嘉智子)によってこの地に移されました。代々橘氏の氏長者が奉仕していましたが、藤原氏の摂政または関白の家筋の者が橘氏長者を代行した事もあり、藤原氏の氏神である春日神社と同様の崇敬を受けました。これは三千代が藤原不比等の正妻であった事にもよるようです。三千代の系図を見る自ずから納得出来ますよね。相殿には嵯峨天皇・仁明天皇・檀林皇后・橘清友が祀られています。神苑が有名です。平成12年に楼門の前に新しく二の鳥居が建立。また趣が変わりました。平成18年夏のJR東海のCMで満開に咲き誇る花菖蒲が夏を告げました。
大井神社
おおいじんじゃ

渡月橋近くの小さなお社。大堰神社、堰神社、大橋神社ともいいます。現在は松尾大社の末社となり倉稲魂神をお祀りしています。創建は不明ですが、『日本三代実録』の「山代大堰神」がこれとされ、古社である事は確か。現在の社殿は野宮神社の社殿を移築したもの。観光客でごった返す嵐山の地にあって、本当に目立たない場所にひっそりと佇んでいます。
大酒神社 
おおさけじんじゃ


仲哀8年の創建と伝わり、式内社の一つで広隆寺の伽藍神。渡来人の弓月君、その曾孫の秦酒公、祖にあたる始皇帝が祀られています。相殿には兄媛命 弟媛命(呉服女 漢織女)で、何れも大陸渡来系が御祭神です。仲哀天皇の4年に秦始皇帝の裔・秦氏の祖功満王が来朝し、始皇帝の祖霊を広隆寺に祀ったのが始まりといい、もとは広隆寺桂宮院内にあったものが明治の神仏分離によってこの地に遷されたとか。とはいえ広隆寺のすぐ側なんですけどね。小さなお社ですが、歴史は古いのです。京の三奇祭一つ「太秦の牛祭」も見てみたいなあ。でも現在は中止しているんですよね。


木枯神社
こがらしじんじゃ
木枯神社は、延喜式外の社で太秦の地では古社の一つです。元々は大酒神社境内の西北隅に鎮座していましたが、台風で社殿が倒壊し、現在は大酒神社本殿に合祀されています。『広隆寺縁起』によれば、向日明神が作ったという乙訓郡の薬師如来(広隆寺旧本尊)を清和天皇の勅命により広隆寺に迎えたところ、向日明神が広隆寺門前の槻木に影向され、俄かに木は枯れてしまったそうです。そこで御神霊をこの地に移し、「古枯の明神」と名付けたところ、再び枯れ木は蘇ったのだとか。木枯神は仁明天皇女御藤原順子の東五条陵に祀られていたという説もあるそうです。現在の地に移る前にあった地の辺りは木枯杜(こがらしのもり)と呼ばれ歌枕に読まれ、『枕草子』にも「森は」の段に登場(駿河国説もあります)。
春日神社
かすがじんじゃ

天長10年2月に淳和天皇は甥の仁明天皇に位を譲り淳和院(西院)に入りました。この時勅命により奈良の春日四座大神を勧請し、守護神とされたのがこのお社の始まりといわれます。元々この地は淳和天皇が皇太弟時代に過ごした南池院で、譲位にあたって淳和院と改称しました。境内には淳和院の礎石も残っています。こんな事から淳和天皇や淳和院に関する興味深いものがちらほら。境内摂社の還木神社もご祭神が正子内親王(嵯峨皇女、淳和天皇皇后)、藤原旅子(藤原百川女。桓武天皇夫人、淳和天皇生母)、橘嘉智子(嵯峨天皇皇后、正子内親王生母)なのですから、平安初期好きのももかには感動でした♪勿論御紋は菊紋ですよ。朱色の社殿は美しくて存在感があり信仰の篤いお社です。お出迎えしてくれた猫ちゃんが可愛かった♪
帷子ノ辻
かたびらのつじ

嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(檀林皇后)の葬送の時に棺を覆っていた帷子が風に吹かれて舞ってしまった事からこの場所を帷子ノ辻と呼んでいます。こちらの駅に降りるとどうしてもこの故事が思い浮かべられます。
神ノ木弁才天
かみのきべんざいてん

京福電鉄有栖川駅近くの小さなお社。因みに有栖川駅の名は観光客が間違えやすい為に昭和50年に「嵯峨野駅」から改称されたものです。この地に社が建てられたのは明治22年のこと。しかし、弁才天様の歴史はもっと古く300年以上になります。地元の庄屋宅でお祀りされていた弁才天様は、神ノ木の地に遷座したいという夢のお告げにより明治22年現在の地に社が建てられました。大正年間に神春龍神を神ノ木地神(神ノ木龍神)として合祀。狭い境内に鬱蒼と繁る木々が印象的です。電車の車窓からもすぐ分かります。
桓武天皇皇子仲野親王高畠墓
かんむてんのうおうじなかのしんのうたかばたけのはか  仲野親王(792−867) 桓武天皇皇子 宇多天皇祖父

垂箕山にあり、もこっとした小山がそれです。父は桓武天皇、母は藤原大継の娘・河子。第12皇子です。29人という子宝にも恵まれ、その中でも娘の班子女王は光孝天皇に入内し宇多天皇を生み、宣子女王は伊勢斎王となりました。優れた性格を持っていた事が人にも好まれこの子沢山になったのでしょうか(^^;)。音楽にも通じ、藤原基経や大江音人らはその音詞曲折を習ったのだそうですよ。
祇王寺
ぎおうじ 大覚寺塔頭 真言宗大覚寺派山号/高松山 院号/往生院 本尊/大日如来 祇王(生年不詳ー1172?)

元々往生院の境内地にあり、往生院が荒廃した後は小さな尼寺として残って祇王寺と呼ばれるようになったのだそうです。後に廃寺となっていたものを明治28年京都府知事北垣国道氏が嵯峨にある別荘の一棟を寄付して再建。現在は大覚寺の塔頭でもあります。祇王寺といえば『平家物語』における祇王・祇女・仏御前の平清盛に見出された白拍子達のお話が有名ですね。祇王・祇女は近江国野洲郡中北村の出身で橘時長の娘でした。保元の乱で時長が亡くなった為、白拍子になったといいます。仏間には鎌倉時代末期の作といわれる彼女等の木像があります。清盛像が此処にあるのが何だか不思議なのですが、厳しいお顔をされているんですよ。紅葉の名所とも知られていますが、12月上旬くらいの散紅葉がおすすめ。しっとりとした雰囲気で青苔の上に赤い紅葉が埋もれた様子はとても素晴らしいのです。それ以前のちょっと紅葉した木々の間から青苔の床に零れる光の様も綺麗ですよ♪平成6年冬JR東海のCMに祇王寺の散紅葉が紹介、また平成17年ネスカフェ香味焙煎「円窓」篇CMでは控えの間の吉野窓(虹の窓)が登場♪うるさい日本に、日本限定発売!
旧嵯峨御所大覚寺門跡
きゅうさがごしょだいかくじもんぜき 真言宗大覚寺派大本山  山号/嵯峨山 本尊/不動明王をはじめとする五大明王

元は嵯峨天皇の離宮で当時は嵯峨院と称していたものを、嵯峨天皇の皇女で淳和天皇皇后の正子内親王が清和天皇に上奏して寺に改めました。鎌倉時代には此処で後嵯峨、亀山、後宇多上皇の院政が敷かれ嵯峨御所と呼ばれました。南北朝時代には南朝の御所となり、その争いの終止符も此処でうたれたのです。いけばなの嵯峨御流の総司所でもあり、玄関にそれを見る事が出来ます。この嵯峨御流は嵯峨天皇が手折った一輪の菊の花から始まるのです。きゃあ♪嵯峨さんってば風流な事♪そういえばちゃんと嵯峨菊もあったような(笑)。宸殿には梅と橘が植えられています。今の御所は桜と橘なのでこちらの方が古式ゆかしいように感じます。映画『陰陽師』での安倍晴明と源博雅の出会いの場面は此処で撮影されました。


■■大沢の池■
おおさわのいけ
日本最古の庭苑池。嵯峨院の庭池で庭湖といいます。周囲1キロ。鴨が優雅に泳いでいます。明治以前、水位は今よりももっと低かったと考えられています。それというのも明治以降ここの水は灌漑用水として使われるようになるからなのです。池の北東には現存する最古の滝組といわれる「名古曽の滝」の址があります。嵯峨上皇亡き後、藤原冬嗣さんによって嵯峨院の庭石は持ち出され、この名残が僅かにあるのです。冬嗣さんは自分の閑院の庭石として使っているんですよ。北家、恐るべし!この池の二島一石の配置は嵯峨流いけばなの基本形に通じるのだとか。中秋の名月には月見の宴をします。池というのには広く、此処では良く時代劇のロケが行われています。ももかも遭遇した記憶がありますよ。平成8年春・平成19年秋のJR東海のCMに登場。桜爛漫の大沢の池は明るい萌えるような春の姿が、真っ赤に色付いた池は燃えるような紅葉が印象的でした。

■■五社明神■ごしゃみょうじん
嵯峨院の鎮守社。弘法大師が勧請したと伝えられています。この五社とは伊勢外宮・伊勢内宮・八幡宮・春日宮・住吉宮ですが、境内には気比社・多賀社・稲荷社があります。大覚寺や大沢池が時代劇のロケ地に使われている事は周知の通りですが、この社地も数多い時代劇に登場。是非チェックを。
車折神社
くるまざきじんじゃ

清めの社は神秘的。前身はこのお社に祀られている清原頼業の廟・宝寿院です。清原氏といえば学問の家ですね。頼業が桜を好んだ事からこの地には桜が数多く植えられ、桜の宮と呼ばれていました。しかし後嵯峨天皇が大堰川に行幸された時、このお社の前で御召車の轅が折れたので「車折大明神」の神号を賜り、これが社名となりました。凄い由来ですね〜。さすがに古き良き平安京ですわ♪境内にある芸能神社には芸能人の参拝も多く、奉納者の中にその名を見る事が出来ます。前から参拝者が多かったのですが、近年パワースポットで注目を集めるようになり、神社でもその旨を記すものを見かけるようになりました。10年ぶりに参拝させていただいた折にはちょっと驚きました。
源光寺 (常盤地蔵)
げんこうじ (ときわじぞう) 臨済宗天龍寺派 山号/常盤山 本尊/地蔵菩薩 常盤御前(1138−没年不詳) 六地蔵の一つ 

弘仁2年嵯峨天皇皇子源常により建立。中興の祖は後白河天皇です。『京都府地誌』によれば源九郎義経の生母・常盤御前所縁の浄土宗常盤院があったとされ、常盤御前のお墓もある事で知られています。安永7年尼・真錐が禅宗に改め、霊源禅師を請じて中興開山とし、現在は尼寺です。小野篁さまが彫った六体の地蔵尊のうちの一体を祀り、8月の六地蔵巡りの一つでもあります。この地蔵尊は北区の上善寺の姉子地蔵に対し乙子地蔵
(おとこのじぞう)とも呼ばれているのだとか。黒塀が木々の緑と良い具合に溶け込んで綺麗なの。京福電鉄沿線にあるので散策の時に立ち寄れます。毎年、春夏秋冬の4回、全国地蔵信仰の唯一の総本山天地万霊総菩提寺として、源光寺神聖霊場大祭が行われているそうですよ。
広隆寺
こうりゅうじ 真言宗御室派 山号/蜂岡山 本尊/聖徳太子
 
推古11年に渡来系の豪族秦河勝が聖徳太子から仏像を賜りそれを本尊として建立された山城最古のお寺で、この仏像こそが国宝第一号の弥勒菩薩半跏思惟像です。四天王寺(大阪)、法隆寺(奈良)と並ぶ聖徳太子建立の日本七大寺の1つ。古くは蜂岡寺といい北野白梅町の北野廃寺跡にあったともいわれ、秦寺、太秦公寺、秦公寺、葛野寺、葛野秦寺、太秦寺、桂林寺とも呼ばれました。弥勒菩薩を修学旅行の折に初めて拝見。その時はそう感動はなかったのですが、社会人となって改めて拝した時に全身が痺れる程の空気を感じました。あの息をするのも忘れてしまいそうな緊張したひとときは忘れられません♪平成8年夏のJR東海のCMに起用され「モナリザよりも1000年前から微笑んでおられるそうです」のコピーに思わず頷くももかでありました♪近年、霊宝殿の照度が下げられ以前よりもかなり薄暗くなりました。何となく御堂の中にいる雰囲気になりました。仏像保護の為かもしれません。上宮王院太子殿の太子像には歴代天皇が即位大礼に着用した黄櫨染竹鳳麟御袍御束帯が贈られる慣わしとなっていて毎年11月22日に開扉されます。普段非公開の桂宮院本堂も一見の価値あり。竹林を背景に、法隆寺の夢殿のような八角形の建物が太子を彷彿させてくれます(笑)。
小督塚
こごうづか 小督局(生没年不詳)

渡月橋の近く。高倉天皇の寵愛を受け平清盛の怒りをかった小督局を祀る五輪塔があります。琴の名手の彼女の弾いた「想夫恋」・・・『平家物語』の悲恋として知られているお話ですよね。小督は中納言藤原成範の娘で、高倉天皇との間に坊門院範子内親王を生みました。能『小督』にも出てきます。
木島坐天照御魂神社(蚕の社)
このしまにますあまてるみた まじんじゃ (かいこのやしろ)

蚕の社の名で知られているお社。渡来人秦氏の建立で、名の由来は摂社に蚕養神社からきています。また「元糺の池」には珍しい「三柱鳥居」があります。これは鳥居を3つ組み合わせて作った三角形の中心に神座が置かれ、三方から拝めるというもの。由来は分かっていません。この形から六芒星を連想し、イスラエル人(ユダヤ)の遺跡とする学者もあります。夏の土用の丑の日に境内を流れる元糺の池の水に手足を浸すと諸病を免れるそうです。さて、この池の水。阪神大震災でも被害はなくとても助かったそうですが、何と近くの工事をしている時に枯れてしまったとか。その後ポンプで汲み上げるなどの処置をしているそうです。こちらは地元の方からお聞きしたお話。平成23年、再び訪れてみましたがやはり水はありませんでした。元糺の池(元糺の森)はその名が示す通り、下鴨神社の「糺の森」に所縁していて元々この地にあった祭祀をあちらに移したといわれています。
西院野々宮神社
さいいんののみやじんじゃ 西院春日神社御旅所

正式名は西四条斎宮西院野々宮神社。同じく西院にある春日神社のお旅所。全国にある「野々宮」「野宮」の地名・神社名の発祥の地でもあります。倭姫命と布施内親王を祀り、古くは野宮森とも呼ばれていたのだとか。布施内親王とは桓武天皇と中臣丸朝臣豊子との間の第5皇女で、
平安遷都後に初めて卜定された第24代伊勢斎王。この事が祀られている所以なのかもしれません。権中納言藤原敦忠と斎王だった醍醐天皇皇女・雅子内親王の恋の舞台は此処だとされています。鬱蒼とした木々が印象的です。
斎宮神社
さいぐうじんじゃ

創建時代は不明で、昔は「神明」「八幡」「斎宮」と呼ばれ天照皇大神を祀っています。昔は野宮として毎年巡検使による来訪がありましたが、村人の負担が大きい為に村人は「野宮にあらず」を認めさせ、以来神明社と称したという歴史を持っています。面白いですよね。伊勢斎王の初代・倭姫の別荘だった地といわれ、倭姫薨去後に里人が祠を建てて天照天照皇大神を勧請したのだと伝えられています。嘉永元年の火事で村内が全焼した折、神社の古記録も悉く焼失したといいますが、社殿は無事だったそうです。しかし寛文中に破損し改築、その後改築等が続き、現在の社殿となったのは昭和30年12月の事でした。昔は社地も広く下嵯峨街道(三条通)にあった樹齢500年を誇る二本の椋の木は交通量の激増により昭和35年に伐採されてしまいました。
厄除け開運の神、婦人の血の道の神として崇拝。5月の初卯の日に大堰川に舟を浮かべて恵方祭を行っています。斎明神社にも程近い場所にあります。
斎明神社
さいめいじんじゃ

神明神社とも呼ばれ天照皇大神を祀っています。『三大実録』の貞観3年8月24日の条によれば、文徳天皇皇女・恬子内親王が付近の葛野川で天照皇大神を祀って禊をしたとありますが、それがこの地だとされます。因みに恬子内親王といえば『伊勢物語』の「狩りの使い」の斎宮様の事ですね。室町時代に創建された天竜寺塔頭慈済院境内地に鎮守社として鎮座。慶長11年に慈済院第七世菊齢彭によって社殿が造立。明和8年に建て替えられた本殿は京都では数少ない神明造です。
嵯峨天皇嵯峨山上御陵
さがてんのうさがのやまのえのみささぎ 第52代嵯峨天皇(786−842) 在位(809−823) 桓武天皇皇子

嵯峨天皇は桓武天皇と藤原良継の娘・皇后乙牟漏の第2皇子。同母には平城天皇と高志内親王(淳和天皇贈皇后)がいます。兄・平城天皇が病気の為に在位数年にして譲位したのを受けて即位。その直後に起こった薬子の変を平定し、平安京の基礎を築きました。古来よりこの嵯峨天皇から平安京は始まったといわれ、遷都したのは桓武天皇、作ったのは嵯峨天皇という認識があったようです。弘法大師・橘逸成と並ぶ「三筆」の一人で、読書を好み詩は数々の書物に残されています。現在の形ではないのですが喫茶の流行もこの嵯峨朝の事でした。子沢山が長じて費用がかかりすぎる事を懸念した結果、臣籍降下をどんどん押し薦めた事も特長ですね。また天皇としては初めて臣下に娘(この時は源姓になっていましたが)を降嫁させてもいます。嵯峨で遊んだ事から嵯峨天皇の名を贈られその墓所も嵯峨にあります。その所在は点々として分からなかったのですが、現在は朝原山の山頂に制定。登って登って15分とはいいますが、辛い15分でした(笑)。そうはいってもまた行きたいのですけど(^^;)。誰かご一緒する?
嵯峨野トロッコ列車
さがのとろっこれっしゃ

トロッコ嵯峨駅〜トロッコ亀岡駅までの7.3キロを約25分で結ぶ嵯峨野観光鉄道の列車。京都政財界の大御所といわれた田中源太郎氏が敷設に情熱を傾けた、京鶴線(旧山陰本線)の一部が前身です。旧線の嵯峨嵐山〜馬堀駅間は平成元年3月に複線電化により廃線となりましたが、保津峡を望む沿線の美しい景観の旅を惜しむ声が多く、平成3年4月27日に僅か8名の社員で開業。その頃植えられた桜や紅葉はそれぞれの季節を彩る美しい大木に成長しました。行楽シーズンは1時間待ち、2時間待ちは大いにありえるようです。ももかもかなり待ったので、予約だけして嵐山方面を散策。可愛いトロッコちゃんで行く保津川渓谷は京都市内の喧騒も忘れてしまいそうでした♪
嵯峨薬師寺 (生六道)/小野篁公遺蹟碑
さがやくしじ (せいのろくどう/おののたかむらこういせきひ 浄土宗知恩院派 本尊/心経秘鍵薬師如来

嵯峨清凉寺に隣接。小野篁さまは昼間は役人、夜は地獄の冥官と二足の草鞋を履いていた事で知られていますが、此処は冥界の出口といわれ、「生の六道」の名があります。元々この場所は葬送の地・念野。この「生の六道」にあった福生寺の跡地には井戸が沢山あったそうですので彼が此処から出てきたのも頷けるというものでしょうか。境外には昭和53年建立の碑があり、境内には三地蔵(生六道地蔵・夕霧地蔵・瑠璃光地蔵)があります。本堂の公開は8月24日の地蔵盆のみ。この日は生六道地蔵さんにお参り出来ます。篁さまや嵯峨さんにもお会い出来ます。
直指庵
じきしあん 浄土宗 山号祥鳳山 本尊/阿弥陀如来

正式名称は祥鳳山直指庵。独照性円が南禅寺栖雲庵から正保3年にこの地に庵を結んだのが始まりです。庵は伽藍を建立して大寺院となりましたが、寺号をさけて「直指伝心」を旨に「直指庵」と号しました。後に衰退し、幕末に安政の大獄で投獄された津崎村岡(矩子)が再興。明治12年に賊の為に焼失したのですが、同32年に再建されました。鬱蒼とした竹林の中、非常にさりげなく存在している感があります。京都の駆け込み寺ともいわれていて女性の訪れも多く悩みを綴った「思い出草」というノートがあります。ももかも・・・書いたような書かなかったような(笑)。嵯峨野の秋に立ち寄りたいですね。
常寂光寺 
じょうじゃくこうじ
 日蓮宗 山号/小倉山 本尊/十界大曼荼羅

文禄5年の創建。豊臣秀吉の方広寺大仏殿千僧供養の際に不受不施の考えを貫き出仕を拒んだ日禎上人が建てました。後の寛永年間に寺に改めました。寺名は天台四土最勝の浄土である「常寂光土」に遊ぶかのようである事からきています。紅葉の名所としても知られ、その赤や黄色に染まった木々の下には多くの参拝客とカメラマンがその腕を競っています。出来れば静寂の中、紅葉を楽しみたいです。でも人気が高いのが分かるような気がするくらい素敵。そしてこちらでのお月見も夜景も素晴らしいのです。平成19年秋のJR東海のCMに登場。
住吉大伴神社
すみよしおおともじんじゃ

龍安寺近くにあり、平成に入ってから社殿等の改修が行われました。鳥居もピカピカです。祭神は住吉三神と大伴氏の祖神二神。『続日本紀』に、承和5年に山城国葛野郡上林郷に伴宿禰に氏神を祀らせたとの記録がありますが、これが大伴氏所縁の伴氏神社です。貞観8年の応天門の変を期に大伴氏は衰退していき、伴氏神社も似たような境遇を辿ったと考えられます。後にこの地は藤原氏の領すところとなります。藤原氏の流れを汲む徳大寺家は此処に山荘を築き、歌神である住吉神と玉津島神を祀りますが、後に住吉神社と呼ばれるようになりました。昭和17年に住吉三神及び大伴祖神を合祀し、現在の社名に改められました。道を挟んだ西ノ丘に「海ゆかば」の碑があります。
清凉寺(嵯峨釈迦堂)
せいりょうじ、しょうりょうじ (さがしゃかどう) 浄土宗 山号/五台山 本尊/釈迦如来 通称/嵯峨釈迦堂

嵯峨天皇の皇子・源融の山荘棲霞観(後の棲霞寺)があった場所です。融は『源氏物語』の主人公光源氏のモデルという説もあり、源氏ファンなら一度は訪れた事があるのでは。天慶8年に建立。後に焼失を繰り返し現在の本堂は元禄14年再建のもの。境内には明治以前まで御陵とされていた嵯峨天皇・檀林皇后の宝塔の他、源融のお墓もあります。本尊の釈迦如来は日本三大如来の一つで国宝。その御姿を見れば古き昔に思いを馳せる事が出来ます。また昭和55年に大坂城三の丸跡地から出土した豊臣秀頼の首も納められ、首塚として境内に安置されています。阪神大震災の3ヶ月後に訪れた時は、壊れた仏像が整然と並べられていたのが記憶鮮明です。嵯峨大念仏狂言は京都三大狂言の一つ。
滝口寺
たきぐちでら 大覚寺塔頭 浄土宗 山号/小倉山 本尊/阿弥陀如来

元は往生院三宝寺といっていましたが後に荒廃。同じく往生院にあった祇王寺が明治に再建されたのに伴い、このお寺も再建となりました。その折、佐々木信綱により「滝口寺」と命名。これは『平家物語』の滝口入道こと斎藤時頼と横笛の話を元にした高山樗牛の小説『滝口入道』に因みます。時頼は往生院で出家をするんですよね。だからこのお寺の名が滝口寺でも差し支えはないという事なのでしょう。此処には時頼と横笛の木像の他、平家供養塔、小松堂(小松内大臣平重盛を祀る)などがあり、『平家物語』の世界に触れてしまえます♪また新田義貞首塚とその恋人・匂当内侍供養塔もあって『太平記』の世界にも浸れます♪義貞の供養塔は新田家の家紋「一引両」が彫られた扉のうちにありました。竹林の中の静かな佇まいがまた良いですね。
檀林寺門跡
だんりんじもんぜき 真言宗大覚寺派 山号/小倉山 本尊/准胝仏母

壇林皇后と呼ばれた嵯峨天皇皇后橘嘉智子サマの創建の檀林寺は尼寺でした。嘉智子サマご逝去の後に官寺となりますが平安中期には衰退してしまいます。本堂には嘉智子サマを型どったと伝えられる準胝仏母尊が安置されています。昭和39年に再建。霊宝館はそんなに広くないのですが、その中に一杯寺宝を詰め込んでいるという感じなのがちょっと残念ですね。素晴らしい物も沢山あるのに。
長慶天皇嵯峨東御陵
ちょうけいてんのうさがひがしのみささぎ 第98代(南朝3代)長慶天皇(1343−1394) 在位(1368−1383) 後村上天皇皇子

後村上天皇の皇子で生母は不詳ですが関白堀河経忠の娘・女御藤原勝子(嘉喜門院)といわれています。南朝第三代の天皇で名前を寛成といいます。この天皇の在位については江戸時代にもかなりの論争があり、現系統の天皇家でもその即位を認め皇統に序列したのが大正15年の事でした。この頃の南朝は著しい衰退がみられ、天皇に関わる資料も事跡も余り伝わっていません。後に譲位し、出家して覚理と称したともいわれています。晩年の状況についてはその所在が何処であったかもはっきりしていませんが、応永元年に崩御したというのが定説です。一説には北朝の軍に追われて首を取られたとも、逃げ延びて他国で命を全うしたとの伝説もあります。この地を長慶天皇の御陵と定めたのは天皇の別称「慶寿院」の名に所縁ある天竜寺の塔頭慶寿院がこの場所にあった為です。恐らく晩年は京に戻り、この地で暮らしたと推察される事から跡地を整備し昭和19年に御陵として定められました。晴明さんの墓所も近く。
長福寺
ょうふくじ 臨済宗南禅寺派 山号/大梅山 本尊/釈迦如来 

仁安4年に梅津一族の真理尼が開いた天台宗の寺院。暦応2年に梅津清景が普光大幢国師月林に帰依して禅院となりました。方丈の南庭は枯山水の石庭となっています。明治初期の廃仏毀釈により寺の規模は縮小されてしまったといいます。拝観には事前の申し込みが必要。ももかもここは門前を訪れただけなのでいつかはと思っています。
天龍寺
てんりゅうじ 臨済宗天龍寺派大本山 山号/霊亀山 本尊/釈迦如来 京都五山第一位 世界文化遺産

正式名称は霊亀山天龍資聖禅寺といい、京都五山の一つ。始めこの地には檀林皇后橘嘉智子の旧嵯峨院の別館にあたる檀林寺がありましたが、荒廃。鎌倉時代には御嵯峨上皇の仙洞亀山殿(嵯峨殿ともいいます)が造営されます。後にこれも荒廃し、室町時代に至って吉野で崩御された後醍醐天皇の霊を慰める為に足利尊氏が禅寺に改めたものです。夢窓国師が作ったとされる曹源池庭園の秋の様子はとても好きです。法堂の天井には加山又造画伯の描いた雲龍が睨んでいるそうですよ。往時は150もの搭頭を誇る大寺院でしたが、創建当時から幕末の兵火などで8回の焼失があり、現在の建物の殆んどが明治時代の再建です。平成14年春のJR東海のCMに登場。2月3日の節分には総門で福笹を買い求め、境内の塔頭七カ寺の御札を受けて廻る七福神めぐりが行われます。三秀院(東向大黒天)・弘源寺(毘沙門天)・慈済院(水摺大弁財尊天)・松厳寺(福禄寿神)・永明院(恵比寿尊神)・寿寧院(身守不動明王)・妙智院(宝徳稲荷大明神)の七つのお寺を廻りながらお札を福笹に結んでいただくというものです。ももかは旅人なので御朱印を頂きながら七カ寺を廻りました。甘酒も美味しかったですよ♪

■■弘源寺■こうげんいん 天龍寺塔頭 山号/西山 本尊/聖観音
普段は非公開。永享元年に室町幕府管領細川持之が創建。寺号は持之の院号からきており、本堂には位牌も祀られているのです。持之は勝元さまのパパ。創建当時は小倉山の麓に位置し広大な寺領を有していたものの、幾度も火災にあい、明治15年に末庵である維北軒と合寺。本堂は客殿形式。ずずっと屈んでも御本尊様のお顔が見られないという高貴な作りになっているのです。また廊下には長州藩士がつけたという刀傷が数多く残っていて、生々しくもついついなぞってしまうももかでありました(笑)。写真、取っておくんだった・・。竹内栖鳳と一門の作品が多く寺宝としてあって、惜しげもなく見られるのが嬉しかったですね。栖鳳、好きなのでv v上村松園もありましたし。竹林に雀が一羽の襖も印象的でした。嵐山を借景にした「虎嘯の庭」が雨に濡れて綺麗でした。境内には三国伝来の毘沙門像を祀るお堂もあります。

■■宝厳院■■ほうごんいん 天龍寺塔頭 山号/大亀山 本尊/十一面観音
普段は非公開。本尊は聖観世音菩薩像、脇仏は三十三体小観音菩薩像と伝足利尊氏信仰の地蔵菩薩像。寛正2年に室町幕府管領細川頼之が創建。元々は上京区に大きな境内を持っていたこの寺は、応仁の乱に焼失。後に再建され、天龍寺の塔頭である弘源寺の境内に移転。現在地に再移転したのは記録に新しいかも。何といってもこの寺の良さは庭の美しさでしょう。門を潜り最初に目にする「獅子吼の庭」は、嵐山を借景に須弥山を現す築山、雲上三尊石が立つその前には苦海を現すごろごろとした石の川。ももかが立ち寄った日は雪混じりの雨だったのですが、この石が濡れて苔生した中に黒々とした色合いが本当に綺麗だったのです。そしてそれを渡るように十二支の獣石。ちゃんと猫石が道を挟んだところにあったのがご愛嬌でした。また、豊丸垣や光悦垣も見逃せないですね。紅葉の頃も凄く美しいです。実は時代劇のロケ地にも良く使われているところだとか。
東映太秦映画村
とうえいうずまさえいがむら

昭和50年にオープン。時代劇に関心がある人なら一度は行ってみたいところかもしれません。ももかが行った時は「暴れん坊将軍」の撮影中でした。新さんってばマスクしてましたけどね(笑)。時代劇の人物になったつもりで写真撮影も出来るので面白かったです。日本橋で弁慶が刀を振るっていたり、着流しのお兄さんが歩いていたり。「め組」前には感動♪
渡月橋
とげつきょう

大堰川にかかり亀山天皇が「くまなき月の渡るに似る」として渡月橋と命名。現在の橋は昭和9年のもの。別名は嵐橋(らんきょう)、法輪寺橋、法輪橋、古くは大橋、御幸橋など。日中は観光客でごった返していますが、早朝や夜間はひっそりとしています。写真を撮るなら冬や早朝が良いですね。大堰川といえば『源氏物語』で須磨から上った明石の上が住んだのがこの大堰の地。源氏は桂から通ったのです。「京都嵐山花灯路」は嵐山のライトアップイベントとして定着していますが、これがまた綺麗なんですよ♪寒い時期だけに観光客の数も程良いくらいで、大混雑という訳でもなく夜の竹林が心細いという事もない、そんな冬の風物詩です。
曇華院門跡
どんけいんもんぜき 臨済宗 尼門跡寺院 山号/瑞雲山 本尊/十一面観音 通称/曇華院門跡、竹の御所

通常非公開。京都にある7つの尼門跡寺院のうち三番目の寺格を持っています。開基は四辻宮尊雅王の娘・智泉聖通(智泉尼)。室町二代将軍足利義詮室の側室・紀良子の母で、後円融天皇や足利義満には祖母にあたります。東洞院三条の高倉宮跡に創設された瑞雲山通玄寺が始まりで、尼五山の一つに列せられました。智泉聖通は隠居所として曇華院を建ててそこに退き、後に曇華院と称するようになりました。名の由来は庵に「曇華の額」を掲げた事によります。しかし応仁の乱で類焼し、本寺である通玄寺と合併して瑞雲山通玄寺曇華院と改称。慶長8年焼失、延宝年間に後西院皇女で24世住持の大成禅尼により再興。江戸時代は焼失と復興を繰り返し、幕末の蛤御門の変で遂に全焼。『嵯峨誌』によれば明治9年に鹿王院の塔頭である瑞応院を買得して再興、現在の地に移転したとあります。だから鹿王院の隣にあるのですね。天龍寺に属すも、昭和26年に独立。
二尊院
にそんいん 天台宗 山号/小倉山 本尊/釈迦如来・阿弥陀如来

小倉山二尊教院華台寺といい、承和年間に開かれました。土御門、後嵯峨、亀山天皇の分骨を境内に納めた事から三帝陵として明治維新までは勅使の参拝もあったのだとか。開基は慈覚大師円仁。応仁の乱に焼失、本堂と唐門のみが再建。二尊院の名前は釈迦如来と阿弥陀如来の2体を本尊とするところから。鏡を見るように、双子のように。そんなそっくりの一揃いの2体の御本尊にお会いするのは、夜間拝観の機会があればこちらを是非にとお薦めしたいです。光背が輝いて素晴らしいお姿なのですよ。「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、時代劇のロケでも御馴染み。
仁和寺
にんなじ 真言宗御室派総本山 山号/大内山 本尊/阿弥陀如来 世界文化遺産

仁和寺というと「仁和寺の法師」(ばーい『徒然草』)ですよね。興を得ようとやった被り物が取れなくなっておろおろ。そんなお話が此処には残っています。光孝天皇が西山御願寺として着工、仁和4年に宇多天皇の御世に完成しました。宇多天皇が出家して此処に住んで以来明治維新まで皇子皇孫が門跡となったという歴史から御室御所と呼ばれています。しかしこちらも応仁の乱の戦火を免れる事が出来なかったそうです。御室流いけばなも盛ん。歩いてみるとかなり広大な寺地という事が分かります。大玄関にある松は重々しくて素敵。また春には京都では遅咲きの御室桜も楽しめます♪仁和寺大和絵の絵葉書はお気に入りです。平成6年春、平成13年春のJR東海のCMに登場。因みに「おむろ」とは元々「御所(御室)」の事でそれが地名となったのだとか。映画『陰陽師』では黒書院・白書院・寝殿などの建物をつなぐ廊下での撮影が。

■■御室桜■おむろざくら
国指定名勝。品種は「御室有明」で、樹齢は360年を超すと言われています。江戸時代の本草学者貝原益軒は「境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす」と『京城勝覧』に記しています。背丈が低く、葉は茶色。花は丸みを帯びた柔らかな白色。一度は見てみたいと思いつつ、他とは開花時期がややずれるのこの桜、ももかが目にしたのは平成26年4月でした。この年、開花した9割が先祖返りした一重だったのは珍しい事だったそうです。

■■金堂・経蔵■
普段非公開。国宝の金堂は桃山時代の姿を残す御所の紫宸殿を移築したもの。そういえば煌びやかで雅かでちょっと趣が違うような(笑)。屋根は寛永年間に桧皮葺から瓦(寺院)へと改修。その屋根には亀に乗った仙人らしきものの姿が。向かって左が阿、右が吽といったように口を開閉しているところに注目♪経蔵は寛永18年再建。回転式輪蔵があります。
野宮神社
ののみやじんじゃ

御祭神は天照大神。
伊勢斎宮のお社といえば此処を連想する人もきっと多い事でしょう。鬱蒼とした竹林の中にぽっかり空いた空間。「黒木の鳥居」がその場所です。此処がどの斎王に所縁のあるものなのかは残念ながら分かっていません。『源氏物語』には嵯峨の野宮に篭る六条御息所を源氏が訪ねていきます。嵯峨野の中でも人気のお社で、人が一杯♪因みにこの附近の竹は野宮竹というのだとか。
蛇塚古墳
へびづかこふん

横穴式前方後円墳で封土はなく、石舞台古墳のように石組みだけが見る事が出来ます。7世紀初頭に造られたとされ秦氏の首長のお墓と推測されます。此処には蛇が沢山屯していたといわれ、それ故にこの名が付いたのだとも。普段は施錠されています。
宝筐院
ほうきょういん 臨済宗 山号/善入山 本尊/十一面千手観音
足利義詮(1330−1367) 足利三代将軍、 楠木正行(生年不詳ー1348)

足利二代将軍義詮と南朝の忠臣である楠木正行の菩提寺。寺名は義詮の院号からきていて足利八代将軍義政の時代に改められました。白河天皇の勅願寺・善入寺として建立され、鎌倉時代にかけて多くの皇族が入寺しました。足利義詮により観林寺と改称、後に善入寺に戻ります。一時衰退していましたが、黙庵周諭により中興。これに帰依していたのが義詮と正行です。四条畷の戦いで敗れた正行の首はこの寺に埋葬されますが、その人柄を褒め称えた義詮は死後その傍で眠りたいと願いました。敵対していた二人の墓が此処に並んで建っているのはこの理由によります。応仁の乱以降再び衰退、江戸時代は天龍寺の小寺として存続しましたが幕末に廃寺へ。明治時代に復興し現在に至ります。南北朝時代、『太平記』好きならば避けては通れないところ。二ッ引両と菊水の二つの紋を見るだけで心浮き立ちます。紅葉の寺としても有名ですが、行楽シーズンを避けてひっそりとした季節にお参りするのも良いですよ。
法金剛院
ほうこんごういん 律宗 山号/五位山 本尊/阿弥陀如来

天長年間に清原夏野が山荘を建て、死後寺に改めたのが始まり。双丘寺、天安寺と名を変え、現在の法金剛院となったのは大治5年。鳥羽天皇中宮待賢門院が衰退したこの寺を復興した事によります。昭和45年に発掘され復元された「青女の滝」は平安末期の庭園を考える上で重要なもの。また此処は別名を「蓮の寺」といいます。その名の通り蓮が数も品種も豊富で、開花時期ではなくても幻想的。大賀蓮には要チェックです。古代蓮、ここにも来ていたのね〜♪JR花園駅からすぐ。桜の時期の待賢門桜も見事。でもやはり蓮の開花期の7月がお薦めかな。
妙心寺
みょうしんじ 臨済宗妙心寺派大本山 山号/正法山 本尊/釈迦如来

46の塔頭を持つ京都最大の禅寺。建武4年に創建され応仁の乱で焼失し後に再興。安土桃山時代以降は戦国武将の帰依を受け、禅宗七堂伽藍の整備、塔頭寺院も多く建立と大きく発展しました。方丈は広く、大寺院の貫禄があります。法堂の天井には「法眼」と称えられた狩野探幽の「雲龍図」(八方にらみの龍)があります。龍図というと相国寺の龍も素晴らしかったのですが、こちらも筆がのっていて迫力があります。この龍は平成19年夏のJR東海のCMで紹介されましたよね。迫力〜っ!そして此処には文武2年という日本最古の鐘があります。現在は2代目が活躍していますが、再現された音を聞かせて頂けます。山門の東側には明智光秀の霊を慰める為に作られた明智風呂(サウナ仕立)が。何故にお風呂なのかは聞かないでください(笑)。現在常時公開中の塔頭は3院のみ。また、妙心寺は時代劇ロケでも御馴染みの場所で、武家屋敷や江戸町界隈などに模されています。画面を通すと余りの化かされようにびっくり。製作者側の作り方の上手さにも脱帽ですよね。因みに妙心寺の名は「以心伝心の妙」に由来しています。平成21年は、開山・関山慧玄の650年遠諱を迎え東京・京都の国立博物館で『妙心寺展』が開かれました。
[妙心寺四派四本庵]・・・龍泉派(龍泉庵)・東海派(東海庵)・霊雲派(霊雲院)・聖澤派(聖澤院)


■■海福院■
かいふくいん 妙心寺塔頭
普段は非公開。元和2年に造られた福島正則の菩提寺。等持院の本堂は元は海福院の客殿であったとの事。意外なところでお寺同士の関わりが見えてくるものです。福島正則といえば賎ヶ谷の七本槍の筆頭ですが、その槍がこちらにあるというので、出かけてみたももかです。馬上で使うにしても長いし重そう。一騎当千という言葉が過ぎりましたよ。見どころは他にも沢山!墓地で正則さんにもご挨拶。平成23年「第45回 京の冬の旅」において26年ぶりに一般公開されました。

■■桂春院■けいしゅんいん 妙心寺塔頭 臨済宗東海派本庵 本尊/薬師如来
慶長3年織田信忠の次男津田秀則により見性院として建立。秀則没後の寛永9年に豊臣秀吉の重臣・石河貞政が父・光政の追善供養の為に現在の方丈、茶室等を完備して両親の法名(天仙守大禅定門と裳陰妙大姉)の二字をとって桂春院と改めました。庭が落ち着いていて素敵です。「清浄の庭」は大徳寺大仙院の透渡殿にも似ています。茶室既白庵は昔坐禅修行を第一とした妙心寺にあって茶道等の芸術を嗜む事は邪道とされていた為に目立たないように存在しています。「真如の庭」には側面から降りて拝観する事が出来ます。音声ガイドがあるので、静かに鑑賞したいという方はガイドが終わるまで辛抱強く待つ事になりますね。(思ったより長い・・・)

■■衡梅院■こうばいいん 妙心寺塔頭
普段は非公開。文明12年創建。開山は
妙心寺中興の祖・雪江宗深。彼には後に「四派」の開祖として妙心寺発展の礎となった四人の弟子があり、これに因んで名づけられた枯山水「四河一源(しかいちげん)の庭」は、杉苔が一面に敷き詰められたようなしっとりとして穏やかな趣き。その中に大小の石が散りばめられているのが心憎い。客殿から見た庭が一番素晴らしいというので、一緒に拝観した御婦人方と畳に座り庭を見るももか(笑)。茶室「長法庵」の天井の一部は楠の皮一枚を貼った珍しいもの。珍しいといえば東福門院所縁の蓮の意匠の鐘も素敵。女性的というか、こういった文様は珍しいですよ。

■■三門■さんもん
普段は非公開。慶長4年に造られた朱塗りの門は東福寺・大徳寺に次ぐ古さ。楼上からは七堂伽藍が一望出来ます。観音菩薩像や十六羅漢像などの木像、龍や迦陵頻伽(かりょうびんが)が飛遊する天井画は、保存状態も良くて彩色が華やかにも美しい♪

■■春光院■しゅんこういん 妙心寺塔頭
普段は非公開。天正18年に堀尾吉晴が小田原で戦死した長子の金助の菩提を弔う為に建立。以来堀尾氏の菩提寺となりました。しかし堀尾氏は忠晴(三代目松江城主)の時に後嗣なく断絶。この忠晴さんが加賀の前田利常さんからも懸想されていた話は「寧固斎談叢」にも名高いですよね。うふ。寺は忠晴の娘が伊勢亀山城主石川氏に嫁いでいた縁で
石川氏中興し、俊巌院といった名も春光院と改称されました。京都狩野派の狩野永岳の美しい襖絵の他にも見所一杯。「さざれ石の庭(南庭)」は慶応3年の作庭。伊勢の内宮外宮の杜と中央に三尊式の枯滝。これは五十鈴川の流れを模したもの。禅寺の中にあって珍しい神道式の枯山水です。「常盤の庭(西庭)」の名の由来は庭の向きが常盤の地に向いている事から。「むむむ、単純!」だと思ったのはももかだけでしょうか。此処には鶴亀に配置された石があるのですが、この鶴石にご注目。鶴石の頸に使われた石灯籠は100年前に此処を飛び立ち、5年程前に帰ってきたというシロモノ。この話を聞いた時、某寺の鰐口が某鑑定番組で出てきたという話を思い出しました。あれは戦時中に供出された骨董店(市)出土品でしたね。この灯籠は廃仏毀釈で此処を去ったのでしょうか。寺伝によればポルトガル製という耶蘇教銅鐘は必見。クリスマスベルみたいな形で、高さ約60センチ重さ68キロ。元は南蛮寺にあったものとされています。現在も現役のこの鐘の表には十字架と「1577」の西暦、イエズス会の紋章であるIHSが見て取れます。

■■聖澤院■
しょうたくいん
 妙心寺塔頭 臨済宗聖澤院派本庵
普段は非公開。大永4年創建。東陽英朝を開山に迎え、その始まりには細川氏や土岐氏の支援があったといいます。しかし応仁の乱を経て彼等の庇護を失うと寺運は衰退、再び勢いを盛り返すのは戦国時代末期を待たねばなりませんでした。狩野派の絵師片山尚景の『獅子図』『十牛図』、狩野栄川院(典信)の『山水・麒麟図』『竹林七賢図』が見どころ。富岡鉄斎の『厳栖谷飲図』は黒々とした筆致が印象的でした。平成26年「第48回京の冬の旅」にて初公開。ももかズチェックは書院の屋根♪ふんわり丸みを帯びた屋根と瓦が何となく心に残りました。書院の置物も味わいがあって面白かったですよ。庶民的で現代的な。

■■大雄院
だいおういん 妙心寺塔頭
普段は非公開。慶長8年に石河光忠が父・光元の菩提を弔う為に建立したのが始まり。以来石河(いしこ)家の香華所として現在に至ります。石河さんは京菓子では有名どころのとらやさんを懇意にしていて、関ヶ原の戦いの折にとらさんに身を隠した事もあったのだとか。そんな関係でここで出して頂いた花の意匠の茶菓子はとらやさんなのです。しかもこれはここでしか食べられないのよ〜v v
また、蚕繭紙という珍しいものを紹介しています。蚕&生糸については一般の方よりは知識があるももかですが、これは初めて見ました。その出来上がり方には驚き。蚕繭紙にいろいろと書いたものの中に王義士の「永和九年・・・」のあれがあって、解説の方と中国の話で盛り上がりました♪

■■大心院だいしんいん 妙心寺塔頭
文明11年細川政元が大心院町に建立し、天正年間に細川幽斎(藤孝)がこの場所に移転し再興しました。「阿吽庭と」呼ばれる庭があります。妙心寺で宿坊があるのは大心院だけとの事。丁度訪ねた時にお布団を干していて微笑ましかったです(笑)。

■■退蔵院■たいぞういん 妙心寺塔頭 
応永11年に建立され、枯山水の庭園が有名です。もこもこした低木が秋になると色づいてまた良い感じ♪蹲は水琴窟で、水を流すとカラコロと軽やかな音がなります。妙心寺の中ではももかの訪れる回数も多いです。お茶も頂けるのですがついてくるお菓子も美味しいですよ。退蔵院の満開の枝垂れ桜は必見。春も良いんだ、ここ!


■■大通院■だいつういん 妙心寺塔頭
普段は非公開。天正14年創建。山内一豊の猶子である湘南宗化が二世として寺に入った事から、山内家の菩提寺となりました。山内一豊と正室見性院にはよね姫という一人娘がありましたが、天正13年の長浜の地震で亡くしてしまいます。湘南和尚は邸宅前に捨られていた子供で、この二人に育てられました。湘南和尚の木像は美しいお顔で、ガイドさんのお話でいう「今で言うとイケメン」の言葉通り。境内には夫妻の御霊屋があり、中には卵塔の墓石があります。墓石は二人とも変わらぬ大きさでしたよ。さて、見性院は千代ともまつともいわれていますが、寺伝では「まつ」。明治以降の国定教科書で千代子の名が使われた事から「千代」の名が定着していったようです。そして見性院といえば10両で買った名馬のお話。ご朱印にもちゃんと馬が!ここは庭園が有名でしたが明治の廃仏毀釈で壊され、建物も殆ど残っていません。その一部は平安神宮に移されたといいます。

■■大通院■だいほういん 妙心寺塔頭
普段は非公開。信州松代藩主・真田信之の菩提寺。寛文2年、信之の孫娘である長姫(千種大納言有能室)によって創建。院号は信之の法名「大法院殿徹岩一洞大居士」に因み、開祖は長姫が帰依していた妙心寺東海派玉浦したの絶江紹提の法嗣・淡道宗道。佐久間象山のお墓があります。玄関に象山神社の御札が貼ってあったので、「もしかして松代の象山神社のものですか?」と尋ねたらところ「そう」とのお話。そこで「長野の方でしょうか。象山(しょうざん)と書いて象山(ぞうさん)と言うのは長野県の方が多いですから」と言い当てられました(笑)。そうなんですよ。県歌『信濃の国』(明治32年)で謳われている通り、象山は「ぞうざん」の名で知られているところなのです。象山自身は「後の人我が名を呼ぶなばまさに知るべし」と「しょうざん」と言っていたようですが。私はフジテレビドラマ『幕末高校生』で石橋蓮司さん演じる象山先生が好きでした・・・♪妙心寺境内を通る度に気になっていた象山先生のお墓は、意外と大きくて斃れたとはいえその影響力を伺い知る事が出来ました。庭園も綺麗でしたよ。第48回京の冬の旅初公開。

■■天球院■てんきゅういん 妙心寺塔頭
普段は非公開。寛永8年池田光政が伯母である天球院の為に建立。元は久の字をあてましたが、建築にあたって土の中から沢山の球が見つかった事により改めたのだとか。内部の襖絵と杉戸絵あわせて152面は狩野山楽・山雪の作といわれています。「竹虎図」は色も筆致も素晴らしいです。

■■東海庵■とうかいあん 妙心寺塔頭 東海派本庵
普段は非公開。「龍泉派」「霊雲派」「聖澤派」と並ぶ妙心寺四派本庵の一つ。文明16年斎藤越前守国(妙純)の正室利貞尼(父は野間入道)が、悟渓宗頓
ごけいそうとん禅師を開祖として建立しました。悟渓禅師にはこんな逸話があります。ある夏の暑い日に琵琶湖畔を行脚中の悟渓禅師は、他の法友らが水浴に高じる傍ら自らは「徳分を児孫に残そう」と身体を拭くに止めたとの事。それより東海派の寺院は水に不自由しないと伝えられ、禅師は「徳、ただ広い、でも目の前が抜けるようなそんな空間。そこに副えられたようにちょこんと東南の隅に棗形の手水鉢が置かれています。百坪余りという空間には無駄がなく、石の置かれない白砂利の庭も良いものだと思いました。書院西庭は三神仙島を表した「東海一連の庭」。文化11年に東睦和尚が作庭した書院式平庭です。橋柱手水鉢も趣がありましたが、大きな石を刳り貫いて水をたたえた一文字手水鉢は印象に残りました。ちょうど大雨が降っていたので、二月の庭もしんみりと色濃く苔が映えて良い感じ。手水鉢の中に落ち込む雨の水輪が綺麗でしたよ。「第75回京の冬の旅」で使われた写真は、坪庭である書院南庭でした。書院・方丈庫裏・渡り廊下で囲まれた空間に存在する小さな庭には7つの石が置かれています。屋根瓦の向こうに見えるピンとした棕櫚を入れて写真を撮られるという人もいるという話でしたので、見てみますと、また違う表情がありました。


■■東林院■とうりんいん 妙心寺塔頭
沙羅双樹の寺として有名な東林院は、普段は非公開ですが宿坊として宿泊や昼食の利用も出来ます(要予約)。また「小豆粥で新春を祝う会(1月15日〜31日)」「沙羅の花を愛でる会(6月15日〜30日)」「梵燈のあかりに親しむ会(10月上旬)」他、年に何回かその門を開いてくださいますので、こういう機会に立ち寄るのも面白いと思います。こちらの沙羅双樹の木は樹齢300年なのだそうです。ももかは梵燈のあかりを見に行きましたよ。虫の声がコロコロ聞こえて、静かで本当に綺麗でした♪東林院は享禄4年細川氏綱が父・高国の菩提を弔う為、上京清蔵口の細川家邸宅付近に建てられた三友院が前身です。後に開基山名豊国が寺号を改め妙心寺に移し、直指宗諤和尚を開山として迎えました。「山名の嫡流は我が家。山名の氏は我が家系に限る」といったあの豊国さんの事ですね。応仁の乱の西軍の山名宗全の末なんですが、彼の頃は毛利の下に入ったり秀吉についたりと名門山名氏を生き延びさせるのに大変だった時代。因みに豊国の母は細川高国(細川政元の養子)の娘です。以来、こちらは細川家の菩提寺から山名家の菩提寺へと転じました。


■■隣華院■りんかいん 妙心寺塔頭
普段は非公開。慶長4年に脇坂安治が南化玄興和尚を開山として迎え創建。以来脇坂家の菩提寺となりました。脇坂安治は賤ケ谷七本槍の一人で、関ヶ原の戦いの折に小早川秀秋らと共に東軍に転じた武将です。後に伊予を治める事になりました。長谷川等伯(当時61歳)による「水墨山水図」、そしてそれに対比するように京都狩野派・狩野永岳の襖絵が部屋部屋の四方を煌びやかに描かれているのが印象的。金泥と青・赤・緑の色合いが何ともいえないのです。200年前の金彩!保存状態良好!部屋の作りも貴人用として寺院には珍しい形になっているのも注目ですね。この中で「四季花鳥図」は長らく作者が分からなかったのですが、阪神大震災の折に破損し修復作業を進める中で落款が発見され永岳作という事が分かったのだとか。また「紅葉図」は平成18年京の冬の旅のポスターに採用。うろこ状のもくもく雲がまた良い♪寺院に多い竜の図もまったりとしていて穏やかな表情が良かったです。

■■麟祥院■りんしょういん 妙心寺塔頭 本尊/釈迦如来
普段は非公開。寛永11年将軍徳川家光が乳母の春日局の為に建立。春日局は明智光秀の重臣斉藤利三の娘で名を福といい、後に松平信綱・柳生宗矩と共に家光を支える鼎の脚の一つに数えられる女性です。至るところに乱舞する折敷に三文字の寺紋は、春日局の所縁の稲葉家(春日局の母方、婚家は共に稲葉家)の家紋でもあります。御霊屋は後水尾天皇から下賜されたもので、元は仙洞御所の釣殿で能舞台に使われたそうですが、現在は小堀遠州作と伝えられる春日局の像があります。天蓋は小さいのですが色鮮やかな硝子で出来たもの。方丈の「雲龍図」は海北友雪画。雌雄の龍の迫力に心躍ります♪

■■霊雲院■れいうんいん 妙心寺塔頭 霊雲派本菴 別名/狩野元信寺 
普段は非公開。室町末期の大永6年に薬師寺備後守国長の母・清範尼が大休宗休を請じて創建され、「龍泉派」「東海派」「聖澤派」と並ぶ妙心寺四派本庵の一つ。室町時代建立の書院は重要文化財で、初期書院造の遺構。また、後奈良天皇が行幸されたことから、「御幸ごこうの間」と呼ばれています。障壁画は狩野元信の筆になるものが多く、故に別名を狩野元信寺とも言われています。霊雲院の障壁画に携わったのは天文12年のことなのだとか。第50回「京の冬の旅」特別公開で拝観。因みにこの時期、京都国立博物館に寄託されている同院の元信の屏風絵「四季花鳥図」8幅・「琴棋書画図(伝元信)」4幅・「月夜山水図」6幅は、「特別陳列「皇室ゆかりの名宝」霊雲院の障壁画−元信芸術の粋−」で公開中でした。書院前庭は相国寺の子建西堂和尚(是庵)の作庭で、国跡・名勝。苔の庭の中に大きく枝振りの良い松が育っていたのが印象的でした。
落柿舎
らくししゃ

松尾芭蕉の門人で蕉門十哲の一人の向井去来が晩年を過ごした庵で、後に井上重厚が再建。芭蕉自体も何度か訪れていた事が知られ、『嵯峨日記』を記したといわれます。この名は、この庭の柿の木を買い取った商人が、その晩の強風の為に実っていた柿が全部落ちてしまい慌ててかけつけ返して貰ったという話からきています。蓑と笠が掛けてあるのは主の在宅を告げる表示。有智子内親王陵墓にも近く、小春日和の光が似合っている、そんな感じがします。
龍安寺
りょうあんじ 妙心寺境外塔頭 臨済宗妙心寺派 山号/大雲山 本尊/釈迦如来 世界文化遺産

宝徳2年徳大寺家の別荘を細川勝元が譲り受けて寺としたのが始まり。応仁の乱で焼失、後に勝元の子・政元が再建したのですが寛政9年にまたもや焼失。現在の方丈は西源院の方丈を移築したもの。蹲は「吾唯足知」と書かれていて徳川光圀の寄進とされています。この言葉、有間皇子の言葉みたい。否、中国の故事にこんな感じの物があったような気がするわ。因みにこれを形どった和菓子もあります。さて、龍安寺といえば石庭ですね。作者も年代もその目的すらも謎に包まれたままのこの庭での一時を楽しむ人も多い筈。細川勝元所縁のお寺なので大河ドラマ『花の乱』で勝元マイラブになったももかは、様々な場面を思い浮かべてしまいます。扇をぱちんと鳴らして「ふっ。義尋を将軍に据えてやろう」とか「御所が燃えているぅ」とか(笑)。この石庭の石は虎の子渡しの配置がなされ15個ですが何処から見ても14個しか見えません。このドラマでくるくると庭を舞いながら永久の眠りにつく勝元。勝元を演じた野村萬斎さまは「石の一つになったように」演技をしたのだそうです。最初はそれが分からなかったのですが、分かった時は萬斎さまは英国の空の下でした(笑)。裏手に勝元のお墓がひっそりとあります。あ、政元のもあったかな〜。重要文化財の『太平記』を所有。平成16年冬のJR東海のCMでは龍安寺のA面B面を紹介。

■■仏殿■ぶつでん 本尊/釈迦如来
普段は非公開。仏殿の建立には諸説あり、衰退と再興を繰り返していたものの寛政9年に焼失し、長らく再建される事はありませんでした。しかし昭和56年にそれが叶い現在に至ります。この比較的新しい建物は総檜造(台湾檜)です。昭堂に安置されている本尊は鎌倉時代後期の慶派の作と伝わる釈迦如来。重々しい光背が美しいのです。その傍らには勧請開山・日峯宗舜像と創建開山義天玄承の(大きい)位牌があります。内部天井には武藤彰氏による龍が。平成27年「第49回京の冬の旅」で拝観。

■■西の庭・細川廟■にしのにわ・ほそかわびょう
普段は非公開。仏殿西側に広がる、室町時代の庭を模した復元庭園で、その中心には細川勝元(の木像)を祀る細川廟が建っています。そう、「儂に会いたくば龍安寺(石庭)に来るがよい」の勝元公がここに!その美憂に満ちた眼差しに、時を忘れてしまいます。この木像は明暦4年の作で、93センチの大きさです。
蓮華寺
れんげじ 真言宗御室派 別格本山 山号/五智山 本尊/五智不動尊

大同元年に弘法大師が広沢の池の側の岩屋に不動明王を安置したのに始まります。後に後宇多天皇が再興し、蓮華寺と改称し仁和寺の奥の院として栄えました。庶民的で開け放たれた明るさがあるお寺ですね。仁和寺に近い割には参拝者も少なくて落ち着いて散策出来ます。境内に鎮座する石仏が壮観!きゅうじ封じのお寺でもあります。
鹿王院
ろくおういん 臨済宗 山号/覚雄山 本尊/釈迦如来と十大弟子 京都十刹の第五

康暦2年に室町三代将軍足利義満が24歳の時に創建したお寺。正式名称は覚雄山大福田宝幢禅寺鹿王院で京都十刹第五の名刹。『花営三代記』や『宝幢開山知覚普明国師行業実録』等によると、康暦元年のある夜に義満の見た夢が創建の由来となっています。その夢とは、年内中に大病を患うが、宝幢菩薩を祀る伽藍を建立すれば寿命が伸びるというもの。創建当時は興聖寺といい後に宝幢寺に改称、しかし応仁の乱で廃絶。開山の塔頭であった鹿王院(嘉慶元年創建)のみが残り現在に至ります。鹿王院の名は鹿が群れをなして現れたから。ポエムですわね(^^)。駅から遠からず近からずの立地ですが静かな場所で素朴というか・・。舎利殿には鎌倉三代将軍源実朝が宋から招来した仏牙舎利が多宝塔に安置され祀られています。これが「仏牙寺」と称する所以となっています。苔生した庭から舎利殿を望む景色が何ともいえず美しい。



京大路をそぞろ歩き
本家櫻もち琴きき茶屋ほんけさくらもちことききちゃや

江戸時代後期創業。桜の名所だった車折神社境内の茶店が前身で、昭和9年車折神社嵐山頓宮東隣に本社屋を移転し名前を改めました。ももかの嵐山御用達のお店(笑)。何といっても関西風の道明寺のさくら餅でしょう♪ご飯粒のつぶつぶピカピカしたところと良い具合に漬かった桜の皮が絶妙なんですよ。


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