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永代の京
〜京都市/山科区〜

岩屋寺
いわやじ 曹洞宗永平寺派天寧寺末寺 山号/神遊山 院号/金地院 本尊/大聖不動明王 通称/大石寺岩屋善寺

昔は山科神社の神宮寺だったようです。本尊の不動明王は大石内蔵助良雄の念持仏だったといわれ、秘仏とされていますが毎年12月14日〜1月28日には開扉され、お参りする事が出来ます。内蔵助の山科隠棲の邸宅跡でもあって、境内には大石稲荷大明神、良雄遺髪塚、山科閑居址があります。内蔵助は後に邸宅と田畑一切をお寺に寄進しました。後に荒廃したものの嘉永年間に再興。忠臣蔵に関する物が多くてうきうきしてしまいます。赤穂藩主浅野内匠頭と四十七士の位牌には言葉が出ませんでした。この四十七士の戒名には全て「刃」と「剣」の文字がついています。「刃」は切腹を「剣」は討ち入りに参加した事を表しているのだそうですよ。色々と説明を受けて面白いお話を伺う事が出来ました。近畿三十六不動尊霊場第24番。
大石神社
おおいしじんじゃ

忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄の山科隠棲の地に内蔵助を祭神として昭和10年に創建されたという割と新しい神社です。浅野内匠頭が江戸城内松の廊下にて刃傷に及んだのは元禄14年3月でした。内蔵助を始めとする四十七士が吉良上野介の屋敷に討ち入ったのは元禄15年12月14日、お咎めあって彼らが江戸で切腹したのが翌年2月4日の事でした。毎年12月14日には「義挙大祭(義士祭)」が執り行われています。討ち入りに際して四十七士に協力した天野屋利兵衛を祀る義人社もあります。どど〜んと大きな絵馬があったのには驚き。宝物殿の内容がまた面白かった〜♪ももかは忠臣蔵は大好きなのです。東京・泉岳寺の四十七士のお墓参りにも行った事が何度かあります。それに吉良上野介の外孫・義周はももかの地元にお墓があるのですよ。
勧修寺
かじゅうじ 真言宗山科派大本山 山号/亀甲山 本尊/千手観音 真言宗十八山の十番

「かんしゅうじ」「かんじゅじ」とも呼ばれます。昌泰3年に醍醐天皇が生母である藤原胤子の菩提を弔う為に、胤子の外祖父宮道弥益の屋敷をお寺に改めたのが始まりです。「勧修寺氷池園」と呼ばれる庭園は氷室の池を中心に造園されています。この落ち着いた穏やかな空間には時が止まったかのような感覚さえ受けます。四季折々の花がまた素敵なのだそうです。ももかは梅が咲く頃に訪れたのですが、同行していた家人がとにかく気に入ってしまったといっておりました(笑)。池では鯉が沢山泳いでいてそれを見るだけでも面白かった♪芝生にごろんと横になってみました。癒されたかも〜♪平成17年春のJR東海のCMに満開の桜が咲き誇る庭園が登場。桜の後はモネの睡蓮のようになるとのコピーでしたが、モネは日本庭園を真似てあの池を作ったのだから、逆輸入ですよね。
坂上田村麻呂之墓
さかのうえのたむらまろのはか 坂上田村麻呂(758−811)

田村麻呂のお墓とされた将軍塚から東へ。「坂上田村麻呂公園」の一角に彼のお墓はあるのでした(笑)。この名前が妙に笑えます。明治28年の平安遷都1100年祭の際に整備したのだそうですけどね。墓碑には抱き茗荷紋が。田村麻呂は桓武朝に東北の蝦夷を平定した将軍です。元々渡来系の流れを汲むところが同じく渡来系の血をひく桓武天皇に目をかけられたとしても不思議ではなかったと思います。無骨物の武将かと思いきや後宮に自分の娘を差し出してもいる政治家でもありました。彼が亡くなった時には葬儀はこの地で執り行われ、桓武天皇の命により甲冑や剣、弓矢を纏った姿で棺に納められ、平安京に向かって立ったまま葬られたと伝えられます。伊藤遊氏の『鬼の橋』の中の田村麻呂さんはポイント高いですよ♪お話の中の田村麻呂さんは自分は平安京を護って立ったまま睨みをきかせていなければならないので永遠に成仏出来ないのを嘆いていました。でも結構気の良い小父さんなんですよ。
瑞光院
ずいこういん 臨済宗大徳寺境外塔頭南派 山号/紫雲山 本尊/阿弥陀如来

慶長18年因州若桜城主山崎左馬亮家盛が父と祖父の菩提を弔う為に大徳寺の琢甫宗林和尚を開基として創建。元は上京区(現在の大日本スクリーン製造の敷地内)にありましたが、昭和32年堀川通拡張工事の際に山科に移りました。堀川通には平成17年建立の立派な瑞光院赤穂義士遺髪塔跡碑があります。赤穂浪士所縁の寺として知られていますが、元は朝野宿祢魚養なかひが清和天皇の胞衣を埋めて社を建て朝野稲荷とした事から始まります。後、浅野長政が聚楽第建設に伴いこの地に下屋敷を建てます。その折に「朝野」の字を「浅野」に変じて鎮守とし、以来浅野稲荷と呼ぶようになりました。聚楽第破却後、下屋敷も取り壊され、跡地に建てられたのが長政の戒名を名とする伝正院で、後に瑞光院と改まりました。また、浅野内匠頭長矩の正室瑤泉院の生母は瑞光院第三世陽甫和尚の姪にあたるのだとか。そのような縁もあり、山崎氏が明暦3年に跡継ぎを残さないまま断絶した後は、赤穂浅野家歴代の祈願寺となりました。松の廊下刃傷事件で浅野内匠頭は切腹、御家は断絶の憂き目に遭います。元禄14年8月14日、家老大石内蔵助は瑞光院の境内に主君の短刀と衣冠を埋めて墓を建立、その後は墓参の都度に同志と密議を交わしたそうです。現在裏手の小さな墓地には、享保4年の義士17回忌に建てられた赤穂浪士の遺髪塔があります。石塔には46人の位に順じて姓名と戒名がありますが、寺坂吉衛門だけは切腹をしていないので遺髪塔への刻名はないといいます。毘沙門堂への道にそっとあるお寺です。紅葉シーズン、毘沙門堂への人の流れは物凄いものがありますが、足を止める人も少なく、ゆっくりと参拝が出来ました。
随心院門跡
ずいしんいんもんぜき 真言宗善通寺派大本山 山号/牛皮山 本尊/如意輪観音 真言宗十八山の十一番

正暦2年に創建された牛皮山曼荼羅寺が始まり。後に門跡寺院となり寛喜元年にこの名に改称。小野小町邸宅跡といわれています。『都名所図絵』にも記されている化粧井戸や、深草少将を始めとする貴公子達から寄せられた千束の文を埋めたとされる文塚がある他、小町晩年の姿を写したといわれる卒塔婆小町像もあります。この小町像は座像なのですが、左足を立てているんですよね。これは古代の風習の名残を伝えている物として珍しいのです。昔は正座ではなくてこうして片足を立てた状態で座っていたのですよ。梅の名所として知られていますが、確かに綺麗でした♪甘酒を頂きながらゆっくり花見に興じてるももかの姿がそこに(笑)。秋には薬医門脇にある銀杏が見事なの!このお寺に赴く途中に百夜通いのお話に所縁のある榧の大木を見つける事が出来ます。近年奉納されただるま商店さん作の襖絵『極彩色梅匂小町絵図』は小町の生涯を描いたもの。一見眩し過ぎるほどのピンク色なのですが、時間がたつうちにそれが煩くなくなってきます。描かれている内容を解いてみるのも面白いですよ。ももかは烏帽子烏と談話している烏帽子猫が好きです。
天智天皇山科御陵
てんちてんのうやましなのみささぎ 第38代天智天皇(626−672) 在位(668−672) 舒明天皇の第二皇子 同母弟に天武天皇 子に弘文天皇、持統天皇、元明天皇

舒明天皇と皇極・斉明天皇を両親に持ち、名を葛城といいますが、中大兄皇子の方が馴染み深いですね。孝徳天皇、斉明天皇の皇太子時代から政治に携わり、後に即位。この間に大化の改新や有間皇子の変、近江遷都、白村江の戦いなどがありました。晩年には皇太弟であった大海人皇子を退けて息子の大友皇子を即位させたいと考えていたようです。それが後の壬申の乱を引き起こす事になるのです。天智10年に崩御。御陵については『万葉集』に「山科の鏡の山」、「木幡」また『扶桑略記』には山科行幸に際して山林に入ったまま帰って来なかったとあります。そしてその場所には沓が落ちていたので此処を墓所と定めたのだとか。こんな事から天智天皇暗殺説もあるのですが、どうなんでしょう。取り敢えず山科にありそうだという事だけは一貫しているようです。地下鉄「御陵」の駅から歩いて10分くらいで御陵が見えてきます。その地名から御廟野古墳ともいいます。かなり広い御陵で、疎水沿いを歩く時に陵の裏側の瑞垣を見る事が出来ます。
徳林庵 (山科地蔵)
とくりんあん (やましなじぞう) 臨済宗南禅寺派 山号/柳谷山 本尊/地蔵菩薩 通称/山科地蔵、四ノ宮地蔵

小野篁さまが彫った六体の地蔵尊の内の一体を安置していて、京都六地蔵巡りの1つで山科地蔵、または四ノ宮地蔵ともいいます。。元々は柳谷山を号し臨済宗南禅寺派のお寺として仁明天皇の第4皇子の人康親王の菩提を弔う為に建てられました。人康親王は28歳の時に失明し貞観元年に出家、この山科に隠棲したといい、この辺りには彼の山荘跡、御墓、彼を祀る御霊社があるのです。この徳林庵にも人康親王の供養塔がありますが並んで蝉丸の供養塔もあるのは2人が似たような境遇にあったからかもしれません。
毘沙門堂門跡 (出雲寺)
びしゃもんどうもんぜき (いずもじ) 天台宗 山号/護法山 本尊/毘沙門天 通称/毘沙門堂 天台宗五箇室門跡の一つ 京の七福神

大宝3年に創建され、元は護法山出雲寺といいました。平安遷都の頃、比叡山の伝教大師が先に刻まれた比叡山根本中堂の本尊薬師如来の余材をもって毘沙門天の姿を刻みました。後にこれを桓武天皇に奉じ、天皇は宝冠の中に納めて肌守りとしたのだそうです。桓武天皇の皇子葛原親王はこれを譲り受けました。その後幾多の戦乱の中、毘沙門天像は苦難の道を辿るのですが江戸時代になってようやく将軍家を始めとする庇護を受け現在の寺観を整える事が出来たのです。京都の桜といえば山科まで訪れる観光客は少ないと思うのですが、ここも桜の隠れた名所。平成12年春のJR東海のCMでは有名な般若桜が、平成23年秋のCMでは勅使門参道の真紅の紅葉が紹介されました。平成23年は紅葉時期が遅くが12月にずれ込んだ為、11月下旬でもまだ青紅葉が見られたという年。それでも人出は凄かったです。また宸殿の九老之間にある狩野益信筆の襖絵と円山応挙筆の衝立はちょっと変わっていて面白いですよ。回遊式庭園「晩翠園」も静かで綺麗でした。

■■双林院 (山科聖天)そうりんいん 毘沙門堂塔頭 山号/護法山 本尊/大聖歓喜天 通称/山科聖天
寛文5年に天台宗の僧侶公海により開かれた毘沙門堂の塔頭。本尊の大聖歓喜天は比叡山より勧請された秘仏です。山深い中に小さくてこじんまりしているというのに華やかな空間が此処。水行も出来るようです。歓喜天という事で、燈籠にも大根紋。桜や紅葉の名所でもあります。
琵琶湖第一疎水 山科疎水)
びわこだいいちそすい

滋賀県側の三井寺南から京都へと琵琶湖の水を送った琵琶湖疎水。ゆったりとした水の流れを横に見ながら、蹴上まで伸びた散策道は多くの人に親しまれています。春は桜が素晴らしく、秋にはその紅葉した桜も楽しめる場所。ももかは毘沙門堂から御陵駅までを歩いてみました。
本圀寺
ほんこくじ 日蓮宗大本山 山号/大光山 本尊/三宝尊(一塔両尊 本佛寶号・釈迦如来・多寶如来)

東の祖山・久遠寺(山梨県身延)に対し、「西の祖山」と呼ばれる本圀寺。妙顕寺と並ぶ京都法華宗の双璧とされ、妙顕寺の四条門流に対し六条門流と称されています。その歴史は、建長5年鎌倉松葉ヶ谷に庵を結んだ日蓮が法華堂と号した事から始まります。貞和元年光明天皇の勅により京都六条堀川辺りに十二町の寺地を賜り移転。その規模は、北は六条坊門、南は七条通、東は堀川通、西は大宮通という広大なもの。天文法華の乱や三好三人衆による本国寺合戦などの受難を経るも、江戸時代には末寺が269寺もある大寺院として栄えました。寺名を「国」から「圀」に改めたのは貞享2年に徳川光圀が母の追善供養を行って以来庇護を受けた為、その一字を取ったとされていますが、諸説あってはっきりしません。天明の大火で一部を残して焼失し、後に再興。しかし昭和35年、財政難を理由に寺地を売却し鎌倉に移転しようという動きがあり、同46年には六条から山科に移転、寺物も次々に山科へと運ばれていきました。現在、旧地は住宅街となっており、昭和半ばまで広域な寺があったとは思えない程様変わりしています。但しその遺構として題目碑は残っていますし、十六院の塔頭や旧本圀寺墓地は残されたままになっているのです。
豊臣秀吉の姉で関白豊臣秀次の生母である日秀(瑞竜院)はこの寺で得度したといい、墓地には日秀の供養塔、大政所
(天瑞寺)・三好吉房(常閑)・三好秀保(豊臣秀長養子)の三人を合祀した供養塔・豊臣完子(九条完子。豊臣秀勝と浅井長政女江の子、徳川家光の異父姉)の供養塔があります。完子の供養塔は五輪塔で、素晴らしく立派なんですよ。黄金の梵鐘も日秀の寄進なのだそうです。彼女は弟秀吉によって夫や子供達、そして自身の運命も変わってしまったのですが、此処で安らぎを見つける事が出来たのでしょうか。同時代としては加藤清正の両親の遺骨と自身の毛髪と肉歯を石室に納め真生廟とした清正公廟(浄池廟、清正廟)があります。これがまたキラキラした鳥居に迎えられ、目が眩むほどの眩さなのです。黄金色に彩っているのは68世貫首久村日鑒上人の発案なのだとか。仁王像や灯篭もキラキラしています。山門は加藤清正寄進のものを平成8年に修復したものだとか。開運門と呼ばれ通称は赤門(清正門・出陣門)。お題目を唱えながら潜ると運が開けるのだそうです。経蔵は国宝で室町8代将軍義政寄進のもの。ももかが持っている本には、山科に寺が移された後、六条に残り荒れ果てた経蔵の写真が載っています。屋根には草が生えているという・・・。黄金に輝くお寺で静かな一時を過ごさせていただきました。寺務所で売っていた開運羊羹がとても気になりました。
諸羽神社
もろはじんじゃ

創建は平安時代で天児屋根命と天太玉命を祀り、柳山に降り立った事から揚柳大明神といっていました。「両羽」の名はこの2柱からきているのですが後に6柱を合祀して「諸羽」と改称。また山科18郷の中で第4番目にあたる事から「四ノ宮」とも呼ばれていたとの事です。この辺りの地名は四ノ宮というのですが、この語源がこの諸羽神社のいう「四ノ宮」からきているのか、この地に隠棲した仁明天皇第4皇子の人康親王の「四ノ宮」からきているのかは微妙なところです。応仁の乱を始めとする火災により再建を繰り返し、現在に至ります。緑の中にあるといった感じのお社です。
山科神社
やましなじんじゃ

山科神社といえば星祭ですね。岩屋寺のすぐ側にあります。大石内蔵助はこの奥の院である岩屋神社に大願成就を祈ったといわれています。寛平9年に創建され、この地の豪族である宮道氏の祖神として日本武尊稚武王を祀っています。当時は山科一之宮とも呼ばれ広大な社地を持っていましたが、現在は小さなお社です。びっくりしたのはその土と落ち葉と苔に埋もれた階段!本当に此処には参拝する人がいるのだろうかというくらいなのです。そして急なの。山科まで来たのだから立ち寄らなければ〜なんて気負っていなければ、途中で帰ってしまおうかと思いました。鬱蒼とした境内はなかなか神秘的でもありました。

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